mikeo_410


 文献要旨(アラム)

  アラムは2通りの認識があるようです。1つは中アッシリアを衰退させたアラム人です。もう一つは、アラム語、アラム文字の話しです。両者を結び付ける明確な証拠はないように見えます。

年代記のナラ・シン

  アッカド帝国の王ナラム・シン(Naram sin、BC2155-BC2119)の年代記に、アラムの地名が見られると言うことらしい。
  BC2300ころのアレッポ周辺、および BC1300ころのマリ、ウガリットのタブレットに、地名のアラムやアラム人の記述があると言うが不明。特にマリは年代が不合理に思える。 

isz11-a-ru u3 ba-ba ensi2 si-mu-ur4-ri-im KI dub-ul ensi2 a-ra-me KI ik-mi-u3
ババ 支配者 シムリム(の地)の ドゥブル 支配者 アラム(の地)の

  二人の支配者(王)を捕虜にしたと言うことらしい。年代記そのものはずっと後代に記されたものだろうと推測する。

ティグラト・ピレセル1世の八角柱碑文

  ティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser、BC1115-BC1077)の業績を記した長さが53cmほどの粘土製の八角柱。ニネヴェ図書館で発見された。
  ティグラト・ピレセル1世の業績碑文は他にもあるよう。

  第5面46行。Khatti(ヒッタイト)の地のGargamis(カルケミシュ)で敵であるアラム人を討ったと記している。
  見られるのは英訳のみで、アラム人がどう表現されたのかが分からない。
  前12世紀にカルケミシュにいた人々は、アッシリアにとって、ヒッタイトではなく、アラム人に見えた。

シャルマネセル3世クルク記念碑

  クルク(Kurkh)で発見された Kurkh  Stele は複数あるようだ。カルカルの戦いの戦力が記されているのは治世6年(BC853)の碑文で楔形文字の碑文のようだ。
  この碑文のスケッチやラテン転写は見られない。部分的な英訳があるのみ。
  ダマスカスやハマなどのアラム勢力がカナンの最大勢力であることは分かる。しかし、ダマスカスやハマをアラム人の都市とは読んでいないようだ。
  これは、特にカナンの勢力を分類する必要性がないとも取れる。
  イスラエルは、歩兵1万、チャリオット2千を出した。ダマスカスは、歩兵2万、チャリオット1千2百を出した。
  他に、アラム人の都市王国とされる、ハマ、クエ(Que、KUR Gu-a-a )が兵力を出した。

センナケリブのバビアン碑文

  バビアン(Bavian)はニネヴェに近い場所らしい。センナケリブ(Sennacherib、BC705-BC681)は、ユダ王国を包囲したが破壊することなく撤退したことが知られる。アッシリアは、まだエジプトには達していないが、アラム・ダマスカス王国は、BC732にティグラト・ピレセル3世によって滅び、都市は破壊された。
  この碑文から知られるのは、アッシリアが直接支配した時代のダマスカスの地名。サルラト(Sal-lat)。
  Man-nu-ki-Adad Sa (mdtu) Sal-lat
  センナケリブは、Sin-akhe-irba、Sin-akhe-erba 。センナケリブは旧約聖書から由来した呼称らしい。

アラム語のベヒストゥン碑文

  Berlin Papyrus 13447 は、エジプトのナイル川のエレファンティネ島(Elephantine、アスワン)で発見されたパピルスの文書で、BC415ころのものとされる。
  アラム文字が記されていることは確かそうだが、アラム語かどうかは良く分からない。
  後述のエレファンティン・パピルスの一部で、古代のイスラエル人コミュニティーの文書らしい。

  写真からはアラム文字に見える。左から右に読まれるので概ね以下のように記されているのだと思う。
  lmAbd qrb aHr Abdw qrba btwr SHmh brta barrTH ahwrmzd sAdny
  ヘブライ文字に置き換えて、google翻訳でヘブライ語から英語にすると以下のようになる。

למעבד קרב אחר עבדו קרבא בתור שמה ברתא באררט אהורמזד סעדני
Battle processor then worked Carabao as the name Martha Ararat Ahormzd restaurateur
  1. 最後の ahwrmzd  は、アフラ・マズダー
  2. 摩崖碑でアルメニアと訳されている語がアララトらしい
  3. google翻訳では、SHmh は「名前」、Abdw は「働いていた」、qrb は「バトル」と訳される

    おそらく、摩崖碑の以下のような箇所に相当するものと思う。
    Stronghold in Armenia named Tigra they entered battle.
    brta               b-arrTH SHmh  b-twr    Abdw      qrb


メシャ碑文

  BC850ころのカナン諸語の資料。モアブ語はカナン諸語に分類されている。また、メシャ碑文(Mesha Stele、モアブ碑文)は古ヘブライ語の碑文とも説明されている。ディボン(Dibon、ヨルダンのディバン)で発見された。
  ヘブライ文字(方形ヘブライ文字)に転写されたものを、フェニキア文字(古ヘブライ文字)にしたもので、概ね石碑のイメージに近い。

<----------------------------------------

---------------------------------------->

1. ank. mSA. bn. kmS.. . mlk. mab. hd
2. ybny | aby. mlk. Al. mab. SlSn. St. wank. mlk
3. ty. aHr. aby | waAS. hbmt. zat. lkmS. bqrHh | b[ns. y]
4. SA. ky. hSAny. mkl. hmlkn. wky. hrany. bkl. Snay | Amr
5. y. mlk. ySral. wyAnw. at. mab. ymn. rbן. ky. yanp. kmS. bar
6. Sh | wyHlph. bnh. wyamr. gm. ha. aAnw. at. mab | bymy. amr. k[...]
7. wara. bh. wbbth | wySral. abd. abd. Alm. wyrS. Amry. at a[r]
8. S. mhdba | wySb. bh. ymh. wHSy. ymy. bnh. arbAn. St. wyS
9. bh. kmS. bymy | wabn. at. bAlmAn. waAS. bh. haSwH. wabn
10. at. qrytn | waS. gd. ySb. barS. ATrt. mAlm. wybn. lh. mlk. y
11. Sral. at. ATrt | waltHm. bqr. waHzh | wahrg. at. kl. hAm. [m]
12. hqr. ryt. lkmS. wlmab | waSb. mSm. at. aral. dwdh. was
13. Hbh. lpny. kmS. bqryt | waSb. bh. at. aS. Srn. wat. aS
14. mHrt | wyamr. ly. kmS. lk. aHz. at. nbh. Al. ySral | wa
15. hlk. hllh. waltHm. bh. mbqA. hSHrt. Ad. hShrm | waH
16. zh. wahrg. klh. SbAt. alpn. gbrn. w[gr]n | wgbrt. wgr
17. t. wrHmt | ky. lAStr. kmS. hHrmth | waqH. mSm. a[t. k]
18. ly. yhwh. wasHb. hm. lpny. kmS | wmlk. ySral. bnh. at
19. yhS. wySb. bh. bhltHmh. by | wygrSh. kmS. mpny | w
20. aqH. mmab. matn. aS. kl. rSh | waSah. byhS. waHzh.
21. lspt. Al. dybn | ank. bnty. qrHh. Hmt. hyArn. wHmt
22. hApl | wank. bnty. SAryh. wank. bnty. mgdlth | wa
23. nk. bnty. bt. mlk. wank. ASty. klay. haS[wH lmy]n. bqrb
24. hqr | wbr. an. bqrb. hqr. bqrHh. wamr. lkl. hAm. ASw. l
25. km. aS. br. bbyth | wank. krty. hmkrtt. lqrHh. basr
26. [y]. ySral | ank. bnty. ArAr. wank. ASty. hmslt. barnn.
27. ank. bnty. bt. bmt. ky. hrs. ha | ank. bnty. bSr. ky. Ayn
28. ----- S. dybn. HmSn. ky. kl. dybn. mSmAt | wank. mlk
29. t[y] ----- mat. bqrn. aSr. yspty. Al. harS | wank. bnt
30. [y. at. mh]dba. wbt. dbltn | wbt. bAlmAn. waSa. Sm. at. [...]
31. --------- San. harS | wHwrnn. ySb. bh. b
32. --------- amr. ly. kmS. rd. hltHm. bHwrnn | ward
33. ---------[wyS]bh. kmS. bymy. wAl[...]. mSm. AS
34. -------------- St. Sdq | wa

  フェニキア文字で記された mlk は、王を表す。(1行目の後半)
  要点を揚げると以下の通り。

  1. 私はメシャ(mSA)。カモシ(kmS)の息子。モアブ(mab)の王(mlk)。父はモアブの王。
  2. オムリ(Amry)はイスラエル(ySral)の王。
  3. オムリはモアブを虐げカモシは怒った。
  4. イスラエルは敗北し、オムリはマデバ(mhdba)を取って住みついた。
  5. バールメアン(bAlmAn)を築いた。貯水池を築き、キリヤタム(qrytn)を築いた。
  6. アタロト(ATrt)にはガド(gd)が住んでいた。
  7. イスラエルの王が築いたアタロト(ATrt)の地を征服した。
  8. 皆殺しにした。
  9. ケリト(qryt)にシャロン(Srn)とマハリト(mHrt)を住まわせた。
  10. カモシはイスラエルからネボ(nbh)を奪うように私に言った。
  11. 夜に出かけ、昼には皆殺しにした。
  12. 戦勝はヤハウェ(yhwh)によってカモシに捧げられた。
  13. イスラエルの王は私に対抗するためにヤハツ(yhS)を築いた。
  14. ディバン(dybn)に加えるためにモアブ人200人とヤハツへ向かった。
  15. クラハ(qrHh)、木の砦、塔、宮殿を築き、奥に倍の貯水池を築いた。
  16. クラハには水がなかった。イスラエルの捕虜によって濠が掘られた。
  17. アラアラ(ArAr)を築いた。アランに軍道を整備した。
  18. 破壊されたベス バモト(bt bmt)を再興した。
  19. 荒廃したバザー(bSr)を再建した。
  20. ディバンは服従し、我が軍隊となった。
  21. 私は何百と言う街の王となった。
  22. ハウラネン(wHwrnn)はそこで生きた。
  23. カモシは、ハウラネンを討つように言った。その地は私の代に回復された。

アショカ王のカンダハル碑文

  アショカ王のカンダハルの碑文は複数存在するようですが、1つはギリシア文字とアラム文字のバイリンガル碑文のようです。
  写真を見ると1つの面に、上下で、ギリシア文字とアラム文字が書かれているようです。この碑文は、英訳の他、ギリシア文字部分のギリシア文字への転写と、アラム文字の分のヘブライ文字への転写が公開されています。
  碑文からは年代は推定できず、年代は明瞭ではないようです。アショカ王の在位は BC268-BC232 とされています。
  ヘブライ文字は基本的にはアラム文字と1対1なので、Unicodeが収録しているアラム文字に置き換えて、写真と比較してみます。
  最下段の行は以下のようです。

  右から左に読みます。概ねアラム文字と見て良さそうです。

ΔΕΚΑ ΕΤωΝ ΠΛΗΡΗ[....]ΩΝ ΒΑΣΙ[Λ]ΕΥΣ
ΠΙΟΔΑΣΣΗΣ ΕΥΣΕΒΕΙΑ[Ν ΕΔ]Ε[Ι]ΞΕΝ ΤΟΙΣ ΑΝ-
ΘΡΩΠΟΙΣ ΚΑΙ ΑΠΟ ΤΟΥΤΟΥ ΕΥΣΕΒΕΣΤΕΡΟΥΣ
ΤΟΥΣ ΑΝΘΡΏΠΟΥΣ ΕΠΟΙΗΣΕΝ ΚΑΙ ΠΑΝΤΑ
ΕΥΘΗΝΕΙ ΚΑΤΑΠΑΣΑΝ ΓΗΝ• ΚΑΙ ΑΠΕΧΕΤΑΙ
ΒΑΣΙΛΕΥΣ ΤωΝ ΕΜΨΥΧΩΝ ΚΑΙ ΟΙ ΛΟΙΠΟΙ ΔΕ
ΕΙ ΤΙΝΕΣ ΑΚΡΑΤΕΙΣ ΠΕΠΑΥΝΤΑΙ ΤΗΣ ΑΚΡΑ-
ΣΙΑΣ ΚΑΤΑΔΥΝΑΜΙΝ, ΚΑΙ ΕΝΉΚΟΟΙ ΠΑΤΡΙ
ΚΑΙ ΜΗΤΡΙ ΚΑΙ ΤωΝ ΠΡΕΣΒΥΤΕΡΩΝ ΠΑΡᾺ
ΤΑΠΡΟΤΕΡΟΝ ΚΑΙ ΤΟΥ ΛΟΙΠΟΥ ΛωΙΟΝ
ΚΑΙ ΑΜΕΙΝΟΝ ΚΑΤΑΠΑΝΤΑ ΤΑΥΤΑ
ΠΟΙΟΥΝΤΕΣ ΔΙΑΞΟΥΣΙΝ.

   Unicode のアラム文字で表すと上右のようになります。このページの最後に挙げた表によって、最初の1行をラテン転写すると以下のようになります。
  SHnn 10 ptytw Abyd zy mran prydarSH mlka qSHyTHa mhqSHTH
  アショカ王の名前は、アラム文字でピリダラシャ(prydarSH)、ギリシャ文字でピオダシェス(ΠΙΟΔΑΣΣΗΣ)のように表されたようです。
  カナン諸語の王はマルク(mlk) 、ギリシャ語の王はバシレオス(ΒΑΣΙΛΕΥΣ)です。
  しかし、他のアラム文字の語はヘブライ語では解釈できないようです。サッカラ・パピルスのアラム語とは異なっているようです。ギリシア文字の文章には KAI が多くありますが、対応する接頭辞 w で始まる単語が少なくアラム語ではないのかも知れません。
  概ね以下のように訳されるようです。
 10年の統治によってピオダシェスはピエティを示した。直ちに人々は信仰を厚くし世界中に広まりました。不殺生、節制、父母や年長者に従うことを常にどこでも行ってより幸福に生きる。


死海文書、ナッシュ・パピルス

  死海文書は BC150 から AD75 の間の年代が測定されるようです。写真を見ると既に方形ヘブライ文字が中心のようです。
  この年代は良く調べられていて、ヘブライ語やアラム語は、ほぼ正確に認識されているものと思います。
  Wikipedia の表はこれと少し異なったことが書かれています。これを我流に解釈すると下表になります。

死海文書の言語
区分 割合(%) 備考
ヘブライ語・フェニキア文字 1.0 - 1.5

古典(聖書)ヘブライ語・古ヘブライ文字とも

ヘブライ語・方形アッシリア文字 76.9 - 80.0 Assyrian block script
アラム語・方形アラム文字 16.0 - 17.0 Aramaic square script

ギリシア語・ギリシア文字

3.0 Greek uncial script
ナバテア語・ナバテア文字 0.2 Nabataean

  これは以下のように解釈できます。

  1. フェニキア文字は、古ヘブライ文字であると同時に、古アラム文字でもあります。しかし、フェニキア文字でアラム語を記した文書は無いことになります。
  2. 一般にヘブライ文字と言っている方形ヘブライ文字は、ハスモン朝の時代に成立したとされます。
    しかし、この表では方形ヘブライ文字は、「Assyrian block script」のようです。
    方形ヘブライ文字はアッシリア人に帰されるようです。あるいは新アッシリアと言う年代かもしれません。
    アッシリア人によって、アラム文字が使用され、方形となり、方形ヘブライ文字になったと言う解釈なのだろうと思います。
  3. 方形アラム文字は一般的ではないようです。アラム語・方形ヘブライ文字の文書を指しているのだと解釈します。
    つまり、方形アッシリア文字と方形アラム文字は同じもので、方形ヘブライ文字だと言うことです。
  4. こう解釈すると、方形ヘブライ文字の文書は、文字としては区別が付かないが、ヘブライ語を表すものと、アラム語を表すものがあることになります。
  5. アラム文字でヘブライ語を表した文書は無いことになります。
  6. ナバテア語は、西のアラム語らしく、シナイ半島などで、前2世紀ごろに認識されるもののようです。

  普通に考えると、フェニキア文字、アラム文字、方形ヘブライ文字の文書が存在し、それぞれに、アラム語を記したものとヘブライ語を記したものがあって当然に思えます。アラム文字の文書が無いとすると方形ヘブライ文字はアラム文字と大差のない時期に生じたか、アラム語とヘブライ語が区別できないかのいずれかだと思います。フェニキア文字で記された文書にアラム語を記したものがないと言うのも、単に区別が付かないからかもしれません。

  比較に使用される資料にはナッシュ・パピルス(Nash Papyrus)があります。この文書はエジプトで発見されヘブライ語聖書の内容と同じ文面を含むと言うことです。この文書はヘブライ語・アラム文字の文書のようです。ヘブライ語であるかどうかは分かりませんが、文字はアラム文字の形状です。
  年代はどのように測られたのか分かりませんがBC150-BC100とされています。
  この文書の文字の字形で気が付くのは、n(nun)が棒状なことです。S字ではなく、ヘブライ文字の語末型のような形状になっています。他にも、HETHやMEMはヘブライ文字に見えます。しかし、KAPH、QOPHなど特徴的な文字は完全にアラム文字です。

  死海文書からは、1QIsa や 1QpHab が挙げられるようです。前者は古い例、後者は新しい例として挙げられています。その差は100年ほどあると見られているようです。しかし、字形の点では両者に差はないようです。ナッシュ・パピルスに比べると、文字は角ばって、方形ヘブライ文字の名の通りに見えます。気が付くのは、n(nun)の形状で、S字型をしていて、アラム文字の形状です。

クッタムワ碑文

  サム・アル(sam'al)遺跡のクッタムワ(Kuttamuwa)碑文は、BC900-BC713までの間の年代が推定されています。既に新アッシリアの時代に入っていますが、アッシリアが記録したアラム人都市国家ヤウディ(Yaudy)のアラム人の王クッタムワによって作られたと考えられています。
  この碑文の文字はフェニキア文字です。
  装飾模様にはルウィ象形文字の意匠が使用され、クッタムワの名はルウィ語にあるもののようです。
  この碑文は 202文字、52語、13行 から成っています。アラム語を表しているかが断定されているわけではありません。死海文書の年代から600年も前のことであり、アラム語自体が何を意味するか明瞭ではありません。これはアッシリアが認識したアラム人が書いた文書としてのアラム語です。

  Daletが複数のラテン文字に解釈されることや、切れ目のない文字列から語を切り出すのには明確な基準はなく、多くの解釈を可能とします。
  わたしの魂は、wyhrg bnbsy のようです。lsmsは、神Samas(Shamash)、lhddは、神Hadad です。接頭辞の l は、直接目的語を示し、英語の for 、to と訳され、神Samasのために、神Samasに対して、と解されています。
  zn 、あるいは gn は、庭のようです。krm は、ブドウ園のようです。znn、krmnは、それぞれ複数形と解釈でき、アラム語と同じようです。
  また、定冠詞が全く使用されていません。後のアラム語には定冠詞があるようです。

  このアラム語が、ヘブライ語聖書に含まれるアラム語と繋がりがあると明示されることはないようです。

ザクル碑文

  ザクル碑文(Stele of Zakkur)は、ハマー(シリア)で見つかったもので、アラム語碑文とされています。

1. nTSba zy SHm zkr mlk Hmt wlASH lalwr alh
2. anh zkr mlk Hmt wlASH aSH Anh anh whwSHA
3. ny bAlSHmyn wqm Amy whmlkny bAlSHmyn Al
4. Hzrk whwHd Aly brhdd br Hzal mlk arm SH
5. bA ASHr mlkn brhdd wmHnth wbrgSH wmHnth wm
6. lk qwh wmHnth wmlk Amq wmHnth wmlk grgm
7. wmHnth wmlk TSmal wmHnth wmlk mlz wmHnth wmlk
8. wmHnth wmlk wmHnth wSHbAt ASHr
9. hmw wmHnwt hm wTSmw kl mlkya al mTSr Al Hzrk
10. whrmw SHr mn SHr Hzrk whAmqw HrTS mn HrTSh
11. waTSa ydy al bAlSHmyn wyAnny bAlSHmyn wym
12. ll bAlSHmyn aly byd Hzyn wbyd Addn wyam
13. r bAlSHmyn al tzHl ky anh hmlktk wanh a
14. qm Amk wanh aHTSlk mn kl mlkya al zy
15. mHaw Alyk mTSr wyamr ly bAlSHmyn
16. kl mlkya al zy mHaw Alyk mTSr
17. wSHwra znh zy

  図のフェニキア文字の部分は翻字から逆に生成したもで、実際の碑文の文字は、写真からは明瞭には確認できません。この碑文の文字がフェニキア文字だと記されているわけではありませんが、この図の8-12行の左端の部分は写真と照合できます。碑の左端は破損していて、[ ] で囲まれた部分は実際にはない、翻字した人が補ったものです。
  フェニキア文字は右から左へ読み、ラテン転写したものとは逆向きになっています。

  1行目の語のうち名詞は以下のように解釈されています。
  zkr は 人名で Zakkur、Zakir。mlk は 王。Hmt は都市名ハマト。wlASH は w-lASH で 「and Luash(都市)」。lalwr は l-Iluwer で「イルワー(神)の」。
  フェニキア文字はヘブライ文字と、ほぼ1対1に対応します。1行目は以下のようになります。

  ヘブライ語に翻字した結果では、書き出しの「nTSba zy SHm」に相当する表記は、他の碑文にも多数みられるものらしく、「私はザクル」や「ザクルが建てた碑」のように解釈されています。ザクル、あるいはザキルはハマト(ハマー)とルアシュの王です。王朝に係る語根が mlk なのはカナン諸語に共通のようです。
  Google翻訳で「bread and milk」をヘブライ語に翻訳すると「לחם וחלב」のようになります。これは「לחם ו חלב」となるところ、and に当る文字が milk に当る語に結合され、3語が2語になって出力されています。wlASHは、w - lASHで、都市名はlASHです。
  ただし、これは、そう書かれていたと言うことではありません。フェニキア文字の文書は通常分かち書きされることはなく、文字はほぼ均等に並びます。語を認識しているのはラテン転写した人です。ラテン転写した人はヘブライ語などのルールが適用されるのが妥当だと考えていると言うことが分かります。
  文字はほぼ均等に並び、語の区切りが明示されないことは、文法上の接頭語や接尾語と説明されるものは、文字表記上には無い概念だと言うことです。少なくとも視認性のための工夫ではなく、そのまま読まれたものだと考えられます。

  Iluwer は、この碑文が初出の神のようで、神名とされる根拠は分かりません。また、lalwr がそう読まれるのかも良く分かりません。
  おそらく、l - lwr で、カナン諸語で所有を表す接頭辞 l が付いているのだと思います。子音を表す文字では、母音で始まる語の母音も記されないようですが、l が付いたことでアレフとして記されたのだと思います。アレフを「a」と転写しましたが 、アレフは「ア」な訳ではありません。

  「אלה」 は、ヘブライ語の「אלוהיו」に当るものと解釈されているようです。これは、Google翻訳で「his god」をヘブライ語に翻訳すると得られます。

  ザクル碑文の年代は、BC805-BC775 と推定されているようです。前5世紀のシドン王 Eshmunazar の石棺では、「シドンの王」は、「mlk sdn-m」となっていて、接尾辞 m が記されています。差があることは確かそうですが、音声言語の差、年代の差、地域的な差など、どうとらえるかは明瞭ではありません。多くの場合、ヘブライ語に転写して解釈され、大きな差のある言語だとは考えられていないのだと思います。

ザクル碑文の要点は以下のようです。

  1. zkr(ザキル) は、Hmt(ハマト)とlASH(ルアシュ)の王
  2. arm(アラム)の王Hzal(ハザエル)の息子brhdd(バルハダド)は17人の王と同盟してザキルを攻めました。
  3. ハザエルは列王記にアラム・ダマスカス王ハダデゼル(ベンハダド2世)の使者として登場し、イスラエルの預言者エリシャの話しを聞きます。帰国したハザエルはクーデターによってアラム・ダマスカスの王となりました。在位は、BC842-BC796(あるいはBC805)のようです。
  4. バルハダドは聖書のベンハダド3世とされ、BC796-BC792の間アラム・ダマスカスの王でした。
  5. ザキルを攻めたのは、バルハダド2世と brgSH(バルグシュ)の軍 mHnth。qwh(クエ)、Amq(Umq)、grgm(グルグム)、TSmal(サムアル)、mlz(ミリズ)、・・・ の諸王の軍。
  6. これらの軍は、Hzrk(ハザラク)を包囲しました。これらの軍は、ハザラクの塀より高い塀を築き、ハザラクの濠より深い濠を掘りました。
  7. mHnth は軍と訳されています。mHnh は現代のヘブライ語ではキャンプのようです。hnh、mhnt のようにも記されるようです。
  8. バルハダド2世はバルグシュ王名で記されています。他は mlk qwh のように、領土の王と記されました。
  9. w-brgSH w-mHnth、 w-mlk qwh w-mHnth のように and を表す w が付けられ、それぞれ、王と軍のペアを記し、全て並列になっています。
  10. クエはアッシリアも、そう呼び、ストラボンの「平地のキリキア」に相当するようです。挙げられている王国はキリキアからアレッポ周辺のようです。
  11. 神bAlSHmyn(バアルシャミン)はザキルを助け、ザキルの王国の独立は保たれたようです。
  12. バアルシャミンは、同時代の周辺の碑文に見られるもののようです。なぜ、バアルとシャミンの2語と解釈されないのかは分かりません。
    雷神バアルはメソポタミアの神名として一般的なものです。雷鳴から付いた名で、本来の雷神の別名として一般化したようです。エジプトではセトと同一視されました。バアルはヨーロッパでは悪霊の君主ベルゼブブ (Beelzebub)として伝承されました。
  13. ベルゼブブは、列王記にあるペリシテ人の町エクロンの神バアル・ゼゼブだと見られています。
    ペリシテ人は海の民の1つに数えられた人々で前12世紀以降にカナンに定住した人々だと考えられ、ミケーネ文明とのつながりのある人々だとされています。
    イスラエル王国(サマリア)はBC1021に建国されます。8代目の王アハズヤ(BC850-BC849)は、エクロンの神バアル・ゼゼブに、自らの病について神託を求めるよう神官に使者を送りました。主は予言者エリアに、サマリアの王に問うように言います。「イスラエルに神はいないのか?寝台から降りることなく死ぬだろう」(列王記 下1)
  14. 本来の雷神の名は、イシュクル(Ishkur)、アダド(hadad)、ハダド(adad)、タルフンニ(Tarhunni)などが知られます。これらは、楔形文字の文書から知られています。バアルシャミンはフェニキア文字の文書で登場し、フェニキア文字はBC1050頃から使用されたと見られます。海の民の事変の後、カナンにはペリシテ人が住んでおり、フェニキア文字が使用され、バアルシャミンが信仰されました。
    これより前の時代、BC2600頃には、シュメール人はイシュクルを信仰し、AN(U+1202D)、IM(U+1214E)と言う記号(楔形文字)で表しました。雷神は最高神でもあり、イシュクル(シュメール)、アダド(アッシリア)、ハダド(ウガリット)、タルフンニ(ヒッタイト)は同じ記号で表されました。しかし、雷神、あるいは最高神を表す記号が何と読まれたかの証拠はほとんどないものと思います。
    こうしたことを、裏付ける可能性があるのがフェニキア文字です。

  ザクル碑文の前面の碑文からは、ハマーの王がアラム人勢力と対立していたことが分かります。そして、アラムの中心は南のアラム・ダマスカスのようです。しかし、同盟のメンバーは、ハマーを挟む北にあります。一般にアラム人の勢力圏はアレッポ周辺やキリキアと見られています。
  碑文の内容からは、ハマーの王ザキル(ザクル)がアラム人だとは分からないようです。

  ハマーは、アマルナ文書の時代には、アムル王国があった場所だと思います。前19世紀に、メソポタミア全域はアムル人の王朝が占めました。このアムル人は既にほとんど認識されないものになっていたと思います。アマルナ文書で知られるアラム王国はエジプトの臣下でカナンの軍事行動の指揮権を持っていました。王アジルは、対ヒッタイト戦について、ビブロスの王などに不信をいだかれ、エジプトに呼び戻されたりしています。最終的にアジルはヒッタイトに付きます。
  この地は、対ヒッタイト戦の前線でした。その後、海の民の事変では、海の民の拠点がある場所としてエジプトが記録しています。エジプトはヒッタイト滅亡後は、ハマー周辺の海の民を支援しました。

  イスラエル王国の3代目の王ソロモン(BC971-BC931)のは母はバト・シェバです。バト・シェバはヒッタイト人ウリヤの妻でした。ウリヤはダビデ王の友人で兵士でした。
  バト・シェバはフルリ人の名前だと考えて不思議はなさそうです。ヒッタイトの王ムルシリ2世、ハットゥシリ3世の妃の名は、それぞれダヌ・ヘパ、プドゥヘパでした。プドゥヘパの父はキズワトナの神官ベンティプ・シャルと文書の裏付けがあり、両者の名前がフルリ人のものであることから、フルリ人とされています。
  BC1000頃には、イスラエル王国を含めて、カナンには、イスラエル人、ヘブライ人、ヒッタイト人、フルリ人、ペリシテ人がいました。
  その100年前には、アッシリアのティグラト・ピレセル1世(BC1115-BC1077)が、カルケミシュ周辺でアラム人と戦い、アラム人が歴史に登場します。


アヒラム碑文

フェニキア文字(古ヘブライ文字)の最古の文書は、ビブロスの王アヒラムの石棺に刻まれたもののようです。この碑文はBC1000ころとされます。
ビブロスはギリシア人の呼称で、後の時代に使われるようになったもので、グバラやゲバルだったようです。

「海の民」の事変の後、この地を支配した人々がどんな人々かは明瞭ではありません。「ウェンアメン旅行記」では、1)エジプトとビブロスは長年の関係が継続している前提で記され、2)ドルはチェケル人(海の民)の港湾都市で、3)ビブロス王は過去の王の記録を示してファラオの支払うべき対価を語り、4)カナンの諸都市では言葉の問題に触れないのにキプロス(古いギリシア語)では突然言葉が通じないことになる、ことからビブロスの王は、前14世紀のアマルナ文書の時代から継続した人々のようです。

一方で、棺の装飾はアッシリアの影響が見られるとも説明されています。新アッシリアがカナンに進出するのは9世紀以降になります。アッシリアは8世紀にカナンを支配しますが、この時代にはアッシリアは、アラム語・フェニキア文字の文書を使用していたと見られています。
これより前では、ティグラト・ピレセル1世(BC1115-BC1077)が地中海に達した王でしたが、この王の後にはアッシリアは衰退します。
アッシリアもアムル人の王朝に発していて、北西セム語カナン諸語を話す、近い人々だったので、文化的な類似に不思議はないのかも知れません。
アマルナ文書にはグバルからの多数の書簡を含みます。主要なテーマはエジプトの対ヒッタイト戦です。グバルもヒッタイトの勢力下になったり、ヒッタイトの滅亡するBC1190以降はシリア・ヒッタイト(新ヒッタイト都市王国群)の一つ、つまりアラム人都市国家だったかもしてません。

書き出しの部分を Unicode の文字で置き換えて概ね上の図のように表せます。右から左へ読みます。

arn zp'l [--]sb'l bn ahrm mlk gbl lahrm abh ksth b'lm
作る [--]スバル 息子 アヒラム グバラ アヒラムのために 彼の父

  1. 現在のヘブライ語の棺は arun のよう
  2. アヒラム(ahrm)の前の接頭辞 l は、to や for と訳される
  3. 父は ab で、abh は「彼の父」
  4. b'l は、所有者で、m を付与して「所有者の」
  5. 語彙は、アラム語でもヘブライ語でもほぼ同じよう。

アマルナ文書 EA75

アマルナ文書は前14世紀のものですが、ビブロスからの書簡が多くあります。リブハッダ(Rib-Hadda、Rib-Addi)の書簡だけで54あるようです。
このうち、EA75のから。
アッカド文字(楔形文字)で記されていますが、何語が記されているのかは定かではありません。
リブハッダは自らに LUGAL を付けておらず、臣下として書簡を送っているようです。リブハッダは、「gub-la」を治めています。
「ヒッタイトの王が、ミタンニの王の全領土を取った」と記され、「ミタンニの王」は、「LUGAL KUR mi-it-ta-ni-ma」と表されています。
語尾に ma を付けて、「・・・の」とするのは、アヒラム碑文の m と同じだと思います。
アッカド文字は音節文字なので発音が知られます。後に使用されるフェニキア文字は子音を記録するので、発音は文字からは分かりません。
300年経ってアヒラム碑文で gbl と記された都市はグバラのような発音だったことが推測できます。音節文字で母音を含めた文字を使用していた人々が、300年後には子音を並べる文字を採用しました。しかし、楔形文字(アッカド文字)も使い続けました。

また、アヒラム碑文の語尾に付ける m は、ma であることも推測できます。
EA75 には mi-im-ma と読み取られる部分があります。アッカド語なら anything と解釈されます。しかし、これは書簡が、カナン諸語をアッカド語に翻訳して記したことを示すことにはならないようです。カナン諸語は300年経って、ウガリット文字やフェニキア文字によって知られるようになりますが、共通の語彙のようです。ウガリット文字の文書には mnm ib yp' lb'l と言う慣用句があり、「バール神に敵対するものはいない」と言ったことのようです。mnm は、「どんな」敵がバール神に刃向うのか、のように使われています。フェニキア文字の文書の mnm や、ポエニ(カルタゴ)語のmnm は anything です。
古アッカド語では、 man-ma は whoever、min-ma は whatever で、minma は mi-im-ma と記されるようになったようです。
アマルナ文書のヒッタイトの書簡は、ヒッタイト語・アッカド文字で、多くの書簡は、差出人の国の音声言語を書いているようです。

「息子たち」と訳されている個所は左図のように記されています。おそらくDUMUは、子供や息子を表す表語文字です。
この記述だけではDUMUの音は分かりません。DUMU-me も、DUMU-me-es も息子たちで区別はないようです。
カナン諸語の「息子」は bn で、bnm が息子たちで、bn の発音は分かりませんが語尾は me だと推測できます。

クッタムワ碑文

サム・アル(sam'al)遺跡のクッタムワ(Kuttamuwa)碑文は前8世紀のアラム語の碑文とされています。
アッシリアの資料からアラム人の都市王国が存在した地域であることが裏付けられます。ヒッタイト帝国の滅亡後にシリア・ヒッタイト(新ヒッタイト都市王国群)とされた都市の多くを、アッシリアはアラム人の都市王国と認識しました。それらの都市王国はアッシリアの属国となり、その後、アッシリアの移民同化政策でアラム人は認識されなくなったようです。

この碑文では、以下の3点の特徴が挙げられています。

  1. 複数形は、接尾文字 n によって示される
  2. 目的語の識別に接頭文字 l が付与され、「のために」、「に対して」のように訳される
  3. 定冠詞はない

アシュムナーザ碑文

  前5世紀のシドン王アシュムナーザ(Eshmunazar)の石棺の碑文。フェニキア文字で記されていますが、年代からすればアラム語の可能性が高いのだろうと思います。アケメネス朝ペルシアの時代と言うことですが、カナン諸語であることには違いないものと思います。
  シドンの「シ」はフェニキア文字のツァデがかかれ咽頭化した s、[sˤ] のようです。
  sdn、bsdn、lsdnm、sdnm が使われています。
  mlk は、mlk、hmlkt、hmmlkt、lmlky、mlkm、mmlkt が使われています。
  bn は、bn、bnm、bnn、bnt、(tbnt)、(wyšbny) が使われています。bnn は built。tbnt は王の名。wyšbny は、to establish で「子」とは無関係のようです。

シドンの表記
sdn シドン
sdnm 2つのシドン
bsdn シドンにおいて
lsdnm 2つのシドンに(属す)
語根 mlk の活用
mlk 王、王の
mlkm 王たちの
hmlkt その女王
hmmlkt この王族を
mmlkt 王族の
lmlky 治世に
子の表記
bn 息子、子
bnm 子供たち
bt
bn bn

  接尾辞 m は、複数形らしく、双数形は区別されていないようです。sdnm を2つのシドンと訳すのは双数だと言うわけではないようです。
  接尾辞 t は、女性形を作るようです。

  接頭辞  h は、the(定冠詞)のようです。
  接尾文字の接頭文字の l は、「(belong) to」と訳されています。

byrH bl bSHnt Asr warbA 10 3 1  lmlky mlk aSHmnAzr mlk TSdnm
bn mlk tbnt mlk TSdnm dbr mlk aSHmnAzr mlk TSdnm lamr ngzlt
blAty bn msk ymm azrm ytm bn almt wSHkb ank bHlt z wbqbr z
bmqmaSHbntqnmyatklmmlktwkladmalyptHaytmSHkbzw
alybqSHbnmnmkaySHmbnmnmwalySHaaytHltmSHkbywalyAm
snbmSHkbzAltmSHkbSHnyapamadmmydbrnkaltSHmAbdnmkklmmlktw
kladmaSHyptHAltmSHkbzamaSHySHaaytHltmSHkbyamaSHyAmsnbm
SHkbzalyknlmmSHkbatrpamwalyqbrbqbrwalyknlmbnwzrA
tHtnmwysgrnmhalnmhqdSHmatmmlk(t)adraSHmSHlbnmlq
TStnmaytmmlktamadmhaaSHyptHAltmSHkbzamaSHySHaayt
HltzwaytzrAmmlthaamadmmhmtalyknlmSHrSHlmTHw
prlmAlwtarbHymtHtSHmSHkanknHnngzltblAtybnms
kymmazrmytmbnalmtankkankaSHmnAzrmlkTSdnmbn
mlktbntmlkTSdnmbnbnmlkaSHmnAzrmlkTSdnmwamyamASHtrt
khntASHtrtrbtnhmlktbtmlkaSHmnAzrmlkTSdnmambnnaytbt
alnmayt(...)tbTSdnarTSymwySHrnaytASHtrtSHmmadrmwanHn
aSHbnnbtlaSHmn(?)rqdSHAnydllbhrwySHbnySHmmadrmwanHnaSHbnnbtm
lalnTSdnmbTSdnarTSymbtlbAlTSdnwbtlASHtrtSHmbAlwAdytnlnadnmlkm
aytdarwypyarTStdgnhadrtaSHbSHdSHrnlmdtATSmtaSHpAltwyspnnm
AltgblarTSlknnmlTSdnmlAl(?)qnmyatklmmlktwkladmalyptHAlty
walyArAltywalyAmsnbmSHkbzwalySHaaytHltmSHkbylmysgrnm
alnmhqdSHmalwyqTSnhmmlkthawhadmmhmtwzrAmlAlm
mnnpsywtlApSHatmTSAtdmlnrSHdSHbSHatrdahngdtTSraypywradtya
ytlAHtpylamdalkwtklmmlktaymnq)?(lAlmndTSlmnnklTSralbgtlA
mnrgsymlybkSHmtlHtyaaSHylawzbkSHmbnsmAylawytlArAylaw
mlAlmArzwtmhmmdahwahtklmmhnTSqywlamSHdqhmnla

  ※フェニキア文字の部分は右から左へ読みます。ラテン転写は左から右へ読みます。

byrH bl bSHnt Asr warbA 10 3 1 lmlky mlk aSHmnAzr mlk TSdnm
ブル 10 と 4 14 在位 アシュムナザー シドンの

ヒゼキヤの時代

北のイスラエル王国が滅亡した後もユダ王国は辛うじて存続していました。アッシリア王センナケリブはラブシャケを送ってエルサレムを包囲します。
ユダ王国の王ヒゼキヤ(BC715-BC687)の治世、ラブシャケは、ユダヤ人の耳に直接語りかけました。(列王記下18)

  1. アッシリアのシャルマネセル3世(BC858-BC824)のとき、アッシリアはカナンを支配するようになりますが、サマリアが包囲されたのはヒゼキヤの治世4年でした。
  2. イスラエル王国が滅んだのはヒゼキヤの治世6年でイスラエル王国の人々は、グザナやメディア王国へ送られました。
  3. ヒゼキヤは、それでもアッシリアに仕えませんでした。
  4. ヒゼキヤの治世14年、アッシリアの王センナケリブ(BC705-BC681)はユダ王国の諸都市を攻略し、エルサレムに迫りました。
  5. ヒゼキヤはアッシリアの王に使者を送って帰順の意を示し、センナケリブの課した課徴金を、宮殿の装飾まで剥ぎ取って支払いました。
  6. センナケリブはラブシャケをエルサレムに送ってアッシリアの移住同化政策の受け入れを要求します。
  7. ラブシャケは壁の上で聞いているユダヤ人に直接訴えました。
  8. 交渉にあたったユダ王国の3人の高官は、ラブシャケにシリア語(アラム語)で自分たちと話すように要請します。
  9. ラブシャケは続けました。アッシリアの移住同化政策を受け入れること。ヒゼキヤに欺かれてはならない。エジプトの支援は何の効果もなく頼るものを裏切る。アッシリアの王の手から都市を守った神はいない。アッシリアの王が与えるのは、穀物とぶどう酒のある地、パンとぶどう畑のある地、オリーブの木と蜜のある地である。
  10. ユダ王国の3人の高官は、宮内官、書記、史官で、エリアキム、ヨアは王位継承権のある王族だったようです。セブナはユダヤ人ではなかったようです。
  11. ラブシャケはユダヤ人の言葉とシリア語(アラム語)を話し、ユダ王国の3人の高官は、シリア語(アラム語)を理解できました。壁の上で聞いているユダヤ人はシリア語(アラム語)を解さないようです。

語彙 ギリシア語 ヘブライ語 備考
シャルマネセル σαλαμανασσαρ サラマンナサラ שַׁלְמַנְאֶסֶר slmnsar シャルマネセル3世(BC858-BC824)は、アッシリアがカナンを支配する初期の王として記されている。
サマリア σαμαρειαν サマリアン שֹׁמְרוֹן smrun ショメロン はイスラエル王国の主要な都市
ヒゼキヤ εζεκια エゼキア חִזְקִיָּה hzqyh ユダ王国の王ヒゼキヤ(BC715-BC687)。イスラエル王国の滅亡BC722から逆算すると即位はBC727となり、即位時25歳で在位29年との記述からBC698、64歳で亡くなったことになる
βασιλευς バシレフス מָלַךְ mlk ヒゼキヤは mlk で、カナン諸語と同じ
ユダ ιουδα ユダ יְהוּדָה yhudh ヒゼキヤは、yhudh の mlk だった
アッシリア ασσυριων アシリオン אַשּׁוּרָה asurh アッシュル
イスラエル ισραηλ イズライル יִשְׂרָאֵל ysral イスラエル王国
メディア μηδων ミドン מָדָי mdy 失われた10支族の連行先。メディア帝国。グザナと共に記されているのでおそらく都市。
グザナ γωζαν ゴザン גּוֹזָן gozn 失われた10支族の連行先。アレッポに近く、かつてはアラム人の都市国家だった。
センナケリブ σενναχηριμ ソノヒリン סַנְחֵרִיב snhryb アッシリアの王センナケリブ(BC705-BC681)
ラキシ λαχις ラヒス לָכִישָׁה lkysh ラキシにはアッシリアの王がいる
エジプト αιγυπτου エジプト מִצְרַיִם msrym

エジプトはBC1069ころから第3中間期と呼ばれる時代にあり、BC720ころにはリビア人による第22、23王朝、ヌビア人の第25王朝が並立していた。第25王朝がBC716にエジプトを統一する。第25王朝のジェドカウラー・シャバタカ(BC702-BC690)は、ヒゼキヤの要請を受けてシリアに遠征軍を送ってBC701に敗北している。アッシリはBC671にメンフィスを陥落させる。

ファラオ φαραω ファラオ פַּרְעֹה prah msrym の mlk の prah。おそらく第25王朝のジェドカウラー・シャバタカ。
アラム語 συριστι シリスティ אֲרָמִית armyt ユダ王国の民衆に聞かれないようにラブシャケに求めた。シリア語(アラム語)が民衆に全く理解されなかったとは思えない。
ユダ語 Ιουδαιστι イオベスティ יְהוּדִית yhudyt 塀の上にいる国民の話している言葉

後世にヘブライ語の聖書として伝来したものでも、王は mlk で、フェニキア文字の文書と同様です。アラム語でも mlk で、語彙の面では共通のものがあることが分かります。
ユダ王国の人々の話し言葉は、yhudyt のようです。
  聖書は最初にギリシア語で編纂されました。イスラエル人もコイネーを話す時代だったようです。ギリシア語では、セムの子のアラムのように人名はアラムと書かれましたが、地域や民族の名前としてはアラムが使用されていません。全てシリアと記されました。したがって、聖書の引用で「アラムの王」や「アラム人」、「アラム語」はヘブライ語聖書からの訳のようです。
  新約聖書は、七十人訳聖書(ギリシア語)を元にギリシア語で書かれました。ヘブライ語聖書の最古の写本は1008年のもののようです。


Unicodeのアラム文字

  Unicodeのアラム文字は、過去の研究で作成された、年代、地域差を記した表に依っているようです。
  直接

  1. エレファンティン・パピルス
    エレファンティンは、ナイル川の島でヌビアにあります。プサンメティコス1世の治世のBC650ころにユダ王国の人々によって要塞が築かれたと考えられているようです。
    プサンメティコス1世は、新アッシリアによって築かれた第26王朝(サイス朝)の初代のファラオです。ヌビアの防衛のためエレファンティンに要塞を築きました。
    この島には長い間ユダヤ人が居住しユダヤの神殿もありました。紀元前5世紀から千年ほどの間の文書が残されました。デモティック、アラム文字、ギリシア文字、ラテン文字、コプト文字の文書があるようです。
    中心はBC495-BC399の間のアケメネス朝ペルシャの時代のアラム文字の文書で、ペルシアの共通語のアラム語が書かれていると説明されます。
    「バゴアス への 嘆願書 」はBC407に、ユダを統治するペルシアの行政官 Bagoas に送られました。内容はエレファンティンの神殿の再建に関するものです。
    「紀元前440年8月26日」と日付のある文書が挙げられています。
  2. サッカラ・パピルス
    サッカラ(Saqqara)は、メンフィス(エジプト)のネクロポリス(墓地)だったようです。
    BC614 に、新バビロニアがニネヴェを陥落させます。新アッシリアの王アッシュール・ウバリト2世はエジプトのファラオ、ネコ2世と結んで新バビロニアに対抗しますが BC609 に新アッシリアは滅亡します。「アドンの手紙」は、この時期のエクロンの王アドンのファラオに宛てた書簡です。エクロンはかつてはペリシテ人の都市でしたが、この年代がどうだったのかは分かりません。

エレファンティン・パピルス

  エレファンティン・パピルスは、Unicode のアラム文字の主要な資料のようです。エレファンティン・パピルスは数百点の文書で、これ以外にはまとまったアラム文字の文書は存在しないようです。
  この文書の中心はアケメネス朝ペルシアがエジプトを支配した時代のアラム文字の文書で、「古代のイスラエル人」の間で交換された書簡や契約書などだと言うことです。全容はデモティック、アラム文字、ギリシア文字、ラテン文字、コプト文字の文書が含まれ、BC650ころから千年に及ぶ期間の文書のようです。

※古代のイスラエル人
  ユダヤ人やイスラエル人は長い歴史を持ち現在も継続する人々です。何と呼ぶのが正しいのかは簡単には分かりません。
  ここでは「古代のイスラエル人」としておきます。「古代のイスラエル人」の起源はBC1700ころにエジプトに移住したヘブライ人です。イスラエルの異名を持つヤコブがイスラエル人の起源とされています。BC1021からBC922ころまではイスラエル王国の人々であり、それ以降はイスラエル王国とユダ王国の人々です。BC722にはイスラエル王国は滅亡し(失われた10支族)、BC587まではユダ王国の人々を指すことになります。BC587にユダ王国が滅ぶと、新バビロニアの支配下のイスラエルの地の人々と、バビロン捕囚の人々が「古代のイスラエル人」です。BC539にアケメネス朝ペルシアによってバビロン捕囚は終わり、アケメネス朝ペルシアの統治下でイスラエルの地に住む人々が主要な「古代のイスラエル人」になりました。
「古代のイスラエル人」は、BC141からBC63までの間、ハスモン朝によって一時独立を回復しますが、その後はローマ帝国の属州となりました。
  ローマ時代のユダヤ人の最大の居住地はアレクサンドリアだったようです。
  BC 722以降なら、ユダ王国の人々と、その末裔と言えます。並行して、エレファンティン島にも古代のイスラエル人のコミュニティが千年に渡って存在しました。その起源もユダ王国の人々だったとされていますが確実な証拠はないようです。
  しかし、個々人を区別できるはずもなく、ヘブライ人の末裔は全て候補で、カナンの人々全てが候補です。エジプトにも、バビロニアにも残った人々がいて、アレッポ周辺や、より東の地域へ強制移住させられた人々もいました。

※エレファンティン島のイスラエル人
  根拠は分かりませんが、エジプトが新アッシリアの影響下にあった時代に、ヌビア方面の防衛のためにユダ王国の人々が徴用され、エレファンティン島に住むようになったと見られているようです。ファラオ・プサムテク I(Psamtik I、BC664-BC610)に始まるサイス朝(第26王朝)は、新アッシリアの傀儡の王朝として始まりました。当時のユダ王国の王はマナセ(Manasseh、BC687-BC643)でした。
  エレファンティン・パピルスの1つ、「バゴアスへの嘆願書」には、アケメネス朝ペルシアがエジプトを併合した BC525 には、既にエレファンティン島にイスラエル人の神殿があったことが記されています。
  エレファンティン島のイスラエル人は徴用された人々で、カナンのイスラエルの地から交代で送られたと考えられているようです。しかし、エジプトには多くの定住者がいたことも確かだろうと思います。BC1021にイスラエル王国を築いた人々は、BC1700ころからエジプトに住んでいた人々だと考えられています。また、ローマ時代のイスラエル人の最大居住地はアレクサンドリアだったと言うことです

バゴアスへの嘆願書

  エレファンティン・パピルスの1つは、エレファンティン島にイスラエル人と、その神殿が存在したことを示すものとして代表的な文書のようです。 

 図の上の、赤い文字はUnicodeの「帝国アラム文字」(10840-1085F)の文字です。下のラテン文字は左図による翻字です。
 このテキストは記された日付から紀元前5世紀に書かれたと考えられますが、単語を分かち書きしている点で特徴的だと思います。ギリシャ語など西欧のテキストが分かち書きされるようになるより千年も前です。しかし、この特徴はヘブライ語の文書の特徴の陽で、もっと前のフェニキア文字(古ヘブライ文字)の時代から見られます。
 単語を分かち書きするのは視認性のためで、黙読で早く読むことが目的のようです。話し言葉では、単語で区切って発声しないので、表音文字であれば、分かち書きしなくても聴覚的に認識されると言うことのようです。
 ヘブライ語のテキストが分かち書きされることは、テキストが視認されるものだったことを示すのだと思います。テキストに書かれた文字は話し言葉の音を充分に表しておらず、解釈した上で発声する必要があったのだと思います。
 残されたヘブライ語のテキストは始めから文章語のようです。

 フェニキア文字(古ヘブライ文字)の時代から字形は変わってもアルファベットの構成は変わっていません。ただし、紀元前140年ころ以降に方形ヘブライ文字が使用されると、語末型の字形が加わっています。
 アルファベットの構成が同じなので、アラム文字で書かれたテキストは、方形ヘブライ文字に変換できます。
 方形ヘブライ文字に変換したテキストは google翻訳で翻訳できます。二千五百年前のテキストが現代のヘブライ語として翻訳できるのは驚異的なことです。
 現在のヘブライ語は、イスラエル国建国されてから再建された言語です。ディアスポラ状態にあって死語に近い状態だったヘブライ語と子音文字の驚異です。

 この「バゴアスへの嘆願書」は、発信元で見つかったものなので、下書きや控えと言うことになります。書簡に日付が付されていることから年代の確かな資料と考えられているようです。書き取りの練習と言うこともあるかも知れません。その場合、書かれたのは内容よりずっと後かも知れません。しかし、エレファンティン・パピルスの年代の後半(数世紀)だとしてもアラム文字のテキストとして希少です。

 全文は30行で、全文の訳文が公開されています。この書簡は2つに分かれているようで、17行と13行の写真が公開されています。 
 以下に、Unicodeの、「帝国アラム文字」と「ヘブライ文字」で書いて見ます。また、上の表で翻字します。
 試行錯誤して編集するので、イメージではなく文字コードで記します。したがって、表示環境のフォントで表示されます。表示されない場合はワードなどにコピーして、フォントを指定して見ることが出来ます。 

※ Unicode の「Imperial Aramaic」の Imperial は、新アッシリアやアケメネス朝を指すものと思いますが、帝国が公に作成したアラム文字の文書や、帝国が文字を統制した証拠はないようです。おそらく、過去の歴史書がアラム文字のアルファベットを「Imperial Aramaic」として収録して来たと言うことです。これはパピルスにインクで書いた文字のものでインクが滲むことを前提としています。歴史書に含まれる研究者が収集した字形ですが、その資料としてはエレファンティン・パピルス、サッカラ・パピルス、アルマジ(グルジア)刻文が上げられています。ベヒストゥン碑文の一部と同じアラム文字のパピルス文書が知られますが、これもエレファンティン・パピルスです。) 

1

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3

𐡌𐡋𐡔 𐡀𐡕𐡓𐡉𐡁 𐡁𐡉𐡁 𐡉𐡆𐡀𐡉𐡍𐡄𐡊 𐡄𐡕𐡅𐡍𐡊𐡅 𐡄𐡉𐡍𐡃𐡉 𐡊𐡉𐡃𐡁𐡏 𐡃𐡅𐡄𐡉 𐡕𐡇𐡐 𐡉𐡄𐡅𐡂𐡁 𐡍𐡀𐡓𐡌 𐡋𐡀
𐡀𐡊𐡋𐡌 𐡔𐡅𐡄𐡅𐡉𐡓𐡃 𐡌𐡃𐡒 𐡊𐡍𐡌𐡉𐡔𐡉 𐡍𐡌𐡇𐡓𐡋𐡅 𐡍𐡃𐡏 𐡋𐡊𐡁 𐡀𐡉𐡍𐡔 𐡋𐡀𐡔𐡉 𐡀𐡉𐡌𐡔 𐡄𐡋𐡀 𐡍𐡀𐡓𐡌
𐡍𐡃𐡏𐡋𐡊𐡁 𐡉𐡅𐡄 𐡓𐡉𐡓𐡔𐡅 𐡄𐡃𐡇𐡅 𐡊𐡋 𐡍𐡕𐡍𐡉 𐡍𐡊𐡉𐡓𐡀 𐡍𐡉𐡇𐡅 𐡐𐡋𐡀 𐡃𐡇 𐡍𐡏𐡊 𐡉𐡆 𐡍𐡌 𐡓𐡉𐡕𐡉 𐡀𐡕𐡉𐡁 𐡉𐡍𐡁𐡅
MLs ATRYB BYB YZ AYNHK HTUNKU HYNDY KYDBa DUHY TXP YHUGB NARM LA
AKLM sUHUYRD MDQ KNMYsY NMXRLU NDa LKB AYNs LAsY AYMs HLA NARM
NDa LKB YUH RYRsU HDXU KL NTNY NKYRA NYXU PLA DX NaK YZ NM RYTY ATYB YNBU
 אל מראן בגוהי פחת יהוד עבדיך ידניה וכנותה כהניא זי ביב בירתא שלם
 מראן אלה שמיא ישאל שגיא בכל עדן ולרחמן ישימנך קדם דריוהוש מלכא
ובני ביתא יתיר מן זי כען חד אלף וחין אריכן ינתן לך וחדה ושריר הוי בכל עדן

AL(to) MRAN(我が主) BGUHY(バゴヒ) PXT(知事) YHUD(ヤホド)
aBDYK(しもべ) YDNYH(ユダニヤハ) U・KNUTH(and 正直な) KHNYA(司祭) ZY(from)
B・YB BYRTA(ヤブの神殿において) :BYRH=Palace、BYRT=capital
sLM(complete) MRAN(主) ALH(神) sMYA(天国) YsAL(聞く)
sGYA(great) BKL(all) aDN(territory) ULRXMN() YsYMNK()
QDM(before) DRYUHUs(ダリオホス)MLKA(王)
UBNY(sons) BYTA(家) YTYR(preeminent) MN(from) ZY(before) KaN(now)
XD(one) ALP(千) UXYN(beauty) ARYKN(long) YNTN(与えられる) LK(you)
U・XDH(and sharp) U・sRYR(健康) HUY(ah!) BKL(all) aDN(time)

 あて先は、ヤホドの知事バゴヒ(BGUHY)です。エズラ記2:2、ネヘミヤ記7:7がバゴア(BGUa(בגוי))と同名とされます。KJVの該当箇所は、Bigvai、七十人訳聖書の該当箇所(2Esdras2:2)は、ΒΑΓΟΥΙ です。
 GUをゴと読んだのでHUをホと読めば YHUD はヤホドです。エズラ記7:14のYHUDはJudahです。
 差出人は司祭でユダニヤハのようです。BYBはB・YBでヤブの神殿に居るようです。
 この定例句の部分の語はヘブライ語聖書の中から拾えます。ただし、ULRXMN(ולרחמן) YsYMNK(ישימנך)は該当がありません。 

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𐡌𐡔𐡓𐡀 𐡉𐡆𐡊 𐡀𐡊𐡋𐡌 𐡔𐡅𐡄𐡅𐡉𐡓𐡃 𐡘𐡚𐡛 𐡕𐡍𐡔 𐡆𐡅𐡌𐡕 𐡇𐡓𐡉𐡁 𐡍𐡓𐡌𐡀 𐡍𐡊 𐡄𐡕𐡅𐡍𐡊𐡅 𐡄𐡉𐡍𐡃𐡉 𐡊𐡃𐡁𐡏 𐡍𐡏𐡊
𐡄𐡍𐡕 𐡊𐡓𐡕𐡓𐡐 𐡉𐡆 𐡂𐡍𐡓𐡃𐡉𐡅 𐡌𐡏 𐡕𐡉𐡍𐡅𐡌𐡄 𐡀𐡕𐡓𐡉𐡁 𐡁𐡉𐡁 𐡉𐡆 𐡁𐡅𐡍𐡇 𐡉𐡆 𐡀𐡉𐡓𐡌𐡊 𐡀𐡊𐡋𐡌 𐡋𐡏 𐡋𐡆𐡀𐡅 𐡒𐡐𐡍
𐡊𐡆 𐡂𐡍𐡓𐡃𐡉𐡅 𐡓𐡇𐡀 𐡄𐡌𐡕 𐡍𐡌 𐡅𐡃𐡏𐡄𐡉 𐡀𐡕𐡓𐡉𐡁 𐡁𐡉𐡁 𐡉𐡆 𐡀𐡄𐡋𐡀 𐡅𐡄𐡉 𐡉𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀 𐡌𐡋 𐡄𐡅𐡄
𐡁𐡉𐡁 𐡉𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀 𐡓𐡌𐡀𐡋 𐡀𐡕𐡓𐡉𐡁 𐡍𐡅𐡎𐡁 𐡄𐡅𐡄 𐡋𐡉𐡇𐡁𐡓 𐡉𐡆 𐡄𐡓𐡁 𐡍𐡉𐡐𐡍 𐡋𐡏 𐡇𐡋𐡔 𐡕𐡓𐡂𐡀 𐡀𐡉𐡇𐡋
𐡌𐡄𐡉𐡋𐡕 𐡌𐡏 𐡁𐡉 𐡕𐡓𐡉𐡁𐡋 𐡅𐡕𐡀 𐡍𐡍𐡓𐡇𐡀 𐡀𐡋𐡉𐡇 𐡌𐡏 𐡀𐡉𐡓𐡕𐡌 𐡓𐡁𐡃 𐡍𐡉𐡐𐡍 𐡓𐡇𐡀 𐡅𐡔𐡃𐡍𐡉 𐡀𐡕𐡓𐡉𐡁

MsRA YZK AKLM sUHUYRD 14 TNs ZUMT XRYB NRMA NK HTUNKU HYNDY KDBa NaK
HNT KRTRP YZ GNRDYU Ma TYNUMH ATRYB BYB YZ BUNX YZ AYRMK AKLM La LZAU QPN
KZ GNRDYU RXA HMT NM UDaHY ATRYB BYB YZ AHLA UHY YZ ARUGA ML HUH
BYB YZ ARUGA RMAL ATRYB NUSB HUH LYXBR YZ HRB NYPN La XLs TRGA AYXL
MHYLT Ma BY TRYBL UTA NNRXA ALYX Ma AYRTM RBD NYPN RXA UsDNY ATRYB

 כען עבדך ידניה וכנותה כן אמרן בירח תמוז שנת 14 דריוהוש מלכא כזי ארשם
 נפק ואזל על מלכא כמריא זי חנוב זי ביב בירתא המונית עם וידרנג זי פרתרך תנה
 הוה לם אגורא זי יהו אלהא זי ביב בירתא יהעדו מן תמה אחר וידרנג זך
לחיא אגרת שלח על נפין ברה זי רבחיל הוה בסון בירתא לאמר אגורא זי ביב
בירתא ינדשו אחר נפין דבר מתריא עם חילא אחרנן אתו לבירת יב עם תליהם

KaN(can) aBDK(しもべ) YDNYH(ユダニヤハ) U・KNUTH(and 正直な) KN(司祭)
AMRN(語る)
BYRX(月) TMUZ(Tammuz) sNT(年) 14 DRYUHUs(ダリオホス) MLKA(王)
KZY(that) ARsM(enroll)
NPQ(to go) U・AZL(and to go) aL(上の) MLKA(王)
KMRYA(司祭) ZY(before) XNUB(神クヌム)
ZY(before) B・YB BYRTA(ヤブの神殿において)
HMUNYT(民衆) aM(with) UYDRNG(ビドラナガ) ZY(before) PRTRK(合意)
TNH(to give) HUH(滅ぼす)
LM(with) AGURA(祭壇) ZY(before) YHU(ヤホ) ALHA(神)
ZY(before) B・YB BYRTA(ヤブの神殿において) YHaDU(ユダヤ人) MN(枯れる)
TMH(there) AXR(悪行を行う) UYDRNG(ビドラナガ) ZK()
LXYA AGRT(手紙) sLX(送る) aL(上の) NPYN(ナピナ) BRH(son)
ZY(before) R・BXYL(力によって) HUH(滅ぼす) B・SUN BYRTA(ソンの神殿)LAMR(言う)
AGURA(祭壇)ZY(before) B・YB BYRTA(ヤブの神殿において)YNDsU(見捨てる)
AXR(悪行を行う) NPYN(ナピナ) DBR(言う) MTRYA(警告) aM(with) XYLA(軍の長)
AXRNN(悪行を行う) ATU(このように) L・BYRT YB(ヤブの中心地で) aM(with) TLYHM(軍)

 このダレイオス2世

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𐡍𐡏𐡓𐡕 𐡄𐡅𐡄 𐡐𐡀 𐡅𐡓𐡁𐡕 𐡄𐡌𐡕 𐡅𐡅𐡄 𐡉𐡆 𐡀𐡍𐡁𐡀 𐡉𐡆 𐡀𐡉𐡃𐡅𐡌𐡏𐡅 𐡀𐡏𐡓𐡀 𐡃𐡏 𐡉𐡄𐡅𐡔𐡃𐡍 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀𐡁 𐡅𐡋𐡏
𐡌𐡄𐡉𐡓𐡉𐡔𐡅  𐡅𐡌𐡉𐡒 𐡌𐡄𐡉𐡔𐡃𐡅 𐡅𐡔𐡃𐡍 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀𐡁 𐡅𐡅𐡄 𐡉𐡆 𐡍𐡁𐡀 𐡉𐡆 𐡄𐡋𐡉𐡎𐡐 𐡍𐡉𐡍𐡁 𐡙𐡚 𐡍𐡁𐡀 𐡉𐡆
𐡄𐡌𐡕 𐡉𐡆 𐡍𐡓𐡇𐡀𐡅 𐡀𐡍𐡓𐡔𐡀 𐡕𐡉𐡓𐡉𐡔 𐡌𐡏 𐡉𐡆 𐡀𐡋𐡊 𐡆𐡓𐡀 𐡉𐡆 𐡍𐡄𐡒𐡏 𐡋𐡋 𐡈𐡌𐡅 𐡔𐡇𐡍 𐡊𐡋𐡀 𐡀𐡉𐡔𐡔𐡃 𐡉𐡆
𐡅𐡇𐡒𐡋 𐡀𐡋𐡊 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀𐡁 𐡄𐡅𐡄 𐡉𐡆 𐡀𐡕𐡌𐡏𐡃𐡍𐡌𐡅 𐡐𐡎𐡊𐡅 𐡀𐡁𐡄𐡆 𐡉𐡆 𐡀𐡉𐡒𐡓𐡆𐡌𐡅 𐡅𐡐𐡓𐡔 𐡄𐡔𐡀𐡁 𐡀𐡋𐡊 𐡄𐡅𐡄
𐡍𐡉𐡓𐡎𐡌 𐡋𐡏𐡉𐡆𐡅𐡁𐡍𐡊 𐡉𐡆𐡊𐡅 𐡀𐡕𐡓𐡉𐡁 𐡁𐡉𐡁 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀 𐡅𐡍𐡁 𐡍𐡉𐡄𐡁𐡀 𐡍𐡉𐡓𐡑𐡌 𐡊𐡋𐡌 𐡉𐡌𐡅𐡉 𐡍𐡌𐡅 𐡅𐡃𐡁𐡏 𐡌𐡅𐡄𐡔𐡐𐡍𐡋𐡅
𐡋𐡁𐡇 𐡀𐡋 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀𐡁 𐡌𐡏𐡃𐡍𐡌 𐡔𐡉𐡀𐡅 𐡅𐡓𐡂𐡌 𐡋𐡊 𐡍𐡉𐡓_𐡌 𐡉𐡄𐡋𐡀 𐡉𐡓𐡅𐡂𐡀𐡅 𐡇𐡊𐡔𐡄 𐡄𐡍𐡁 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀

NaRT HUH PA URBT HMT UUH YZ ANBA YZ AYDUMaU AaRA Da YHUsDN KZ ARUGAB ULa
MHYRYsU UMYQ MHYsDU UsDN KZ ARUGAB UUH YZ NBA YZ HLYSP NYNB 5 NBA YZ
HMT YZ NRXAU ANRsA TYRYs Ma YZ ALK ZRA YZ NHQa LL tMU sXN KLA AYssD YZ
UXQL ALK KZ ARUGAB HUH YZ ATMaDNMU PSKU ABHZ YZ AYQRZMU UPRs HsAB ALK HUH
NYRSM LaYZUBNK YZKU ATRYB BYB KZ ARUGA UNB NYHBA NYRSM KLM YMUY NMU UDBa MUHsPNLU
LBX AL KZ ARUGAB MaDNM sYAU URGM LK NYR_M YHLA YRUGAU XKsH HNB KZ ARUGA

עלו באגורא זך נדשוהי עד ארעא ועמודיא זי אבנא זי הוו תמה תברו אף הוה תרען
זי אבן 5 בנין פסילה זי אבן זי הוו באגורא זך נדשו ודשיהם קימו ושיריהם
זי דששיא אלך נחש ומט לל עקהן זי ארז כלא זי עם שירית אשרנא ואחרן זי תמה
הוה כלא באשה שרפו ומזרקיא זי זהבא וכסף ומנדעמתא זי הוה באגורא זך כלא לקחו
ולנפשהום עבדו ומן יומי מלך מסרין אבהין בנו אגורא זך ביב בירתא וכזי כנבוזיעל מסרין
אגורא זך בנה השכח ואגורי אלהי מסרין כל מגרו ואיש מנדעם באגורא זך לא חבל

aLU(くびき) B・AGURA(祭壇において)
ZK(clear) NDsUHY(N・DsUHY、U・DsTY(脱穀)Judges 8:7)
aD(平らにする) ARaA(大地) U・aMUDYA(and 柱)
ZY(before) ABNA(石) ZY(before) HUU(to brcome)
TMH(There) TBRU(there) AP(燃やす) HUH(滅ぼす) TRaN
ZY(before) ABN(石) 5 BNYN(構造) PSYLH(失格) ZY(before) ABN(石) ZY (before)HUU B・AGURA(祭壇において) ZK NDsU(脱穀) UDsYHM(脱穀) QYMU(立ち上がる) U・sYRYHM(and 歌)
ZY(before) DssYA(脱穀) ALK(to go) NXs(青銅)
U・Mt(and guardhouse) LL(roofと英訳されている。GG:roof)
aQHN(木材) ZY(before) ARZ(杉) KLA(all) ZY(before) aM(with) sYRYT(歌) AsRNA(合わせる) U・AXRN(and 悪行)
ZY(before) TMH
HUH(滅ぼす) KLA(all) BAsH(臭い) sRPU(焼く) U・MZRQYA(and 他の場所)
ZY(before) ZHBA(金) UKSP(銀) U・MNDaMTA
ZY(before) HUH(滅ぼす) B・AGURA(祭壇において) 
ZK(pure) KLA(all) LQXU(to take)UL(to give) NPsHUM(soul) aBDU(to make)
UMN(記録) YUMY(日) MLK(王) MSRYN(エジプト) ABHYN(直接) BNU(to build) AGURA(祭壇) ZK B・YB BYRTA(宮殿) U・KZY(and who) KNBUZYaL(軽蔑する) MSRYN(エジプト)
AGURA(祭壇) ZK(pure) BNH(荒廃) HsKX(to foreget/find) U・AGURY(祭壇) ALHY(God) MSRYN(エジプト) KL(all) M・GRU(留まる) UAYs(man) MNDaM(排斥する) B・AGURA(祭壇) ZK(pure) LA(not) XBL(to destroy)

 現代のヘブライ語のエジプトは、MCRYN(מצרין)のようです。MSRYNの「S」は、方形ヘブライ文字のツァディーの語末型の形状で、アラム文字の字形には該当がありません。

 

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𐡀𐡉𐡌𐡔 𐡀𐡓𐡌 𐡅𐡄𐡉𐡋 𐡍𐡉𐡋𐡑𐡌𐡅 𐡍𐡉𐡌𐡉𐡑𐡅 𐡍𐡉𐡅𐡄 𐡍𐡔𐡁𐡋 𐡍𐡒𐡒𐡔 𐡍𐡉𐡍𐡁𐡅 𐡍𐡉𐡔𐡍 𐡌𐡏 𐡄𐡍 𐡇 𐡍𐡀 𐡃𐡉𐡁𐡏 𐡄𐡍𐡆𐡊 𐡉𐡆𐡊𐡅
𐡍𐡉𐡓𐡁𐡂 𐡋𐡊𐡅 𐡅𐡃𐡁𐡀 𐡄𐡍𐡒 𐡉𐡆 𐡍𐡉𐡎𐡊𐡍 𐡋𐡊𐡅 𐡉𐡄𐡅𐡋𐡂𐡓 𐡍𐡌 𐡀𐡋𐡁𐡊 𐡅𐡒𐡐𐡍𐡄 𐡀𐡉𐡁𐡋𐡊 𐡊𐡆 𐡂𐡍𐡓𐡃𐡉𐡅𐡁 𐡍𐡉𐡅𐡇𐡄 𐡉𐡆
𐡀𐡕𐡔𐡉𐡀𐡁 𐡀𐡆 𐡉𐡆 𐡍𐡃𐡏𐡁 𐡄𐡍𐡆 𐡕𐡌𐡃𐡒 𐡐𐡀 𐡌𐡅𐡄𐡁 𐡍𐡉𐡆𐡇𐡅 𐡅𐡋𐡉𐡕𐡒 𐡋𐡊 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀𐡋 𐡔𐡉𐡀𐡁 𐡅𐡏𐡁 𐡉𐡆
𐡉𐡇𐡅𐡇𐡀 𐡍𐡕𐡎𐡅𐡀 𐡋 𐡏𐡅 𐡌𐡋𐡔𐡅𐡓𐡉𐡁 𐡉𐡆 𐡀𐡉𐡍𐡄𐡊 𐡄𐡕𐡅𐡍𐡊𐡅 𐡀𐡁𐡓 𐡀𐡍𐡄𐡊 𐡍𐡍𐡇𐡅𐡄𐡉 𐡋𐡏𐡅 𐡍𐡀𐡓𐡌 𐡍𐡇 𐡋𐡔 𐡄𐡓𐡂𐡀 𐡍𐡋 𐡃𐡉𐡁𐡏
 𐡀𐡊𐡋𐡌 𐡔𐡅𐡄𐡉𐡓𐡃 𐡘𐡚𐡛 𐡕𐡍𐡔 𐡆𐡅𐡌𐡕 𐡇 𐡓𐡉 𐡍𐡌 𐡐𐡀 𐡍𐡉𐡋𐡏 𐡅𐡇𐡋𐡔 𐡀𐡋 𐡄𐡃𐡇 𐡄𐡓𐡂𐡀 𐡀𐡉𐡃𐡅𐡄𐡉 𐡉𐡓𐡇 𐡅 𐡉𐡍𐡍 𐡏 𐡉𐡆
𐡍𐡉𐡇𐡔𐡌 𐡀𐡋 𐡇 𐡔𐡌 𐡍𐡉𐡃𐡉𐡁 𐡏 𐡄𐡋𐡌𐡓𐡀𐡊 𐡍𐡋𐡉𐡆 𐡀𐡉𐡔𐡍 𐡍𐡉𐡌𐡉𐡑𐡉 𐡍𐡔𐡁𐡋 𐡍𐡒𐡒𐡔 𐡄𐡍𐡇𐡍𐡀 𐡀𐡌𐡅𐡉 𐡄𐡍𐡆𐡃 𐡏𐡅
 𐡄𐡅𐡋𐡏𐡅 𐡄𐡍𐡅𐡁𐡋𐡅 𐡄𐡇𐡍𐡌 𐡀𐡊𐡋𐡌 𐡔𐡅𐡄𐡉𐡓𐡃 𐡘𐡚𐡚𐡛 𐡕𐡍𐡔 𐡌𐡅𐡉 𐡃𐡏𐡅 𐡉𐡊𐡆 𐡍𐡌 𐡐𐡀 𐡍𐡉𐡕𐡔 𐡀𐡋 𐡓𐡌𐡇𐡅
𐡍𐡉𐡓𐡌𐡀 𐡍𐡊 𐡁𐡉 𐡉𐡋 𐡏 𐡁 𐡋𐡊 𐡀𐡉𐡃𐡅𐡄𐡉𐡅 𐡄𐡕𐡅𐡍𐡊𐡅 𐡄𐡉𐡍𐡃𐡉 𐡊𐡉𐡃𐡁𐡏 𐡍𐡏𐡊 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀𐡁 𐡅𐡃𐡁 𐡏 𐡀𐡋
𐡉𐡋𐡏𐡁 𐡉𐡆𐡇 𐡄𐡉𐡍𐡁𐡌𐡋 𐡍𐡋 𐡍𐡒𐡁𐡔 𐡀𐡋𐡉𐡆𐡁 𐡄𐡍𐡁𐡌𐡋 𐡊𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡍𐡀 𐡋𐡏 𐡕𐡔𐡏𐡕𐡀 𐡁𐡕 𐡍𐡀𐡓𐡌 𐡋 𐡏 𐡍𐡄
𐡀𐡄𐡋𐡀 𐡅𐡄𐡉 𐡉𐡆 𐡀𐡓𐡅𐡂𐡀 𐡋 𐡏  𐡌𐡅𐡄𐡉𐡋𐡏𐡇𐡋𐡕𐡔𐡉 𐡊𐡍𐡌 𐡄𐡓𐡂𐡀 𐡍𐡉𐡓_𐡌𐡁 𐡄𐡍𐡕 𐡉𐡆 𐡊𐡉𐡌 𐡇 𐡓𐡅 𐡊𐡕𐡁𐡈
𐡍𐡅𐡁𐡓𐡒𐡉 𐡀𐡕𐡅𐡋𐡏𐡅 𐡀𐡕𐡍𐡅𐡁𐡋𐡅 𐡀𐡕𐡇𐡌𐡅 𐡍𐡉𐡌𐡃𐡒 𐡄𐡅𐡄 𐡄𐡍𐡁 𐡉𐡆 𐡋𐡁𐡒𐡋 𐡀𐡕𐡓𐡉𐡁 𐡁𐡉𐡁 𐡄𐡉𐡍𐡁𐡌𐡋
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וכזי כזנה עביד אן ח נה עם נשין ובנין שקקן לבשן הוין וצימין ומצלין ליהו מרא שמיא
 זי החוין בוידרנג זך כלביא הנפקו כבלא מן רגלוהי וכל נכסין זי קנה אבדו וכל גברין
 זי בעו באיש לאגורא זך כל קתילו וחזין בהום אף קדמת זנה בעדן זי זא באישתא
 עביד לן אגרה של חן מראן ועל יהוחנן כהנא רבא וכנותה כהניא זי בירושלם וע ל אוסתן אחוחי
 זי ע נני ו חרי יהודיא אגרה חדה לא שלחו עלין אף מן יר ח תמוז שנת 14 דריהוש מלכא
 וע דזנה יומא אנחנה שקקן לבשן יצימין נשיא זילן כארמלה ע בידין מש ח לא משחין
 וחמר לא שתין אף מן זכי ועד יום שנת 17 דריהוש מלכא מנחה ולבונה ועלוה
 לא ע בדו באגורא זך כען עבדיך ידניה וכנותה ויהודיא כל ב ע לי יב כן אמרין
 הן ע ל מראן תב אתעשת על אנורא זך למבנה בזילא שבקן לן למבניה חזי בעלי
 טבתך ור ח מיך זי תנה במ_רין אגרה מנך ישתלחעליהום  ע ל אגורא זי יהו אלהא
 למבניה ביב בירתא לקבל זי בנה הוה קדמין ומחתא ולבונתא ועלותא יקרבון
 ע ל מדב חא זי יהו אלהא בשמך ונצלה עליך בכל ע דן אן חנה ונשין ובנין ויהודיא
 כל זי תנה הן כן  עבדו עד זי אגורא זך יתבנה וצדקה יהוה לך קדם יהו אלה
 שמיא מן גבר זי יקרבלה עלוה ודבחן דמן כדמי כסף כנכרין לף ו על זהב על זנה
 שלחן הוד ען אף כלא מליא באגרה חדה שלחן כשמן ע ל דליה ושלמיה בני סנאבלת פחת שמרין

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30

𐡀𐡊𐡋𐡌 𐡔𐡅𐡄𐡉𐡓𐡃 𐡘 𐡚 𐡚 𐡛 𐡕𐡍𐡔 𐡍𐡅𐡔 𐡇𐡓𐡌𐡋 𐡜 𐡁 𐡏𐡃𐡉 𐡀𐡋 𐡌𐡔𐡓𐡀 𐡀𐡋𐡊 𐡍𐡋 𐡃𐡉𐡁 𐡏 𐡉𐡆 𐡄𐡍𐡆𐡁 𐡐𐡀
AKLM sUHYRD 17 TNs NUs XRML 20 B aDY AL MsRA ALK NL DYB a YZ HNZB PA
אף בזנה זי ע ביד לן כלא ארשם לא ידע ב 20 למרח שון שנת 17 דריהוש מלכא
AP BZNH ZY a BYD LN KLA ARsM LA YDa B 20 LMRX sUN sNT 17 DRYHUs MLKA

 Abydln atrh SHlHn mran pAl yhwhnn khna rba ・・・ のように読めますが、google翻訳でそれらしく解釈できません。atrh は Evra、yhwhnn は Yehohanan、khna は Kahana、rba は Rava と名前と見なされるようです。
  この文書はアラム文字で、語を分ちがいています。語は文字が癒着していて、複数に解釈でき、意味が取れないと読めないようです。
  英訳からの推測すると。

  1. 我が主人。ヤハウド(yhwd)の知事バゴヒ(bgwhy)へ
  2. しもべ、ヤブ(yb)の中心地(byrt)にいる司祭(khny)、ヤドニア(ydnyh)と、その同僚より
  3. 天の神が偉大なダリホシュ(drywhwSH)王の治世を称える
  4. ダレイオスの治世14年タムーズ(tmwz)月。アルサメス(arSHm)は王の元へ向かった。
    ヤブのクヌム神の神官は、ヤハウ(yhw)の神殿を破壊した管理者ビドランガ(wydrng)と共謀した。
    彼の息子のネパヤン(npyn)はサウン(swn)のエジプト人駐屯軍の指揮者だった。
  5. ネパヤンの手引きによってエジプト人や他の兵が侵入し、ヤハウ(yhw)の神殿は全焼した。石柱は破壊され、金(zhb)、銀(ksp)で出来たものは略奪された。
  6. エジプト(mTSryn)の王国であった時代に、先祖が神殿を築いた。カンビセス(kmbwzyAl)が来た時には既に存在していた。彼らはエジプトの神殿をことごとく破壊したがヤハウの神殿は無傷だった。
  7. ヤハウ(yhw)の神殿の破壊は、あなたやイスラエル(yrwSHlm)の聖職者、ウスタン(wstn)、アナニの親族(AHwhy)に伝えられた。
  8. ヤドニアと同僚とすべてのヤハウディ(yhwdy)は以下のように述べる。
  9. あなたは我々が神殿の再建を行わない間も再建を心掛けてくれた
  10. エジプトにはあなたの仲間がいる。
  11. この手紙はヤブの中心に寺院が建設されるのに先立ってあなたに送られた。
  12. あなたの名前でヤハウの神殿に最も立派な供物が捧げられる。
  13. 手紙にあることは全て我々の名で、サマリア(SHmryn)の知事のサンバラタ(snAblTS)の息子たち、デラヤ(dlyh)とシェレムヤ(SHlmyh)によって記録される。
  14. アルサメスが全てを知るわけではない
  15. ダレイオスの治世17年マルヘシュバン(mrHSHwn)の月の20日目

  この書簡は、アフリカのヌビアのエレファンティン島に住む古代のイスラエル人が、イスラエル本土(カナン南部)を治めるアケメネス朝ペルシアのサトラップに送ったものと見られいるようです。神殿の再建の支援を求めたとされています。
  イスラエルの地に送った書簡がエレファンティン島ある理由は明瞭ではありません。
  書簡の日付のダレイオスの治世17年は BC407 と見られているようです。その3年前にヤハウ(yhw)の神殿がエジプト人などの軍隊によって破壊されました。この事件はアルサメス(おそらくアケメネス朝ペルシアのヌビアのサトラップ)が不在の間に起きました。
  ヤハウ(yhw)の神殿は、百年前のアケメネス朝ペルシアによるエジプト併合の時点で存在していたと言っています。そして、アケメネス朝ペルシアはその神殿を破壊しませんでした。
  BC587に独立を失ったイスラエル人の中心地はサマリアになっていたようです。 

  エレファンティン島のイスラエル人の起源は定かではありませんが、BC650ころから居住していたと見られています。イスラエルの地にいる古代のイスラエル人との関係は定かではないと思います。
  また、アケメネス朝ペルシアの支配下で、その任じた総督に嘆願を行うことは当然ですが、エレファンティン島のイスラエル人がカナン南部の総督に嘆願するのが自然なのかどうかは分かりません。
  文面からは、神殿の再建は当然で妨げられている様子はありません。嘆願と言うより、支援は当然で礼状のようです。寄進が名誉であることからヤハウド(yhwd)の知事バゴヒ(bgwhy)はイスラエル人のように思えます。神殿の再建は内輪の問題として処理できているように思えます。

  おそらく、カナンのアケメネス朝ペルシアの行政官に嘆願すると言うストーリーは、エレファンティン島のイスラエル人はカナンで徴用された人々で、定住ではないと言うことだと思います。そう考えても、アケメネス朝ペルシアの同意が必要なことなら地元の行政官に行われるだろうと思います。

  1. タムーズ、マルヘシュバン
    ユダヤ暦には、教暦、政暦と言う用語があるようです。現在の暦は政暦で、バビロン捕囚後にバビロニアの暦とほぼ同じ月名が使用されるようになったもののようです。教暦はバビロン捕囚前の暦を指すようですが詳細は分かりません。
    タムーズ(tmwz)、マルヘシュバン(mrHSHwn)は、それぞれ第4、第8の月の名前で、6-7月、10-11月に相当します。
  2. ダレイオス
    アケメネス朝ペルシアのダレイオス2世(BC422-BC404)
  3. クヌム神
    Khnum、クヌム(tnh)神はもっとも古いエジプトの創造神。エレファンティン島にあって洪水を起こす。
  4. 自らをヤハウディ(yhwdy)と言うようです。

※アケメネス朝ペルシアのエジプト支配
  アケメネス朝ペルシアの最初の王キュロスはエジプトに達しませんでした。キュロスの子で2代目のカンビュセス2世は第26王朝(サイス朝)を滅ぼし BC525 ころエジプトを併合しました。
  この書簡は、カンビュセス2世がエジプトの神殿を破壊したこと、エレファンティン島のヤハウの神殿を破壊しなかったことを述べています。書簡が記される百年以上前の出来事です。
  一般的にはカンビュセス2世はエチオピアを平定できなかったとされています。ヘロドトスのエチオピアはヌビア方面で、エレファンティン島には到達していないのかも知れません。
  ベヒストゥン碑文には、キュロス1世の前のペルシアの王にアルサメスの名があります。カンビュセス1世の共同王だったようです。この書簡のアルサメスとは年代が合わず、エレファンティン島の周辺のサトラップだったと解釈されるようです。

紀元前440年8月26日

  エレファンティン・パピルスの1つは、日付が入っていて、年代を特定できる点で知られるようです。
  アラム文字をUnicodeの文字で再現すると以下のようで、先頭の3行分の写真とは概ね合っています。

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br phy ardykl lswn byrta lmbth yh brt m hsyh bAr ydnya
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wanh rhyq mn kldyn wdbb ktb pt asy br nbwntn spra znh
bswn byrta kpm pya br phy SHhdya bgw nbwr zy
lwhy br mnky zwdnhr br dwma nbwr zy br wSHtn
spr mrhq zy ktb pya lmbth yh

  アブの第14日、パホンスの第19、アルタクセルクセス(arthSHsSH)王の25年(BC440)
  アブ(Ab)はバビロニアの月名の5番目で、7-8月に相当するようです。アルタクセルクセス(Artaxerxes I、BC465-BC424)は、アケメネス朝ペルシアの王。
  シェネ(swn、エレファンティン)の建設家(ardykl)のパヘ(phy)の息子(br)ピェウ(py)は、シェネのアラミア(armya)でバレザス(wryzt)派遣隊(ldgl)のイェドニヤハ(ydnya)の息子のマハセイアハ(mhsyh)の娘(brt)ミブタハ(mbth)に言った(amr)。

  エレファンティン島にあった町は Syene と呼ばれていたようです。Mibtahiah(mbth)はアラム人と訳されています。イスラエル人にとっては、アラム人はBC1700頃のヤコブの母方の一族であり、ヤコブが妻を求めた一族なのだと思います。アラム・ダマスカスにいた人々はスリヤびとと呼びました。アラミアがどのような人々を指しているのかは簡単ではないように思います。 

  内容は、英訳を見ると、誓約のようで、適正な財産の分与を行って、その後は一切権利を主張しないということのようです。
  google翻訳で「We worked in Syene to take the money.」をヘブライ語に変換して、文書の3行目の後半のヘブライ語転写と比較します。

We worked in Syene to take the money.
文書のヘブライ語転写 כספ
ksp
על
Al
נפרת
nprt
בסונ
b-swn

עבדנ
Abdn

google翻訳の訳文

הכסף
h-ksp
את
at
לקחת
lqHt
בסונה
b-swn-h
עבדנו
Abdn-w

  誓約を交わす両者は、お金(ksp)のために swn(Syene)で働いたようです。この前の2語は、「dyna zy」ですが、zy は dy で、「十分な(enough)」のようです。この部分をgoogle翻訳で訳すと「The law rather we worked ・・・」となります。「徴用されたのではなく、お金のため」のようです。
  zy と dy の z と d は、字形が似ていて、転写の際の問題にも思えますが、エレファンティン・パピルスの特徴としても挙げられるようです。
  take に相当する nprt 、lqHt も、同様に形の似た文字が入れ替わっているようにも見えます。
  4行目の多くの語は w (Waw)で始まっています。これは、and に相当する接頭辞です。高価なものが列挙されているはずですが、衣類(lbwSH)以外は訳文とは合いません。、次の nhSH は青銅と訳されていますが、google翻訳のヘブライ語では靴になります。
  この時代には通貨が存在していると考えられますが、お金の ksp は、銀でもあり、エジプトと同様、銀が通貨の役割をはたしてきたようです。  

サッカラ・パピルス

  サッカラ(Saqqara)は、メンフィス(エジプト)のネクロポリス(墓地)だったようです。エクロンの王アドンからファラオに宛てた書簡で、新バビロニアがカナン支配を確立する前のものとされています。新アッシリアはニネヴェを失った後、エジプトと結んで新バビロニアに対抗します。新アッシリアの滅亡は BC609 です。その後、しばらくはカナンの諸勢力の抵抗がありました。BC597 にバビロン捕囚が起きますが、この時期に新バビロニアのカナン支配を確立したものと思います。
  列王記のエクロンはイスラエル王国(サマリア)のアハズヤ王(BC850-BC849)の時代にはペリシテ人の町でした。エクロンの神バアル・ゼゼブの神託を求めて主の怒りをかいます。
  この書簡は Unicode のアラム文字の資料の1つでスケッチが公開されています。最初の行を見ると以下のようです。

  全て右から左に読みます。語を分かち書きしています。h は、特徴的なフェニキア文字の形ではありません。b、d、A は、フェニキア文字では円の部分を持ちますが、実際の文字は、丸い部分の上をカットしたような形に描かれています。これは、弧状のアラム文字の形状とも違います。
  この書記方法は線が太く滲むものらしく、細い線を表現できないことを前提にフェニキア文字を変形したものに見えます。
  この部分は、以下のように訳されています。

To the lord of kings, pharaoh, your servant, Adon king of
al Hwa mlkn prAh Abdk adn mlk

  単語は、Hwa 以外は、ヘブライ文字に置き換えて google翻訳で確認でき、ヘブライ語と共通のようです。
  adn mlk がアドン王と読まれたことは分かりますが、「エクロンの王」の部分は損傷していて読まれないようです。また、mlkn の n は複数形と解釈され、宛先が、諸王とファラオで、これも難解です。カナンの諸王とファラオの並列なら、同報書簡になります。エジプトには複数の王がいるのかも知れません。
  フェニキア文字とアラム文字は1対1に対応します。ヘブライ文字もほぼ1対1に対応します。「prAh」をヘブライ文字に置き換えると「פרעה」となります。google翻訳では「ファラオ」と訳されます。「しもべ」は「משרת」となります。「あなたのしもべ」は「עבדך」となります。後者は、Abdk とラテン転写でき、この文書で使用されているものです。google翻訳のヘブライ語訳を並べると以下のようになります。

al mra mlkn prAh Abdk adn mlk
SHmAa w-adTSa w-balSHmyn al・・・
prAh ywmy SHmAn amAn dA・・・
dy mlk bbl atw ・・・
・・・
SHh mra mlkn prAh ydd mySHwy・・・
lmSHlH Hdl・・・
w-TSbth Abdk kTSw w-ndra ynh・・・
pHh bmta w-szw SHndwb Hs・・・

これを見る諸王、ファラオへ、あなたの僕、・・・の王アドンは、・・・
天国と地上とバルシャミン ・・・
ファラオ、毎日が天国の日々・・・
バビロンの王と共に ・・・
・・・
諸王、ファラオはそれを見た。実質的な支援
終わりを運ぶもの
・・・と、厚い臣下の義務と、誓約・・・
・・・

  この文書は、アドン(adn)王と名乗っていることと、バビロン(bbl)と書かれていること以外には何の情報も含まないようです。年代も背景も分かりません。
  パピルスは年代測定が可能ですが、それは植物のパピルスが死んだ年代で文書が書かれた年代ではありません。また、細かな年代が知りうるわけでもありません。
  アラム文字は、BC440頃以降は年代の分かる複数のサンプルが存在し、使用されていたことが確かそうです。
  これは、その文字と、フェニキア文字の間にあると判断されて年代が与えられているのではないかと思います。それが成り立つためには継続性のある人のグループが作成した文書であることが必要だと思います。

字形とラテン転写



mikeo_410@hotmail.com