文献要旨(楔形文字3)
新バビロニアの最期
ヘロドトスもクセノポンも新バビロニアを記録せず、キュロスが滅ぼしたのはアッシリアとしています。 メソポタミアの王権がアッカドとシュメール、あるいはアッシリアとバビロニアのように2つあると言う認識はないようです。紀元前千年ころまでは神代あるらしく、その後のメソポタミアの支配者はアッシリアだと言うことのようです。 ヘロドトスは「ここにアッシリア人と言うのはニネヴェに住む人々を言う」(歴史1.102)と言っていて、バビロンを中心とした当時のアッシリアとは異なることを説明する必要がありました。ヘロドトスの時代には、アッシリアが栄えたのは過去のことで、ニネヴェとアッシュールバニパルに象徴されるものだったようです。
新バビロニアはカルデア人のナボポラッサルが紀元前625年に新アッシリアからバビロンを奪って建国されますが、バビロニアにあった旧来の勢力がバビロニアの王権を取り戻したと言うことかも知れません。アマルナ文書の時代にはメソポタミアの大王はカルドニシュの大王と名乗っていました。(EA1)この時代はカッシート朝の時代でした。 新バビロニアは、メディアと共に紀元前616年にアッシュール、紀元前614年にニネヴェを陥落させます。新アッシリはハランに逃れますが紀元前609年滅亡しました。 新アッシリアの滅亡には、スキュタイ、エジプトの介入がありました。スキュタイは新アッシリアと同盟関係にありニネヴェの攻防でメディア王キュアクサレス2世に撃退されたとされます。しかし、ニネヴェの攻防やカルケミシュの戦いのでは新バビロニア、メディアの同盟者にも数えられています。 エジプトのネコ2世は戦場となったカルケミシュへ向かう途中メギドの戦いでユダ王国を占領しました。エジプトは長い間失われていたシリアの権益を一時回復しますが、ネブカドネザル2世によって再び失います。紀元前606年ごろのことで、バビロン捕囚によってネブカドネザルは聖書に刻まれました。
聖書のダニエル書では、アッシリア最後の王はベルシャザルです。その前の王はネブカドネザル2世と解せます。しかし、新バビロニアの最後の王はナボニドゥスでベルシャザルは、その息子と見られています。ナボニドゥスはキュロスに敗れ野をさまようことになります。ベルシャザルはバビロンにあってキュロスがバビロンに入城した際に殺害されたと見られます。 旧約聖書以外にはベルシャザルを語らないようで、バビロンを治めたベルシャザルはバビロン捕囚の人々にとっての王のようです。
バビロン
バビロンはハンムラビ王の時代以降にメソポタミアの中心都市となったと見られています。バビロン第一王朝と言いますが6代目にしてバビロンを制することが出来たようです。 紀元前1990年ころのことのようです。
ベヒストゥン碑文には、音節文字のペルシャ楔形文字と、エラム語アッカド文字が刻まれたため、紀元前500年ごろの地名や人名が知られます。 左図の翻字はUnicodeの文字の名前によるものです。ペルシャ楔形文字でバビロンは、BA-A-BA-I-RU-U、エラム語とされている部分からは、BA-PI-LA です。ベヒストゥン碑文のエラム語部分は、普通の楔形文字(シュメール・アッカド文字)のサブセットで、音節文字として使われたと見られています。 ペルシャ楔形文字も、音節文字と見てUnicodeの文字名が振られています。母音が記されたら、その母音に換えて読む文字だと解釈されているようです。ba-bi-ru と読まれたと見られます。この例では、子音文字のようです。 語尾は音声言語の活用の影響があるものと思いますが、バビルやバビラだったようです。 都市名は神聖なものだったとされるので、この名前はシュメール・アッカドの時代から変わっていないものだろうと思います。 しかし、バビロン第一王朝もアッシリアと同じくアムル人の王朝と見られているので、居住者はシュメール・アッカドの時代から大きく変わっていたものと思います。
一般的に楔形文字は音声言語のアッカド語を記しているとされるようで、ベヒストゥン碑文のアッカド語とされる部分もシュメール・アッカド文字でアッカド語が記されたと見られます。この部分は、Unicodeの文字名での翻字では、DIN-TIR-KI となります。この表記は、ハンムラビ王の時代のものとは異なっていますが、新バビロニアの時代には使用されていて、ペルシャ人の始めた表記ではありません。
紀元前二千年ころから左図の上のような表記が長い間使われています。シュメール・アッカドの時代の都市は、「何々神の家」のように神殿を中心としたものだったようです。KA2は家、AN-RAは「神の」、KIは都市で、「神の家の都市」と解せます。 AN-RAは、「神ラ」ですが、シュメール語であれば、「神の」と所有格や与格と解され、単に「神の家」や「神の門」などと解されています。 何と読んだのかは知り得ないことだと思いますが、ハンムラビの時代には都市名はバビルのように呼ばれ、この文字列もバビルと読まれたと見られているものと思います。 CDLIの翻字は、ka2-dingir-ra{ki} です。同じような文字列が、babila と翻字されているものもあります。 babila と翻字されているものの中には、ka2-dingir{ki} のように文字数の異なるものもあって、バビロンを指すことが確かなものはbabila と翻字されたのではないかと思います。
バビロンの都市神はマルドゥクと伝わっています。AN-RAはマルドゥクです。ただし、それは紀元前二千年ころ以降の話しだと考えられます。アムル人(マルトゥ)の神マルドゥクは、バビロン第一王朝の成立以降に主神となったと考えられます。
DIN-TIR は、クミンを指すシュメール語 gamun、アッカド語の kamunu のようです。ka2-dingir{ki} のように ra を記さないこともあるので、AN-RA は、単に「神の」で、音声言語によっては RA は無意味です。「家」も略され、DINGIR KI で、字形も音も似ている DIN-TIR-KI となっているようです。
ナボニドゥス
ナボニドゥスの名は、ベヒストゥン碑文にペルシャ楔形文字、エラム語で、それぞれ n-b-u-n-i-t-h-y-a、nab-bu-ni-da-na と記されました。文献要旨(楔形文字2) したがって、その時代にナボニタヤやナボニダナのように呼ばれたことは確かそうです。 ナボニドゥスの名は、キュロスシリンダーやベヒストゥン碑文のアッカド語とされる表記では、{d}na3-ni2-tuku や {d}muati-ni2-tuk と翻字されています。 Unicodeの文字名での翻字では、{d}na3 は AN-AK 、{d}muati は AN-PA です。共に神ナブを表す文字列で、nabu-ni-tuk のような読みを意図した綴りのようです。 しかし、これらは新バビロニアの滅亡後のもので、ナボニドゥスの治世に記されたものではありません。 Wikipediaは、nabu-na-id のような綴りを示唆します。 CDLIのナボニドゥス時代のレンガの刻印のCDLI no. P428418(BM 114288)は、Unicodeの AN-AK-NA- と見えます。続く文字は分かりません。id や it であれば、AN-AK-NA-A2 と記していると推測されます。 しかし、他のレンガの刻印は、nabu 以降の部分は、違っているようです。 また、{d}ag-ni2-tuku と言う翻字もあります。これは、CDLI no. P333867(JHU T202)のようです。CDLIの ag は AK の新アッシリア字形の変形のようです。しかし、この資料はそう見えません。 ナボニドゥスの治世の綴りは確かめられません。
ベルシャザル
ベルシャザルは旧約聖書で伝わった新バビロニアの最期の王ですが、裏付ける資料として上げられているのは「ナボニドゥスの円筒形碑文」の1つのようです。 「ナボニドゥスの円筒形碑文」は複数伝来していて、シッパルとウルの地名で区別される2つが良く知られるもののようです。しかし、発見場所がウルとされる「ナボニドゥスの円筒形碑文」も複数あるようで、ME 91128 が博物館の資料番号のようです。 しかし、この資料の全体の写真やスケッチ、翻字は見つかりません。ベルシャザルがどのように綴られたかを示すものは見られません。 おそらく、ベルはナブと同様に神名と推理できます。楔形文字の翻字ではエンリルをベルとすることがあったようです。
アッシリアの王名にアッシュール・ベル・ニシェシュ(Ashur-bel-nisheshu)が知られ、Wikipedia に VA7442のスケッチがあります。 Unicode の文字で表すと左図のように記され、最後の1文字は欠けて読めないようです。 また、エンリルは、AN-EN-LIL や AN-EN-KID と記されました。 EN、AN-EN が「ベル」のようです。
センナケリブ(Sennacherib)は、楔形文字からはシン・アヘ・エリバだったとされます。この翻字は {d}en-zu-szesz-mesz-eri-ba です。 エサルハドン(Esarhaddon)は{d}asz-szur-szesz-i-di で、アッシュール・アハ・イディのようです。 -szesz- が、アヘらしいので、{d}en-zu はシンのようです。 ナボニドゥスの名は、その時代にベヒストゥン碑文にペルシャ楔形文字やエラム語が記され、概ね、そのように呼ばれたことが知られます。 ベルシャザルの名は七十人訳聖書やヘブライ語聖書によります。それぞれ、ΒΑΛΤΑΣΑΡ、B-L-s-A-Z-R(בלשאצר)ですが、数百年の差があります。 旧約聖書が編纂された時代にも楔形文字を読むことが出来たと考えられていますが、{d}en や {d}en-zu がベルと読まれた可能性はあるのかも知れません。 音が伝承されなかったとすると、ベルシャザルはシン・・・と言う名だったのかも知れません。
キュロス・シリンダー
キュロス・シリンダーは複数あるものと思います。CDLI no. P386349(BM 090920)は、発見場所等の定かでないもののようです。 アンシャン王キュロスは、Unicodeの文字の名で翻字すると、KU-RA-ASH2 LUGAL AN-SHA-AN と表されました。 これは、本所と訳文があります。 ナボニドゥスは、{d}na3-ni2-tuku と翻字されています。 キュロス(Cyrus)は、アンシャン王カンビュセス(ka-am-bu-zi-ia)の息子、アンシャン王キュロス(KU-RA-ASH2)の息子の息子、テイスペス(Teispes)の子孫です。 キュロス2世は、世界の王(KISH-KUR)、強大な王(KAL-NU)、神の都(DINGIR(DIN-TIR)KI、バビロン)、シュメールとアッカドの王(LUGAL KUR SHU-ME-RI U2 AK-KA-DI-I)、四方(LUGAL KI-IB-RA-TI ER-BE2-ET-TI3)の王を名乗りました。 エラムはシュメールと同時代にウルク文字などの文明の確認される地域で、シュメール王名表のアワン朝(紀元前25世紀)はエラム人の王朝とされています。エラムの人々がバビロニアに王朝を開くことは不思議ではないのだと思います。メソポタミアの神々への継続した信仰が表明され、アッシリア(シュメールとアッカド)の王権が継承されました。 キュロスは戦闘することなくバビロンに入城し、苦難から解放し、従わないナボニドゥスを追放した。(17)
翻字(CLID) |
Esagila |
エサギラ神殿(バビロン) |
Ur |
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Babylon |
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Marduk |
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Sumer |
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Akkad |
szu-me-ri u(u2) uri{ki} はシュメールとアッカドと訳されている |
Cyrus |
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Gutium |
グティウムのグティ人 |
Umman-manda |
メディア、ミタンニ、ヒクソス、マンナエなどとの関連が示唆される印欧語族 |
Babylon |
AN-KIが元なら、神の都市 |
Nabonidus |
{d}na3はUnicodeのAN-AKで神ナブ。Nabunituk。 |
Cambyses |
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Anshan |
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Anshan |
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Bel |
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Nabu |
AN-AK、バビロンの都市神、書記の神 |
Agade |
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Eshnunna |
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Zamban |
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Me-Turnu |
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Der |
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Gutium |
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Imgur-Enlil |
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Nabonidus Chronicle
「ナボニドゥスの年代記」は、ABC 7(BM 35382) と呼ばれる厚い粘土板の片々で、発見場所の分からないもののようです。これは過去にあった文書を写したことが分かるらしくオリジナルは伝わらなかったようです。オリジナルはキュロス2世の時代に作成されたもの見られています。ナボニドゥスは神事をおろそかにし、マルドゥク神より、シン神を重視したことが示されていると言うことです。 他に「ナボニドゥスの円筒形碑文」がいくつか伝来しましたが、業績が記されているのは「ナボニドゥスの年代記」のみのようです。 1882年に訳文が出版され、おそらく、多くの推測を含んで「ナボニドゥスの円筒形碑文」が知られてきたものと思います。
ABC 7について、見ることが出来るのは翻字と訳文があります。翻字は、ナボニドゥスが nabu-naid、アッカドがakkadiのように記され綴りが分からないものです。 ナボニドゥスの名は、CDLI no. P428418(BM 114288)のブロックと同じで、キュロス・シリンダーやベヒストゥン碑文とは異なった文字列で表されていることは確かそうです。
年次 |
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キュロスは反乱を起こしエクバタナ(kur a-gam-ta-nu)のアステュアゲス(Astyages、Iš-tu-me-gu)を 攻撃した。王都の財宝を得た。 ナボニドゥスはテマ(Te-ma-a)にいた。王子は軍と共にアッカドにいた。 |
ナボニドゥスはテマ、王子はアッカド。王の不在でアキツ祭が行われない。 ウリガルウ司祭は神酒を作り、神殿を視察した。 |
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ナボニドゥスはテマ(Te-ma-a)にいた。王子は軍と共にアッカドにいた。 ニサンの月に王はバビロンに来なかった。ナブ、ベルはバビロンを訪れなかった。 アキツ祭は行われなかった。バビロンのエサギラ神殿とボルシッパのエジダ神殿の 儀式は行われた。 皇太后崩御。アッカドにあった皇太子は3日間の服喪。 ペルシャのキュロスはアルベラへ向かい守備隊を置いた。 |
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ナボニドゥスはテマ、王子はアッカド。王の不在でアキツ祭が行われない。 |
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キュロスはアッカドの軍を攻撃し、シッパルは戦闘なしに押収され、ナボニドゥスは逃れた。 キュロスとグティウムの知事Gobryasは戦闘なしにバビロンに入った。ナボニドゥスは捕縛された。 バビロンの木々はキュロスの前に緑を広げた。キュロスの将軍Gobryasがバビロンを治めた。 バビロンは神聖な町に復した。 キュロスの息子カンビュセスは神殿に行った。 |
ナボニドゥスの在位期間が何から求められたのか分かりませんが紀元前555年と見られています。その6年は紀元前550年でキュロス2世がアケメネス朝ペルシャの王となった年のようです。キュロスはメディアを滅ぼして王となったようです。
このタブレットは新バビロニアの時代の記録の延長としてバビロンの神官などによって記されたと考えられているものと思います。しかし、作成年代や言語が新バビロニアのアッカド語と分類されるのかどうかも明記されていません。
ナボニドゥスの時代にバビロンの人々が記したとして、ギリシャ人にアステュアゲスと聞こえた名は、バビロニア人にはイシュツメグと聞こえたようです。 ただし、BM 35382の写真の該当箇所は左図のようには綴られていないようです。 エクバタナは、アガマタヌのように聞こえました。 このタブレットのナボニドゥスはnabu-naidのように転写されていることから、AN-AK-NI2-TUKと綴られているのだと思います。
Prayer of Nabonidus
「ナボニドゥスの祈り」と呼ばれる資料はヘブライ文字の資料です。死海文書4q242です。 この資料はダニエル書と同じ伝承を物語ったものですが、王名はネブガドネザルではなくナボニドにゥスになっていると言うことのようです。
Verse account of Nabonidus
「ナボニドゥスの詩」は「キュロスの賛辞」でもあるようです。これは粘土板に楔形文字で書かれたものです。(ME 38299) 訳文のみで翻字は見つかりません。 ナボニドゥスは政治を行わず、バビロニアの神々の祭礼を疎かにし、奇怪な神殿を建て、奇怪な神事を行った。 ナボニドゥスは長男に王位を譲り、アッカドの軍を率いてテマに住んだ。 テマをバビロンのような街にしようと住民にレンガを作らせた。 そして、町を滅ぼした。 ナボニドゥスはエサギラ神殿の聖なる彫像を冒涜し、頭を剃って従うものもあった。
キュロスは平和を宣した。祭礼が復された。自ら城壁を築き町を修復した。キュロスは神殿から持ち去られ集められていた神像を元に復した。 ナボニドゥスの神域は破壊された。ナボニドゥスが作ったもの、ナボニドゥスの絵などすべて焼却された。 人々は牢獄から解放され自由となった。そして王を仰ぎ見ることを喜んだ。
Cylinders of Nabonidus(Sippar)
ナボニドゥスの円筒形碑文は4つあるようですが、シッパルの円筒形碑文の訳を見ることが出来ます。訳文のみで翻字は見つかりません。 Nabû-balâssi-iqbi が父の名のようです。 エサギラ神殿とエジダ神殿を守り、シンとニンガルの末裔のようです。 マルドゥクはシンと共にナボニドゥスの夢枕に立ちハランにエフルフル神殿を再建するようにと言った。 ナボニドゥスはメディアの領内で不可能だと思ったが、マルドゥクはメディアの滅亡を予言した。 ナボニドゥスの3年ペルシャのキュロスがメディアを滅ぼした。 アッシュールバニパルが再建し、我が子も再建したエフルフル神殿を再建するために、ガザからペルシャ湾に到る地域の兵を集め再建に着手した。 神名や新アッシリアの王名が上げられ、その加護の元、高価な材料が集められ、ハランの町は月のように輝いた。 天国と冥界の神々の王シンの造った神殿への賛辞。神殿を修復したバビロンの王ナボニドゥスへの加護を請う。神々の母ニンガル、シャマシュ、イシュタル、ヌスクの支援を請う。 アッシュールバニパルの碑を見つけ清めて戻した。 天国と冥界を裁くシャマシュのシッパルのEbabbar神殿を発掘し9m下から3200年前のナラム・シンの遺構を発見した。良き材料、良き日にEbabbar神殿とE-kun-ankuga神殿、そのジッグラトを再建した。 サルゴンの子ナラム・シンの碑文を見つけ清めて戻した。 私ナボニドゥスを王としたシャマシュに永遠の笏と丈を願う。 戦いの女神アヌ二トゥのシッパル・アヌニトゥにあるエウルマシュ神殿を発掘調査し再建した。それは800年前のKudur-Enlilの息子Shagarakti-Shuriashのときからあった。 シンとシャマシュが王とするものへ。このシリンダーを見つけたなら清めて戻すように。
Cylinders of Nabonidus(Ur)
ウル出土のナボニドゥスの円筒形碑文にはベルシャザルの名があると言うことですが訳文しか見られません。 (要確認。この資料は ME 91128で、Bel-sharra-usurと綴られた。) バビロンの王ナボニドニゥスはエサギラ神殿、エジダ神殿の管理者。 ウルにあるエギシュヌガルのジグラト、E-lugal-galga-sisa は、私に連なる王の一人ウル・ナムウが築き、その息子のシュルギが完成させた。 ジグラトは古くなり、傷んだ箇所をシンによって修復した。 偉大な天に住まう神の中の神シンが楽し気に神殿を訪れるとエサギラやエジダの多くの神々が称賛した。エギシュヌガルは神殿の中心。 偉大な神々に対する畏敬の念は罪を抑制して天国のような社会を作る。 バビロンの王ナボニドニゥスは偉大な神によって罪から救われ、長い命を与えられた。 我が息子、ベルシャザル、我が子孫、彼らが偉大な神を畏敬し、あらゆる信仰上の過ちを犯さず、充実した人生を送るように。
ベヒストゥン碑文のメディア人の名
キュアクサレスの名がペルシャ楔形文字で表記されているのを見て不思議に思いました。メディア王国は文字記録を一切残していないとも言われます。 どうやら、ベヒストゥン碑文が出所のようです。 残念ながら、ベヒストゥン碑文にはメディアの歴史に関する記述がある訳ではないようです。 ただ、ダレイオスが鎮圧した反乱の首謀者がキュアクサレスの末裔を名乗ったと言うことのようです。名をフラオルテスと名乗りました。 これは、英訳がそうなっていると言うことで、ベヒストゥン碑文に類似の名が刻まれている訳ではないようです。
ベヒストゥン碑文に刻まれた人物はダレイオスの時代の人物です。キュロス2世がバビロンに入ったのが紀元前539年で、ダレイオスの即位は紀元前522年です。 16年ほどしか経っていないので、アケメネス朝の征服した地域の最後の王の、王位継承者と成り得る兄弟や子は沢山いたに違いありません。 バビロニアではニディントゥベルがナボニドゥスの子ネブガドネザルを名乗って反乱を起こしたと記されました。 フラオルテスはキュアクサレス朝の王族を名乗ったとあるだけで、繋がりを示していません。 メディア王国の王朝はキュアクサレスの名で象徴されるようです。 ヘロドトスは、メディア王国の王統を、ディオケス、フラオルテス、キュアクサレス、アスチュアゲスと記しています。 ディオドロスは、クテシアスの言として、2期のメディア王国について記しています。最初のメディア王国の王名と在位年数が上げられ通算220年になります。 2期目のメディア王国は、アルテュネース(在位:22)、アスティバラス(在位:40)、アスパンダスで、アスパンダスはギリシャ人にアステュアゲスと呼ばれたとしています。 2期目のメディア王国の記述もクテシアスなのかどうかは分かりません。 クセノポンは「キュロスの教育」で、メディア王国の最期の王をキュアクサレス(2世)としました。
ベヒストゥン碑文の英訳で、Phraortes と Cyaxares に当たる部分は、上図のようです。フラオルテスは、ファラバラティシャやファリウティシュで、概ね納得できます。 キュアクサレスとされるのは、ウバカシャタラハヤやウマクイシュターのようです。 ベヒストゥン碑文の記述は、ダレイオス王の治世メディア地方でフラオルテスが反乱を起こし、正当な王位継承者であることを示すためにウバカシャタラハヤやウマクイシュターのフラオルテスを名乗ったと言うものです。これを訳す際に「キュアクサレス」と役者が判断したものと思います。 最後の王の名か王朝名のはずですが、王朝を代表する名前として「キュアクサレス」としたものと推測します。 U2-MA-KU-ISH-TAR の名は、SA-GA-AR-TA-A-A人の王を名乗る CA-I-SSA-TA-XA-MA の反乱にも出てきます。 SA-GA-AR-TA-A-A人はヘロドトスのサガルティオイと見られます。 クセルクセス1世のギリシャ遠征に参加したサガルティオイは剣以外の金属器を使用しないが投げ縄を操りました。(歴史7.85)を サガルティオイはダレイオスの定めた13徴税区にいました。(歴史3.93) キュロスはメディア王国を攻めるに当たって、メディア王国からペルシャ人の3部族(パサルガダイ、マラピオイ、マスピオイ)を離反させました。もっとも地位が高いのはパサルガダイで、ペルセウス家の王を出すアケメネス族も含まれます。その他の部族の中に遊牧民のサガルティオイがありました。(歴史1.125) キュロスの直系ではないダレイオスはアケメネス朝の概念を作ったと考えられますが、それ以前にメディアにもウバガシャタ朝のような名があったのかも知れません。その名は、ダレイオスの時代には権威のある王族を指しました。しかし、ダレイオスに代わる権威を示したのか、メディアを独立させる権威なのかは分かりません。 メディア王国最後の王がキュアクサレスだと言うのはクセノポンの「キュロスの教育」の話しで、創作だと考えると、ウバカシャタラハヤがキュアクサレスであることはなさそうです。 ウバカシャタラハヤがメディア王国最後の王の名であれば、ギリシャ人の呼び名でアステュアゲス、クテシアスのアスパンダスと言うことになりますが似ていません。
前述の、ナボニドゥスの年代記(ABC 7、BM 35382)には、ナボニドゥスの6年、アンシャンの王キュロスが a-gam-ta-nu の Iš-tu-me-gu を討ったことが記されています。a-gam-ta-nu は、エクバタナらしく、Iš-tu-me-gu はメディア王国最後の王と見られました。新バビロニア滅亡後にバビロニアで作られたと考えられるタブレットは、ISH-TU-ME-GU(Unicodeの文字の名で)と綴られているようです。 このタブレットは片々で2つのカラムに分かれていますが左右共に欠けています。該当箇所は右のカラムで、行末部分が無くなっています。 行頭から、DISH ISH-TU-ME-GU と始まっています。キュロスと読まれている部分も DISH KU-KASKAL と記され、LUGAL のように王名であることを示すものはありません。 したがって、ISH-TU-ME-GU が個人名であるかどうかも、この箇所だけを見る限り分かりません。 イシュトゥメグはアステュアゲスのバビロニアでの名と見られていて、へロドスやクテシアスの伝えることを覆すものとは見られないようです。 ペルセポリスで見つかった iš-ti-man-ka4、ir-iš-ti-man-ka4 が、アステュアゲスに比定されるようですが理由は分かりません。
ニディントゥベル
ベヒストゥン碑文にはダレイオス1世の時代にニディントゥベルがナボニドゥスの子ネブガドネザルを名乗って反乱を起こしたことが記されました。 CDLB 2004/1(P235704)はニディントゥベルに関するもののようです。
キュロス
キュロスの名は、それまでのバビロニアの王のように、LUGAL GAL KU-RA-ASH2 のように記されたのかどうか良く分かりません。 ナボニドゥスの年代記(ABC 7、BM 35382)のキュロスと読まれている部分は、DISH KU-KASKAL と記されています。 ベヒストゥン碑文のアッカド語の部分は、概ね DISH KU-RA-ASH2 と記されています。一カ所(面B)に DISH KU-KASKAL が使用され、{disz}ku-rasz のように翻字されています。 DISH KU-KUR-RA-ASH2 も、キュロスと読まれるようです。
新バビロニアのナブで始まる王名
CDLI で新バビロニア時代に分類されている {d}na3 を検索して見ました。
新バビロニアの{a}na3 の検索結果から
綴り(Unicodeの文字の名で) |
ナブ・クドゥリ・ウリ |
ネブガドネザル |
ナブ・クドゥリ・ウスル |
ナブ・クドゥル・ウリ |
ナブ・クドゥリ・ウスル |
ナブ・クドゥリ・ウル |
ナブ・クドゥリ・シェシュ |
ナブ・アプラ・ウリ |
ナボポラッサル |
ナブ・アプラ・シェシュ |
ナブ・ニグドゥ・ウリ |
ネブガドネザル |
ナブ・ア・ウリ |
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ナブ・ドゥムゥ・サル・エキ |
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RINAP 1 Tiglath-pileser III 47
このタブレットはティグラト・ピレセル3世(紀元前744年-紀元前727年)の業績碑文のようです。 長文が良好に読み取られているようです。 1行目は壊れていますが翻字からUnicodeの文字名に直すと以下のようになります。
E2-GAL DISH tukul-TI-A-E2-SHAR2-RA LUGAL GAL-U2 LUGAL KAL-NU LUGAL SHU2 LUGAL KUR ASH-SHUR LUGAL babila KI LUGAL KUR SHU-ME-RI U URI KI LUGAL kib-SUD2 LIMMU2-TI |
26行目を翻字からUnicodeの文字名に直すと以下のようになります。
MA-DA-TU SHA DISH BA-LA-SU DUMU DISH DAK-KU-RI DISH NA-DI-NI UD-UD-AK-A-A KU3-BABBAR KU3-GI NI-SIQ-TI NA4-MESH AM-HUR DISH AN-MARDUK-A-SHUM2-NA DUMU DISH IA-KI-NI LUGAL UD-DIM SHA INA LUGAL-MESH-NI AD-MESH-IA A-NA MA-HAR MA-AM-MAN LA IL-LI-KAM-MA |
UD-DIM : tam-tim
RINAP 1 Tiglath-pileser III 59
レンガの刻印のようです。ティグラト・ピレセルの名が tukul-TI-A-E2-SHAR2-RA と綴られました。 tukul と翻字されている文字は、シュメールアッカドの字形では、KU や DUR2 の形状です。 しかし、このタブレットは DISH-MA のような形に刻まれました。
メロダク・バルアダン
列王記下に出てくるメロダク・バルアダンは、楔形文字のマルドゥク・アプラ・イディナに比定されています。
楔形文字で DISH AN-MESH-A-shum2-NA や DISH AN-AMAR-UD-ibila-shum2-NA のように綴られているようです。 CDILでszum2と翻字される文字はUnicodeにある文字では、Iと4を合わせたような形のようです。 idi と読まれる理由は分かりません。 ibila はアッカド語の aplu で、後継者や息子と訳されます。 A TIMES A も aplu と読まれるようです。単に A が aplu と読まれると言うことはないようですが、類推が働くのだと思います。
BagM Beih. 02, 088 [Uruk King List]
セレウコス朝の王名まで記されているのでヘレニズム期以降に書かれたもののようです。在処も写真も見ませんが、翻字があるようです。 このタブレットは、Bagdad Museum の IM 65066 で、ULKS(Uruk List of Kings and Sages)や、King List 5 の名で呼ばれているようです。 CDLI No. P363352 で、発見状況の分かるもののようです。
王名 |
21年 |
- |
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- |
- |
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21年 |
kan-da-la-an |
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1年 |
- |
|
- |
AN-30—LUGAL—ISH-KU-UN |
|
21年 |
AN-AK-A-URI3 |
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43年 |
AN-AK-NIG2-DU-URI3 |
|
2年 |
LU2-AN-AMAR-UD |
|
3年8か月 |
U-GUR-LUGAL-URI3 |
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3か月 |
LA-BA-SHI-AN-AMAR-UD |
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17年 |
AN-AK-I |
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- |
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- |
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NI-DIN-AN-EN |
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5年 |
DA-RA-A-MUSH |
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7年 |
A-UR-SA-AN-DAR |
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6年 |
PI-IL-IP-SU |
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6年 |
AT-TU-GU-UM |
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31年 |
SI-LU-KU |
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22年 |
AN-TI-I-KU-SU |
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15年 |
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- |
- |
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裏面は破損で全く読めないようです。表だけで紀元前225年です。 ヘロドトスやクテシアスが記録しない新バビロニアの王が、この時代には知られたようです。
シュメール王名表
CDLI Literary 000371, ex. 006(CDLI no. P384786 / Ashm 1923-0444)、CDLI Literary 000371, ex. 005(CDLI no. P384788 / Ashm 1923-0062bis)がシュメール王名表のようです。 前者は粘土で出来た四角柱のプリズムで、発見状況が分からない資料のようです。1面に2カラムで記され、8カラムになります。各カラムは45行から51行で記されています。 後者はラルサで出土したとされているようです。10行記述されています。 内容は19世紀まで知られなかったものだろうと思います。ただし、ヘレニズム期にバビロンはマケドニアの首都になった訳で、ギリシャ人が王名表のタブレットを見たり、伝承を聞いたことは疑問がありません。 作られたのは紀元前20世紀から紀元前17世紀とされています。古アッシリア、イシン・ラルサ時代、バビロン第1王朝の時代に作られたことになります。
天から下った王権はエリドゥにあり、アルリムが王となった。(3.NUN-KI A2-LU-IGI LUGAL) と、Ashm 1923-0444(WB444) は始まり、 最後はイシンの王シン・マギル(Suen-magir)で終わります。この王は紀元前1800年ころの王のようです。 最後に、「手 ヌル?」、と書き手の名が記されました。(SHU NU-UR2-AN-NIN-SHUBUR) 王ごとに在位年数が記されています。 アルリムの在位は、MU 8-SHAR2 NI AK、シン・マギルは MU U DISH NI-AK です。 それぞれ、28,800年、11年と読むようです。MU は年を、NI-AKは在位を示すようです。Unicodeの EIGHT SHAR2 が28,800なのは、1sharが3600だからのようです。
A2は左図の左端のように移されています。
王名表の最後(カラム8の23行以降)はイシン王朝で第1王朝の14人の王の名が記されています。 それに先立つ2行(21、22)は、「そして、ウルは敗北した。王権はイシンに運ばれた」と訳されています。 王朝の区切りには同様の記述があります。 エリドゥに降り立った王権は、ララク(LA-RA-AK-KI)、シッパル、シュルッパク、キシュ、エアンナ(E2-AN-NA-KA)、ウル、アワン、キシュ、ハマジ、ウルク、ウル、アダブ、マリ、キシュ、アクシャク、キシュ、ウルク、アガデ、ウルク、グティム、ウルク、ウル、イシンと移動しました。 メソポタミアの王権が都市国家間を移動するものだったと言うのは、ここから来ているのだと思います。
カラム8行21-22
URI3-AB_GUNU-KI MA |
武器 |
良質 |
王笏 |
その王権 |
イシンへ |
持ち去る |
Ashm 1923-0062bis(WB62)は、片面10行のタブレットのようです。 内容は WB444 の最初の部分にあたります。
シュメール王名表の先頭の10人
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A2-LU-IGI(NUN-KI)8shar |
A2-LU-IGI(?)1sharu8shar |
Aloros(Babylon)36000 |
A2-TA_TIMES_HI-GAR(NUN-KI)10shar |
(A-KI)2sharu |
Alaparos(Babylon) |
EN-ME-EN-LU-AN-NA(EZEN_TIMES_BAD-DUB-NAGER-KI)12shar |
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Amelon(Pautibiblon) |
EN-ME-EN-GAL-AN-NA(EZEN_TIMES_BAD-DUB-NAGER-KI)8shar |
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Ammenon(Babylon) |
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Amegalaros(Pautibiblon) |
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Daonos(Pautibiblon) |
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Euedorankhos(Pautibiblon) |
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Amempsinos(Larankhos) |
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Otiartes(Larankhos) |
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Xisouthros(Larankhos) |
ベロッソス(Berossus)は紀元前300年ごろのバビロンの聖職者で、セレウコス朝に仕えた人物のようです。「バビロニア誌」を著わしましたが残らなかったようです。 引用で知られるのみのようですが、「ベロッソスによるシュメール王名表」が伝わったようです。(マネト、ベロッソス)
アッシリア王名表
STT 1,047(CDLI no.P338365)、STT 1,046+STT 2,348(CDLI no.P338364)は、王名表のようです。Sultantepe Tablets に含まれるもののようです。
楔形文書の解読される19世紀以前には、カイザリアのエウセビオスの「年代記」、「エクスケルプタ・ラティナ・バルバリー」(Excerpta Latina Barbari:蛮人がラテン語に訳した抜粋)によってアッシリアの王名表が伝わったようです。 収録内容は以下のようです。
エウセビオスの「年代記」のアッシリアの王
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Ninus |
52 |
インドを除く全てのアジアの王。アブラハムの時代 |
Semiramis |
42 |
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Zhames(Ninyas) |
38 |
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Arius |
30 |
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Aralius(Amyrus) |
40 |
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Xerxes(Balaeus) |
30 |
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Armamithres |
38 |
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Belochus |
35 |
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Balaeas |
12 |
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Aladas |
32 |
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Mamithus |
30 |
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Machchalaeus |
30 |
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Sphaerus |
22 |
|
Mamilus |
30 |
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Sparethus |
40 |
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Ascatades |
40 |
モーゼの時代 |
Amintas |
45 |
|
Belochus |
45 |
ディオニュシオスとペルセウスの時代 |
Balatores |
30 |
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Lamprides |
32 |
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Sosmares |
8 |
|
Lampares |
30 |
|
Pannias |
42 |
アルゴナウタイやヘラクレスが訪れた |
Sosarmus |
19 |
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Mithraeus |
27 |
|
Teutamus |
32 |
イリオスが捕らえられた |
Teutaeus |
40 |
|
Theneus |
30 |
|
Derusus |
40 |
|
Eupalmes |
38 |
ソロモンの父ダビデの時代 |
Laosthenes |
45 |
|
Peritiades |
30 |
|
Ophrataeus |
21 |
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Ophatanes |
50 |
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Acrazanes |
42 |
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Sardanapallus |
20 |
ラケダイモンのリュクルゴス(Lycurgus)が法を定め、アテナイではエフロンの息子テセウスが王だった。 |
Ashurbanipal 006
ニネヴェ図書館を残したアッシュールバニパルの業績を記したプリズムは複数存在するようです。 OraccがAshurbanipal 006として公開している英訳は長文で、周辺国の王名を含んでいます。 この元になったプリズムは良く分かりません。おそらく、多くの片々や類似記述から再建された物だろうと思います。 Oraccの翻字はUnicodeとの対応を知らないので、そのまま写しておきます。ただし、英字大文字だけで転字してあるのは、他と同様、Unicodeの文字名による翻字です。
アッシリアの王
王名 |
mAN.ŠÁR-PAP-AŠ |
アッシュールバニパルはエサルハドンの息子と記された。 |
mAN.ŠÁR-DÙ-A |
エサルハドンの息子。この資料の「私」。 |
maš-šur-PAP-IBILA |
アッシュールナツィルパル2世はシャルマネセル3世の父として記載。 |
mdšùl-ma-nu-MAŠ |
シャルマネセル3世は、神殿など創始者で、老朽化の起源として名前を記載。 |
この業績刻文が誰の物かは単独では明瞭ではないようです。文章の始めや終わりに書簡のような署名はなく、文書中に a-na-ku DISH-AN-SHAR2-KAK-A があって、「我、アッシュールバニパル」と訳されている場所があります。しかし、その部分は読み取れない部分で補われたもののようです。 ただし、エサルハドンの息子とあるので、歴史書を信じれば疑問はありません。 エサルハドンの名は、DISH-AN-SAR2-PAP-ASH と綴られているようです。これは、アッシュールアフイディンのように読まれたと見られているようです。 アッシュールバニパルの、DISH-AN-SHAR2-KAK-A は、アッシュールバニアプリのように読まれたと見られているようです。 旧約聖書からは、エサルハドンの名は、Asaradan、「אסרחדן」、ΑΣΑΡΑΔΔΩΝ(Ezra 4:2)、アッシュールバニパルの名は、Asenappar、「אסנפר」、ΑΣΕΝΝΑΦΑΡ(Ezra 4:10)と伝わりました。 エレミア書の場合、ヘブライ語聖書が七十人訳聖書に比べて詳細に新バビロニアの王名を伝えます。死海文書の断片が七十人訳聖書に一致することから、ヘブライ語聖書が編纂されたヘレニズム期の後半になって、改めて新アッシリアや新バビロニアの歴史が詳細化されたようです。ヘロドトスやクセノポンは、記録しなかったことで、アケメネス朝ペルシャの時代には知られなくなっていたようです。マケドニアやセレウコス朝がバビロンを王都とした時代に改めて知られたことがあったものと思います。 エサルハドン、アッシュールバニパルの名は、同様に伝わっていて、エズラ記が新しい時代に揃って編まれたことを示すものと思います。 DISH-AN-SHAR2が、エサラハやアッシュールと読まれたのは、差が大きすぎるようにも見えます。しかし、ギリシャ文字表記を見れば、アサラとアセナの差であり、両者の名前は同じように伝来したと考えても良いようです。
このプリズムは、アッシュールバニパルが如何に信仰が厚く、神殿の整備に尽くしたかが、大きなテーマになっています。修復した神殿の起源は、シャルマネセル3世にあるらしく、二百年の歳月が経っています。 ヘロドトスの時代には、アッシリアはバビロンを都としていたと伝わていて、「アッシリア人はもともとニネヴェ周辺の人々を言う」とことわっています。ニネヴェが都となったのは、センナケリブのときで、それまではニムルドが首都だったようです。ニムルドに遷都したのがアッシュールナツィルパル2世です。 新アッシリアの時代の都は、アッシュールではなく、ニムルドで、晩期にニネヴェに移されたようです。神殿もニムルドが都であることを前提に建築されて来たものと思います。
王の称号
称号 |
アッシリアとアッカドの聖地(を守る) |
アッシリアの王 |
アッシュールバニパルの業績刻文には「四方の王」のような記述はなく、アッシュールとアッカドの聖地を守ります。 基本はアッシュールの王であり、首都がニネヴェに移されていることを考えると、アッシュールは都市名ではなく、ニネヴェ、ニムルド、アッシュールを含む広い地域を指すのだと思います。
- 父エサルハドンの偉業は完成していない。私はそれを完成させた。
- アッシュール神の神殿 Ehursaggalkurkurra を完成させた。
Ehursaggalkurkurra は、e-hur-sag-gal-kur-kur-ra で、続きに é-ḫur-sag-gu-la と綴られた箇所もあります。こちらは、Gate-of-the-Abundance-the-Lands と訳されています。 Ehursaggalkurkurraはサルゴン2世の業績刻文にも見られ、固有の建物なら、数十年建設が続いていることになります。それぞれの王が築くべきものなら、王陵や首都に備わるべき建築物と言うことになります。 E2-HI_TIMES_ASH2-SAG は大きな建物を指して良く使われ、LUGAL- GAL-KUR-KUR-RAは、世界の大王として使われました。
- 神々の宮殿エサギラを建て神々を連れて来た。
エサギラはネブカドネザル2世の造った神殿の名となっているが、é-sag-íl は、大きな家と言う意味で「社(やしろ)」らしい。 ニネヴェに神々が迎えられたのだと思います。 迎えられた神々は、dEN、dGAŠAN MU dbe-let-KÁ.DINGIR.RA.KI、dé-a、dDI.KU₅です。 ベル、バビロンの女神ベレト、エア、神diku。 KA2-AN-RA-KIはバビロンを指すのでベレトバビラと言う名だったと解しているようです。この女神の名の英訳は Zarpanitu となっています。 女神の名は、AN-GASHAN MU AN-BAD-AB2 KA2-AN-RA-KI と綴られたようです。 BAD-AB2 は、表音表記で be-let と翻字されています。 GASHAN も be-let も、「貴婦人」や「女主人」、「女王」を指します。 この根拠はアッカド語の beltu が「貴婦人」や「女主人」、「女王」を指し、GASHAN も be-let も beltu と読まれたと考えられていることのようです。 ここでは、「バビロンの神々の女主人と呼ばれるGASHAN」と書いたのだろうと思います。GASHAN は、ベレト以外の読み方があったのだと思いますが、メソポタミアにはベレト・イリ、ベレト・エカリム、ベレト・シェリと言う女神が知られるようです。 バビロンの女神の最高神は、Sarpanitu、Zarpanitu や Belitya と言う名だったと伝わっていているようです。 é-šár-ra 以外はšu-an-na.KIにいたようです。 Esharraと言う神は、ティグラト・ピレセル(DISH-KU-TI-A-E2-SHAR2-RA)の名に使われています。トゥクルティ・アピル・エシャラと呼ばれたと考えられているようです。 シリアの女神、あるいはヒッタイトやフルリの女神 Ishara と表記上は区別がないようです。 šu-an-na.KI はバビロンを指すことが分かっているようです。これが表音表記ならバビロンはシュアンナと呼ばれていたことになり、dbe-let-KÁ.DINGIR.RA.KIは、ベレトシュアンナかも知れません。
- AN-AMAR-UD と記された神は、屋根で覆われた玉座に座す王であり、戦の神であり、チャリオットが捧げられました。
AN-AMAR-UD は、Marduk と訳されています。 AN-EN と AN-GASHAN にはベットが奉納されました。それぞれ、Bel と Zarpanitu のようです。
- ボルシッパのエジダ神殿の出入り口に銀の野牛のを飾った。
ボルシッパはビルス・ニムルド遺跡で、バビロンの南西20kmほどの場所のようです。アッシュールバニパルの治世にはバビロンを安定して支配できていたようです。 旧約聖書のニムルド王に関連した遺跡として、ビルス・ニムルド遺跡と呼ばれるのはボルシッパです。 後代の人々がニムルドと呼んでいた遺跡は旧約聖書にはカルフの名で呼ばれた場所とされ、センナケリブがニネヴェに遷都するまで新アッシリアの王都だったニネヴェに近い場所です。 ボルシッパは bár-sipa.KI と翻字されています。これは BAR-ZI-PA-KI と綴られているようです。 ボルシッパの名は、表音で綴られていて新しいもののようです。
- Emašmaš と Egašankalama を金銀で輝かせた。
- シャマシュ、アダトの許しを得て Šarrat-Kidmuri の社を復旧し、儀式を復活した。
- 王権の源であるシンの神殿エフルフル(Ehulhul)を再建した。
アッシュールナツィルパルの息子シャルマネセルによって E2-HUL2-HUL2 は建てたもので古なった。アッシュールバニパルが生まれる前から、アッシュールバニパルが再建し永遠の高座につくことが言い伝えられてきた。 シンとヌスクの命によって、古くなった部分は取り壊され、更に大きく築かれた。前の王が築いたヌスクの神殿が含まれる。シンとヌスクはアッシュールバニパル自身によって安置された。
- 私はアッシリアとアッカドの聖域を、過去の王たちより、大きく豪華にした。
- 収穫の神ニサバ(ニダバ)によって、いつまでも牧草が茂り、果物が実り、牛が繁殖し、我が治世には豊かになり、備蓄が増えていった。
- 我が領土の何処でも、12頭のロバで運ぶ量の大麦、3頭のロバで運ぶ量のワイン、2 seah のオイル、1タラントの羊毛が銀1シェケルで買える。
今日の1シェケルの銀は、569円から1075円のようです。シェケルは重量の単位ですが、通貨の単位でもありました。 この金額で、おそらく24袋の大麦、15から30リットルのワイン、15から30リットルのオイル、33から50kgのウールが買える国は誇れました。 ワインは陶製のビンで運ばれたろうと思います。ローマ時代のアンフォラは39リットルが標準だったようです。2つ着けると100㎏近くになってしまいます。 30リットルで計算すれば1シェケルで180リットル買えたことになります。
- 偉大な神々を常に崇拝し、領土の東から西まで人々を保護した。
エジプトへの遠征途上に征服した22の国
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mba-ʾa-lu Baʾalu |
KUR.ṣur-ri Tyre |
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mmi-in-se-e Manasseh |
KUR.ia-ú-di Judah |
ユダ王国の王マナセはミンセと写された。 「מנשה」(M-N-SH-H) 「יהודה」(i-H-u-D-H) |
mqa-uš-gab-ri Qauš-gabri |
KUR.ú-du-me Edom |
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mmu-ṣur-i Muṣuri |
KUR.ma-ʾa-baii Moab |
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mGISSU-EN Ṣil-Bêl |
KUR.ḫa-zi-ti Gaza |
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Mitinti |
Aškelon |
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Ikausu |
Ekron |
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Milki-ašapa |
Byblos |
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Iakîn-Lû |
Arvad |
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Abî-Baʾal |
Samsimurruna |
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Ammi-nabdi |
Bêt-Ammon |
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Aḫî-Milki |
Ashdod.
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Ekištûra |
Idalion |
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Pilagurã |
Kitrusi |
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Kîsu |
Salamis |
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Itûandar |
Paphos |
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Erêsu |
Soloi |
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Damâsu |
Curium |
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Admêsu |
Tamassos |
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Damûsu |
Karthago |
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Unasagusu |
Lidir |
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Buṣusu |
Nuria |
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アッシュールバニパルの最初の遠征はエジプトでした。遠征先は、KUR.má-kan と、 KUR.me-luḫ-ḫa と記され、「エジプトとエチオピア」と解されています。
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DISH-TAR-GUM-U2(タハルカ)は、KUR.mu-ṣur と、KUR.ku-u-si の王だった。我が父エサルハドンに敗れ、エサルハドンの下にアッシュール神とイシュタル(AN-15)のものであるエジプトを治めていた。タハルカは、それを忘れ、信頼すべきものに戦いを挑んだ。タハルカはメンフィス(URU.me-em-pi)を取った。私は精鋭部隊を集めエジプトとクシュへすぐに向かった。 KUR.má-kan も KUR.mu-ṣur もエジプトと訳されています。アマルナ文書の時代のKUR MI-GISH-RI-I(ミズリ)とは異なるようです。 クシュはヌビア地方のことのようです。 メンフィスは URU-ME-IM-PI と綴られ、ギリシャにもアッシリアにもメンピのような名で知られていたことになります。エジプトの新王国時代には、mn-nfr とヒエログリフで記されていたとされるので、アッシュールバニパルの時代には広く。同じ名(同じ音)で呼ばれたようです。
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遠征の途上にある22の国の王は従順に従った。
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この22の国の王で軍隊を編成し、彼らの船を使って、海路と陸路で直行した。 私は、これらの従順な王たちと、エジプトにいる信頼できる者たちを支援し、URU.kar-dDÙ-ti(Kar-baniti)に達した。 タハルカはメンフィスにあって、私の遠征の報に、兵を集め戦いに備えていた。 アッシュール神とイシュタル神の輝きの前にタハルカの軍は狂乱となり敗北した。 タハルカはメンフィスを放棄してテーベ(URU.ni-iʾ)に逃れ、私はメンフィスに駐留した。 テーベは時代を示さずワセトと呼ばれたとされているので、ギリシャではテーベ、アッシリアではニーのように呼んだようです。
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メンフィス、サイス(URU.sa-a-a)の王ネコ(mni-ik-ku-u)、 ペルシウム(URU.ṣi-iʾ-nu)の王シャルルダリ(mLUGAL-lu-dà-ri)、 ナハト(URU.na-at-ḫu-ú)の王ピシャンフル(mpi-ša-an-ḫu-ru)、 ピシャプト(URU.pi-šap-tú)の王パクルル(mpa-aq-ru-ru)、 アサリバ(URU.ḫa-at-ḫa-ri-ba)の王(mx-x-EZEN-a-u)、 ヘラクレオポロリス(URU.ḫi-ni-in-ši)の王ナハケ(mna-aḫ-ke-e)、 そして、総督たちは父が任命し、育成した信頼できる人々である。
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私は無事に帰還した。
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そのご、ネコ、シャルルダリ、パクルルは、我が恩を忘れ、偉大な神々との誓いである条約を軽視し、邪悪な陰謀を企んだ。 クシュの王タハルカに使者を送り、領土に関する条約を結んだ。 我が支配権に対して自らの首を切るようなアッシリアの軍への反乱を計画した。
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私は、王権にふさわしい黄金のクワ、指輪をネコ王にに与え、我が名を記した鋲飾りの付いたベルトを贈った。 高貴な人々が乗るチャリオット、馬、ラバを贈った。 ネコ王を助けるために、宦官の長と行政官を送った。 ネコ王を父の任じたサイスに戻した。 さらに、彼の息子ナブシェジバニ(mdAG-še-zib-a-ni)をアスリビスの名誉ある地位に付けた。 私は父より多くの良いことをネコ王に対して行った。
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タハルカは逃亡し、アッシリアの威容を恐れ、圧倒されて亡くなった。 彼の姉妹の息子タヌトアメン(mUR-da-ma-né-e)が王を名乗った。彼はテーベとヘリオポリスを要塞化し兵を集めた。 メンフィスにあったアッシリアの軍はそれらを包囲して逃げ道を塞いだ。 知らせは速やかにニネヴェ(URU.ni-na-a)の私に届いた。
-
私はエジプトとクシュへ2度目の遠征を迅速に行った。 私の遠征の報を受けてタヌトアメンはメンフィスを放棄してテーベに逃れた。 エジプトにいた諸王や総督たちは私に合流し忠誠を示した。 私は、要塞化したテーベへの道を進軍した。 タヌトアメンは我が軍の威容を見てテーベを放棄してキプキピ(URU.ki-ip-ki-pi)へ逃れた。 私はアッシュール神とイシュタル神への信仰によってテーベを占領した。 私はアッシリアへ銀、金、宝石を持ち去った。 王宮には染色されたものを含む衣類や、大きな馬、男女の人がいた。 我々が破壊した場所の寺院の門にあった見事な2つのオベリスクは、光り輝く金属(za-ḫa-le-e)で、2,500タレントの重さがあった。 数えきれない重い戦利品をテーベから持ち去った。 私はエジプトとクシュのための武器を優先して造り、勝利を確実にした。 全てを成し遂げて、私はニネベ、私の首都に無事戻った。
2度に渡ったエジプト遠征の後の、3度目の遠征はティルスに向けたものでした。 ティルスは、陸に接した島状の地形で、橋を落とせば陸から攻めることが出来なかったようです。しかも、島の部分には港があり、人や物の出入りが可能で、海上封鎖する能力が必要でした。
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海の中に住んでいるティルス(KUR.ṣur-ri)の王バーリ(mba-ʾa-li)が反乱を起こした。 ティルスの王は、我が王家の指揮権を認めず、我が宣告に従わなかった。 私はティルスを封鎖した。住民の出入りを厳重に見張った。 私は海と陸の経路を遮断し、兵糧攻めにした。彼らの命を縮め、くびきに繋いだ。
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ティルスの王や、その兄弟は娘を我が家の家政婦として差し出した。 ティルスの王は海を渡ったことのない息子を差し出した。 私は娘たちの多額の持参金を受け取った。 私は慈悲を持って息子を返した。 私はティルスの王バーリへの封鎖を解除した。彼は非常に感謝した。
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チャリオットを巡らし、私は我が都ニネヴェに無事帰還した。 高い山に住む私が島の王たちを支配することは、我が支配権を恐れさせた。
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アルバド(KUR.a-ru-ad-da)の王イアキンルウ(mik-ki-lu-ú)、 タバル(KUR.tab-a-la)の王ムガルウ(mmu-gal-li)、 キリキア(KUR.ḫi-lak-ka-a-a)のサンディシャラメ(msa-an-di-šar-me)、 前の王に服従していなかった王たちは、血族の娘と、その持参金を差し出した。ムガルウには大型の馬を納めさせた。 アルバド(アルワード島)はシリア唯一の人の住む島だと言うことです。 タバルは、アッシリアの勢力が及んだ最西の国のようで、その先はリュディアのようです。 キラッカ(キリキア)はタバル領に囲まれるように地中海に近いアナトリア半島の付け根付近にあったようです。 キラッカのサンディシャラメには「王」と記されていません。これはヘロドトスがメディアとリュディアの仲裁者として上げた「キリキアのシュエンネシス」と伝えたもので、エジプトの「ファラオ」と同様に称号と解されるのだろうと思います。
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アルバドの王イアキンルウが亡くなると、海の直中に住むその息子たち、アジバール(ma-zi-ba-al)、アビディバール(mab-di-ba-aʾ-al)、アデュニバール(ma-du-ni-ba-al)が海から上がってきて貢ぎ物と帰順の意を示した。私は友好的なアジバールをアルバドの王に任じ、アビディバール、アデュニバールを厚遇した。 (破損)
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(破損) キンメリア(LÚ.gi-mir-a-a)は、我が父や私を恐れず無謀にも敵対した。彼らは我が王家の足を捕らえた。アッシュール神とイシュタル神は、彼をして、彼らに手枷、首枷をして、多くの贈り物と共に、私の前に送らせた。 この前の部分は読み取れないようです。これはリュディアのギュゲスを助けて、リュディアに侵入したキメリアをアッシリアが討った話しだと解されているようです。 ルディ(KUR.lu-ud-di)の王ググ(mgu-ug-gu)は、Oracc の Ashurbanipal 009 にあります。この箇所と同じ記述があって、破損個所の部分も読めるようです。 父の代までリュディアの存在は先代には知られていなかった。神意によってギュゲスは夢で私を知った。ギュゲスは私に使者を送った。 と、言った内容で始まります。 アッシリアが行った行動は記されていないようです。 リュディア王国がアッシュールバニパルの代まで知られなかったのは、リュディアがフリギアなどを抑えてアナトリア西部を占めたのがこのころだったからだと思います。 しかし、アッシリアはアナトリア半島西部の事情に詳しくないようです。アッシュールバニパルの代になってタバルが献納に来たので、アナトリア半島の付け根の南部はタバルまでがアッシリアの勢力圏でした。北はウラルトゥ王国によって阻まれています。
第4の遠征はギルバドと言う都市のようです。
- ギルバド(URU.GIR-BAD)は、ハレハスタ(KUR.ḫa-le-e-ḫa-as-ta)の内にある。その都市の支配者はタンダ(mta-an-da)で、我が先王たちは征服していなかった。ギルバドの住民は略奪を常とした。
私は征服し、アッシュール、シン(d30)、シャマシュ(dUTU)、ベル(dEN)、ナブ(dAG)、ニネヴェのイシュタル、アルベラ(LÍMMU-DINGIR)のイシュタルを安置した。 私はギルバドの支配者たちをアッシリアへ連れ去った。
- アハシェリ(maḫ-še-e-ri)は、私の遠征を聞いて夜に奇襲を掛けてきた。3か所で2時間の先頭の後、彼らの敗北が明らかとなり、広い草原は彼らの死体で満ちた。
- 私が進行するアッシュール、シン、シャマシュ、偉大な神々の命によりマンナエ(KUR.man-na-a-a)に進軍した。アイウシアシュ(URU.a-a-ú-si-áš)、ビラチ(URU.ḪAL.ṢU.MEŠ)、アシャシュ(URU.áš-šá-áš)の要塞、ブスドゥ(URU.bu-su-UD)、アシュディアシュ(URU.áš-di-áš)、ウルキアムン(URU.ur-ki-ia-mu-un)、ウピシュ(URU.up-pi-iš)、シフア(URU.si-ḫu-u-a)、ナジニリ(URU.na-zi-ni-ri)と、8つの要塞都市、イジラテ(URU.i-zir-te)の数えきれない小都市を破壊し、捕縛し、焼き払って進んだ。
私はそれらの都市の人、馬、ロバ、牛、羊、その他を戦利品とした。 アハシェリは私の遠征の報に彼の首都イジラテを放棄して、彼が信仰を置くアトラーナ(URU.at-ra-a-na)に逃れた。 私は彼の要塞都市イジラテ、ウルメーテ(URU.ur-me-e-te)、ウズビア(URU.uz-bi-a)を包囲して、閉じ込め、追い詰め、命を縮めさせた。 私は、破壊し、焼き払い征服した。 15日を費やして、死の静寂をもたらした。
- 運勢の途上、旧領主が連れ去られたパディ(URU.pad-di-ra)を征服した。先王たちの任じた王たちにマンナエは返され、アッシリア領に復した。
私はアラシアニシュ(URU.ar-si-ia-ni-iš)を平らにし、焼いた。 それは、アザカナニ(URU.a-za-qa-na-ni)と、マンナエのクムラダー(KUR.ku-mu-ur-da-a-a)の山々の先頭にあるハラシ(KUR.ḫa-ar-si)の山の間にある。 私は、その要塞の司令官ラーディシャデ(mra-a-a-di-šá-de-e)を殺した。 エリサテイア(URU.e-ri-is-te-ia-na)を征服した。 私は多くの戦利品と共に無事に帰路に就いた。 そして、私は再びアッシリアの地に足を踏み入れた。
ここまでが第4の遠征で、以降が第5の遠征のようだ。
- 先王たちの時代、アッシリアの領土であった、ビルア(URU.bi-ir-ru-a)、シャルイクビ(URU.LUGAL-iq-bi)、グシネ(URU.gu-si-né-e)を征服した。
私はマンナエを分割した。 私は、馬、バグ、その他の兵器をアッシリアへ運び去った。
- 我が王権を恐れないアハシェリは、アッシュール神とイシュタル神の神意により、家来たちの手で捕らえられた。土地の人々はアハシェリに反乱を起こし、彼の死体は町の通りに横たわった。
- その後、彼の息子ウアリ(mú-a-al-li-i)が玉座に座った。
彼は、アッシュール、シン、シャマシュ、ベルとナブ、ニネヴェのイシュタル、アルベラのイシュタル、ニヌルタ(dMAŠ)、ヌスク(dnusku)、ネルガル(dU.GUR)、偉大な神々の力を見た。 彼は我がくびきに繋がれた。 彼は助命のため、継承者のエリシニ(me-ri-is-in-ni)をニネヴェに送って帰順の意を示した。 私は慈悲の心を持って、彼に和平の使者を送った。 彼は娘を家政婦に差し出した。先王によって廃止されていた彼の税を増やし30頭の馬が加えられた。
- ビリシャトリ(mbi-ri-is-ḫa-at-ri)がマダア(mad-a-a)の町の支配者だったとき、サヒ(KUR.sa-ḫi)の支配者ガギ(mga-a-gi)の2人の息子、サラティ(msar-a-ti)とパリハ(mpa-ri-ḫa)は、我が王権のくびきを捨てた。
私は75の要塞都市を征服し彼らを生きたままニネヴェに連行した。
- ウラルトゥ(KUR.ur-ar-ṭa)の方面元帥アンダリ(man-da-re-e)は、私に従うクリメリ人の住む、ウプメ(KUR.up-pu-um-me)、クルメリ(KUR.kul-li-im-me-ri)を夜間に攻撃した。
彼らは誰も生き残らなかった。 アンダリの頭を切断してニネヴェの私の前に送った。
第6の遠征はエラムに向けたものでした。エラムはアッシリアのように伝統のある強国だったものと思います。
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第6の遠征を行った。エラム(KUR.ELAM.MA.KI)の王ウルタク(mur-ta-gi)は反乱を起こした。ウルタクは、我が先王の恩を忘れ、私との友好関係を尊重しなかった。 エラムで飢饉のとき食料を援助した。エラムに再び雨が降るまで難民をアッシリアで保護した。 そのエラムが反抗するとは思わなかった。 ガンブラー(KUR.gam-bu-la-a-a)のベルバシャ(mEN-BA-šá)、シャンダバク(LÚ.GÚ.EN.NA)のナブカメシュ(mdAG-MU-KAM-eš)は私に忠実だった。エラムの王ウルタクの宦官の長のマルドゥクシュムイビニ(mdAMAR.UTU-MU-DÙ)の嘘によってエラムの王はシュメールとアッカドを攻撃した。
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エラムは直接私を攻撃するることなく、バビロニアへ向けられた。 伝令は急をニネヴェに伝えた。 ウルタクは定期的に平和なメッセージを送っていたので、私は、直ちに事態が把握できなかった。 伝令の急報は、イナゴのようにアッカド全土を覆い、エラムが駐留していることを知らせるものだった。 私は、ベルとナブの助力で兵を集め軍を編成し、バビロンに向かった。 私が遠征すると言う知らせは、ウルタクを圧倒した。彼は国に帰還しようとした。 私は、国境線で彼を保護した。
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ウルタクは、私との友情を光栄とは思わなくなり、絶望の中で亡くなった。
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我がくびきを捨てたガンブラーのベルバシャはネズミの一噛みで亡くなった。
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シャンダバクのナブカメシュは、神々の王マルドゥクによって罰せられた。
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関係者は一年以内に死に、アッシュールとイシュタルを慰めた。
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エラムの王権を堂々と打ち破り、エラムの支配権は引き渡された。 その後、悪魔のようなテウマン(mte-um-man)がエラムの王座に就いた。彼はウルタク(mur-ta-gi)の子供と、ウルタクの兄弟ウマンアラダシ(mum-man-al-da-si)の子供の謀殺を企てた。ウマニガス(mum-ma-ni-gaš)、ウマンアパ(mum-man-ap-pa)、タマリティ(mtam-ma-ri-ti)は、前のエラムの王ウルタクの息子たちだ。 クドゥル(mku-dúr-ru)、パル(mpa-ru-u)は、ウルタクの先王であるウマンアラダシの息子たちだ。 テウマンの虐殺の前に、60の王室のメンバ、無数の射手と貴族たちはアッシリアの王の元に逃れた。
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私、アッシリアの王アッシュールバニパルは、創造神アッシュールによって、聖域を復元するために呼び出され、アルベラの貴婦人を安置する場所を求めて来た。しかし、テウマンは神々を尊重することなくエラムの王座にあり、私と戦う軍の編成を終えた。
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神アッシュールと女神は私が王であることを望んだがエラムの王はアッシリアに軍を進めるため武器を磨いた。
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エルル(ITI.KIN)の月、女神たち(dINANNA.MEŠ)によってアッシュル神を祭る、シン神の月に、天(AN-e)と地(KI-tim)の輝き。 私は、誰も否定できない、我が主、女神イシュタルの創り出す、まぶしい輝きに信仰を置く。 私は兵を集め軍を組織した。 それは、戦いの熱によって、はためくアッシュール、シン、イシュタルの神々の統率する戦闘員である。 私は、エラムの王テウマンに直行した。テウマンはビトインビ(URU.É-im-bi-i)に陣取った。 彼は、我が王族がデリ(BÀD.AN.KI)に入ったことを聞いた。 恐怖は彼を支配した。
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テウマンは恐れを抱き、スサ(URU.šu-šá-an)へ転進した。命を守るために土地の人々に金銀を配った。彼の同盟国はイドゥラー(ÍD.ú-la-a-a)(川)を隔てて、私の前に集結した。
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私が信仰する偉大な神々、アッシュール、マルドゥク(dAMAR.UTU)、我が主は、良い前兆や夢、エギルの信託()、恍惚状態での知らせを送って、私はチルツバ(DU₆-URU.tu-ba)のうちに彼らの敗北を決定付けた。 私は、彼らの死体でイドゥラー川を塞いだ。 そして、彼らの死体がキュウリやラクダ草であるかのようにスサの領域を満たした。
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私は彼をテウマンの玉座に据えた。そして、テウマンの第三の兄弟タマリティ(mtam-ma-ri-ti)をヒダル(URU.ḫi-da-lu)の王とした。 アッシュールとイシュタル、偉大な神々への信仰によって、スサとイドゥラー川の間にあった、戦車、ワゴン、馬、ラバなどの軍の装備、それを運ぶ部隊を、私は捕獲した。 アッシュールとマルドゥク、偉大な神々、我が主の命ずるところにより、私は喜んでエラムからこれら全て持ち去った。 これは我が軍にとって完全な幸運だった。
次は第8の遠征と記されているので、上の記述は、6次と7次の2回の遠征です。
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エラムの王が信仰を置くガンブル(KUR.gam-bu-li)の、ベルイキシャ(mEN-BA-šá)の息子ドゥナヌ(mdu-na-nu)の反乱に対して遠征を行った。 和が戦闘部隊は霧のようにガンブルを覆った。私は川に挟まれた要塞都市シャピエン(URU.šá-pi-EN)を征服した。 私は生きたままヅナヌと、その兄弟を町の外に連れて来た。 私は、彼の妻、彼の息子、娘、彼の妾、彼の男性歌手と女性歌手を持ち去り、戦利品に数えた。 私は、彼の宦官の長、彼の廷臣、職人、彼の料理人を連れて来て、戦利品に数えた。 私は多くの学者を戦利品に加えた。 私は数え切れないほどの牛、羊、馬とラバなどの動物を戦利品に加えた。 彼の土地の人々、男も女も、若者も都市よりも、私が戦利品に加えたもの以外は残された。
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私は、エラムの王テウマンの射手の長、マシラ(mmas-si-ra-a)を生きたまま捕らえた。彼はシャピエンやガンブルにあってドゥナヌを守った。 私はマシラの首を切って頭をドゥナヌの顔に投げつけた。彼は見方を救えなかった。 私は町を水没させ全滅させ、廃墟とした。 私は無事にニネヴェに帰還した。
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私はエラムの王テウマンの頭をドゥナヌの首にかけた。 私はイシュタルナンディ(mdiš-tar-na-an-di)の頭を、ドゥナヌの第2の兄弟サムグナ(msa-am-gu-na)の首にかけた。 私は、ガンブルの戦利品と共に、お祝い騒ぎの中、ニネヴェに入った。
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ナブダミク(mdAG-SIG₅-iq)はベルトの短剣で自らを刺した。
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ニネベの城塞の街の門の前で、私はアッシュールとイシュタル、偉大な神々の威光を示すためにテウマンの頭をさらした。
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アプライア(mIBILA-a-a)は、ナブサリム(mdAG-sa-lim)の息子、マルドゥク・アプラ・イディナ(mdAMAR.UTU-A-AŠ)の孫である。 我が先先王の代に、エラムに逃れていた。 私がウマニガシャ(mum-ma-ni-gaš)をエラムの王とした後で、ウマニガシャはアプライアを捕らえて、私の前に送って来た。
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ガンブル人のベルイキシャの息子、ドゥナヌとサムグヌ(msa-am-gu-nu)の、前の王は、我が先王に嫌がらせをした。彼らは我が王権をかく乱する者たちである。後世のために彼らをバルチル(bal-til.KI)とアルベラの内に置いた。
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ウラルトゥの王ウルサ(mur-sa-a)は、我が主、アッシュルとイシュタルの威光を聞き知った。我が王族の威光と恐ろしさは彼を圧倒した。 彼はアルベラの内に使いを送って、私の機嫌を取った。 馬やラバ、・・・、ラッパのような容器、笏などを送って来た。
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エラムの王の使者、ナブダミク(mdAG-SIG₅-iq)とウンバダラ(mum-ba-da-ra-a)を侮蔑の高札とともに立たせた。 ドゥナヌの代理人マンウキアヘ(mman-nu-ki-PAP.MEŠ)と、ガンブルの監督ナブウサリ(mdAG-ú-ṣal-li)、我が神々を冒涜した人々、彼らの下雄抜いてアルベラから追った。 ドゥナヌはニネヴェにおいて、子羊のように屠殺された。
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ドゥナヌとアプライアの他の兄弟たちを、私は殺し、彼らの死体を骨抜きにして全ての国々に見せしめに送られた。
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ナブシュムエレシュ(mdAG-MU-KAM-eš)の息子たち、ナブナイド(mdAG-I)、ベルエチル(mEN-KAR-ir)と、サンダバク(LÚ.GÚ.EN.NA)のウルタクはアッカドと戦った。 私はニネヴェの城塞の門の前で彼らをさらし、彼の息子たちはガンブルから引き出されナブシュムエレシャの骨を砕いた。
カルデアと訳される場所の出来事
- エラムの王テウマンの息子ウンダシ(mun-da-si)、ピラテ(KUR.pil-la-te)のザザズ(mza-za-az)、ヒルム(KUR.ḫi-il-mu)のパル(mpa-ru-u)、射手の王アタメツ(mat-ta-me-tu)、エラムの軍を指揮するネス(mné-e-šu)、シャマシュシュムウキン(mdGIŠ.NU₁₁-MU-GI.NA)は、アッシリアと戦うために同盟した。
ウマニガシュは、お前を生み出した父への復讐すると言った。 ウンダシ、ザザズ、パル、アタメツ、ネスはシャマシュシュムウキン、私の敵である兄の使者であり、バビロンへそのまま向かった。
- 神々はウマンガシュに関する信頼性の高い意思決定をした。
タマリツは彼に反抗し、剣に自らと家族を向けた。 ウマンガシュより横柄なタマリツがエラムの王座に座った。
- まさにウマンガシュのように、タマリツはシャマシュシュムウキンからの賄賂を受け入れ、我が王権の助けを求めなかった。
彼は私と戦うために、私の不実な兄弟シャマシュシュムウキンの助力を求めた。 その後、ウマニガシュのしもべ達は反旗を翻し、私に悪を成す者たちは、互いに殺し合った。反乱を搖動したインダビビ(min-da-bi-bi)は玉座に就いた。
- エラムの退位した王タマリツは、テウマンの断頭された頭に横柄なことを言った。私の軍の低位の兵士は首を切られた。そして、その兄弟、家族、父の家の種子たち、85のエラムの貴族たちは彼と共に進軍して、神アッシュールと女神イシュタルの武器の前に飛び散った。
- エラムの王の射手(GIŠ.PAN.MEŠ)タマルツは、アッシリアと戦うこと誇りに思っていた。
- (シャマシュシュムウキンはアッカドを基盤としているようだ。カルデアやカルデア人とは言わないようだ。)
- 彼は慈悲を持っていなかった。男は恋人を捨て、父は心から愛する息子を捨てた。互いの死を見ていないので彼のために彼の敵を殺すことを約束した。
疫病と悪寒によってアッカドの人口は減った。 最後には彼らは町と草原の間で剣で殺し合いをした。 総督、彼らの牧夫は怒りに任せて残った人々をさらに減らした。 人々の死骸は通りや道端に横たわり、扉は塞がれた。死は町と王子を覆った。 静寂が包み、蓄えもなかった。雇われ労働者は嘆き悲しんだ。 川は泥や堆積物で満ち、かつての豊かな水のせせらぎは聞こえない。
- シャマシュシュムウキン、私の敵である兄弟()、彼はアッシリアに対する殺人を企てた。そして、私を生み出した神アッシュールへの冒涜の言葉を語るもの。
偉大な神々は彼の痛みを伴う死を定め、彼らは烈火に委ねられた。
- (私は彼らを厳罰に処した。)
- タマリツの後、エラムの王座に座ったインダビビは、エラムを廃墟にした私の軍事力の威力を見た。
マルドゥク・アプラ・イディナの息子ナブベルシュマテを支援するために私が送ったアッシリアの市民は、自分の国を守るために友人のように進軍した。 ナブベルシュマテたちは夜にひそかに捕らえられ、拘束された。 エラムの王インダビビは、彼らを解放した。 インダビビは、私の前に使者を送って、領土の境界線を善意と平和を伝えた。
- マルドゥク・アプラ・イディナの息子ナブベルシュマテのエラムに、私の従順な家臣を行かせた。そして、アッシリアの市民を密かに、まだ捕らえていることを知った。
私は使者を送って以下のように伝えた。 「あなたは、それらの人々を私に送っていない。私は、そこへ行ってあなたの街を破壊する。」 私はスサ、マダクツ()、ヒダル()の人々を連れ去る。私は堂々とあなたの王位を消し去る。私は新たな王を任ずる。テウマンの前に逆らった者達と同じ扱いをする。
- 私の使者が彼の元に達する前に、私の言葉が彼のために繰り返される前に、彼は神々に守られた私の王へ進軍を始めた。
エラムの人々はインダビビに反乱を起こし、人々は剣で彼を刺殺した。 アタメツの息子ウマンダラシュをインダビビの玉座に置いた。
- ナバティアの王は逃げた。
- テリ()の息子アビラテ()はニネヴェに来て、帰順の意を示した。
私は敬意を払って条約を結んだ。私は()ラウタの代わりに彼を王に任じた。 私はしっかりと金、宝石()、コール、ラクダ、そして色とりどりのロバの献納品を定めた。
- 常にアッシリアに敵対的で、常に我が名の及ぶ西方で略奪を行う、クエダの王アムラディン、
- ナトヌは良い方法を我が王室に聞かなかった。
ラウタの後、アラビアの王、私の従順な家臣、ナバティアに逃れナトヌの前に来た。ナトヌはラウタに次のように言った。 「私はアッシリアの追っ手を逃れられるのか?それとも、私はあなたの要塞に捕らわれたのか。」 ナトヌは、私に、事態を知らせ、私の支持を仰ぎ、帰順の意を示した。 彼は常に平和の条約の締結を望み、高貴な人々に訴え、私に敬意を示した。 私は彼を好意的に見て、彼に友好を示した。 私は、年々の献納と朝見を定めた。
- この碑文は私によって書かれ、未来のために埋められる。
私の英雄的な行為は、アッシュール、シン、シャマシュ、ベル、ナブ、ニネヴェのイシュタル、アルベラのイシュタル、ニヌルタ、ネルガルへの信仰によって、非常に称賛される。 私は絶えず領土を行進し、私の力と勝利を示した。
最後は以下のように結ばれる。
我が名を刻んだ、あるいは我が父エサルはドンの名を刻んだ碑文を破壊する者、あるいは自らの名を刻んで碑文の安置しない者は、天にあり、地にある偉大な神々の怒りによって呪われ、王位を失い、その名と子孫が地上から消え去る。
シャマシュ・シュム・ウキン
シャマシュ・シュム・ウキン(Shamash-shum-ukin)は、「mdGIŠ.NU₁₁-MU-GI.NA」と転写されています。これは、Unicode の文字の名で、DISH-AN-GISH-NU11-MU-GI-NA と綴られたことを示すものと思います。 この名の実際の刻文は、BM90281 のブロックの刻印で知られるようです。その該当部分は左図のようですが、定かではないようです。 特にUnicode の NU11(12262)は、新アッシリアのフォントでは該当がないようです。 名前の読みの根拠を考えて見ます。まず、Shamash は神名と考えられます。神シャマシュは、AN-UD と綴って、{d}utu と翻字されることが多いようです。AN-GISH-NU11 が utu であることから確認が入りそうです。ただし、UD と GISH は良く似ているので、翻字の AN-GISH は、utu です。MU は、「名前」と言う意味でアッカド語の shumu に当たると言うことのようです。これは音と訓話しで、アッカドの訓は、izu(木)やshattu(年)など他にもあります。GI.NA と言う記述は、GIの字形とNAの字形を組み合わせて1文字にしてあると言うことだと思います。GI-NA は古くから「to be permanent」の意味で記されました。 おそらく、gina はシュメール語の読みで、アッカド語では kinu のように読まれたと解されるのだと思います。 日本語の音訓を考えれば、楔形文字で DISH-AN-GISH-NU11-MU-GI-NA と表記する以外にはないことは明らかだと思います。しかし、楔形文字は表示されないことも多いので、新しい慣習としてシャマシュ・シュム・ウキンとなるのだろうと思います。 エサルハドンのように旧約聖書などの文献で伝わった名と異なり、近年になって知られた名だからですが、ギリシャ語ソースには該当がある可能性が残っていると思います。
この刻文でも英訳で「私の兄弟」となっていて、シャマシュ・シュム・ウキンとアッシュールバニパルは兄弟です。 漢字圏は「兄(姉)」と「弟(妹)」があって、熟語として「キョウダイ(兄弟/姉妹)」があります。「キョウダイ」は、「兄弟」を音読みすることで生じた日本語で、漢字伝来より前からある語ではありません。 「はらから」は、大和言葉かどうかは良く分かりませんが、「はら」や「から」が「氏」や「族」を表してきたことは確かそうです。 かも知れません。「はらから」には、「同胞」の文字が割り当てられました。 楔形文字のSHESH(122c0)は brother、NIN9(12390)は sister と訳されています。 EA1(アマルナ文書)で、カルドニアシュ(バビロニア)の王は、エジプトのファラオに ahi-ia(SHESH-IA)と呼びかけました。「אחיה」と見られ brother と訳されています。 おそらくヘブライ語には女性型があることとで、SHESHとNIN9や、brotherとsisterと言った区別が生じていて、日本語と同様に、表現上の必要性から分かれているのではないと思います。つまり「はらから」のような語だけで済んでいたと言うことであり、人は短命であったと言う以外には無いように思います。
エルサルハドンが亡くなる3,4年前の紀元前672年に皇太子が亡くなり、エルサルハドンは、アッシュールバニパルをアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロニア王とすることを定め、臣下に忠誠を誓わせたとされています。臣下との約定を記した文書が複数残っているようです。紀元前669年にエルサルハドンが亡くなると、アッシュールバニパルが即位し、アッシュールバニパルが任ずる形で翌年シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王となったようです。 紀元前648年までの20年ほど王座にあったようです。 即位から17年ほど経った紀元前652年に、反乱を起こし2年の籠城の後、バビロンで亡くなりました。 シャマシュ・シュム・ウキンの後の、バビロニアの王はカンダラヌとされています。在位は紀元前647年から、紀元前627年で、アッシリアによって任じられた最後の王になります。
ヒュスタスペス
ベヒストゥン碑文で、ダレイオス1世は父をヒュスタスペスと記しているとされています。 Unicode の文字名で翻字すると、USH-TA-PIRIG TIMES ZA-PI のように読まれています。 音を良く表すと考えられるペルシャ楔形文字部分からは、イシャタサパハヤのようです。 エラム語部分は音節文字で、最も良く音を表しそうですが、ミシュダシュバやミシャダシャバのようです。 ウシャタザピやイシャタサバハヤはヒュスタスペスと聞こえないこともありません。 アッカド語部分とペルシャ楔形文字部分は、同じ音を写したものと思います。 ミシュダシュバもヒュスタスペスと聞こえないこともありません。 しかし、アッカド語部分やペルシャ楔形文字部分とは異なった音を記したのかもしれません。
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