アラム語 アラム人がアラムの地に住みアラム語を話しアラム文字を書いたとすれば話しは単純なのですが実際はそうではないようです。 アラム文字先に文字を考えます。Unicode に収録されたアラム文字は、字形と記号名に関する専門家のコンセンサスだと思います。これはアラム文字の歴史的な経緯を示すものではありませんが、検討された資料は歴史を物語っています。 Unicode が収録しているアラム文字と、フェニキア文字、ヘブライ文字は相互に関係を持っています。フェニキア文字には、ヘブライ文字との対応が記されています。アラム文字は、フェニキア文字と1対1に対応することを前提にしています。Unicode が定めている内容は以下の表のように表せます。 一般的に考えられているのはヘブライ人は、フェニキア文字(古ヘブライ文字)、ヘブライ文字(方形ヘブライ文字)と文字を変えたと言うことです。 Unicode は、帝国アラム文字として過去の文献に取り上げられたものを収集したもので、その妥当性を云々するものではありません。しかし、いくつかの元資料が挙げられています。それは、サッカラ・パピルス、エレファンティン・パピルスです。「文献要旨(アラム)」 フェニキア文字からの明らかな変化は、円形の部分が無くなっていることです。丸かった部分は、上が切られ、O が U になるような変化が見られます。書記方法が細い線を引くことができない滲むものになり、線の混んだ部分は黒く潰れることを前提にした変化のようです。 BET、ROSH は、フェニキア文字とアラム文字の間の関係が良く分かりませんが、上の図のようにサッカラ・パピルスの字形を見ると納得できます。まず、上が切れ、丸い部分のない文字になった後で、滲んだ形からアラム文字なったようです。 サッカラ・パピルスの年代は、新バビロニアがカナンを制圧する前とされ、BC600ころと見られています。しかし、文書には年代を物語るものは無く、この時代のアラム文字の使用を物語る他の文書はないようです。年代が明らかで複数の文書が見つかるのはエレファンティン・パピルスです。 時代が下って前3世紀ごろになると、聖書が文書として作成されるようになります。七十人訳聖書(ギリシャ語)の作成が始まり、BC140頃以降にヘブライ語聖書が作られます。死海文書にはアラム文字の文書が含まれ、ナッシュ・パピルスにもアラム文字で聖書と同じ文章が見いだせると言うことです。 結局、アラム文字はエジプトのヌビアのイスラエル人コミュニティーの残した文書によって裏付けられる文字のことのようです。カナンのイスラエル人の文字も同様であったと考えるなら、一貫したヘブライ文字の歴史が物語れると言うことになります。 こうしたことは、アラム語が共通語や公用語だったことや、アラム文字が広く普及していたことを物語っていません。 フェニキア文字とアラム文字は、字形が異なるだけで、機能的な差異はありません。フェニキア文字を使用していた人々が、そろって書体を変えなければならない合理的な理由はありません。考えられるのは、細かい線の描けない滲む筆記環境の使用による字形の変化で、同じ書記方式を採用した人々はアラム文字を使用した可能性があると思います。証拠はありませんが、フェニキア文字とアラム文字は並行して使用されたのだと思います。 アラム文字から派生したとされるカローシュティー文字も、前5世紀には使用されていたと見られています。アラム文字の確実な資料がBC440頃なので、普及していたアラム文字が元になったとは言えないように思えます。バビロン捕囚の後、ヘブライ人はバビロニアに残った人々もいました。ヘブライ人はアケメネス朝ペルシアの統治に協力したことは確かそうです。カローシュティー文字は、アラム文字が普及していたから生まれたのではなく、ヘブライ人が関与したと考えた方が合理的に思えます。 アケメネス朝ペルシアは、ペルシア楔形文字も作り出しました。エラム楔形文字と同様音節文字のようです。アケメネス朝ペルシアは、効率の良い、職業的書記によらない、文字を求めていたのだと思います。 フェニキア文字やアラム文字は、母音を省略する文字システムです。主に子音に着目した語根を記します。音素文字ですから、いろいろな音声言語を表記できますが、語根を共有する人々の間でなければ意味が通じず、読み上げることもできません。 ※フェニキア ※カローシュティー文字 カローシュティー文字のシステムは、フェニキア文字、アラム文字とは異なっています。フェニキア文字、アラム文字が主に子音を表す記号で語根を記すのに対して、カローシュティー文字は仮名文字のように音節を表現します。
先に文字を考えます。Unicode に収録されたアラム文字は、字形と記号名に関する専門家のコンセンサスだと思います。これはアラム文字の歴史的な経緯を示すものではありませんが、検討された資料は歴史を物語っています。 Unicode が収録しているアラム文字と、フェニキア文字、ヘブライ文字は相互に関係を持っています。フェニキア文字には、ヘブライ文字との対応が記されています。アラム文字は、フェニキア文字と1対1に対応することを前提にしています。Unicode が定めている内容は以下の表のように表せます。 一般的に考えられているのはヘブライ人は、フェニキア文字(古ヘブライ文字)、ヘブライ文字(方形ヘブライ文字)と文字を変えたと言うことです。 Unicode は、帝国アラム文字として過去の文献に取り上げられたものを収集したもので、その妥当性を云々するものではありません。しかし、いくつかの元資料が挙げられています。それは、サッカラ・パピルス、エレファンティン・パピルスです。「文献要旨(アラム)」 フェニキア文字からの明らかな変化は、円形の部分が無くなっていることです。丸かった部分は、上が切られ、O が U になるような変化が見られます。書記方法が細い線を引くことができない滲むものになり、線の混んだ部分は黒く潰れることを前提にした変化のようです。 BET、ROSH は、フェニキア文字とアラム文字の間の関係が良く分かりませんが、上の図のようにサッカラ・パピルスの字形を見ると納得できます。まず、上が切れ、丸い部分のない文字になった後で、滲んだ形からアラム文字なったようです。 サッカラ・パピルスの年代は、新バビロニアがカナンを制圧する前とされ、BC600ころと見られています。しかし、文書には年代を物語るものは無く、この時代のアラム文字の使用を物語る他の文書はないようです。年代が明らかで複数の文書が見つかるのはエレファンティン・パピルスです。 時代が下って前3世紀ごろになると、聖書が文書として作成されるようになります。七十人訳聖書(ギリシャ語)の作成が始まり、BC140頃以降にヘブライ語聖書が作られます。死海文書にはアラム文字の文書が含まれ、ナッシュ・パピルスにもアラム文字で聖書と同じ文章が見いだせると言うことです。 結局、アラム文字はエジプトのヌビアのイスラエル人コミュニティーの残した文書によって裏付けられる文字のことのようです。カナンのイスラエル人の文字も同様であったと考えるなら、一貫したヘブライ文字の歴史が物語れると言うことになります。 こうしたことは、アラム語が共通語や公用語だったことや、アラム文字が広く普及していたことを物語っていません。 フェニキア文字とアラム文字は、字形が異なるだけで、機能的な差異はありません。フェニキア文字を使用していた人々が、そろって書体を変えなければならない合理的な理由はありません。考えられるのは、細かい線の描けない滲む筆記環境の使用による字形の変化で、同じ書記方式を採用した人々はアラム文字を使用した可能性があると思います。証拠はありませんが、フェニキア文字とアラム文字は並行して使用されたのだと思います。 アラム文字から派生したとされるカローシュティー文字も、前5世紀には使用されていたと見られています。アラム文字の確実な資料がBC440頃なので、普及していたアラム文字が元になったとは言えないように思えます。バビロン捕囚の後、ヘブライ人はバビロニアに残った人々もいました。ヘブライ人はアケメネス朝ペルシアの統治に協力したことは確かそうです。カローシュティー文字は、アラム文字が普及していたから生まれたのではなく、ヘブライ人が関与したと考えた方が合理的に思えます。 アケメネス朝ペルシアは、ペルシア楔形文字も作り出しました。エラム楔形文字と同様音節文字のようです。アケメネス朝ペルシアは、効率の良い、職業的書記によらない文字を求めていたのだと思います。 フェニキア文字やアラム文字は、母音を省略する文字システムです。主に子音に着目した語根を記します。音素文字ですから、いろいろな音声言語を表記できますが、語根を共有する人々の間でなければ意味が通じず、読み上げることもできません。 ※フェニキア ※カローシュティー文字 カローシュティー文字のシステムは、フェニキア文字、アラム文字とは異なっています。フェニキア文字、アラム文字が主に子音を表す記号で語根を記すのに対して、カローシュティー文字は仮名文字のように音節を表現します。
アラム語 Wikipedia には、BC500 から AD600 ころ話された言語とあります。アケメネス朝ペルシアの時代に使用が始まったことになります。おそらく、アラム文字で裏付けられるアラム語と言うことだと思います。しかし、アラム文字をアラム語、あるいはアラム人と結び付ける何事も存在しないように見えます。「有史以来(アラム)」 確かなのは、ヘブライ語聖書が成立する前2世紀ごろには、聖書アラム語とも呼ばれるアラム語がヘブライ人によって使用され、「イエスはアラム語を話した」とも言われます。この時代のヘブライ語、アラム語の研究は長年厚く行われてきたものと思います。 アラム語は、現代アラム語(Assyrian Neo-Aramaic)があり、アッシリア語とも呼ばれるようです。このアラム語は「東方アラム語」、聖書のアラム語は「西方アラム語」と分類されるようです。失われた音声言語は文書からしか推測できませんが、失われた「西方アラム語」は、「東方アラム語」からの類推が可能な言語だと考えられているようです。 バビロン捕囚から帰還したユダ王国の人々は、4百年たって、ハスモン朝(BC140-BC37)によって一時独立を回復します。 ヘブライ語の歴史を考えると、ヘブライ人のアラム語は特筆するようなことではないのかもしれません。 カナンやキリキア、メソポタミアの広い範囲にフェニキア文字の碑文を中心にした文書が残されているものと思います。その主力はヘブライ語として解釈可能なアラム語を含むカナン諸語を表しているものと思います。 歴史の話しのアラム人はアッシリアが認識した人々です。ティグラト・ピレセル1世(BC1115-BC1077)の八角柱碑文には、Khatti(ヒッタイト)の地のGargamis(カルケミシュ)で敵であるアラム人を討ったことが記されました。新ヒッタイト都市国家群と見られていた都市国家を、アッシリアはアラム人都市国家と見ていました。また、カルカルの戦い(BC853)の際のキリキアからカナンに至る地域の最大勢力はアラム人でした。 アラム・ダマスカスは新アッシリアのアダド・ニラリ3世(BC810-BC783)によって滅亡しました。アッシリアがアラム人を認識した BC1100 からBC800頃までの間のアラム人の話したのがアラム語のはずですが明確な資料は分からいません。このアラム人は新アッシリアの移住同化政策で間もなく認識されなくなって行ったようです。新アッシリア、新バビロニアの時代の共通語だったとされるアラム語も具体的な資料がありません。 新アッシリア(BC911-BC609)、新バビロニア(BC625-BC539)、アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330)の時代を通じてアラム語は公用語や共通語だったとされますがその根拠は分かりません。 カナン諸語はいづれかの時代に、おそらくフルリ人から多くの語彙を受け取っているのだと思います。 カナンやメソポタミアの人々の語彙を豊富にしたのが、本当にフルリ人かどうかは確証がありません。しかし、遠隔地に使者を送って話が通じるためには、結集(けつじゅう)を行って語彙を維持する人々が広く分布していたことは確かそうです。 年表
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年代 | 文字 | 音声言語 | 備考 | |
アラム語 | ヘブライ語 | |||
BC3000 |
楔 |
アラム語の |
カナンや |
ウルからカナンにアブラハムが移住しヘブライ人の祖となったとされる |
BC2120 | ・地名としてのアラム アッカド帝国の王ナラム・シン(Naram sin、BC2155-BC2119)はアラムの地の支配者を捕えた | |||
BC1750 | バビロン第1王朝のハンムラビの帝国。この時代の諸王朝はことごとくアムル人だった | |||
BC1700 | ヘブライ人のヤコブがエジプトに移住したとされる時期。母の一族のアラムはハランにいた | |||
BC1350 | アマルナ文書の中のカナンの文書(楔形文字)には共通の特徴が見られる | |||
BC1190 | ヒッタイトが滅亡。「海の民」による暗黒時代の始まり | |||
ヒッタイト人はカルケミシュなどカナン北部やキリキアに「新ヒッタイト都市国家群」を形成 | ||||
BC1100 | ・アラム人の記述 ティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser、BC1115-BC1077)はカルケミシュを攻撃してアラム人を討った | |||
暗黒時代が終わるとカナンにはチェケル人やペリシテ人、イスラエル人が住んでいた | ||||
BC1050 | フ エ ニ キ ア 文 字 |
フェニキア文字、楔形文字の 文書があってもカナン諸語の いずれか区別できない |
フェニキア文字の使用が始まる | |
BC1021 | イスラエル王国の誕生 | |||
BC922 | ユダ王国の誕生(イスラエル王国の分裂) | |||
BC911 | 新アッシリアの誕生 アラム人の侵入によって衰退していたアッシリアが再び活発になる | |||
BC853 |
古 |
古 ヘ ブ ラ イ 語 |
カルカルの戦い 新アッシリアはカナンの諸王国の連合と戦って敗れる。アラム・ダマスカスなどアラム人勢力がイスラエル王国より大きな勢力だったようだ。ただしユダ王国の人々はスリヤと呼んでアラムとは見ていないようだ | |
・サム・アル(Sam'al、キリキア)やナイラブ(Nayrab、アレッポ近郊)にはアラム語碑文があるとされる。クッタムワ碑文など。 | ||||
BC732 | 共 通 語 の ア ラ ム 語 |
アラム・ダマスカスの滅亡 ティグラト・ピレセル3世はアラム・ダマスカスを倒し州として組み入れた。新アッシリアは移民同化政策を行ってアラム・ダマスカスなどのアラム人とされた人々は次第に認識されなくなったと考えられる。アラム語の使用者はアラム人に限らない。 | ||
BC722 | イスラエル王国の滅亡(失われた10支族、かつてアラム人の属国と記録されたグザナの周辺に連行された。連行された人々は同化したと見られる) | |||
BC671 | エサルハドン(Esarhaddon、BC681-BC669)はエジプトに達しメンフィスを占領 ユダ王国の人々がエジプトのヌビアの防衛に当てられ、エレファンティン島に定住し、ヤハウ(yhw)の神殿が作られた。このコミュニティは千年続いたとされる | |||
BC625 | 新バビロニアの誕生 | |||
BC612 |
新アッシリアの滅亡 | |||
BC586 | ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚 | |||
BC550 | アケメネス朝ペルシアの誕生 | |||
BC539 |
・新バビロニアの滅亡、バビロン捕囚の解放 | |||
BC520 | ア ラ ム 文 字 |
アケメネス朝ペルシアの支配体制の確立 ダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)の時代に公用語なども定まった | ||
BC415 |
エレファンティン・パピルス | |||
BC330 | アケメネス朝ペルシアの滅亡 アレクサンドロス3世の東征によって滅亡し、ギリシア語(コイネー、ギリシア文字)がリンガ・フランカ(共通語)になったとされる | |||
BC188 | 分化 | アパメイアの和約 アレクサンドロス3世の東征後、セレウコス朝シリアがカナン、メソポタミアを支配したが、ローマ・シリア戦争に敗れ統制力が失われていく | ||
BC140 | ヘ ブ ラ イ 文 字 |
ア ラ ム 諸 語 |
ヘ ブ ラ イ 語 |
かつてのユダ王国の人々は再び100年余り独立を回復した(ハスモン朝) 他の民族も勢力を回復し文字や言語が細かく認識されるようになった ・方形ヘブライ文字の使用 ・ヘブライ語聖書 |
BC125 | ナッシュ・パピルス(エジプトで見つかったアラム文字のパピルス、聖書の文章) | |||
BC80 | セレウコス朝シリアは滅亡しローマの時代となる |
文字の形は見て違いが分かりますが、その文字で何語を表現しているのかはなかなか分かりません。新アッシリアでは楔形文字の書記とアラム文字の書記が二人一組で仕事をしたのは確かそうですが、アラム文字(字形はフェニキア文字)で何語を記したのかは一概には言えません。最も可能性が高いのは、同じ音声言語、つまりアッシリアで話されていた北西セム語に含まれる言語です。アッシリアがアッカド人の地だったのは千年以上前のことです。
ここまでに挙げた紀元前のアラムは、文書によって知られるアラムです。その後もアラム語はいろいろに使われているようです。
セム語派の諸語を起源とする新たに認識された言語に研究者がアラムの名を付けて分類したと言うことで、話者が標榜しているものではないようです。
名称 | 備考 |
現代アラム語 |
現代アラム語が何を指すかは明瞭ではないようです。 |
中世アラム語 | 中世アラム語は、200-700頃のアラム語を指すと言うことです。 おそらく、シリア語と言うのと大差はないものと思います。シリア語は典礼語とされますが、母語とする人々のいた言語のようです。 現在のシリア・アラブ共和国の国語はアラビア語です。 シリア語は、キリスト教会の典礼語で東西に分けられ、シリア文字も異なった書体が使われると言うことです。 |
聖書アラム語 | ギリシア語による七十人訳聖書は前3世紀ころから作成が始まったと考えられています。 ヘブライ語聖書はBC141以降のハスモン朝の時代にまとめられたものと考えられます。 キリスト教の聖典は1、2世紀にまとめられました。 こうした時期の聖書に関連して知られるアラム語を聖書アラム語と言うようです。 |
シリア語 | シリア語は典礼語とされますが、母語とする人々のいた言語のようです。 現在のシリア・アラブ共和国の国語はアラビア語です。 シリア語は、キリスト教会の典礼語で東西に分けられ、シリア文字も異なった書体が使われると言うことです。 シリア語の聖典はギリシア語訳から作られたとされますが、キリストの時代の言語(アラム語)を良く保存しているとも言われるようです。 |
マンダ語 | マンダ教の聖典はマンダ語・マンダ文字で記されていると言うことです。聖典は3世紀ごろに作られたようです。 マンダ教は中東に起源を持つグノーシス主義のひとつとされる宗教だと説明されています。 |
共通語の アラム語 |
新アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシアの時代にはアラム語がリンガフランカだったとされますが、その根拠は分かりません。 |
パルミラ語 | パルミラ語、パルミラ文字は1世紀ごろにシリア中央部のパルミラで使用されたアラム語、アラム文字の一種 |
ナバテア語 | ナバテア王国はハスモン朝と同じころぺトラを中心に栄えた。アラビア語を話す人々とされる一方でアラム語の碑文を残したとされる。しかし写真を見るとナバテア文字は円形が多くありアラム文字とは異なる。 |
※ヘブライ語聖書
BC141以降のハスモン朝の時代に方形ヘブライ文字の使用が始まり、ヘブライ語聖書もまとめられたものと思います。
聖書に納められた各話には、マソラ本と言う底本が存在すると言うことです。
先立つ、ギリシア語による七十人訳聖書は、ほぼ同じ資料に基づいているものと考えられますが、ヘブライ語聖書より多くの書を含みます。
ヘブライ語聖書では、ヘブライ語によるマソラ本の確認されないものは除外されたと言うことです。
また、ユダヤ教では使われなくなった文書は定めに従って必ず焼却されるようです。 使用されなくなった聖書は必ず回収される仕組みになっていて、破損したものはゲニザに収容され、確実に焼却されてきたようです。マソラ本も例外ではなく、写本されるとオリジナルは焼却され2重に残されることはないと言うことだと思います。前3世紀以降文書として登場する聖書の、その元の文書が確認されない理由は、このように説明されます。
ヘブライ語によるマソラ本ではないものが伝承されたことは確かですが、何語でどのように伝承されたのかは分かりません。
多くのマソラ本は、フェニキア文字やアラム文字で伝承され、方形ヘブライ文字の使用が始まるBC141以降に方形ヘブライ文字のマソラ本になったはずです。単に、ヘブライ語聖書の編纂時点で方形ヘブライ文字なってたかどうかで分けられたとは考えにくいように思えます。
方形ヘブライ文字のマソラ本が作られると、その元となった文書は焼却されたので残っていないと言うことは理解できます。
実際に存在するアラム文字の文書はエレファンティン・パピルスのようです。この文書はイスラエル人コミュニティの文書で、ヘブライ語の歴史の中で捉えることができるものだと思います。
ヘブライ語に大きな影響を与えたとされるアラム語を知る必要があるのは未分類の文書を分類するためのようです。
このアラム語は、アッシリアが前12世紀ごろに認識したアラム人の言葉ことです。カナン、メソポタミアにはフェニキア文字の碑文が多く残されましたが、後の何語に繋がる言語なのかは明瞭には分かりません。しかし、多くがアラム語を表していると見られているようです。
このアラム語が、6百年隔てた聖書のアラム語とどんな関係にあるのかは分かりません。
前述の「みる」や「未だ・・・ず」の例のように、日本語は漢字を採用して大きな影響を受けています。しかし、日本人は中国語を話すようになった訳でも、日本語と中国語のバイリンガルになった訳でもありません。漢文は中国語として読むことができる文字列を作り出すことを意図していますが、漢文自体は日本語です。
日本語の状況はダイグロシア(diglossia)と捉えることはできるのかもしれません。文字を持たなかった日本語は、漢字の導入で文語を持つようになりました。
新アッシリアの時代には、カナンやメソポタミアの広い地域はカナン諸語に類似の言葉を話したのだと思います。その時代の人々も、おそらく今日のようには差異を意識していなかったと思います。
アラム語を採り入れた諸語を話す人々は、日本語の例から類推して、2つの言語を使い分けているとは思っておらず、語彙が増え、新しい言い回しができたと感じただけだったのではないかと思います。
音声言語は会話を通じて学習されるので、生活の局面で使われた語彙が次の世代に伝えられて行きます。死によってリセットされる限り、日常の語彙の範囲を越えて増えることはできません。物語や歌謡を伝承するのはそのグループの語彙を維持する手段の一つだと思います。
おそらく、日本語もそうした音声言語の仲間で、多くても数千と言った語彙数なのではないかと思います。
そうした中でヴェーダ語のように何万語の語彙をもつ言語が存在しました。文字を使用して辞書を作っていけば可能なことですが、そうではなかったようです。漢字も、語彙の豊富な言語の存在があって、文字となったことは確かそうです。漢字は徐々に増やされたものではありません。日本人が加えた和製漢字(国字)が300程度なのは、漢字が最初から完備なものだったことを示しています。「凪」のような例外を除けば、新しい漢字を普及させるのはほとんど不可能なことです。(仮名文字と混合した日本では熟語が容易に作れたことも理由だと思います。)
大きな語彙数の言語は、社会システムとして伝承の仕組みを持っているのだと思います。それは、王朝と言った支配層の交代のサイクルを越えて機能しました。また、おそらく結集(けつじゅう)が行われ広い地域で統制が効いていました。遠隔地に伝令を送って情報を伝えることができました。
もともとの日本語の語彙の多くは、漢字と意味的に重複しますが、漢字に圧倒されたわけではありません。国外でも通じると言うメリットは多くの人には無縁です。多くが漢字の訓として残りました。細かく見るといろいろなことが起きたことが分かります。屋根は上にあり、根とは無縁に思えます。漢字では、「屋」単独で屋根を表し、「屋頂」と書かれることがあるようです。おそらく、音が「オク」であり、日本語の「おく」も貴き人の住居を表したことが理由だと思います。「屋」には字義通り、「おおい」の訓が与えられましたが、そのように使われることはなく、「おく」と捉えられました。「屋」を書いて、日本語の「やね」と読ませるために送り仮名の「根」が加えられたと思います。
古事記では、「屋之頂」と書かれました。日本書紀には、「中臣上祖天兒屋命」と言う記述があり、中臣氏の先祖は「あめのこやねの命」でした。いくつかの神社に祀られ、今日では「天兒屋根命」と書かれてます。
漢文は日本語であって、その規則は日本語を知らない中国人には理解不能なものです。しかし、出来上がる文字列は中国語としても読むことができ、中国以外の漢字を取り入れた国々でも、その国の「漢文」で読むことができました。
BC2200頃のアッカド帝国の時代には、楔形文字の LUGAL と言う王を示す記号は、アッカド人によってシャルウのように読まれたと考えられています。シュメール人の楔形文字を採用したアッカド人は、シュメール語を話すようになったのではなく、アッカド語をシュメール文字で表しました。
また、LUGAL-ri や LUGAL-ru のように記されることがあり、音声言語の「王」に相当する音の語尾変化が送り仮名となっているようです。
LUGALは表語文字で、フェニキア文字の文書には当てはまりませんが、フェニキア文字やアラム文字は語根を表す文字で音節を表しません。
mlk と書いて、ヘブライ語はメレフ、アラビア語はマルカ、アラム語はメレクのように読まれたようです。語根だけを記す方法は、語根を共有する諸語の間の区別を付かなくします。この点では、漢字と似ています。
「アショカ王ギリシャ文字アラム文字碑文」のアラム文字の部分は、ほとんどの語がカナン諸語には該当しないようです。唯一分かるのは、mlka です。最初の行の prydarSH mlka で、ピリダラシャ王と読めます。ギリシャ語からはピオダシェス王(バシレオス)と読めます。多くのアショカ王碑文では、アショカ王は「ピヤダシ」のように記されています。アラム文字には、母音の a に当る文字はありませんが、ALF を「a」と書きました。
これは、「王」をマルカと言う人々に向けたメッセージで、おそらく、語根を共有しない人によって記されたと思います。
前5世紀のシドンの王アシュムナーザ(Eshmunazar)の石棺の碑文では、「王」は mlk と記されました。「王たち」は mlkm で、「女王」は mlkt、「王族」は「mmlkt」でした。それぞれがどのように発音されたのかは直接知ることはできません。発音は表されていなくても、語根を共有する人々の間では通じたと言うことです。あえて、mlk-a とする必要はないのですが、送り仮名の a を付ければ、他の言葉を話す人にもマルカと読まれる割合が高まります。しかし、王を「メルク」と言う人々には通じなくなります。
シドンの王アシュムナーザ(Eshmunazar II)の石棺碑文はフェニキア文字で書かれ、前5世紀のものとされています。シドンはフェニキアの中心的な都市王国だったと説明されます。
フェニキアはギリシア語で、ポエニはラテン語で、同じものを指すとされます。しかし、ポエニ戦争を戦ったのはカルタゴです。フェニキア人のイメージはカルタゴ人のもののようです。カルタゴは前6世紀ごろにシドンやティルスの人々の植民によって始まったとされています。
BC722には、新アッシリアはイスラエル王国を滅ぼし、ほぼカナンを制圧したものと考えられます。BC671 はエジプトに侵入し、BC664 にはエジプト第26王朝(サイス朝)を設立しました。ユダ王国は BC597頃まで存続しました。この頃には、新アッシリアに代わって、新バビロニアが支配者になっていました。新バビロニアはエジプトには達しませんでした。BC539には新バビロニアはアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされ、アケメネス朝ペルシアはエジプトを併合しました。
アシュムナーザ王の時代は、たとえシドンが独立を保っていたとしても、強力な帝国の影響下にあったことは確かです。また、新アッシリアは移民同化政策を行って、何々人の都市と言った状態は無くなっていたと考えられます。アラム人も既に認識されなくなっていた時代だと思います。
アラム語が、リンガフランカだったとされる時代で、この碑文もアラム語なのかもしれません。アラム文字の使用が確実なのはBC450頃より後です。
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サム・アル(sam'al)遺跡のクッタムワ(Kuttamuwa)碑文は前8世紀のアラム語の碑文とされています。この碑文はフェニキア文字です。
この碑文からは、lsms、lhdd が読み取れ、神Shamash、神Hadad を挙げています。 接頭辞 l は、to や for と訳されています。
zn 、krmは、それぞれ庭園、ブドウ園を表すとされ、znn、krmn は、その複数形のようです。接尾辞 n で複数形を作ります。
「イエス・キリストはアラム語を話した」と言うことを耳にします。
十字架に掛けられたイエスの最後の言葉が訳されず、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」のような音写で伝えられたことによるようです。(マルコによる福音書15:34、マタイによる福音書27:46)
この箇所には、その意味も書かれています。これは、旧約聖書の詩篇22の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」の引用と説明されていています。(Septuaginta(七十人訳聖書) の Psalms(詩篇)の22には該当箇所がなく、21にはギリシャ語訳された同様の文章があります。 )
ヘブライ文字で「אלי אלי למה עזבתני」は、google翻訳で、ほぼ同様に訳されます。前述の表によってラテン転写すると「aly aly lmy Azbtny」のように表せます。(アレフをa、ヨッドをyとしています。)
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」は、アラム語かどうかはともかく、ヘブライ語でもおかしくないカナン諸語のようです。
マルコによる福音書では、周りの人々は、これを聞いて、「エリヤを呼んでいる」と解釈しました。
どうやら、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」は、新約聖書だけの記述のようです。キリストが何語で叫んでも、ギリシア語聖書にはギリシア語で、ヘブライ語聖書にはヘブライ語で記述されるのが自然です。音写で挿入されたのは、周りの人々はには通じないと言う演出のためと考えられます。
これはアラム語かヘブライ語かと言うことではなく、いずれにしても通じないことを表現しています。周りの人々は、コイネーかラテン語を話したと考えられているものと思います。時代はローマ帝国の時代で、新約聖書はコイネーで書かれました。
マルコによる福音書は、65-80年の間に書かれたと見られています。確かなことは分かりませんが、七十人訳聖書は、 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」を伝えていないようです。別な伝承に基づいたか、ギリシア語からキリストの時代の言葉に翻訳されたことになります。
ギリシア文字では、「Ελωι ελωι λεμα σαβαχθανι」と、「Ηλι ηλι λεμα σαβαχθανι」(マタイによる福音書)の2通りあります。差は、最初の「わが神」に当る語にあります。後者は、google翻訳では「イリ」と聞こえます。古代には Η(エータ) は「エ」だったようで、「エリ」のようです。
ヘブライ文字で「אלי אלי למה עזבתני」は、google翻訳で、「My God why hast thou forsaken me」のように訳されます。しかし、「אלי」は、単独では「me(私に)」と訳され「my god」ではないようです。副詞の「もしかして」の場合は「ウライ」と発音され、my(一人称単数所有格)は「エリ」、前置詞(to、from)は「エレ」、動詞の「泣き叫ぶ」は「エリ」のようです。また、「私のもの」と言う意味もあるようで、「エライ」のようです。
おそらく、ヘブライ語の「אלי」が「Ελωι」と「Ηλι」の元なのは確かそうです。発音からではなく、文字で伝わったものから、2通りのギリシア文字表記を生んでいるのだと思います。
サバクタニがアザブタニ(Azbtny)ならヘブライ語で「見捨てる」と解釈できますが、シャバク(SHbc)であるならヘブライ語では解釈できず、アラム語の可能性が高いと言うのが論旨のようです。
接頭辞 | 接続詞、前置詞 |
b- | in、at、with |
d- | of、that、who、which |
w- | and |
(dil-) |
of、belonging to |
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」は、新約聖書だけの演出なのかどうかを知るには、その出典とされる旧約聖書の詩篇を参照すれば良い訳ですが状況を調べておきます。
聖書はギリシア語の七十人訳聖書(Septuaginta、LXX)が前3世紀から前1世紀にかけてまとめられたのが最も古いものとされています。
BC141からのハスモン朝の時代にヘブライ語聖書がまとめられました。
七十人訳聖書は、伝承されてきた文書を網羅的に、ギリシア語に翻訳したもののようです。ヘブライ語聖書は、七十人訳聖書より構成が小さく、ヘブライ語によるマソラ本の確認されないものは除外されたと言うことです。
「ヘブライ語によるマソラ本」が何を意味するのかは明瞭ではありません。
七十人訳聖書の成立の経緯は、事実とは認められていない、「アリステアスの書簡」の引用があるだけで、触れられることはないようです。
この説話は、プトレマイオス2世フィラデルフォス(BC309-BC246)の命によってアレキサンドリア図書館でまとめられたと言うものです。
この話しは、年代と場所の点で十分信じられるものに思えます。ナッシュ・パピルスなど多くの文書はエジプトで見つかっています。
元になった文書は複数の文字、複数の言語で記されていたものと思いますが、最初からコイネー(Koine)への翻訳が目的で、音を保存すると言う考えはなかっただろうと思います。
この年代のヘブライ人はヘブライ語よりコイネーを良く理解したと考えられているようです。
新約聖書はコイネーで書かれ、後にシリア語などに翻訳されて伝承されました。
七十人訳聖書の今日まで伝承されている写本には、バチカン写本、シナイ写本、アレクサンドリア写本があり、4,5世紀のものです。
ヘブライ語聖書の写本は、レニングラード写本で、1008年のもののようです。
新約聖書が作成されたころに参照された七十人訳聖書は伝承されていないことになります。
オリジナルの七十人訳聖書は、当然大文字のギリシア文字で記されたはずです。小文字が使われるのは中世以降とされます。おそらく、4,5世紀の写本も大文字のみで記されているはずです。
オンラインで参照できる七十人訳聖書のギリシア語版は、大文字小文字アクセント記号のあるものです。
創世記のアラムは、セムの子の代で別れた同族です。あるいは、アブラヒムの兄弟ナルホの孫のアラムかも知れません。
BC1700ごろイスラエルの異名を持つヤコブはエジプトへ移住します。ヤコブの母はアラム人でした。ヤコブも母方の一族から妻を迎えるためにハラン(パダン・アラム)へ行きました。
しかし、千年近く経って、アラム・ダマスカスはスリヤで、サマリアを包囲したのはスリヤ人でした。
スリヤびとは英語訳では Syrians でシリア人です。ところが、ヘブライ語の列王記下5.1では、「ארם」(arm)と記されています。
ギリシア語のアラム語は「Αραμαίοι」で、アラムは「Αραμ」のようです。七十人訳聖書の創世記とイザヤ記にあり、セムの子の名のような人名として使用されています。イザヤ記7.1、2、5、8は、 βασιλεὺς Αραμ (アラムの王)のような国名(地名)ですが、この英訳は Syria で、アラムやアラム人とは訳されないようです。日本語のスリヤも同じ規則のようです。
シリア語は、紀元後にキリスト教と関連して使われるようですが、これは年代によるのではなく、ギリシア語文書が「Συρία」、「Συρίας」のようにアラムを表していることが理由のようです。
聖書では、アラムとシリア(スリヤ)は区別ができないと考えて良さそうです。
しかし、ヘブライ語の聖書がアラムと伝えていたなら、前1世紀のイスラエル人には同族と見えていたのかも知れません。あるいは、単に支配者である新アッシリアの呼称を採用したのかもしれません。
アッシリアが前12世紀に認識したアラム人は、BC1700ころの創世記のアラム人と、地域的には重なります。
ヤムハド王国やミタンニ王国の占めた場所で、フルリ人やアムル人の都市王国があった場所です。ヒッタイトは、この地域に何度も進出しました。
海の民に事変後は、新ヒッタイト都市国家群があったとされる場所です。この地域には、かつては、フルリ人や、ヒッタイト人、アムル人などのカナンの人々がいましたが、前12世紀のアッシリアの人々にはアラム人に見えました。異なる語族の人々が混成した人々でした。
アラム・ダマスカスは地理的に離れています。言語的に北のアラム人と同じだったのかどうかは分かりません。
また、BC440頃になってアラム文字で残されたアラム語との関係も明瞭ではありません。
サッカラ・パピルがアラム語を表すものなら、アラム語はヘブライ語などカナン諸語と区別の困難な類似の言語だったようです。
サッカラ・パピルスはエジプトで発見された文書で、新バビロニアがカナン支配を完成する前のエクロンの王アドンの救援を求める書簡だとされています。しかし、この書簡は破損によって adn mlk や bbl と記されている以外は、エクロンも年代も明示しません。 エレファンティン・パピルスによってアラム文字の使用が確認されるBC440より百数十年前と考えるのは困難に思えます。また、エクロンはかつては印欧語族と見られるペリシテ人の都市でした。結局アラム語が、新アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシアの時代の、リンガ・フランカや公用語だったとする根拠は分かりません。
確かそうなのは、フルリ語、ヒッタイト語の影響をカナン諸語は強く受けていると言うことだと思います。また、海の民以降ペリシテ人のようにミケーネ人と繋がりのある人々も定住していました。カナン諸語は語彙の大きな言語になっただろうと思います。
アラム文字の資料は、ほとんどエジプトにあり、 ほとんどがエレファンティン・パピルスのようです。エジプトのヌビアのイスラエル人は BC650ころから千年に渡って文書を残しました。Syene(アスワン)にあるナイル川の島エレファンティンには、新アッシリアの時代にヌビア防衛に送られたイスラエル人が定住しました。アラム文字の資料はこの文書によっているようです。
イスラエル人はBC1700頃エジプトに移住したヤコブに起源があり、エジプトにイスラエル人が住んでいて何の不思議もありません。
エジプトにあったイスラエル人コミュニティがアラム文字、アラム語の文書を残しました。これを元に、カナンやメソポタミアの言語事情を考えるのは短絡しています。
しかし、アラム文字はイスラエル人と深い関係があることは確かそうです。アラム文字の資料はエジプトで見つかるか、死海文書のように歴史が下ってからヘブライ人と結び付いてカナンで見つかっています。
アラム文字を広めたのもヘブライ人の可能性が高いのだと思います。