マネト、ベロッソス
マネトはエジプトの王名表、ベロッソスはバビロニアの王名表を伝えたことで知られます。 共通するのは、地元の神官で、アレクサンドロス3世の築いたマケドニアの帝国に仕えて、ギリシャ語による記録を残したことです。 神官はさまざまな記録を持っていたと考えられ、地元の文化や伝承にも詳しいと考えられていたものと思います。19世紀になって古代の文字が解読されるまでは、唯一の信頼性の高い記録と考えられてきたものと思います。 しかし、いずれもアケメネス朝ペルシャの長い支配の後のことです。
マネトはエジプトの王名表を、ベロッソスはバビロニアの王名表を作った訳ですが、両者には類似性があるとされているようです。 セレウコス朝とプトレマイオス朝は、それぞれ紀元前312年、紀元前306年に始まるとされています。もともと1つのマケドニアの帝国なので、バビロニアとエジプトには同じ指示が出されていて不思議はありません。役人も共通だったかも知れません。当初からアレクサンドロス3世は論功や扮装裁定のために地誌の収集を行ったものと思います。 また、両者は共に失われていて、今日伝わった内容は、後代の共通の歴史家の引用に依っています。しかも、アルメニア語やラテン語のテキストで後代に伝わっていて、英訳で公開されています。人名や地名がどのように転写されて来たかは良く分かりません。 2人がヘロドトスの「歴史」を読んでいたことも確かなこととされているようです。
マネト
紀元前550年ころアケメネス朝ペルシャが興り、エジプトはカンビュセスの遠征を受けました。紀元前330年ころアレクサンドロス3世がアケメネス朝ペルシャを討って帝国を築きました。マネトは紀元前300年ごろのエジプト人でプトレマイオス朝に仕えた神官だったと考えられています。 おそらく、エジプトの王朝のイメージはプトレマイオス朝の時代のものが後代に伝わったものと思います。 一方、発掘や古代の文字の解読で語られるエジプトは、おもに新王国時代までのエジプトだと思います。新王国時代最後の第20王朝は紀元前1070年ころに滅びました。 第26王朝は新アッシリアの支援を受けて紀元前664年に始まります。これに先だって、新アッシリアはメンフィスなどを一時占領しています。 エジプトは、第20王朝の時代から河口に近い地域だけを支配する王朝によって代表されるようになります。河口に近い地域は民族的にも入れ替わり、言語や文化は大きく変化したものと思います。 アケメネス朝ペルシャのエジプト支配には断絶がありますが、エジプトが新王国の時代のようになった訳ではなく、ギリシャと同盟した反乱に近いものだったろうと思います。 アケメネス朝の時代、エジプトの神官がどのような存在だったのかは良く分かりません。プトレマイオス朝はエジプトの復古調を好み寺院を王朝が支えたことは確かそうです。 マネトは、紀元前300年ころにおいて、エジプトの歴史を語るに最もふさわしい人物だったことは確かかも知れませんが、今日知られる新王国時代以前の文化は既に失われていたと考えられます。マネトが直接に知るのは、アケメネス朝ペルシャのエジプト、あるいはギリシャと同盟したエジプトなのだと思います。 マネトから百年経って、ロゼッタストーンが刻まれました。それが物語るのは、マネトがエジプトの古文書を読めたと言うことではなく、逆にヘレニズム期になって再構成された復古調のヒエログリフが書かれたと言うことではないかと思います。 マネトはプトレマイオス1世の求めに応じてエジプトの歴史を語り、古文書を読んだものと思いますが、その時代の解釈によるものであって、今日の解読法とは異なるものだったのだと思います。
マネトは「エジプト誌」を表しました。「アイギュプティカ(Aegyptiaca)」と呼ばれますが、伝来しませんでした。 19世紀になってエジプトの古代のヒエログリフやヒエラティックが解読されるまでは、ヘロドトスとマネトが古代エジプトのほぼ唯一の資料だったのだろうと思います。ヘロドトスは第26王朝のことを詳しく記しています。 今日では、王名は発掘された碑文を解読して得られたものが使用されています。マネトの王名表の王の名や在位は、アビュドスなどに残された碑文の王名表とは一致しないことが知られます。マネトの伝えた2千年に及ぶ王名が、19世紀に解読された碑文と一致しないのは不思議ではありません。しかし、マネトが残した王朝の区分は現在でも、そのまま使用されています。
伝来しない「アイギュプティカ」の内容は、ヨセフス(Josephus)、アフリカヌス(Africanus)、エウセビオス(Eusebius)、およびシンケアレス(Syncellus)の著述にある引用によって知られるようです。「アイギュプティカ」は3巻から成り、それぞれ、半神の時代から第11王朝まで、第12王朝から第19王朝まで、第20王朝から第30王朝まで、が記されていたとされています。 アケメネス朝ペルシャは、第27王朝から第30王朝の3王朝に表現されていたようです。
エウセビオスの「年代記(Chronica)」はルーマニア語に翻訳されたものが不完全ながら残ったようです。さらに、「年代記」の引用がジョージ・シンケアレス(George Syncellus)の「Extract of Chronography」によって知られるようです。
Extract of Chronography セクトゥス・ユリウス・アフリカヌスとエウセビオスの両方からの引用。 死者の魂と半神の後に8人の王の第1王朝を列挙する。指導者として知られたメネスが最初の王だった。王朝は世襲で記録される。その系譜は以下の通り。
1st dynasty
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Menes |
60 |
17(あるいは7)の子孫。 ヘロドトスはMenと言った。 国外に遠征した。カバにさらわれた。 |
Athothis |
27 |
メンフィスに王宮を築いた。 医学や解剖学の書物を著した。 |
Kenkenes |
39 |
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Ouenephes |
42 |
飢饉が起きた。 Kochomeの周辺にピラミッドを建てた。 |
Ousaphais |
20 |
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Niebais |
26 |
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Semempses |
18 |
多くの凶事の兆しがあり、疫病が広がった。 |
Oubienthis |
26 |
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252 |
(合計は258) | |
洪水の後の、第1王朝と第2王朝を合わせた期間を、アフリカヌスは555年と記録した。 第2王朝の8番目のSesochrisは、背丈が5キュビット(2.6m程度)で、3パルム(0.26m程度)だった。 第2王朝の9番目の治世は何もなかった。 第2王朝の期間を297年とした。 第1王朝と第2王朝を合わせた期間をエウセビオスは549年と記録した。
Third dynasty(アフリカヌスによるメンフィスの9王)
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Necherophes |
28 |
リビア人が反乱を起こしたが月が予想外に 満ちリビア人は恐怖から降伏した。 |
Tosorthros |
29 |
医術によってアスクレピオスと尊敬された。 石を切り出して芸術的な建造物を造ること を発明した。 書を探求した。 |
Tyreis |
7 |
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Mesochris |
17 |
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Soyphis |
16 |
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Tosertasis |
19 |
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Aches |
42 |
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Sephouris |
30 |
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Kerpheres |
26 |
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214 |
(洪水から)769年と記録。 | |
Third dynasty(エウセビオスによるメンフィスの8王)
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Necherochis |
- |
リビア人が反乱を起こしたが太陽が突然 満ちリビア人は恐怖から降伏した。 |
Sesorthos |
- |
医術によってアスクレピオスと呼ばれた。 石を切り出して芸術的な建造物を造ること を発明した。 書を探求した。 |
- |
- |
何の記すべきこともなされなかった。 |
198 |
(洪水から)747年と記録。 | |
「Extract of Chronography」には、同じ個所の異なるソースの記載が集められているのだろうと思います。 1巻から3巻まで概ね揃っているようですが、マネトの記述かどうかは明瞭ではありません。 はっきりしているのは後代のユダヤ教やキリスト教の聖職者が聖書との年代的な整合性を気にしていることでマネトの時代には無かったことだろうと思います。 エウセビオスからの引用も、言語や版ごとに差異があるもののようです。
ベロッソス
地誌編纂がアレクサンドロス3世の帝国の命によるなら、マネトより先に編纂が始まったのだろうと思います。 アレクサンドロス・ポリュヒストルの著述には、ベロッソス自身が「アレクサンドロス3世と同時代人だ」と記しているとあります。 それ以外には、「バビロニア誌」が後の歴史家に引用されたこと、建築関連の書物に名があること、だけが確かなことのようです。 ウィトルウィウス(Vitruvius)は紀元前80年ごろのローマの建築家で「建築について」と言う文書を残しました。その書にベロッソスの名があります。(Vitr. 9.6) 建築に必要な占星術と気象の予測はカルデア人の計算による以外にない、と言っていて、偉大なカルデアの計算法はベロッソス(Berosus)がコス島に学校を開いたことによってもたらされました。 ベロッソスの著作は失われていて、引用も断片的なもののようです。 王名表については、シュメール王名表の最初の部分が、旧約聖書の創世との関連性から伝わったようです。
注意が必要なのは、引用した文献が書かれた時代のバビロンは既に廃墟となり、居住に適さない地域になっていたことだと思います。 アレクサンドロス3世はバイロンを王都とした訳で、ベロッソスが記した時代とは全く異なっていたことになります。 引用した人々は、遠い過去のことだと言うだけでなく、伝説のように感じていたことが推測できます。
実際にはマネト同様、ジョージ・シンケアレス(George Syncellus)の「Extract of Chronography」によって取集された物が英訳され、知られるようです。
アレクサンドロス・ポリュヒストルがベロッソスのバビロニアの歴史の記述として上げていること。
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ベロッソスのバビロニアの歴史の1巻で、 ピリッポスの息子アレクサンダーの時代に生きた。
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無限の年月の15の世界と、天と海の歴史、人類、王の誕生と、その記念すべき行動の記録が含まれる。
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チグリス川とユーフラテス川の間に位置するバビロニアは小麦、大麦、オルクス、ゴマに富んでいた。湖で生産されるgongreは大麦に似た栄養があった。
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湖は飛ぶ魚や鳥で溢れた。
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アラビアとの境界は水がなく不毛だったが、他の3方向は丘で肥えていた。
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バビロニアの列国は野獣のような無法状態で暮らしていた。最初の年、エリトリア海(紅海)のバビロニアの側の動物がめったにいないところからオアンネスが現れた。 アポロドロスによれば全身が魚で、魚の頭の下に、さらに頭がって、尾の当たりに人と同じように足もあった。 言葉を発して明瞭に人と話した。 オアンネスの容姿は今日まで伝わっている。
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オアンネスは人々ととに過ごした。その間何も食べなかった。 オアンネスは人々に文字や科学、あらゆる技芸を与えた。都市を建設し、寺院を見出し、立法を行うように、物事の原理や幾何学を説明した。 地上の種の見分け方を示し、果物を収穫して見せた。 一言でいえば、オアンネスは、風習を和ませ、人が人として暮らすための全てをやって見せた。 その時から加えられた物はない。 日が沈むと、両生のオアンネスは海に帰り、深い所で夜を過ごした。 ベロッソスは、オアンネスのような動物が現れた場合も王名表に加えた。
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オアンネスは人の発生と社会制度について著述した。 その要旨は以下の通り。
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闇と水の深淵以外には何もないときがあり、そこには恐ろしい生物が住み、根本が2つに畳まれていた。 人が現れ、2つの羽を持つ者と、4つの羽を持つ者がいた。 彼らは双頭だった。一方は男性、他方は女性だった。体も両方の器官を持っていた。 他の人々は山羊の葦や角を持っていた。馬の足を持つものもあった。ヒポケンタウルスに似ている。 飼育された牛は人の顔をしていた。四重の体の犬の尾は魚の尾だった。 犬の頭の馬がいた。 人も他の動物も馬の頭と体を持ち、魚の尾を持っていた。 要するに、いろいろな動物の五体の全ての組合せがあった。 それらに加えて、魚類、爬虫類、蛇の仲間が他の怪物たちと共に、さまざまな形や顔付に組み合わせられていた。 それらは全てバビロンのべロスの神殿に描かれて残っていた。
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これらのことを取り仕切ったのはオムロカと言う女だった。カルデア人はセアラトゥ(ティアマト)と言った。ギリシャ人の海(サラサ)である。あるいは月と解された。 全ての生き物がこのようであったとき、べロスが来てオムロカを引き裂いて、天と地を造った。そのとき、女の体内の生き物は滅んだ。 これは寓話として自然を説明したものだ。 全ての宇宙は水の中にあり、 生物は絶えず、その中に生成されます。 神であるべロスは自分の頭を取り、他の神々は血液を混合し、大地と共に噴き出して、そこから人を想像しました。 このために、人は合理的な存在で、神の知恵を分かち合っています。 べロスは木星を示し、闇を分かって、天と地を分ち、宇宙を定まった大きさに縮退した。 光によって生き物は死んだ。 その時べロスは頭を取って、神の一人に命じて、大地と血液を混合させた。 そこから、大気の中で生きられる人と動物を造った。 べロスは星々と太陽、月、5つの惑星を造った。
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博学のアレクサンドロスによれば、以上がベロッソスの1巻の内容である。
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第2巻は、カルデアの10人の王の記事がある。合計が120サリーに及ぶそれぞれの在位期間が記された。32,400年で大洪水のあった。 アレクサンドロスはカルデアの文書から王を列挙し、9番目のアラダテスの次に10番目のザイサトラス(Xisuthrus)を記録した。
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ザイサトラスはクロノスであるらしく治世の大洪水の話しが記されるがアレクサンドロスの著述らしい。
アビディノス(Abydenus)
- 最初の王はAlorusだった。神は彼を人々の羊飼いに任じた。
在位は10サリー。1サラスは3600年とされる。neros は600、sossus は60年。
- 彼の後Alaparusは3サリー在位。PantibiblonのAmillarusは13サリー在位。彼の治世に海から上がってきた第2のAnnedotusはオアンネス似た半神だった。Amillarusの後、PantibiblonのAmmenonは12サリー治めた。同所のMegalarusは18サリー在位、 Pantibiblonの羊飼いDAOSは10サリーの在位。
彼の治世に海から陸にやって来た4重字型の人物の名前は、Euedocus、Eneugamus、Eneuboulus、およびAnementus。 Euedoreschusの治世に別のAnodaphusが現れ、これらの後に他の王を治めた。Sisithrusが最後に王となった。 その結果、王の総数は10人だった。 そして120サリーの治世だった。 この続きは、大洪水の話しになるが、おそらくベロッソスの記述ではない。
- 地球の最初の住人は強くて大きく栄えていたので神々を見くびった。
空の上に達しようと人々は積み上げて塔を築いた。それは今のバビロンにあった。 それが天に近づいたとき風が神々を助け企てた者たちを襲って打ち倒した。 その以降は今もバビロンにあると言われている。 神は人の話し言葉に多様性を導入した。それまでは全ての人が同じ言葉を話していた。 そして、クロノスとタイタンの間で戦争が生じた。 彼らが塔を建てた場所は現在バビロンと呼ばれている。発音の混乱によってヘブライ語のバベルで呼ばれる。
ヨセフス(Josephus)
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アブラハムの名は記していないが、洪水から10代目時代には、正義と偉大な功績、天体科学によってカルデア人に知られた。
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ナボポラッサル(Nabonasar)の治世からギリシャの暦と同期して記されている。また、ナボポラッサルは、それまでの王の記念物を集め、自らがカルデアの最初の王になるように、破壊した。
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ナボポラッサルはエジプトとユダヤの反乱の知らせに対して息子のネブカドネザル(Nabuchodonosor)と大軍を向かわせた。 全てを征服し、エルサレムの神殿に火をかけた。 我が同胞を国外に追放し、バビロンに送った。エルサレムはペルシャのキュロス王の時代まで70年間荒廃した。 このバビロニアの王は、エジプト、シリア、フェニキア、およびアラビアを征服し、その偉業は、それまでバビロンとカルデアに君臨したいかなる王も上回った。
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ナボポラッサルはエジプト、およびコイレシリア、フェニキア地方の総督が反乱を起こしたことを知り、その滞納を罰することを決めた。 そのためにネブカドネザルに軍を分け与えた。ネブカドネザルは十分な年齢に達していた。ネブカドネザルは反乱の鎮圧に向かった。 ネブカドネザルは反乱を鎮圧し、再び反乱地域を併合した。 ナボポラッサルはネブカドネザルに帝国を残して急死した。 ナボポラッサルは29年の統治の後、バビロンで歿した。
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父の死を知ると直ぐ、ユダヤ人、フェニキア、シリア、エジプトに属する国、の捕虜のなかから協力的な士官たちに統治を委ねた。 重い鎧の兵と荷物を普通の時間でバビロンに向かわせた。 ネブカドネザル自身は少数を率いてバビロンを目指して砂漠を横断した。
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ネブカドネザルが帰還して見ると、忠実なカルデア人によって国政が行われていることが分かった。重臣たちは王国を守っていた。 彼は父親の全ての領土の所有権を取得した。 彼は捕虜を適切な場所に植民させた。 彼はこの戦争で得た戦利品を、見事な、敬虔な態度で、べロスの神殿と他の神殿に飾った。 彼は古い都市の外側に壁を作ってバビロンを完全なものに再建した。誰も川の流れを変えて包囲することが出来ないように3つの壁で外から囲んで、それを成し遂げた。 壁は、焼いたレンガとアスファルト、一部はレンガで作られた。 彼は町を見事に要塞化し、立派な門を備えた。先祖たちの宮殿に新しい宮殿を加えた。隣に立つ新しい神殿は高さと華麗さで上回っていた。 それを書き表そうとするのは冗長だ。 その驚異的な大きさと豪華さにも関わらず、15日以内に終わった。 彼はその神殿には、石の柱で支えた非常に高い、植栽された歩道が造られた。 それは、ペンシルパラダイス(垂下天国)と呼ばれ、あらゆる木が植えられた。彼は山岳地方の景色を精密に描かせた。 それは、妃を満足させるためだった。妃はメディアに生まれ、山岳の場面が好きだった。
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ネブカドネザルは前述の壁を築いたが、病気になって、43年間君臨して死んだ。 息子のアメル・マルドゥク(Evilmerodachus)が王位を継承した。 しかし、彼の政府は違法な不正を行い、姉妹の夫であるネルガル・シャレゼル(Neriglissoorus)に、在位2年の後、謀殺された。 陰謀の首謀者ネルガル・シャレゼルは王国を得て4年間在位した。
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息子のラバシ・マルドゥク(Laborosoarchodus)が王位を継承したが、まだ子供であり、不正行為によって捕らえられ、拷問によって殺された。 彼の死後、合意によって陰謀を企てた首謀者の一人ナボニドゥス(Nabonnedus)に王冠が与えられた。 彼の治世に、川の土手を守るバビロンの壁が焼かれたレンガとアスファルトで造られた。
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ナボニドゥスの治世の17年にキュロスは大軍を率いてペルシャから出て来た。アジアを征服すると残ったバビロニアを急襲した。 気付いたナボニドゥスは反撃に打って出た。ナボニドゥスは力を結集して対抗したが敗北した。少数の支持者と共にボルシッパへ逃れたが封じられた。 バビロンを取ったキュロスは、包囲を困難にしていた外壁の破壊を命じた。 キュロスはボルシッパへ向かった。キュロスが親切に扱ったので、ナボニドゥスは籠城することなく、バビロニアの外に送られ、カルマニアで過ごすことを条件に、キュロスに身をゆだねた。 ナボニドゥスは、その国で余生を送って亡くなった。
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ベロッソスの最初の巻は、ロースと呼ばれる11番目の月に5日間行われるサケア(Sacea)の祭りのことが記されている。5日間は家の主人は使用人に従う習慣がある。 使用人の一人が家の周りを回って、王のような装束を付け、ゾガネスと呼ばれる。
新バビロニア王国の王名がギリシャ文字でどのように綴られて伝わったのかは分かりませんが、どのように対応付けられているかを下表にして見ます。
新バビロニアの王
今日の歴史書の名 |
625-605 |
Nabonasar |
AN-AK-A-URI3 |
- |
604-562 |
Nabuchodonosor |
AN-AK-NIG2-DU-URI3 |
nab-ku-tur-ru-sir |
562-560 |
Evilmerodachus |
LU2-AN-AMAR-UD |
- |
560-556 |
Neriglissoorus |
U-GUR-LUGAL-URI3 |
- |
556 |
Laborosoarchodus |
LA-BA-SHI-AN-AMAR-UD |
- |
555-539 |
Nabonnedus |
AN-AK-I |
nab-bu-ni-da-na |
比定の根拠は良く分かりません。 楔形文字の人名は表記が一様ではないようで、複数の綴りが見られます。「Uruk King List」は、アッカド語と分類される楔形文字でセレウコス朝の時代に作られた王名表です。 ベヒストゥン碑文はアケメネス朝ペルシャのダレイオス王によるもので、「Uruk King List」より四百年ほど古いことになります。 楔形文字のAN-AKがアケメネス朝ペルシャの時代以降はナボのように読まれたことは確かそうです。ベヒストゥン碑文のエラム語部分は音節文字表記で、nab-buは、nabがナブと読まれるように記されたのだと思います。ネブカドネザルはナブニグドゥリやナブクトゥルゥシャルのように呼ばれていたようです。ナボニドゥスは、ナブイやナブニダナのように呼ばれていたようです。 この類推から、ナボポラッサルはナボアウリやナボアシャルだったようです。ただし、Wikipediaでは、UnicodeでAと名前の付いた楔形文字はapalと読まれると言うのが採用されています。 楔形文字のAN-AMAR-UDはマルドゥクと読まれたと言う前提で、アメル・マルドゥクやラバシ・マルドゥクの名前の読みが定まっています。 しかし、ベロッソスが伝えたとされる英語になった名は、だいぶ違っています。 ネルガル・シャレゼルのネルガルは神のネルガルから来ているのではなく、音でU-GURと書かれたようです。アッカド語の王はシャルで、LIGALをシャルと読んでいるようです。 ウグルシャルウリやウグルシャルシャルのように呼ばれていたようです。
ナボポラッサルとネブカドネザル2世の名は、新バビロニアの時代のタブレットにもあるものです。ナボニドゥスは、AN-AK-NI2-TUK と綴られたことになっていますが、確認できません。P333867(JHU T202)の最後の行の翻字がそうなっていますが写真では分かりません。P428418(BM 114288)はAN-AK-NA-まで見えますが、以降は擦れています。 NI2-TUK は、敬虔や気配り、いたわりを示す語で、アッカド人はna'duと読んだとされていて、ナボニドゥスの名はナブナイドだと言う根拠のようです。
アメル・マルドゥク、ネルガル・シャレゼル、ラバシ・マルドゥクは、在位期間が短く、ネルガル・シャレゼルとナボニドゥスが簒奪者なので新バビロニアの時代の文書には残っていないかも知れません。ヘレニズム期になって改めて楔形文字で綴られたのだと思います。 その前提で考えると、3代目の王をアメル・マルドゥクとするのは適切に見えません。旧約聖書も、ベロッソスもエビルメロダクと伝えました。LU2-AN-AMAR-UD が新バビロニアの時代にも使われたとしても、LU2 をアメルと読んだと言う根拠は希薄に見えます。 ヘレニズム期には神マルドゥクはメロダク(ΜΕΡΩΔΑΧ)とギリシャ語に移されて通用していたようです。 LU2 は、who、which、man、person、ruler、oppressed、afflicted、slaina、wronged person と言った英訳になっています。このうちmanに相当するアッカド語がアメルです。日本語で人名に「人」の文字が含まれても、何と読むかは決められません。
ネルガル・シャレゼルと言う名前は邦訳のエレミヤ書39章にあります。エルサレムに入ったネブカドネザル2世が従えて来た司の一人です。 そのヘブライ語聖書には「נרגל שראצר」と記されています。子音を拾って n-r-g-l sh-r-a-z-r と綴られました。 しかし、この名は四十人訳聖書には無く、死海文書のエレミヤ書は七十人訳聖書に一致すると言うことです。 やはり、新バビロニアの王名は、ベロッソスによるのかどうかは分かりませんが、ヘレニズム期になって発見的に知られたもののようです。 ヘレニズム期の「Uruk King List」で、ネルガル・シャレゼルの名がANで始まらないなら、ANの使い方に関する習慣の変化があるのかも知れません。
ラバシ・マルドゥクの名は、ヘレニズム期に書かれた「Uruk King List」の LA-BA-SHI-AN-AMAR-UD だけで決められたのではないかと思います。 ベロッソス由来でLaborosoarchodusと伝わったので、おそらく、-メロダクのような名ではなかったのだと思います。
ベロッソスの言として伝わったものには、月の満ち欠けの起きる原理の説明があり、ベロッソスは天文学者として知られていました。 ベロッソスが神官であったと言う記述はないようです。これは、神殿に資料が残っていただろうと言う推測と、神官は読み書きに精通していただろうと言うこと思います。 また、アレクサンドロス3世やセレウコス朝に仕えたと言う証拠もないようです。しかし、博識な学者だったベロッソスが「バビロニア誌」を執筆する動機としては、マケドニアの王の要請が考えられます。彼がコス島に学校を作ったと言うウィトルウィウスの記述もバビロンには学者の仕事は多くないことを示すように思います。 新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャの時代が220年続いた後で、ベロッソスが新バビロニアの王名を記録しました。しかし、新バビロニアの建国にいたる様子は伝わっていないようです。 アケメネス朝ペルシャは紀元前550年ごろに始まり、新バビロニアを滅ぼしました。百年後の紀元前450年ごろにヘロドトスが「歴史」を著わしました。紀元前400年ごろにはクセノポンやクテシアスがペルシャ誌を記しました。しかし、それらには新バビロニアの王名一つ記されませんでした。新バビロニアの滅亡から250年経って、紀元前300年ごろになって、ベロッソスが、それを記しました。 クセノポンの「キュロスの教育」は、アケメネス朝ペルシャの建国時にの様子を物語にしています。しかし、その最大の敵の新バビロニアについては何も語りません。 バビロンにあったのはアッシリアと呼ばれ、王名一つ記されません。 ペルシャ戦争、ペロポネソス戦争の記録が生き生きと描かれるのに対して、アケメネス朝ペルシャの後半はほとんど知られないようです。 たいへん不思議に思います。 |