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エジプトの文字

  現在のエジプトの主要な言葉は、アラビア語・アラビア文字のようです。エジプト語は古代のエジプト語を指し死語となっています。
  7世紀までに使用された文字は、ヒエログリフ、ヒエラティック、デモティック、コプト文字でした。
  プトレマイオス朝(BC306-BC30)の間は、ギリシア語(コイネー)・ギリシア文字が広く使われたものと思います。コプト文字がギリシア文字由来であることから考えるとエジプト語もギリシア文字で表記されたものと思います。
  新アッシリアのエサルハドンは BC671 にメンフィスに達します。以降、エジプトの文字記録は支配勢力の影響を強く受けることになります。エジプト第26王朝(BC664-BC525)が滅亡すると、エジプト語が何を指すのかは明らかではなくなります。
  前7世紀以降のエジプト語はデモティック期と呼ばれています。エジプトの文字の話しはこれに先立つ「新エジプト語」のことを中心にしているものと思います。

  エジプトの最古の文字に付いては資料の名前や年代の根拠が示された記述が見つかりません。
  年代が測定されたと読み取れるのはスコーピオン・キングの墓(Tomb U-j,Umm el-Qa'ab,Abydos )のワインと見られる残留物です。生きていたものは放射性炭素年代測定が可能です。BC3150 と言う年代が示されています。文字資料は町の名を書いた荷札と思われる複数のタグでそれぞれ動植物が1つか2つ書かれています。この墓は盗掘にあっています。
  「Tomb B 7,9, Umm el-Qa'ab」はカ王、「Tomb B 17,18, Umm el-Qa'ab」はナルメル王の墓とされ、カ王はスコーピオン・キングとナルメル王の間のファラオと見られています。その根拠は墓の配置のようです。カ王はセレクの確認される最古の王です。セレクと共にヒエログリフの葦(sw)に見える記号が書かれていてカ王の時代には文字が使用されていたと考えることは妥当そうです。
  エジプトはBC3100ころに最初の統一王朝である第1王朝が誕生したとされています。カナンなどでも出土品のあるナルメル王が最初の王だと見られています。年代の根拠は分かりませんが、BC3100ころにはヒエログリフやヒエラティックに繋がる字形を持った文字が使用されていたと言うことはできそうです。
  これは原始王朝の時代からヒエラティックが王朝の文字だったと言う説明とは符合しません。しかしBC3100ころが文字の始まりだったとも言えません。言えるのは墓を築いた人々は文字で長文を記すようなことをしなかったと言うことです。

ヒエログリフ

  ヒエログリフの最も古い記録はBC3100頃のナルメルのパレットのようです。植物の実をすり潰す化粧用の石板で両面に浮彫があります。上端の中央にはヒエログリフと見られる記号が書かれています。大きく描かれた人物の被っている帽子は2種類あり、上、下エジプトのファラオの象徴とされています。ヒエログリフと見られる記号の周りの線はセレクと解釈され、「ナマズ」と「鑿」が書かれていました。これは王名として「ナルメル」と読まれました。
  ナルメルは、マネトの記したエジプト第1王朝の最初のファラオ・メネスと見られています。浮彫は彼が上、下エジプトを統一した王だった証と見られています。しかし、パレット自体は年代の測定できるものではありません。
  ナルメル王より前のスコーピオンキングはサソリのマークから命名されました。ナルメル王はナマズ鑿王とは呼ばれていません。しかしナルメルの命名も BC3100 頃のエジプト語に基づいたものではなく、現在の命名なのだと思います。

  ヒエログリフは壁面などに記されて効果を上げるように意図された文字のことを指していると思います。視覚効果のために彩色されたりもするようです。少なくとも初期王朝(第1、第2王朝)の時代の遺物は該当せず、容器などに線刻された短文でした。それでも文字の字形は完成していたようです。第5王朝のウナス王のピラミッドの玄室の壁面はヒエログリフでピラミッド・テキストがぎっしりと記されています。ウナス王は第5王朝の最後の王で BC2350 ころのようです。その前後のヒエログリフの状況は分からず唐突に感じます。新王国時代には神殿など大型建造物の壁面にはヒエログリフが記されよく知られる状況になります。
  少なくとも「新エジプト語」と区分される前13世紀から前8世紀には 750種ほどの字形で、表語文字と、1子音文字、2子音文字、3子音文字を使った表記を行うようになっていました。ヒエログリフの話しは概ね新王国の時代(BC1570-BC1070)の500年間ことを指しています。

新王国前のヒエログリフの資料
区分 王朝 紀元前 資料、備考
原始王朝 3150 アビュドスのネクロポリス(Umm el-Qa'ab)
・U-j 墓(スコーピオン・キング)の荷札
・Tomb B 7,9(カ)の陶片のセレク
・Tomb B のIry-Hor、Scorpion2の遺物
初期王朝 1
2
3100 ・ナルメル王のパレット、カナンを含む
12の遺跡でセレクが確認された
・歴代の王のセレクなど
古王国

3

2680 階段ピラミッド(ジョセル)が作られる
碑文などが多く残されるようになる
4 2613 ・ワジ・アル・ジャルフ(Wadi al-Jarf)の
パピルス
・クフ王の大ピラミッド。(ギザ)
(4代目カフラー以降は良く知られず
文書が薄かったとようだ)
5 2494 ・アブシール・パピルス(Abusir Papyri)
ネフェルイルカラー王の葬祭殿パピルス片
・ウナス王のピラミッド(玄室の壁面の
ピラミッド・テキスト)
・パレルモ・ストーン(作られた年代は
不詳、ネフェルイルカラーまでの歴代王の
各年の活動を記録)
6 2345 ・テティ王のピラミッド・テキスト
・ウェニの伝記
ウェニ(宰相)のマスタバ(アビュドス)
第1中間期 7-10 2180 地方勢力の台頭で統一が失われた時代
中王国 11 2040 メンチュヘテプ2世の神殿王墓
12 1991 ・ピラミッドの建設を再開。構造と石材の
流用によって全て崩壊。盗掘も多い
・多くの文学作品が創作されたとされる
第2中間期 13-17 1782 ・最後のピラミッド(13王朝ケンジェル)
・ヒクソスによる支配
・ウェストカー・パピルス(Berlin 3033)
新王国 18 1570 良く知られるヒエログリフの使用

  エジプトの王朝や王の在位期間を信じるとして考えます。ワジ・アル・ジャルフのパピルス片の写真にはヒエログリフの文書があり、クフ王とされているセレク(ホルス名)の部分が写っています。しかし、年代測定されたとは書かれていないようです。
  wikipedia では「ca. 2560-2550 BCE」と記されパーチメントが含まれるとあります。
  第4王朝の時代にはヒエログリフとヒエラティックの使い分けが明確になっていたことになります。

  第5王朝のアブシール・パピルスやウナス王のピラミッド・テキストの方が発見場所が王墓である分年代は確かそうです。

  いずれにしても不思議に思えるのは字形が完成していることです。垂直な罫線の中に綺麗に並ぶ様子も後代のものと区別できません。
  スコーピオン・キングの荷札の絵とはまったく異なっていて、ヒエログリフの文字と同形の文字が原始王朝から記されました。

  また、第4、または第5王朝になって、ヒエログリフの長文が突然記されるように見えるのも不思議です。ヒエラティックは在庫管理表のような用途だったようです。

  突然、長文が書かれるようになったように見えるだけでなく、その後も数百年にわたって長文の資料が上げられていないようです。
  次の長文はヒエラティックで記されたウェストカー・パピルスで、古王国時代からの口承文献が中王国時代に文書となって伝わったものの写本、と説明されていますが根拠は分かりません。具体的な中王国時代の遺物はないのだと思います。

  中王国の時代にはヒエログリフが改革されたとも説明されます。しかし、前述のように古王国の時代の長文は、新王国の時代のものと見た目は区別が付かないようです。中王国時代のどんな資料を比較しているのか分かりません。上げられている変更点は、使用される字形が750ほどに整理され、綴りが一様になった、ことのようです。

  しかし、新王国の時代になっても綴りには注意が向けられていないように見えます。新王国の時代のアビュドス王名表とサッカラ・タブレットは連続した王の遺物で大きな年代差はないものと考えますが、セネド王の名前は異なった綴りで記されました。これは特別ではなく王名表は書かれたものを写している訳ではないように見えます。
  セネド王の名は、1子音文字で記すか、3子音文字で記すかの違いです。
  スネフェル王の名は、送り仮名の違いです。おそらく nfr には他の読みがあり、送り仮名を付けて読みを誘導します。「当年」は、「とうねん」とも「あたりどし」とも読めますが「当り年」と書くことができます。この場合、各文字の読みは「あたり・り・どし」で、重複する「り」は読まれないことになります。「ネフル」を「ネフル」や「ネフル・フ・ル」、「ネフル・ル」と書いています。

  1子音文字は、2子音以上の文字の代りができます。1子音文字は、それだけで、フェニキア文字のような音素文字の文字セットに成り得ると言うことです。

  上の図は、ヒエログリフとヒエラティックの Unicode の説明文にある1子音文字とラテン転写文字を抜き出したものです。
  ヒエログリプは、左右いずれの方向にも書かれ、縦書きもされました。方向は先頭にある鳥などの向きで示しました。書き方向で、文字の向きは反転しました。Unicode のヒエログリフは左から右へ書く場合の字形が収録されています。
  一方、ヒエラティックは横書きの場合、常に右から左へ書かれました。上の図の文字の向きが逆なのは、単に書き方向の差です。
  ヒエログリフは、王名がカルトゥーシュで囲まれたり、彩色されたり、1行の中で書き方向が替わったりと、普通の文字が表さない情報を含んでいます。

  周辺の文字との関係は概ね以下のようです。

  熟語と受け取れるものを探すと以下のようなものがあります。

  王を表す文字列の1つは、nsw(ネス)で、王宮は nsw-pr 王と建物の会意のようです。
  文字の字形は Unicode の物で、左から右に読まれるように書かれたものです。従って、翻字は文字並びと合っていません。おそらく、他の根拠から翻字の順に読まれたことが知られているのだろうと推測します。植物の sw は、上エジプトの王権の象徴です。下エジプトの象徴はミツバチです。王の称号には両方が書かれるので、sw は、その簡略化と考えられるのだと思います。
  カナン諸語の王は mlk でした。ファラオ以外の王は mlk と呼ばそうですが分かりません。

  エジプトは、kmt(ケメト)だったようです。「黒い土地」を意味すると言うことです。しかし、アマルナ文書のファラオは自らの領土をミザリ(Mi-iz-za-ri)と呼びました。周辺国でも楔形文書にはそのように書かれました。線文字Bでは、アクピティジョ(a3-ku-pi-ti-jo)のように記されました。
   図の governor と prince は、シヌヘの物語(Berlin Papyrus 10499)の書き出しにあります。ヒエラティックで書かれた物のハンドコピーをヒエログリフに置き換えました。iry-pat hAty-a のように翻字されています。

ヒエラティック

  ヒエログリフは聖刻文字と言うように主に石などに刻まれて残っています。ヒエラティックは、パピルスにインク、葦の筆で書くことを前提に、ヒエログリフを崩して始まったと考えられています。しかし、ヒエラティックも碑文に刻まれたようです。

  ヒエラティックの最古の記録はBC3200頃のスコーピオン・キングの墓の壷のラベルとありますが、Tarkhan Tomb 1549 (UC16947,Jar with a name of a king) のことらしく必ずしもヒエラティックには見えません。また墓の年代は第1王朝でホルス名はクロコダイルと解釈されているようです。しかし、壷にインクで筆書きしている点を捉えてヒエラティックの始まりと見ることはできます。その意味では、原始王朝の時代からセレクと共に記されていました。
  確実なヒエラティックの資料は、ワジ・アル・ジャルフ(Wadi al-Jarf)のパピルス(あるいは獣皮)かアブシール・パピルスのようです。
  いずれも古王朝の時代のもので、BC2450 ころには、新王国の時代と同様、ヒエログリフとヒエラティックは使い分けられていました。
  この資料からは、ヒエラティックは在庫管理表のような用途で長文は書かれていないようです。
  ヒエラティックの長文の例はウェストカー・パピルス(Berlin 3033)です。古王国時代からの口承文献が中王国時代に文書となって伝わったものの写本、と説明されていますが根拠は分かりません。具体的な中王国時代の遺物はないのだと思います。
  また、この資料の制作年代は前18世紀から前16世紀と300年の幅があります。第2中間期にあたりますが根拠は分かりません。

  確かそうなことは、BC3000ころの原始王朝の時代に石や陶器の容器にインクと葦の筆で文字が書かれました。
  BC2450ころヒエログリフで長文が書かれるようになりますが、ヒエラティックは在庫管理表のような用途で使用されました。
  新王国の時代にはヒエラティックは物語のような長文を書くことに使われました。

  1子音の字形は、前述のヒエログリフの図にあります。
  ヒエラテックは、パピルス以外にオストラコン(石灰岩片)、木片(荷札)、獣皮などにも書かれました。
  ヒエラテックは、右から左へ横書きされました。縦書きの場合は、右から左へ読まれました。Unicodeのヒエログリフの字形とは左右逆に見えます。
  石に刻んだものは残りやすく、パピルスはほとんど残らないので普及の状況は多くは想像によるものと思います。しかし、ヒエログリフが長い間、石に刻まれる象徴的な文字だったことは確かで、日常、使用された割合はヒエラティックが圧倒的に多かったことは推測できます。

  デル・エル・メディーナ遺跡から書記の訓練の跡が見つかっていて、ヒエログリフではなく、直接、ヒエラテックの単語単位での記法を学習したと言うことです。

  ヒエラティックは Unicode には収録されていないようです。ヒエログリフと表現力に差があったとは言わないので、おそらく両者はほぼ同じ規模の字形を持っていて対応が明瞭だったのだろうと思います。

▼Berlin Papyrus 10499, Line 6
a-r hr ntr r Axt t-pr f nswt bity ( ra s xtp-t p ib )
▼Berlin Papyrus 3022, Line 37
nswt bity ( ra s-xtp-t p ib ) w za w iw r Axt t pr

  「シヌヘの物語」の完全なものは残らなかったらしく、いくつかの資料を合成して全文が知られているようです。主要な資料は、Berlin Papyrus 3022 ですが、先頭が無く、Berlin Papyrus 10499 によって補われています。公開されているハンドコピー(ファクシミリ)には、重なる部分がないように調整されているらしく、同じ箇所を比較できません。
  いずれも、中王国時代に書かれたものだと見られているようです。オストラコンに書かれた片々は新王国時代と説明されています。
  ヒエラティックは、常に「右から左」へ書かれました。縦書きされた場合には、行は右から左へ書き進められました。
  10499 は、横書き、3022 は縦書きです。
  左図には、ヒエログリフに置き換えたものを書きましたが、各文字の字形が逆向き(鏡文字)になっています。これは、Unicode に収録されているヒエログリフが「左から右」へ書く場合の向きで収録されていることによります。
  nswt bity は、「上・下エジプトの王」ですが、sw の横棒と bit は繋がっていて、読みの順に書かれていないものと思います。
 カルトゥーシュの中では神ラーが最初に書かれ、読みの順番でないことはヒエログリフと同じようです。
  王の名前はセクェテプイブラー(s-xtp-ib-ra)のようです。しかし、10499 の、ra と p は、3022 と異なっていて、他の読み方が出来そうです。
   ネチェル(ntr) は神。アクェト(Axt)は地平線。セクェテプイブラー王は神の元へ送られたようです。
 
  サネハト(sA-nhAt)の語る物語ですが、書かれた当時にはシヌへと読まれたと説明されています。一般に知られるヒエログリフの音は中王国の物ではないと言うことになります。また、中王国の時代からエジプト語の継続性があることを前提にしています。

デモティック

  デモティックの最古の記録は、BC660頃のサッカラの碑文で、最後の記録はAD451のフィラエ神殿のメモ書きのようです。
  新アッシリアのエルサルハドン王がメンフィスに達したのはBC671で、デモティックの使用が始まったころのようです。新アッシリアの時代には第26王朝(BC664-BC525)が存続し、王朝の行政文書としてデモティックが使用されたとされています。主にパピルスに書かれたと説明されているので、実際にはほとんど残っていないのだと思います。
  BC525ころ第26王朝が滅亡するとエジプト語が公用語ではなくなることになります。新アッシリアやアケメネス朝ペルシアはアラム語を使用したとされますが根拠は分かりません。前5世紀には、アスワンのエレファンティン島のイスラエル人コミュニティがアラム文字の文書を残しています。それ以外は BC525 から BC330頃までの二百年間のエジプト語やエジプトの文字の事情はほとんど説明されていないようです。

  BC330以降は、マケドニアの支配下となり、プトレマイオス朝の時代となります。公用にはギリシア語・ギリシア文字が使用されることになります。七十人訳聖書やホメロスの作品などもアレクサンドリアで編纂されました。この時代のギリシア語が「古典ギリシア語」であり、これ以前の文献は存在が知られても伝承されていません。

  ロゼッタ・ストーンの存在がなければエジプトの文字はギリシア文字になったと見られていたかも知れません。コプト語の文字は 7文字(Ϣ、Ϥ、Ϧ、Ϩ、Ϫ、Ϭ、Ϯ)はデモティック由来とされますが、他は、ほぼギリシア文字です。これは、エジプト語を文字で読み書きする人も、ギリシア文字を常用していたことを示していると思います。ギリシア語・ギリシア文字の文書を作成する人々が余技としてヒエログリフやデモティックを使用していたものと推測します。
  ロゼッタ・ストーンのデモティックは、ほぼ音節文字のようです。ギリシア文字が音節を記述する文字で子音文字ではありません。
  ロゼッタ・ストーンは第26王朝の滅亡から三百年以上、ギリシア語が公用になってから百年以上して刻まれたものです。ヒエログリフやデモティックは広く読まれることを期待して書かれた訳ではないと思います。
  最も古いデモティックはサッカラ(Saqqara)のセラペウム(Serapeum)の石碑の碑文とされています。セラペウムは神セラピスに因んだもので、セラピスはプトレマイオス2世に帰される聖牛アピスからの造語のようです。アピスは創造神プタハの化身とされ飼育されましたが死後はミイラ化され、この地に埋葬されました。前13世紀ころからプトレマイオス朝の時代までの大量の石碑が見つかっている場所のようです。こうした石碑群の中に初期のデモティックの碑文があると言うことのようです。しかし、石碑自体は年代が測定できるわけではありません。
  また、デモティックの初期にはテーベ周辺でアブノーマル・ヒエラテックが使用されたとされています。共にヒエラテックから派生したデモティックとアブノーマル・ヒエラテックは別なもののようです。また、最も古いデモティックとされるセラペウムの石碑の碑文はヒエラティックの字形で書かれているとも説明されています。デモティックは字形の点で区別されているのではなく、新しい文字システムだと見られているようです。この時代の周辺国はフェニキア文字を使用していました。アラム語もフェニキア文字で記されていました。ギリシア文字もフェニキア文字の字形を残していました。

  ファイユーム(Faiyum)パピルスは、デモティックによる文学の資料として挙げられますが、内容は分かりません。この文書の年代はローマ時代のようです。1万点のうち3千点がアラビア語だとも言われます。アラビア文字が現在の形状になるのは7世紀以降で、まだシリア文字の形状だったことになります。文学と言うのも確かではないようです。デモティックで書かれたと言う以外に、「デモテックから写されたことが明らかな」資料とも表現されています。

  デモティックも Unicode に収録されていないようです。その理由は良く分かりません。需要が無いこともありそうですが、コンセンサスが得られる状況にはないようです。
  字形に付いて具体的な説明があるのはロゼッタ・ストーンのデモティックのです。デモティック部分の最初の行は以下のように読み取られています。

  破損があり、行頭からではありません。右から左に読むように書かれています。各文字は、以下のような音節文字と言う解釈に従っています。

  字形と、回転で音節を表しています。
  最初の文字は、z と b が重ねられたものです。z は、原型を時計回りに270度回転して描かれ「ズィー(zee)」のようです。下の b は、90度回転で「boo」のようです。
  メンフィス(Memphis、Μέμφις)は、デモティックで na zee-bo pa-lo-to-i と表されたとされています。「メンフィス市民」は、na zee-bo natsa のようです。zee-bo、zee-yb は、それぞれメンフィス、アレキサンドリアを表しているようです。
  しかし、zee-yb が「アレキサンドリア」と読まれたと言うことではありません。文字には対応する神があり、その神の都市と言ったような命名のようです。アレキサンドリアやメンフィスはギリシア語です。
  zee や ze は創造神プタハでもあるようです。したがって、zee を伴わない都市名もあり、リコポリス(Lycopolis、Λυκούπολις)は、go poto yo-me-be と表されたと見られています。この訳は、「オオカミの創造者の都市」です。

  ロゼッタ・ストーンのデモティック部分の解読について wikipedia には、コプト語から解読が試みられ、アレクサンドロスやアレクサンドリアと言ったギリシア語の人名や地名が識別されたとあります。それ以上は解読できず、その原因は表語文字を含むためと説明しています。

コプト文字

  コプト文字は4世紀ころから14世紀ごろまで使用されたようです。4世紀と言うのはプトレマイオス朝になってエジプトでギリシア文字が使用されるようになってから700年以上経ってからのことです。フェニキア文字の派生文字の影響は新アッシリアによって征服されて以来千年以上におよびます。文字だけでなくエジプト語自体が大きく変化していて何の不思議もありません。
  コプト文字は、ほぼギリシア文字で、Ϣ Ϥ Ϧ Ϩ Ϫ Ϭ Ϯ は、デモティック由来だと言うことです。コプト語は「近代エジプト語」と呼ばれるらしく、その場合は4世紀以降のエジプト語と言う意味しか示さないようです。
  しかし、エジプトのコプト教徒のコミュニティが使用してきたコプト語やコプト文字、典礼言語のボハイラ方言が知られ、それまでのエジプト語との継続性があると考えられているようです。ただし、7世紀にエジプト語がほぼ死語となった後で残った言葉としてのコプト語です。4世紀から6世紀には宗教とは無関係に「近代エジプト語」としてコプト語が広く使用されたことになりますが、おそらく、その様子は分かりません。 

  必ずしもギリシア文字由来ではない文字は以下のようです。

    前3世紀以降エジプトではギリシア文字が広く使用されるようになりエジプト語の表記にも使用されていたと思います。ギリシアから伝わったコイネーの文字は27あったと思います。それは数値を表すためにギリシア文字が使用されていたからです。そのイオニア式記数法もコイネーと共に伝播したはずです。文章を書くのに使用されたのは24なので、3つは主に数字として使用されたと思います。ギリシアでは 6:ディガンマ(Ϝ)、90:コッパ(Ϙ、Ϟ)、900:サンピ(Ϡ)です。

ギリシア文字
Name alpha beta gamma delta epsilon digamma zeta eta theta iota kappa lambda mu nu xi omicron pi koppa rho sigma tau upsilon phi chi psi omega sampi
Letter Α Β Γ Δ Ε ϛʹ Ζ Η Θ Ι Κ Λ Μ Ν Ξ Ο Π Ϟ Ρ Σ Τ Υ Φ Χ Ψ Ω ϡ
古代 [a]
[aː]
[b] [ɡ] [d] [e] [zd]
[dz]
[ɛː] [tʰ] [i]
[iː]
[k] [l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [y]
[yː]
[pʰ] [kʰ] [ps] [ɔː]
現代 [a] [v] [ɣ]
[ʝ]
[ð] [e] [z] [i] [θ] [i] [k]
[c]
[l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [i] [f] [x]
[ç]
[ps] [o]
数字 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 200 300 400 500 600 700 800 900

  コプト文字のアルファベットの6番目文字は SOU で、ディガンマ(Ϝ)の筆記体に由来しているものと思います。おそらくコイネーとして伝わったものだと思います。ギリシア文字では後にディガンマ(Ϝ)の筆記体とスティグマ(Ϛ)が同じ記号で印刷され 6 はスティグマだと言うようです。
  コプト文字で 90 に使用されたのは FEI のようです。FEI は [f] の音価を持っていました。900 のサンピはギリシア文字のサンピには似ていません。
  ギリシア文字のコッパやサンピがコイネーの要素として伝わったのかどうかは、このことからは判断が付かないようです。

  Ϣ Ϥ Ϧ Ϩ Ϫ Ϭ Ϯ は、デモティック由来と説明されます。しかし、Ϣ はフェニキア文字にもヘブライ文字にも似ています。「シェ」のような使用頻度の高い音を復活させただけにも見えます。フェニキア文字は新アッシリアの支配と共に広く知られていたものと思います。ただし [h] 、[q] もギリシア文字でなくなっていたものですが、HORI (Ϩ)、SHIMA(Ϭ)はフェニキア文字に似ていません。
  DEI(Ϯ)は単に タウ(Τ)とイオタ(Ι)の合字でも納得できます。

  「コプト」はギリシア語のエジプト(Αιγύπτιος)に由来する呼称で、自称ではないようです。
  コプト文字は、ギリシア文字の区画のうち、3e0 に14(Ϣ Ϥ Ϧ Ϩ Ϫ Ϭ Ϯ の大文字・小文字)あります。
  また、2c80 からが Coptic となっていて 112文字あり、3e0 の 14以外の字形を納めています。

  コプト語がエジプト語である根拠に上げられるのはギリシア文字にないエジプト語の音を示す文字を加えていることです。
  j(dj)はエジプト語由来かも知れません。h、q、ʃ はフェニキア文字にもありました。i、f、x は解釈によってはフェニキア文字によって表されていたものかも知れません。
  現在のギリシア文字では Φ が [f]、Χ が [x] ですが、コプト文字では FEI(Ϥ)、KEI(Ϧ)が作られました。少なくともエジプトでは4世紀にもΦ が [pʰ] 、Χ が [kʰ] だったようです。

  コプト語がエジプト語を伝えていると言うことから、ヒエログリフやデモティックの解読が試みられ、ほとんど成果がなかったようです。ロゼッタ・ストーンのデモティック部分の解読でも、いくつかのギリシア人の名前や地名を識別されただけのようです。
  後代に伝わったコプト語と、デモティック期や新エジプト語と継続性について確かなことは述べられていません。また、コプト語を話す人々が古代エジプトの文物を伝承していると言うことでもないようです。
  プトレマイオス朝の時代には既にギリシア語が広く使用され区別が不明瞭になっていて、ロゼッタ・ストーンのギリシア語部分は、実はエジプト語(前コプト語)だったとしても不思議はないように思います。コプト文字がギリシア文字由来であることからギリシア文字でコプト語が記された期間があったことは確かそうですが、逆にコプト語がデモティックで書かれた証拠は上げられていないようです。

楔形文字

  シュメール人の発明とされる楔形文字はアッカド帝国の時代以降はアッカド語の文書と呼ばれています。アッカド語が国際共通語だったと説明されています。
  アッカド人が楔形文字を使用したことで、アッカド語の音を表すための借字が生じ音節文字化しました。この音節文字を含む文字システムを「アッカド文字」と呼ぶことにします。
  実際には BC2000以降、シュメール人もアッカド人も認識されなくなっていき、「アッカド文字」の使用者はアムル人になりました。
  アマルナ文書の時代にはアッシリアやバビロニアに王朝を築いたアムル人も認識されなくなっていたものと思います。アムル語と近いカナン諸語を話す人々やフルリ人、ヒッタイト人がアッカド文字を使用しました。
  その後はアッシリアがアッカド文字の文書を残しました。アケメネス朝ペルシアもキュロス・シリンダーに見られるようにアッカド文字を使用しました。

  アッカド文字(楔形文字)以外に、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字が使用されました。

アッカド文字

  Unicode には、787文字分の空間が割り当てられています。Unicode の楔形文字は、「Sumero-Akkadian Cuneiform」と名前が付けられています。これは、BC2600 から BC2000 の間に使用された楔形文字です。この年代のうち、BC2350 から BC2113 頃は、アッカド帝国の時代でした。BC2113 から BC2006 は、ウル第3王朝の時代です。
  マリ文書はマリが都市であった期間から BC1800頃からの約50年間の年代の確かな文書です。この時代の楔形文字は、Unicode の収録している字形とは大きく変わっています。
  楔形文字の代表的な字形には、Unicode が収録している「Sumero-Akkadian Cuneiform」と、「Neo-Assyrian Cuneiform」があり、字形は後者に近いものに代わっています。「新アッシリ」は千年も後の時代を指しますが、字形はウル第3王朝の時代から変化してきているようです。
  次に年代が明らかな文書群はアマルナ文書です。アマルナ文書は、エジプトの都がアマルナにあった前14世紀の50年ほどの間の書簡です。書簡の送り手は広い地域におよび、地域差や音声言語の差を反映しているものと思います。また、ヒッタイトやミタンニの文書が含まれ、語族の異なる人々とのコミュニケーションの実態を示しています。ヒッタイトは、ヒッタイト語・アッカド文字の書簡を使用しました。
  前11世紀以降は、アッシリアの記録が年代の分かる記録となっていきます。アッシリアは王と在位がほぼ文書で裏付けられています。ニネヴェ図書館は多くの文書を残しました。新アッシリアが BC609 に滅ぶころには楔形文字は主要な文字ではなくなって行ったようです。しかし、BC490ころのベヒストゥン碑文には、メソポタミアの人々へのメッセージは楔形文字で記されました。アラム文字は刻まれていません。
  BC330以降は、ギリシア語・ギリシア文字の文書が歴史を語るようになって行きます。

  ただし、文字は何時でも描けます。今日でも意匠としていろいろな古代の文字が使用されます。多くの場合、古い文字は権威を感じさせます。BC1750ころのハンムラビ法典は、「Sumero-Akkadian Cuneiform」で記されています。カッシート人はシュメール文化を好んで、カッシート朝の時代の公用語としたとも言われています。 

シュメール人と楔形文字

  楔形文字はシュメール人によって発明されたとされています。シュメール人の文字は線刻でしたが BC2600 ころに楔形になりました。
  シュメール人には、古代文明を築いた人々と、文書から知られる音声言語を話した人々、と言う意味があるものと思います。
  ウルク古拙文字は表音文字ではなかったとされています。ウルク古拙文字の文書が表す音声言語は分からず、後の楔形文字の文書から知られたシュメール語と同じかどうかは知り得ません。
  ウルク古拙文字は、原シュメール語を表したと言うことになります。しかし、原シュメール人はシュメール人だったと見られています。ウルク古拙文字は、楔形文字の字形の元になっていると見られています。
  また、BC8000頃から家畜をカウントするのに使われたと言われる陶片が見つかると言うことです。その形状は、ウルク古拙文字、楔形文字に繋がるものとされています。
  しかし、この陶片は、封泥が焼かれたものでもあるようです。

  絵文字から始まったと考えると、文字は物や概念の名前で読まれたと考えられます。文字には字義があり、それを表す「話し言葉の語彙」の音で読まれました。
  アッカド人が使用すると、字義に合ったアッカド語の「話し言葉の語彙」の音で読まれたものと考えられます。また、アッカド語を話した通りに記す必要が生じ1音1字のような借字が行われます。これが音節文字として定着したのだと思います。楔形文字には表語文字と音節文字を区別する記法はありません。
  Unicode では文字に名前を与えています。文字の名前はシュメール語の音が元になっているものと思います。音節文字に付いてはアッカド語も共通に使用したと考えられているようです。
  下図では、上に Unicode が定めている文字の名前を記しました。楔形文字の下にはラテン文字への転写を記しました。音節文字のラテン転写は音節の読みを表すと考えられます。音節文字以外は年代や地域によって異なった読みがされたものと思います。

  LUGALは1文字で「王」を表しました。GAL(大きい)とLU(人)を合成したものです。おそらくシュメール人は LUGAL のように読んだと見られているのだと思います。ウル第3王朝の王シュルギ(BC2094-BC2047)の名前は、DUNGI と Unicode のように読むのが当時の読みのようです。ドゥンは、「利益」、「掘り起こす」、「捻る」、「雌のロバ」などを示す語だったようです。「ぎ」は、「葦」や「確実にする」と言った意味合いがあったようです。
  「LUGAL ki-en-gi ki URI ki」がバビロニアの王の一貫した称号で、アッカド語の「sar mat Sumeri u Akkadi」だと wikipedia にあります。
  ki-en-gi がシュメール、URIがアッカドとも取れます。URIがウルなら、北のアッカド、南のシュメールとは合わないので、ki-en-gi が、両方を指すと考えた方が良いのかも知れません。地理的場所を指すわけではなく、「自らが住む良き所」と言う趣旨なことは確かそうです。
  A や NI、KI、GI などは音節文字を表しています。しかし、シュメール語の「き」は「場所」を指し、「どこどこの王」や「―の地」と言った表現に使われています。A や NI、KI、GI は、複数音節を表す LUGAL などと違いはなく、漢字と仮名のように区別は付きません。
  また、音節文字として使用される文字にも字義があります。Unicode の AN は音節文字ですが、神の限定符DINGIRでもあります。
   アッカド人がシュメール人の文字を文字を使用するようになると、表語文字、表音文字の概念が生じます。LUGALは、シュメール人はルガルのように読み、アッカド人はシャルのように読んだと考えられています。読みとは無関係に、LUGALと言う文字は「王」表す表語文字と見られるようになります。

アッカド文字のシステム

  アッカド人がシュメール人の文字を使うことで起きたことは、アッカド語以外を話す人々でも同様だったと思います。アッカド語が長い間、世界共通語だったと言われるのは、漢文と同じことだと推測します。
  「國破山河在」は漢字圏で広く知られていました。これを「国破れて山河在り」と読むのは日本人です。ピン音では「guó pò shān hé zài」のようです。漢文は漢字圏で通用しますが、声に出すとまったく通じません。漢文の読みは、それぞれの「話し言葉」による訓読です。

  ティルスの王だった a-bi-mil-ki は10通の書簡を残しています。EA154では音節文字で a-bi-mil-ki  と記しています。EA147 では a-bi-LUGAL と記しています。カナン諸語の王は後にフェニキア文字で mlk と表されマルクのような音だったと考えられています。google翻訳で「a king」をアラビア語に翻訳すると「ملك」、mlk(マルカ)となります。ヘブライ語は発音が効けませんが「מלך」、mlk となります。
  楔形文字のLUGAL(王)と言う文字は1文字で mil-ki(音節文字2文字)と同じ音を表すために記されたと考えられています。LUGAL は、カナン諸語で mil-ki と訓読されました。

  AN-IM は、最高神を表しました。シュメール人はイシュタル、アムル人はアダトと呼んだと考えられています。ヒッタイトは AN-IM-UN-NI と書いてタルフンニと読んだと考えられています。
  また、アマルナ文書の中には LUGAL-ri、LUGAL-ru などと記されている例がいくつかあります。これは、shar-ru や shar-ri に相当し、音声言語の接尾辞を表しているのだと思います。

  アッカド文字の音節文字は1音節が原則だったと考えられます。ただし、楔形文字の音節文字は、V(母音)、CV(子音+母音)と言う日本の仮名文字とは異なっていて、VC や CVC と言う音節もありました。
  左図は、前14世紀のアマルナ文書に見られるミタンニの表現です。ミタンニの王自身は mi-i-it-ta-an-ni と6文字で表しました。ヒッタイトは mi-ta-an-a と4文字で表しました。ビブロスの王は mi-it-ta-ni と4文字で表しました。
  ミタンニのフルリ語は、ほぼ孤立語と見られています。ヒッタイトは印欧語族、ビブロスはカナン諸語を話したと考えられます。BC1800頃より後は、カナンやメソポタミアの広い地域はほとんどカナン諸語に近い言葉を話していたようです。
  「Sumero-Akkadian Cuneiform」では、「星」形だった AN は十字になり、使用頻度の高い「an」の音節を表すのに使用されました。神名の前に AN を書く記法は継続していました。
  限定符は記号を増やさない工夫なのだと思いますが、「神名の」、「都市の」、「石製の」、「木製の」、・・・ の限定符を付ける習慣は続きました。限定符は発音されなかったと考えられているようです。ただし限定符の起源がシュメール語にあるのかどうかは明瞭ではありません。

  アッカド文字の音節文字は575音節が識別されているようです。C(子音)V(母音)、VC、CVCがあります。
  内訳は V(4 / 9)、CV(56 / 116)、VC(56 / 65)、CVC(459  /  172)です。(音節数 / 記号数)です。
  たとえば CV型は、「14種の子音」と「4種の母音」の組み合わせで 56 音節が規定されますが、それを表す記号は116あります。同じ音節を表す文字が2つ以上あることを示しています。CVC型では同じ文字に平均 2.7 通りの読みがあると言うことです。
  また、音節の型に関わらず、同じ文字が使用されている箇所があり、使用されている楔形文字の総数は 246 です。この総数 Unicode の1文字を単位にしています。Unicodeの2文字を1つの音節文字と見なす場合(NA4、SA4、...)がありますが組み合わせたものを1文字とはしていません。Unicode の 787文字中、246 が音節表記に使用されているということです。
  音節文字の使用には偏りがあり、前述のミタンニのように、全てが何時も使われると言う物ではないようです。

  母音は a、e、i、u です。CV や VC型の子音は一般的に b、d、g、ḫ、k、l、m、n、p、r、s、š、t、z とラテン転写されるものです。おそらくḫ は[x] (無声軟口蓋摩擦音)を意図しています。 おそらく š は、SH で、[ʃ] (無声後部歯茎摩擦音)を意図しています。しかし、これは転写の話しで読み方の話しではありません。読み方は使用した人々の「話し言葉」に依存する問題です。「ハ(h)」や「シェ(SH)」のような音だと思っておきます。この 4つの V と、CVの 14 x 4 = 56 が基本的は音節となります。

エラム楔形文字

  エラム人は、シュメール人と、ほぼ同じ時代に認識され、アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330)の時代にも認識される人々のようです。これはシュメール人がBC2000以降認識されなくなったのとは異なっています。エラム人はバビロニアに王朝を築いた人々でもあり、早くから楔形文字も使用していたはずです。しかし、言語や人々の継続性が分かる訳ではありません。
  アケメネス朝の初期はアンシャン王朝と呼ばれ、エラムの首都だったこともあるアンシャンを拠点としていました。前7世紀にメディアの属国となりますが、BC550 にはキュロス2世がメディアを滅ぼしてアケメネス朝の基礎を築きました。この間エラム王国はスサを首都として継続していましたがダレイオスの時代に滅んだと考えられています。
  エラム語は孤立語で、インド・ヨーロッパ語族のペルシアとは異なった民族とされますが両者は近しい関係のようです。
  エラム楔形文字は、BC1500以降を指すようです。特にベヒストゥン碑文によって知られる 130 ほどの字形だけを主に使用するようになった状況を指しているようです。
  しかし、エラム楔形文字やエラム語が存在するのかどうかも確証はないように見えます。エラム人もペルシャ人もアッカド文字(楔形文字)を使用しました。特にバビロニアの王だったときにはアッカド文字(楔形文字)が公式の文字でした。
  エラム楔形文字の字形はアッカド文字と変わりません。見た目ではエラム楔形文字やエラム語は区別できません。また、ハンムラビ法典の石柱(ルーブル美術館)の発見地もエラムの首都スサです。

  エラム楔形文字が選んだ楔形文字は音節文字で、主に V、CV、VC の音節を使用したようです。CVC も使用されたようですが、総数が130と言うことから考えると例外と思えます。
  文字が示す音はアッカド文字と同様なものとして説明されています。
  エラム楔形文字の資料は BC2200ころのアッカド帝国の王ナラムシンとエラム(アワン朝)の間の条約があるようです。(Sb 8833, Louvre)これとベヒストゥン碑文以外の具体的な資料は上げられていないようです。

  wikipedia の Shilhak-Inshushinak の項にある写真の一部です。Shilhak-Inshushinak は、BC1130ころのエラムの王のようです。この碑文はエラムの王に因む遺物ですがエラム楔形文字と説明されている訳ではありません。

  1(ディシュ)は、男性名の前に置かれるので、そこから huteludus insusnak と読めます。Hutelutus-Inshusinak(BC1120-BC1110)が次の王のようです。
  DINGIR(an) in-su-us-na-ak は、おそらくスサの守護神 Inshushinak のことで、王名の一部になっています。
  これは、スサで見つかったこと以外はアッカド文字(楔形文字)と区別がないようです。

  ベヒストゥン碑文は、ダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)の王位継承の正統性を示す目的で存命中に刻まれたと考えられています。碑文は、メソポタミアの楔形文字、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字で刻まれました。
  エラム文字の最初の部分は以下のように写されています。(RIP 001c)

  1(dish)は、語の分割に使用されているようです。1文字で sunki と読まれる記号は「王」のようです。

  新アッシリアの滅亡から百年たって、アッカド文字(楔形文字)の字形も変化していると思いますが、この碑文では特に大きく変化しています。
  da、ri は、アッカド文字(楔形文字)とエラム楔形文字では少し異なった字形で書かれています。
  エラム楔形文字でダイレオス王は、da-ri-ia-ma-u-ish のように表されました。mush と言う CVC の音節文字を避けて ma-u-ish と記したと解釈できます。ma-u と書いて mu と読ませるなら、ペルシア楔形文字と同じ規則のようです。この規則も、語を区切って書くことを必要とします。
  sunki-ir-sha-ir は、偉大な王、sunki sunki-ip-in-na は、王の王と訳されています。
  da-ri-ia-ma-u-ish のうち、「エラム楔形文字(CV、VC)」の表で読めるのは、ri と u だけです。u、ish は、新アッシリアの字形です。da、ri、ia は、アッカド文字(楔形文字)から類推の効く範囲です。

  アッカド文字の碑文と比べると、選ばれている文字に差があり、同じ文字を選んでいても字形が異なっています。これはエラム楔形文字がアッカド文字(楔形文字)とは別の文字体系として扱われていることを示していると解釈できるかもしれません。しかし、ベヒストゥン碑文は同時に刻まれた保証はありません。また、アマルナ文書の例から綴りは重要でないことも分かっています。

  アフラマツダは、AN(DINGIR)で始まっています。アッカド文字の DINGIR は神の限定符で読まれない文字だと説明されます。しかし、アッカド文字でも {d}u-ri-mi-iz-da ではなく、anu-ri-mi-iz-da の方が近そうです。ペルシア楔形文字のように、母音が続く場合、随伴母音を置き換えるルールなら、au-ri-mi-iz-da、au-ra-mash-da と読めます。 

  エラムの文書はアッカド文字(楔形文字)の全ての文字が使用される可能性があり、片辺や短文では使用されている字形の傾向を判断できません。シュメール語、アッカド語、アムル語、ペルシア語が記される可能性があり、エラム語と判断することも困難なのではないかと思います。

ペルシア楔形文字

  アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330)で使用された音節文字です。Unicode には、3つの母音と、33の音節が収録されています。
  ブラフミー文字と同じ年代の文字で、随伴母音を伴うアブギダと見ることもできます。

  母音以外の音節は33ですが、下表のように64音節を書き表すようです。ただし、x、f、z は、xrathum、frasham、Auramazda のように読み取られていて単独で音節を形成しないのかも知れません。
  下表 th 、最上段の記号(103b0 THA)は、単独で THA を示します。THA + U は、thu を示します。
  THA + U を1文字だと考えれば、ペルシア楔形文字は音節文字に見えます。KU、GU、JI、TU、DA、DI、DU、NU、MA、MI、MU、VI、RU などが単独の記号なのも不自然ではありません。
  また、下表の最上段は子音を表す音素文字と見ることもできます。この場合、th が THA と読まれるのは、随伴母音 a が伴っていると解釈します。母音が a 以外の場合に、母音を表す記号が合成されます。

   この文字は、アッカド文字(楔形文字)とは独立に使用するもので、文字を借りて混合することは想定されていないと思います。

  ベヒストゥン碑文の書き出しは、以下のようです。

   私はダレイオス(darayavausha)。偉大(vazaraka)な王(kashaathiya)、王の(kashaathiya-anaama)王、ペルシア(paarasiya)の王。

  バビロニアは ba-a-bi-ru-u-sha と記され、baabiruusha か babirusha 明瞭ではありません。しかし、da-ha-ya-a-va のように、a が省略されるケースがあるのは確かで、a が明記された時は長母音になるのだろうと推測しておきます。
  また、アフラマツダは a-u-ra-ma-za-da-a となりますが、auramazda のように転写されるようです。z を ツ と読ませるのだと思いますが説明は付きません。

  近い地域でエラム楔形文字が長い間使用されたとされながら、ペルシア楔形文字が作られたのは学習効率の良い文字が必要だったことが考えられます。ペルシア楔形文字は音素の考えに基いていて覚えるのは36の記号で済みます。急拡大するペルシア帝国には重要なことだったと推測します。エラム楔形文字は使用される字形が定まっていた訳ではないようです。
  楔形文字で音素文字なのはウガリット文字がありますが字形の点では似ていません。数百年が経ちウガリット文字は既に忘れ去られ、フェニキア文字などから音素文字のアイディアが採られたのだろうと思います。
  なぜ、フェニキア文字ではなくペルシア楔形文字かと言うことに付いては筆記環境の問題だと思います。おそらく新アッシリア、新バビロニアに続いてフェニキア文字が広く使われましたがほとんど残っていません。ペルシア楔形文字の文書も碑文以外はほとんど残っていないものと思います。

子音文字

  文字が絵文字から始まったのなら、文字には字義があり、その字義を表す「話し言葉の語彙」が音になったと考えられます。
  異なる音声言語の人々が文字を採用すると「借字」が生じ表音化するのだろうと思います。借字は1音1字のように音節文字を生じます。
  この説明はアッカド文字(楔形文字)には当てはまります。
  音素文字は文字に字義はなく、「話し言葉の語彙」で読み書きされます。音素文字は1)話し言葉を写そうとするか、2)最小の記号の文字セットを作ろうとするか、のいずれかの意図がないと生じないように思えます。
  ギリシアやローマでは演説を記録すると言った速記の概念があったようです。民主政治には必要だったのかも知れません。しかし、ヒエログリフやヒエラティックを説明できるほど昔に、そうした需要があったのかどうかは分かりません。また文字が口承文献を置き換えるのは前3世紀以降のようです。
  エジプトの文字は知られているより前の歴史を持ち、筆記効率の高度化が行われた時代があったと言う以外の説明は思い付きません。

  ただし、エジプトの文字が主に子音文字であると言うのがいつからなのかは定かではありません。新エジプト語と言われる前14世紀以降が、そうであることは確かそうですが、どこまで遡るのかは分かりません。しかし、エジプトの文字は最古の文字で子音文字を含むと考えられています。子音文字が最初の表音文字とは考え難く、既にあった表音文字の筆記効率の改善の結果生じるものだと考えます。
  ヒエログリフやヒエラティックには1子音文字が含まれ、それを抜き出せばいつでも子音文字(Consonant Alphabet )が誕生する状況にありました。

ウガリット文字

  ウガリット文字は特別な楔形文字です。書記方法は楔形文字のもので、記されたのは30種類の文字だけでした。Unicode が収録している字形は、ヒエログリフが千強、楔形文字の字形数が780強なのを考えると、圧倒的に少ないものです。
  アッカド文字(楔形文字)とは字形が異なり区別が付いたものと思います。エジプトの文字の1子音文字とは直接結び付きませんが音素の認識には共通性があるものと思います。しかし、子音の数を多くカウントしている点は特別に見えます。
  前14世紀から使用されたと考えられています。カナン諸語の人々やフルリ人が使用したと考えられているようですが広がりや、いつごろまで使用されたかは明瞭ではないようです。

  ウガリット文字の表記する音素の種類は、エジプトの文字(24音素)やフェニキア文字(22音素)の数より多くなっています。アラビア語の音素数28より1つ多い29のようです。
  ウガリット文字は楔形文字と同じく左から右へ書かれたようです。ウガリット文字のアルファベットを記した小片の写真が公開されていますが、左から右へ書かれていて、文字の向きは Unicode に収録されたものと同じです。
  RS 22.03(KTU 4.710)と言うタブレットは右から左に書かれたようです。これは、楔の向きまで逆で、拓本、あるいはネガが裏返し状態です。右から左に書くとこうなるのか少し不思議です。
  ウガリット文字には分割する文字があり、別ち書きされることが筆記法に含まれています。これは、後にイスラエル人がフェニキア文字やアラム文字で別ち書きをしていたことと繋がるのかもしれません。フェニキア文字は、ほとんど右から左に書かれ、書き方向は異なっています。

  RS 2.[003]の列1行41は、カナン諸語の王 mlk と読めます。il や al は、カナン諸語の「神」ですが、ヘブライ語の「אל מלך」は、google翻訳では、単に「王」と訳されます。
  この文書の年代は分かりませんが、ウガリットがヒッタイトの滅亡する時期(BC1190)には破壊されたことを考えると BC1500-BC1200 で、イスラエル王国の建国の BC1021 より前です。エジプトからやってきたイスラエル人が話したヘブライ語も類似の言葉のようです。

  しかし、32行は、「涙を流し、眠る」と訳されるようですが、ヘブライ語の語彙ではないようです。
  この地域は、ヒッタイト人やフルリ人も活躍した場所で、前12世紀にはアッシリがアラム人を認識する場所です。最も語彙の豊富な地域だったはずです。

フェニキア文字

  フェニキアはギリシア語でギリシア人の認識に基いています。70人訳聖書のフェニキアはカナンと英訳されています。フェニキア文字はカナンの文字と言う意味で、フェニキア人やフェニキア語とは結び付きません。
  ただし、Unicode が収録しているのはカルタゴで使用された字形です。Unicode はポエニ人(フェニキア人)の字形を収録しています。
  フェニキア文字はBC1050頃に使用が始まったと考えられています。フェニキア文字で記されたのはアラム語、ヘブライ語が知られます。また、ギリシア文字や古イタリア文字もフェニキア文字の使用に始まり、前5世紀ごろまでは字形も似ていました。
  ヘブライ文字(方形ヘブライ文字)は前2世紀以降のハスモン朝の時代の文字で、それまではヘブライ語もフェニキア文字で記されました。フェニキア文字は古ヘブライ文字とも呼ばれます。イスラエル王国の建国は BC1021 です。しかし、ヒゼギアの地下水路の碑文(シロアム碑文、前8世紀)まで、確かな文書がないようです。
  アラム語もフェニキア文字で記されました。アラム語は新アッシリア(BC911-BC609)の公用語だったとされますが、文字はフェニキア文字だったはずです。また、キリキアやアレッポ周辺に残る最初期(前10世紀)のフェニキア文字の碑文はアラム語を記したもののようです。
  フェニキア文字は字形は 22 で、ウガリット文字の30より少なくなっています。筆記環境が整っていれば、楔形文字やヒエログリフ、ヒエラティックより効率よく書けたことは確かそうです。

  前5世紀のシドン王エシュムナザー(Eshmunazar)の石棺に刻まれたフェニキア文字は鮮明な長文です。既にアケメネス朝ペルシアがカナンを支配した時代と考えられます。エレファンティン島ではアラム文字の使用が始まっていた時代だと思います。
  記されている音声言語はヘブライ語の語彙で解釈可能なようです。しかし、新アッシリア以来、アラム語が広く使用されたとするならアラム語なのかもしれません。いずれにしても、カナン、メソポタミアの広い地域は、ほぼカナン諸語の大変近い言葉を話したものと思います。
  碑文の最初の行は以下のように記されています。

byrH bl bSHnt Asr warbA 10 3 1 lmlky mlk aSHmnAzr mlk TSdnm
ブル 10 と 4 14 在位 アシュムナザー シドンの

  右から左に書かれ、別ち書きされていません。
  イスラエルの人々が残した文書は初期のものから別ち書きされているようです。ただし、その差が音声言語の違いを反映しているのか、単に用途や媒体の差なのかは分かりません。

アラム文字

  アラム文字は、アラム語とも、アラム人とも結び付かないようです。日本語の聖書でスリアやスリアびとなどと翻訳される箇所は、ギリシア語聖書ではシリア、ヘブライ語聖書ではアラムとなっています。アラム文字はシリア文字ですが、「シリア文字」は Unicode の 700 に割り当てられた Syriac で使われています。
  歴史でのアラム人は前12世紀ころアッシリアが認識したアラム人です。ヒッタイトを滅亡させた人々をアッシリアはムシュキと呼びました。ムシュキはアッシリアにも向かいましたがアッシリアはこれを撃退しアナトリアの西に追ったと記録しています。その後アッシリアを衰退させたのはアラム人でした。グザナはアラム人の都市国家で属国と記録されました。新ヒッタイト都市国家群とされた都市は、アッシリアにはアラム人の都市国家に見えたようです。新アッシリアがカナンに進出すると最大の抵抗勢力はアラム・ダマスカスでした。
  このアラム人がキリキアやアレッポ周辺に最初期(前10世紀)のフェニキア文字の碑文を残しました。

  しかし、アラム語やアラム人は、シリア語、シリア人としても、カナン諸語、カナン諸語を話す人々、としても大きな差異はないものと思います。新アッシリアは本来アムル人の王朝であった訳で、元々カナン諸語に近い言葉を話したものと思います。王宮のレリーフから新アッシリアでは楔形文字の書記と、アラム語の書記が1組で記録に当たったとされますが、単にフェニキア文字を採用したと言うことなのだと思います。

  「アラム文字」の確かな記録は、エレファンティン・パピルスのようです。この文書には年号の入った複数の文書が含まれ、BC440 ころの文書であることが確認できます。エレファンティン・パピルスの文書群は、エジプトの Syene(アスワン)にあるナイル川の島エレファンティン(Yb)に残されました。新アッシリアの時代の BC650 ころから Yb のイスラエル人コミュニティは千年続いたと考えられ多用な文書が残されました。
  この中の1つの書簡には、「カンビュセス2世(エジプトを併合したアケメネス朝ペルシアの王)は、エジプトの神殿をことごとく破壊したが、ヤブ(Yb)のヤハウ(yhw)の神殿は無傷だった」と記しています。
  前5世紀にエジプトのイスラエル人はアラム文字を使用しました。おそらく、「ヘブライ語・アラム文字」の文書です。

  もっと前からカナンでアラム文字が使用されたことを示す例としてエジプトで発見されたサッカラ・パピルスがあります。新バビロニアがカナンを制圧する直前のエクロンの王アドンの書簡とされます。しかし、文書は破損していて、年代もエクロンも読み取ることはできません。おそらく、文字の字形がフェニキア文字とアラム文字の中間的な形に見えることを根拠にしているのだと思います。

  アラム文字は、フェニキア文字と1対1に対応する、字形だけが異なる文字です。書記環境の変化で生じたように見えます。細い線を書き分けるのが困難で、滲むことを考慮したもののようです。丸く描かれていた部分は、上部が切り離されています。
  字形だけが異なるので、フェニキア文字を使用していた人々が一斉に切り替えることは考えられません。おそらく、どこかの地域の1グループで使用されたもので、フェニキア文字はそのまま使用されたと思います。
  エレファンティン・パピルスの1つ、「バゴアスへの嘆願書」の一部です。この文書には BC407の年号が記されています。

  アラム文字は、右から左へ書かれました。Abydln atrh SHlHn mran pAl yhwhnn khna rba ・・・ のように読めます。atrh は Evra、yhwhnn は Yehohanan、khna は Kahana、rba は ラビの名前だと見なされるようです。
  別ち書きがされています。イスラエル人はフェニキア文字の文書も別ち書きしていました。
  アショカ王のカンダハルの碑文は複数存在するようですが、1つはギリシア文字とアラム文字のバイリンガル碑文のようです。この碑文のアラム文字の部分は別ち書きされていません。また、語彙もヘブライ語などでは解釈できないようで、カナン諸語ではないようです。

ヘブライ文字

  現在も使用されているヘブライ文字は、かつてのユダ王国の人々がハスモン朝によって独立を回復した BC141 以降に使用されるようになった文字です。フェニキア文字は古ヘブライ文字、ハスモン朝の文字は方形ヘブライ文字と区別されます。
  方形ヘブライ文字が作られるころにはアラム文字を使用していましたが、フェニキア文字とアラム文字は1対1に対応し、書体の差異しかないので区別していたのかどうかは分かりません。
  新バビロニアによってバビロン捕囚が起き、ユダ王国は滅亡しました。4百年後にかつてのユダ王国の人々はハスモン朝によって独立を回復しました。BC64 ころローマ帝国の属州となるまでの間に、ヘブライ文字によってヘブライ語聖書が編纂された見られています。
  死海文書(ナッシュ・パピルス)には「方形ヘロデ文字」と説明のある文書が含まれます。ヘロデ朝はローマ支配化の王朝でBC37からAD93ころまで存在しました。この文字は方形ヘブライ文字よりアラム文字に近いように見えますが年代的には新しいことになります。ナッシュ・パピルスには BC37 以降の文書が含まれているようです。
  ヘブライ文字も、字形が異なる以外は、フェニキア文字と機能的に差異のない文字ですが、語末形の字形が加えられました。
  別ち書きされていない文書は行頭からしか読むことができず、語を文書から探すことも困難です。イスラエル人は古くから文字を別ち書きする習慣があったようですが、語末形の字形を加えることで、さらに語の視認性が良くなったものと思います。
  また語末形文字は書き方向を一様する効果もあったと思います。
  現存するヘブライ語聖書の最古のものは11世紀のもののようです。ハスモン朝の時代のヘブライ文字がどのようなものだったかは正確には伝わっていないのかも知れません。

  子音文字であるヘブライ文字は発声に必要な情報を完備しないことは確かなようです。ヘブライ語では点を打つことを「ニクダー」と言うようですが「ティベリア式発音」と呼ばれるニグダを使用するようです。
  8世紀のティベリアで子音文字だけの聖書の朗誦が正しく伝承されないことから始まったとされています。
  「לא צחקתי」(創世記 18:15)は「la TSHqty」のように転写できます。google翻訳で「לא」は英語の not に訳されます。「צחקתי」は I laughed となります。「わたしは笑わなかった」ようです。

子音文字 צחקתי לא
ニクダー付き
(創世記 18:15)
צָחַקְתִּי לֹא
Unicode י תִּ קְ חַ צָ א לֹ
5d9 YOD 5ea TAV
5bc DAGESH
      or MAPIQ
5b4 HIRIQ
5e7 QOF
5b0 SHEVA
5d7 HET
5b7 PATAH
5e6 TSADI
5b8 QAMATS
5d0 ALEF 5dc LAMED
5b9 HOLAM

  ホラム(HOLAM)は [oː]、カマツ(QAMATS)は [ɑ]、パタフ(PATAH)は [a]、シュヴァー(SHEVA)は [ə]、ダゲッシュ(DAGESH)は破裂音、ヒリク(HIRIQ)は [ i ]、と説明されています。
  母音を補うと「looa TSaHaQetiy」で「ローア ツァハクェティー」のように読まれたと言うことのようです。

シリア文字

  シリア文字は現在も使用されている文字ですが典礼文字として使用が続けられているものと思います。シリア語はシリア、レバノン、トルコ、イラクなどの中東のキリスト教徒が使用しているアラム語の一種を指すようです。また、インドのマラヤーラム語の表記にも使われるようです。(マラヤーラム文字があります。)
  BC200頃から使用されたアラム文字の一種で東方の文字の基になったアラム文字の有力な候補のようです。

  Unicode の文字は以下のようです。
Syriac(U+700)
基本 GARSHUNI
(中接)
名称(音) 基本 GARSHUNI
(中接)
FINAL 名称(音) 基本 名称(音)
ܐ ALAPH(a) ܛ  ܜ TETH(t) ܦ  PE(p)
ܒ BETH(b) ܝ  YUDH(y,e) ܨ SADHE(ṣ)
ܓ ܔ GAMAL(g) ܟ  KAPH(k) ܩ  QAPH(q)
ܕ  DALATH(d) ܠ LAMADH(l) ܪ  RISH(r)
 ܗ  HE(h) ܡ MIN(m) ܫ SHIN(sh)
ܘ  WAW(w,o,u) ܢ  NUN(n) ܬ  TAW(t)
ܙ  ZAIN(z) ܣ  ܤ  SEMKATH(s)
ܚ HETH(kh) ܥ  E

  合字が使われることがあるようです。多くの合成用の符号があります。
  繋げて書く文字らしく、字形は接続によって多数あり、Unicode が収録しているのは一部のようです。
  Esṭrangelā (classical)、Madnḥāyā (eastern)と言う書体があり、前者がUnicodeに収録されているようです。
  PERSIAN BHETH、SOGDIAN ZHAIN と説明の付いた文字が数個あります。
  シリア文字はナバテア文字を経てアラビア文字になったと考えられています。続け書きによって字形を変えることや語末型の字形がある点でアラビア文字に通じます。
  また、ソグド文字を派生し、突厥文字、ロヴァーシュ文字、ウイグル文字、モンゴル文字になったと考えられています。

アラビア文字

  アラビア文字も子音文字として始まりましたが、現在は母音を表すことができるようです。アラム文字から派生した文字を使用していたナバデア王国の人々が、やがて文字を繋げて記すようになり、アラビア文字の元になったと考えられているようです。ナバデア王国の時代の碑文は文字が連結してか書かれていないようです。2世紀になるとローマの属州となったので、その後の習慣と言うことのようです。7世紀にアラビア文字は使用が始まるようですが初期のアラビア文字がどのようだったのかは良く分かりません。
  ヘブライ語が長い間死語であり、20世紀に再建された言語であることを考えると、アラビア語が語根を持つ言語の代表のようです。アラビア語も王を mlk と表し、マルカのように読みます。

  イスラム教の聖典には教えが石やヤシの葉に記して伝承されてきたことが記されているそうです。アラビア文字が使用される7世紀には筆記環境も大きく改善されていたのだと思います。1語を文字を繋げて書くのは、1語を1回で記すことができたのだと思います。
  字形は多くなっていますが、自然なもので、語頭、語中、語末を個別に覚えるようなことは必要ないもののようです。
  フェニキア文字より音素数が多く、ウガリット文字に近い音素数です。

ペルシアの文字

  現在、ペルシア語はペルシア文字で表記されるようです。ペルシア文字はアラビア文字の28文字と、ペルシア語固有の4文字で構成されると説明されています。Unicode は、アラビア文字として、この4文字も割り当てています。
ペルシア文字
文字 پ چ ژ گ
名前 PE TCHEH JEH GAF
IPA p t͡ʃ ʒ ɡ

  アラビア文字は多くの言語の人々が使用しています。Unicode は使用される可能性のある文字を1組にしていて文字の名前などで区別を付けていないようです。外来語もあるので妥当なことなのだろうと思います。
  ペルシア人はサーマーン朝(873-999)の時代にアラビア文字を使用するようになり、文字だけでなくアラビア語の語彙も取り入れられたとされています。現在のペルシア語は10世紀に起源があるようです。
  651年にイスラム共同体に征服されて以降、ペルシア人はアラビア語で文書を作ったようです。アッバース朝(750-1258)はアラブ人の特権を廃してムスリムの平等を宣しました。イスラム世界の文化や科学技術を担ったのはペルシア人だと言われます。フワーリズミー(9世紀前半)やタバリー(838-923)はペルシア人やイラン系とされますがバグダートで活躍し、アラビア語で文献を著しました。
  これは10世紀までペルシア人がアラビア語を外国語として使用したこと言う見方を示すものと思います。10世紀以降はペルシア語自体がアラビア語に近くなり、ペルシア語をアラビア文字で書くことで用が足りるようになったのだと思います。
  ペルシア人はパフラヴィー文字の詩篇でシリア語(アラム語)を訓読してしていることが知られます。ペルシア人はアラビア語も訓読していたのかも知れません。日本人が書いた漢文の文章を中国語と呼ばないなら、ペルシア人の書いたアラビア文字の文献もアラビア語とするのは適当ではないのかも知れません。

  ペルシア語の継続性については10世紀ごろに大きな変化かあったようです。その後のペルシア語の年代区分には14世紀と言う節目があります。それは、ヨーロッパに伝わったペルシア語文献はインドでパールシーから収集された14世紀の写本だと言うことです。このインドで作られた写本はペルシア語がインドでも使用されていたことを示します。パールシーがインドに渡ったのは 936年、あるいは 716年とされています。パールシーがペルシア語をアラビア文字で記していたのかどうかは分かりませんが、14世紀までパフラヴィー文字やアヴェスター文字の文献の写本が作られていました。現存する文書からすれば「書籍のパフラヴィー文字」はインドで使用された文字のようです。

  ペルシアが文献に登場するのは新アッシリアが属国としてパールス(pa-ar-su、楔形文字)と記したことのようです。その時代にはキュロス1世はエラムの地のアンシャン王でした。やがて空前の大帝国アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330)が誕生します。ベヒストゥーン碑文は、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字、アッカド文字(楔形文字)で刻まれました。ペルセポリス城砦文書、宝蔵文書はBC490ころのペルセポリス建設時の支払い明細などの文書群です。ほとんどがエラム楔形文字で、アラム文字を陶片にインクで書いたものが含まれるようです。
  アレクサンドロス3世の帝国、セレウコス朝の時代にはペルシア人もコイネーを使用したことは確かだろうと思います。
  前1世紀ごろになるとセレウコス朝の統制は及ばなくなり、広い地域でアラム文字系のいろいろな文字が見られるようになります。
  このころにペルシアはアルサケス朝パルティア(BC247-AD228)の支配下に入ったと見られます。パルティアは「碑文のパフラヴィー文字」のような文字を使用していたようです。
  それはサーサーン朝ペルシア(226-651)にも受け継がれました。サーサーン朝ペルシアは 651年にイスラム共同体に征服されます。
  イスラム化以前のペルシア語の歴史は、エラム、パルティアと不可分のようです。

  ペルシア語やパルティア語はインドヨーロッパ語族に分類されています。エラム語は孤立語のようです。バビロニア、カナン、シリア、エジプトはアフロ・アジア語族に分類される言葉が使用されてきました。アラビア語はアフロ・アジア語族に分類されます。
  サンスクリット語がヨーロッパの多くの言語と共通の起源を持つことに気が付くのは18世紀のことであり、古代のペルシア人は差異を意識していなかったのかも知れません。
  ヘロドトスはペルシア戦争の原因に付いてペルシアの識者の意見を記しています。(Hdt. 1.1)
  この記述からヘロドトスもペルシアの識者もホメロスの物語を共通の歴史認識の基礎に置いていたことが分かります。
  一方でヘロドトスはペルシア戦争をヘレネス(Ἕλλησι)とバルバロイ(βαρβάροισι)の戦いと呼んでいています。これはギリシア文字を含むいろいろな文字をペルシア人が訓読してしまうことを指しているのかも知れません。

  前15世紀のミタンニとヒッタイトの条約にミトラなどのインドの神々が登場することが知られます。アヴェスター語はヴェーダ語と同源でイランやメソポタミアにも伝わっていたことは確かそうです。しかし、そうした口承文書がペルシア人によって伝承された物かどうかは分かりません。ゾロアスター教の聖典としてのアヴェスターはインドで収集されたもののようです。
  ゾロアスター教とペルシア人の関係も確証はないようです。少なくともアケメネス朝の時代にはザラスシュトラに関する記述は無いようです。

  ホスロー1世(531-571)は哲人王と呼ばれたとされ、アカデメイアを追われたギリシア人学者を受け入れたことや、インドから学者を迎えたことでも知られます。この時代には多くの著述が行われたと考えられますが確かな物証は上げられていません。7世紀以降イスラムの時代となり、イラン系サーマーン朝(873-999)の時代にペルシア文学が栄えたとされます。また、12世紀のトルコ系王朝(ガズナ朝、セルジューク朝、ホラズムシャー朝)はペルシア人を重用し、ペルシア語を公用語としたと言うことです。しかし、実際に伝来しているものは上げられていません。

エラム楔形文字

  エラム楔形文字はアッカド帝国とエラムの間の条約文が根拠のようです。130ほどの音節文字と説明されています。
  それから千数百年経ったベヒストゥン碑文に刻まれた文字もエラム楔形文字と呼ばれています。
  また、BC490ころのペルセポリス城砦文書、宝蔵文書も大半がエラム楔形文字と説明されています。
  ベヒストゥン碑文にはペルシア楔形文字も刻まれました。エラム楔形文字やペルシア楔形文字が示す音声言語の差異は分かりません。しかし、エラム楔形文字の示す言語をペルシア語と言っても不思議はなさそうです。
  字形や例文は楔形文字のところに記しました。

ペルシア楔形文字

  子音文字ではなく、母音を書き表す文字でした。Unicode では、随伴母音 A のアブギダと見て収録されているようです。
  「ペルシア」が冠されていますがペルセポリス城砦文書、宝蔵文書には登場しないようです。
  字形や例文は楔形文字のところに記しました。

パフラヴィー文字

  パフラヴィー語は中期ペルシア語と同義のようです。ペルシア語の年代区分の中世と中期は明確ではありません。いずれもサーサーン朝ペルシア(226-651)の時代を主に指しています。ただし、古代ペルシア語をアケメネス朝(BC550-BC330)に当てると、それ以降が中世、あるいは中期ペルシア語と呼ばれることになります。パルティア帝国の時代が含まれると言うことです。
  パフラヴィー文字の使用はパルティア帝国の時代に始まり、サーサーン朝にも受け継がれました。文化的にも連続性があり、シャープール1世(241-272)が重用したマニ教の開祖マニはパルティアの貴族でした。

  一方パフラヴィー文字は、「碑文のパフラヴィー文字」、「詩篇のパフラヴィー文字 」、「書物のパフラヴィー文字」と3種に分けられています。主に「書物のパフラヴィー文字」を指すようですが、「書物のパフラヴィー文字」がサーサーン朝の時代に使用されていたと言う物証はないようです。
  Unicode のパフラヴィー文字は「碑文のパフラヴィー文字」のようで、10B40 の区画に 19文字と 8つの数字を収録しています。

  フェニキア文字の wau、eyn、rosh に相当する文字に Unicode の「碑文のパフラヴィー文字」では WAW-AYIN-RESH と言う名前を付けています。mem、qof も MEM_QOF です。Unicode ではパフラヴィー文字がフェニキア文字と対応することを前提に名前が付けられています。フェニキア文字が22文字なのに対してパフラヴィー文字は19の記号になっています。
  パフラヴィー文字は前3世紀ごろから使用されたと見られています。セレウコス朝の衰退に従ってシリア文字やナバテア文字などアラム文字の派生文字が多数知られるようになるのと同様なことだと思います。ただしペルシャ語はインド・ヨーロッパ語族に属し、セム語派の言語に結び付けられる子音文字が採用されたことは不思議です。既にセレウコス朝によってギリシア文字が普及していたはずです。 

  「碑文のパフラヴィー文字」の比較的早い例はアルサケス朝パルティアの王ヴォロガセス1世(51-78)のコインのようです。
  wikipwdia が上げているシャープール3世(383-388)に関する Taq-e Bostan の碑文の写真を見てみます。
  右から左へ読まれます。最初の語を除いて、以下のように読めます。
  AWHWMZDI  MLKN MLK
  アウハウマツディ マルカン マルカ のようです。しかし、このラテン転写は ohrmazd shaahaan shah のようです。
  この文は、「(主)アフラ・マズダー(の息子)、王の王」と訳されます。カナン諸語の王は mlk で、「王の王」はカナン諸語でフェニキア文字やアラム文字と同様に綴られたようです。ペルシア人は表音文字として読み書きしていたのではなく、語ごとに読みと意味を学習していたようです。
  これは漢文訓読のようなものだと思います。ペルシア人はアラム語をペルシア語で訓読しました。
  なぜフェニキア文字、アラム文字、ヘブライ文字、シリア文字などと異なる字形を使用したのかは分かりませんが、記号数が20ほどなので字形の違いはさほど問題ではないものと思います。「碑文のパフラヴィー文字」は、子音文字として読めばアラム語やシリア語を話す人々にも通じたと考えられます。
  例の最初の語は bay とラテン転写されています。ペルシア語で bay、意味は「主」です。しかし、子音文字としては一通りに読むことが出来ません。最初の文字は、WAW、AYIN、RESH のいずれかです。u、a、r の、いずれかで始まって a で終わるカナン諸語の語彙が語源の可能性がありますが特定できません。
  Unicode で定めている以外の字形があり、アラム文字の字形も書かれるようです。
  表音文字ではないので、語は必ず別ち書きされます。

「詩篇のパフラヴィー文字 」の詩篇は、聖書の詩篇(Psalms)のことで、シリア語聖書から6世紀に翻訳されたと説明されています。

    turfanforschung Mittelpersischer Psalter と呼ばれるようです。パフラヴィーを避けて中世ペルシア語の詩篇のようです。シリア語聖書からとする理由や6世紀とする根拠は良く分かりません。
  おそらくパルティア帝国の時代に既に聖書やキリスト教はパルティア人やペルシア人に知られていたものと思います。マニ教の開祖でパルティア人のマニ(216-277)の両親はユダヤ教、あるいはキリスト教の新興宗教エルキサイテス(Ελκεσαΐτες)に属していました。新約聖書もギリシア語やアラム語で伝わっていたはずです。パフラヴィー文字にした理由は良く分かりません。
  「turfanforschung Mittelpersischer Psalter 」は、赤のインクが使用され2色で書かれています。赤で書かれた部分は番号が書かれています。100+20+3+3 で 126 です。シリア語聖書はギリシア語聖書(70人訳聖書)から作られました。Psalm 126 はヘブライ語聖書の 127 に相当します。

  Unicode の字形に置き換え、上の表に従ってラテン転写すると以下のようになります。 
  Ht mrwHy la plkTSdy byta twHyk lhtyndy mnw lknTSdy
  と、なります。

  70人訳聖書(LXX)の詩篇126の冒頭は下表のように記されています。
  google翻訳で調べたギリシア語の各語の語意と、文章の一般的な英訳を探しました。
  神が都市を造るのでなければ空しい、と言った事のようです。
  ギリシア文字61文字に対して、パフラヴィー文字41文字が対応しています。
  語数が 11 と 9 で直訳ではないようです。

LXX 詩篇126
Greek ΕΑΝ ΜΗ ΚΥΡΙΟς ΟΙΚΟΔΟΜΗΣΗ ΟΙΚΟΝ ΕΙς ΜΑΤΗΝ ΕΚΟΠΙΑΣΑΝ Ο ΟΙΚΟΔΟΜΟΥΝΤΕς ΑΥΤΟΝ
英語 if not lord build house in vain to be tired the to build a house him
except the LORD keep the city, the watchman waketh but in vain. (King James)

  シリア語聖書の詩篇は確認できないのでパフラヴィーのラテン転写からの再現して見ました。
  ヘブライ語の部分はヘブライ語聖書の Psalm 127 の最初の部分です。

シリア語、ヘブライ語とパフラヴィー(詩篇126)
syriac ܒܢܢܝܘܗܝ ܠܐܝܢ ܣܪܝܩܐܝܬ . ܒܝܬܐ ܒܢܐ ܠܐ ܡܪܝܐ ܐܢ
bnywhy layn sryqayt byta bna la mrya an

(bna-why)
build it

tire vainly house build not lord if
hebrew בוניו בו עמלו שוא בית יבנה לא יהוה אם
bwnyn bn Amlw SHwa byh ybnh la hwhy am
pahlavi mnw lknTSdy lHtyndy twHyk byta plkTSdy la mrwHy ht
twhyg xānag agar

  どうやらシリア語、ヘブライ語、パフラヴィーは各語が1対1に対応しているようです。「詩篇のパフラヴィー文字 」も字形だけを変えてアラム語を訓読しているようです。

「書物のパフラヴィー文字」は、ホスロー1世(531-579)の時代に、ギリシア語文献、サンスクリット語文献をパフラヴィー語に翻訳するために作られたと説明しているものと、前2世紀から「碑文のパフラヴィー文字」と並行して使用されたと記しているものがあります。
  実際に伝来している「書物のパフラヴィー文字」で記された文書は14世紀の写本のようです。多くがインドで作られた写本でアヴェスターと共にインドで18世紀に収集されたもののようです。その元が9世紀ごろのイラン系王朝の時代に作られたと考えても「書物のパフラヴィー文字」がアヴェスター文字より前から使用されていたと言う証拠はなさそうです。
  ペルシア人は10世紀にはアラビア文字でペルシア語を記すようになったとされています。

  「バーバクの息子アルダシールの偉業の書」は中世ペルシャ文学(パフラヴィー文学)でサーサーン朝を開いたアルダシール1世とソグド王マディッグの戦いが題材のようです。完全な唯一の写本はMK写本と呼ばれるようです。この写本はインドのグジャラートで1322年に作られたことが分かるようです。
  左図はタイトルの部分で、赤は「書籍のパフラヴィー文字」、青は Unicode の字形で置き換えたものです。
  「碑文のパフラヴィー文字」、「詩篇のパフラヴィー文字」と異なり文字を繋げて書くようになっています。語を空白で別ち書きすることは同じです。
  アラム語の zy に相当する I と言う記号が使用され、独立して記されるようです。
  g の上にはマークが付いていますが、マークなのか字形の一部なのかは分かりません。また、語末の g は水平に長く伸ばされているようです。

タイトルの翻字と英訳
翻字 kalwamkw I altaSHgl I papkaw
読み kar-namag i ardashir i pabagan
英訳 record of Ardashir  son of Babag

  タイトルの下は「神の名において」のような定例句のようです。

賛辞の翻字と英訳
翻字 pww SHm I gatal awawma I lagawmng I gwhawmng
読み pat nam i datar Ohrmazd i rayomand i xwarrahomand
英訳 in name of creator Ahura Mazda of majestic and glorious

  翻字は下表のよっています。

  w と翻字した文字は、その名前から、アラム文字やフェニキア文字の Waw、Nun、Ayin、Resh である可能性があることを示すものと思います。
  ラムダは3つの字形が使用されるようですが使い分けは分かりません。デルタとカッパもそれぞれ2通りあり、一方に OLD が付いています。OLD が付いている字形は「詩篇のパフラヴィー文字 」のもので、「書物のパフラヴィー文字」の方が新しいと言うことになります。
  また、「バーバクの息子アルダシールの偉業の書」では h とmw はほとんど区別の付かない字形になっています。
  「書物のパフラヴィー文字」は、純粋な表音文字ではなく、単語の綴りと読みを覚える文字システムのようで、語が識別されれれば良いのだと思います。

アヴェスター文字

  アヴェスター語はヴェーダと同源で古くからの口承文献を伝えていたことは確かだと思います。しかし、その伝承がペルシア人によって行われていたのかどうかは分かりません。デーンカルドは9世紀に編纂されたとされるゾロアスター教の辞典ですが、アレクサンドロス3世が書物を焼き、あるいはギリシア語に翻訳すするために持ち去ったとしています。しかしアヴェスターやザラスシュトラについて文献がヨーロッパに伝わった痕跡は無いようです。サーサーン朝の滅亡後のイスラム化によって失われたと考える方が自然に思えます。
  ヨーロッパにゾロアスター教やアヴェスターの存在が知られるのは1604年のようです。この時点ではアヴェスターはゾロアスター教の聖典として存在していました。アヴェスターは18世紀にインドのパールシーから収集され解読が行われることになります。

  アヴェスター文字が作られアヴェスターが文書となったのは6世紀と考えられているようです。アヴェスター文字は「書物のパフラヴィー文字」から作られたとも説明されていますが、いずれも6世紀の存在を示す確かな証拠は無いようです。
  また、アヴェスターはゾロアスター教の聖典として文書化されたと考えられているようです。特定の宗教や王朝と結び付いたものではないことがヴェーダが大変長い間伝えられてきた理由だと思います。アヴェスターの場合は、最も古いガーサーは開祖ザラスシュトラの言葉だと考えられているようです。

  アヴェスターは6世紀には21巻あり、9世紀ごろまでは伝わったようですが、現存するのは5巻のようです。インドでパールシーから収集されたもののようですが、このことはパールシー教徒にとってアヴェスターは不可欠のものではなかったと言うことだと思います。
  おそらくゾロアスター教はイスラム化したペルシア人の価値観で語られています。経典主義や一神教と言ったことが本来のペルシア人の信仰なのかどうかは分かりません。
  そもそもゾロアスター教がペルシアの宗教かどうかも確証は無いように思います。

  Unicode の 10B00 の区画に、16の母音、38の子音を登録しています。ラテン文字と異なり母音と子音の別が明示されています。
  千年前のペルシア楔形文字は3つの母音と33の子音でした。

アヴェスター文字の母音
アヴェスター文字の子音

  Unicode の文字の命名は随伴母音 E を伴って付けられたようです。ペルシア楔形文字の随伴母音は A でした。Unicode の文字の名前でヤスナ写本J2 28を翻字してみます。

 右から左へ読むように書かれています。語は中点で別たれています。この中点は行末にもあり、語は改行して書かれることがあるようです。例の最後(左端)の語は次の行に繋がって読まれるようです。また、文字は続け書きされないのが基本のようです。例外は最後の語の SE-TE で、続き書きされた結果の字形と見なされるようです。
  HE の終端の丸は付いているものと無いものがあり、理由は分かりませんが使い分けられています。
  ahyaa yaasaa nemanghaa ustaa(nazastoo)
  の、ような読みだと考えられているようです。
  Unicode の想定は、HE は単独で「へ」で、HE + AA は HAA だと言うことだと思います。しかし、HE は H だとしても概ね成り立つようです。アヴェスター文字が普通のアルファベットなのか、アブギダの性質を持つのかは明瞭ではありません。
  しかし、ペルシアやエラムでは古くから音節文字の母音を変更して使用していたようです。ベヒストゥン碑文のダレイオスの名はアッカド文字で da-ri-ia-mush と書かれています。エラム楔形文字では da-ri-ia-ma-u-ish と表記され、ma-u-ish は mush と読まれたようです。
  yaasaa は請願する、nemanghaa は崇拝、ustaana-zastoo は、両手をいっぱいに伸ばして、と訳されるようです。
  ヤスナ写本J2は12世紀のもので18世紀にヨーロッパに伝わったようです。ヤスナは5巻からなるアヴェスターの1巻で祭儀書と言うようです。この中にはガーサと呼ばれる韻文詩があり、開祖ザラスシュトラ自身の作で最も古い内容だと言うことです。古代アヴェスター語(ガーサ語)と呼ばれます。28 は最初のガーサで「ガーサの最初の日」(Ahunawad Gatha)と言った題のようです。
  この写本はパフラヴィー文字による注釈を伴っているようです。

ギリシアの文字

  おそらくギリシア人はヘレネスを自認する人々のことで、前5世紀にはマケドニアを含むヘラスの概念がありました。
  そしてヘレネスはホメロスの物語るアカイア人やスパルタ人を自らの祖と考えていました。ホメロスのアカイア人はミケーネ文明の担い手で、ミケーネ文明はミノア文明から継続した文明だと見られています。
ギリシア語の年代区分
区分 年代 説明
ギリシア祖語 2000
BC
ギリシア祖語がインド・ヨーロッパ祖語から分岐したと考えられる年代。
ドーリア人が定住するのは BC1100 以降と見られ、千年に渡って移入してきた人々によってギリシア祖語は形成された。
ミケーネ語 1600
BC
線文字Aの使用が始まった年代。
線文字A、線文字Bはギリシア語(ミケーネ人の言葉)を表す音節文字と表語文字の文字体系だった。ドーリス人、アイオリス人、イオニア人と言った認識が既にあったと推測されている。
1200
BC
「海の民」の事変。暗黒時代。また、ホメロスのトロイア戦争の年代。
ミケーネ文明の滅亡。ヒッタイトの滅亡。アッシリアはアナトリアへムシュキを追う。
古代ギリシア語 1100
BC
おそらく「海の民」の事変の終息のころ。
トロイア戦争に参戦した人々は流浪したとされる。
アッシリアはキプロスの10のギリシア人王国を記録。アナトリアにムシュキが定住。
カナンにはペリシテ人が定住。共に印欧語族と見られる。
フェニキア文字の使用が始まると同時にギリシア人も使用したものと思う。
900
BC
ギリシア文字が使用される。ギリシア文字は長い間フェニキア文字に近い字形だった。
ギリシア語とされる諸語を話す人々(ドーリア人、アイオリス人、イオニア人)の分布が知られる。
500
BC
古典ギリシア語
ホメロスが文書となる。ヘロドトスが「歴史」著す。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、プラトンなどの活躍した年代。
アッティカ、イオニア方言と文字が標準になったとされる。
この時代の文書は片々が残っているのみのよう。
コイネー 334
BC
アレクサンドロス3世が東征を開始した年。
アレクサンドリア図書館で編纂されたホメロスの作品やヘロドトスの「歴史」は写本されて伝承された。これ以降は70人訳聖書など文書が写本として残るようになる。
これ以降インドに至る広い地域でコイネーが使用された。
コイネーは前5世紀ごろにアッティカ、イオニア方言が共通語となったもの。
中世ギリシア語 395
AD
東西ローマ帝国の最終的な分割統治の始まった年。コイネーを元に、現代ギリシア語に通じる口語や文語が作られた。
文語は東ローマ帝国の公用語だった。
オスマン帝国の台頭によってギリシア人がイタリアなどへ移民するとギリシア語は再び重要性を増した。
1453 1453年は東ローマ帝国の滅亡した年で、オスマン帝国下のギリシアをトルコクラティアと言う。オスマン帝国はギリシア正教(コンスタンティノープル総主教)を通じて統治を行い改宗を求めることはなかった。
ギリシア人は通訳など統治に協力し行政上重要な地位を占めた。
オスマン帝国の支配が確立する前からギリシア人は西ヨーロッパへ逃れディアスポラの状況になっていた。
この時代のギリシア語に付いては特に説明が無い。
現代ギリシア語 1830 1830年はギリシア王国が成立し独立を回復した。
「カサレヴサ(Καθαρεύουσα)」と「デモティキ(Δημοτική)」と言う2通りのギリシア語が使用されるようになった。カサレヴサは「共通文語」と呼ばれコイネーなどの古典を元に作られた。法律、行政に使用されている。デモティキは1550年ころから口語ギリシア語を指して使用されアテネの民衆の口語を元にした「口語の標準語」。

  ギリシア語の最初の文字記録は線文字A、Bによるもので、音節文字と表語文字の組み合わせでした。
  メソポタミアはアッカド文字(楔形文字)の時代で同じ音節文字と表語文字の組み合わせでした。バビロン第3王朝(カッシート朝)、ミタンニ、ヒッタイトの時代です。エジプトは第2中間期の終わりでした。ヒッタイトが記録したアヒワヤ王国はアカイア王国だと考えられています。アヒワヤの大王はヒッタイトへヒッタイト語・アッカド文字の書簡を送りました。(KUB 26.91)

  「話し言葉」は残らないので文書から推定されることになります。長文の文書が今日まで伝わっているのは「コイネー」の時代以降のものです。ホメロスもヘロドトスもエジプトのアレクサンドリア図書館で編纂されました。
  wikipedia にはアテナイの国立図書館が所有していたアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらの貴重な自筆原稿をアレクサンドリア図書館が写本と交換した話しが記されています。
  自筆は伝わっていないものの前5世紀には多くの著述が行われたことが知られ内容も伝わっています。後代の写本で伝わるプラトンなどの著述を「古典ギリシア語」と区分するのは何の問題もありません。しかし「話し言葉」や「文字」を知ろうとするなら文書の片々が資料となる時代だと言うことです。「ヘロドトスがイオニア語で執筆」と記され、「古典ギリシア語」はアッティカ、イオニア方言や文字を元にした共通語とされますが根拠は説明されていないようです。
  それより前の時代に付いては長文の資料はなく片々を元にした、後代の言語からの推定だと考えられます。線文字Bはギリシア語を記していますが書簡や文学など長文が存在しないことでも知られています。線文字Bと同種のキプロス音節文字は前4世紀まで使用されたとされますが唯一の長文は前5世紀の青銅板文書、イダリオン・タブレット(Idalion Table)のようです。

  中世ギリシア語の説明は、口語は既に現代ギリシア語と大差ない状況だったが、文語は多様だったと言うことのようです。
  千数百年、大きな変化はなく、文語が共通語であるためにはコイネーに基くことになるようです。

線文字A

  クレタ島のミノア文明の遺跡から、線文字Bと共に見つかった文字です。おそらく、良く似ているが2種類に分類されることは分かって線文字A、Bと区分されたものと思います。
  資料数が少なく、わずかな文字数しか記されてない状態では、字形から個々の資料を A、B と分類するのは困難だと思います。また、ギリシャ語として読むことを試さなかったのは、ミケーネ文明の遺跡とは考えられていなかったことが推測でき、年代についても分類が困難なものだと思います。
  図のような記号が線文字Aの記号として識別されています。3行目が、線文字Bに該当のなさそうな記号です。それ以外は、同じか、わずかに違った記号です。
  最後の記号は、表語文字で 線文字B のワインを示す文字と同形です。
  現在では、線文字Aは、線文字Bの古い形と見られ、線文字Bの音で読むことができると見られているようです。しかし、線文字Aが未解読であることには変わりがないので、線文字Aで書かれた文章が表す音声言語はギリシャ語だとは言わないようです。線文字Aで書かれた文章がほとんど存在しないことも理由です。
  線文字Aは、線文字Bと同様、音節文字と表語文字で構成され、この点では楔形文字と同じ方式です。
  数値の表記は、線文字Bやキプロス音節文字と類似していると考えれているようです。

  最長の文章と見られるのは、「Archanes ladle」や「Vessel from Troullos」と呼ばれる器の縁に刻まれたもののようです。アルカネス遺跡に近い、Troullos で発見された液体を小分けする道具と見られる石の器です。枡で大きな甕などから液体をすくって、角を使って口の狭い器に入れる様子を想像すると近いようです。マスの縁に文字が刻まれています。実際には上から見ると四角ではなく、角を丸くした3角形です。
  この文字は、線文字B の音を当てて以下のように読まれると見られていますが、それが何語で何を表すのかは分かりません。たとえギリシャ語であっても BC1600 のギリシャ語は誰も知りません。
  a-ta-i-?-wa-ja o-su-qa-re ja-sa-sa-ra-me u-na-ka-na-? ?-na-ma si-ru-?

  クレタ人、ミノア人、ミケーネ人、アカイア人が説明に使われ、これらが継続した人々を指すことも明示的には書かれません。クレタ人、ミケーネ人は場所から呼ばれています。アカイア人は、血縁あるいは文化的系統に付けられた名前だと思います。
  ミノアの由来は、多くがホメロス(前8世紀)の記述を引用しています。(Homer, Odyssey 19, lines 172-)
  要点は、以下のようです。
  「エーゲ海にクレタ島があり、多くの人口とたくさんの都市がある。人々は同じ言葉を話すわけではないが混じり合っている。アカイア人とドーリア人、クレタ人(Eteocretans)がいた。また、 シドニア人(Cydonians)、ペラスギア人(Pelasgians)がいた。クノッソスはミノス王が治めた都市で、その子がデウカリオーン(Deukalion)、さらにその子がイドメネウス(Idomeneus)。イドメネウスはトロイア戦争に参戦した。」
  クノッソスにはミノス王がいたことが、ミノアの由来のようです。ミノア文明、ミノア語、ミノア人は地名から来たものではないようです。発見された遺跡がクノッソスと見なされた理由は分かりません。
  イドメネウスはトロイア戦争のアカイア勢力なので、ミケーネ文明の時代のクノッソスの王はアカイア人だと言うことになります。したがって、線文字Bの担い手はアカイア人です。クレタ象形文字と線文字Aの担い手は、アカイア人以外では、クレタ人(Eteocretans)、シドニア人(Cydonians)、ペラスギア人(Pelasgians)の可能性があることになります。
  また、言葉の違う人々が混じっていると言う状況は、会話にあまり支障がないとも解釈できますが、それでは、なぜ何々人が識別されるのかが疑問になります。
  トロイア戦争が史実かどうかはともかく BC1200 ころのことを物語っていると推定されています。クレタ島の住民の構成はホメロスの時代の前8世紀の状況を反映していると推測します。
  また、ミノス王はミケーネ文明の時代、BC1400からBC1200の間に入ってしまいます。ミノス王はミノア文明期の大宮殿の跡に住んだことになります。
  また、大変長寿だったとすると、あるいは代々ミノスを名乗ったとすると、ミノア文明もアカイア人が担ったことになります。

線文字B

  ギリシャ本土、エーゲ海の島々の王宮内の記録にミケーネ文明(BC1450-BC1375)の時代に使用されました。焼成したものが無いことから一時的た記録が目的で、書簡などには使われなかったと考えられています。
  音節文字と表語文字から構成されています。これは、楔形文字と同じ方式です。
  Unicodeには、ここに挙げていない、説明の付与されていない記号がたくさんあります。
線文字Bの音節文字
線文字Bの表語文字

  王宮内の記録に使用したと考えられ、数字が多く見られるようです。数字は、Unicode では、線文字B ではなく、エーゲ海数字(Aegean numerals)となっていて、ミノア文明、ミケーネ文明の数字と言うことのようです。

  キプロスはアマルナ文書でアラシアと呼ばれていたことが知られています。クノッソスの出土の線文字Bのタブレットからは、a-ra-si-jo と ku-pi-ri-jo の両方が確認されています。これらが地名であることは確かそうですが、本当にどこを指しているのかが分かるわけではありません。

  a-ra-si-jo が記されているのは、KN Df 1229, Fh369 がタブレットの整理番号のようです。
  ku-pi-ri-jo が記されているのは、KN Ga 676 が整理番号で、スケッチと解釈がありました。
  スケッチの文字に近い形をUnicodeのフォントから選んで適用すると左図になります。
  「no」は左右が反転しています。Unicode の表には音節文字の読みが記されています。
  ko-ri-ja-do-no は、コリアンダーを指すと解釈されています。

キプロス音節文字

  キプロス音節文字(Cypriot syllabary)は前8世紀から前4世紀にかけて使用された音節文字です。前6世紀以降の千ほどの碑文が知られるようです。故人の名などが記されるのみで歴史上有用な資料にはなっていないようです。
  キプロスには「キプロス・ミノア文字」が知られ前14世紀から前12世紀の間使用されました。この文字は線文字Aから派生した文字と見られ、キプロス音節文字の元になったとされています。
キプロス音節文字 線文字B

  「キプロス音節文字」は Unicodeの U+10800-U+1083F が割り当てられています。数字は、 U+10100-U+1013F(エーゲ海数字)が使用されたようです。
  線文字B に見られる表語文字はなく音節文字として使用されたようです。
  また線文字Bとは字形が異なっています。記号が単純化されキプロス音節文字は新しく見えます。
  字形を個別に比較すると da 、pa 、ro 、pa の字形は変わっていません。ma 、na は、単純化されたと見ることができ、キプロス音節文字 と 線文字B は無関係ではないようです。

 キプロス音節文字が表しているのはギリシア語と見られています。
 キプロス音節文字の起源は2通り書かれています。1つにはミノア文明の時代に線文字Aが共に使用されていたとされています。
  もう1つはトロイア戦争に出兵したアカイア人(ダナオイ、ミケーネ人)が帰路キプロスへ漂着しキプロスに王国を築いたと言うものです。キプロスには、それまで人がいなかったわけではなく、アマルナ文書にもキプロスの統治者からアメンヘテプ4世(前14世紀)への書簡が残っています。楔形文字の文書のアラシア(Alashiya)がキプロスだと見られ、銅が重要な朝貢貿易の産品でした。
  新アッシリアはキプロスがギリシア人の10の王国だったことを記録しています。

  「キプロス音節文字」の長文の資料はほとんどないようで「イダリオン・タブレット」が唯一のようです。「イダリオン・タブレット」は5世紀の青銅版文書で八百文字以上ありそうですが要旨しか分かりません。キプロスはアケメネス朝ペルシアと戦争中で兵士に無料の医療サービスを提供すると言う内容だと言うことです。

  その書き出しの部分は、ote ta potoline etalione kateworokone matoi のようです。「キプロス音節文字」は右から左へ読まれ、中点によって区切りが示されているようです。

ラテン転写 ote ta potoline etalione kateworokone matoi
ギリシア文字転写 οτε τα πτολιν εδαλιον κατεϜοργον μαδοι
ギリシア語訳 οταν την πολη ιδαλιο πολιορκουσαν οι περσες
英訳 when the city Idalion was besieged by the Persians

  イダリオンの町はペルシアに包囲されたと解釈されています。
  包囲されたのはエダリオン、包囲したのはマドオイです。
  この文書の年代が前5世紀なら既にエジプトもアケメネス朝ペルシアの支配下にあります。新アッシリアのエサルハドン(BC681-BC669)はイダリオンを ed-di-al と楔形文字で表し銅の取引の中心地でした。マドオイは「メディア」と訳しているものもあります。メディアはアナトリアのリディアへ585年侵攻しました。メディアはキプロスに達していても不思議はありません。メディアの支配下にあったアケメネス朝ペルシアはBC550にメディアを滅ぼし、BC525にはエジプトを征服しました。

ギリシア文字

  ギリシャ共和国(Hellenic Republic)は、ギリシア語の Ελληνική Δημοκρατία で、google翻訳では「エルニキ ディモクラティア」と聞こえます。Greece は、Ελλάδα(エラバ)のようです。Ἑλλάς(エラス)は、その同義語のようです。
  ヘラスに住むヘレネスの概念は前5世紀には存在し、ギリシア語やギリシア文字もアッティカ、イオニア方言を元に共通語になって行ったと考えられています。

  フェニキア文字は BC1050 ころから使用されたと考えられていますが、同じころにギリシア人もフェニキア文字を使用するようになったと思います。ギリシア文字は音節を音素で書き表す最初の文字であり、子音文字のフェニキア文字とは異なります。 

  しかしギリシア文字が母音を表すのに使っている文字は、フェニキア文字にある文字です。母音の aeiou はフェニキア文字の、alf、he、yod、eyn、wau が使用されました。したがって文字列を見ても違いは分かりません。
  ネストールのカップの文字は、ギリシア文字と見なして ΗΙΜΕΡ と転写すれば母音が書き表されているように見えます。しかしフェニキア文字だとすれば hymhr のように転写され子音文字のようにも見えます。
  最終的なギリシア文字は [u]、[w] に当たる文字が無く、日本のローマ字のような音素と音節の関係ではないのかも知れません。

  フェニキア文字は「右から左」に書かれ、線文字Bは「左から右」に書かれていたようです。ギリシア人は牛耕式の碑文を残していて1行ごとに書き方向が変えてあります。書き方向によって文字を鏡文字で書きました。碑文であることから、書きやすさから自然にそうなるわけではないと思います。
  ギリシア人は「右から左」にも、「左から右」にも文字を書きましたが「左から右」に収斂していき、字形も定まったようです。

  ギリシア文字でアクセントなどを表すためにマークが付けられるのは2世紀以降、大文字・小文字は8世紀以降のようです。
  したがって、それより前の文献は全て大文字で記されているはずです。小文字は古代の文字の論旨から外れますが、シグマ(Σ)の小文字が2種類あることは記しておきます。σ と ς で、後者は語末形です。唯一、小文字の σ にだけ語末形が使用されます。
  また、その形状がスティグマと酷似する点は注意が必要です。

ギリシア文字
Name alpha beta gamma delta epsilon digamma zeta eta theta iota kappa lambda mu nu xi omicron pi koppa rho sigma tau upsilon phi chi psi omega sampi
Letter Α Β Γ Δ Ε ϛʹ Ζ Η Θ Ι Κ Λ Μ Ν Ξ Ο Π Ϟ Ρ Σ Τ Υ Φ Χ Ψ Ω ϡ
古代 [a]
[aː]
[b] [ɡ] [d] [e] [zd]
[dz]
[ɛː] [tʰ] [i]
[iː]
[k] [l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [y]
[yː]
[pʰ] [kʰ] [ps] [ɔː]
現代 [a] [v] [ɣ]
[ʝ]
[ð] [e] [z] [i] [θ] [i] [k]
[c]
[l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [i] [f] [x]
[ç]
[ps] [o]
数字 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 200 300 400 500 600 700 800 900

  ギリシア文字の音価が変わった時期に付いては分かりません。それぞれ個別の事情で変わったもので一度に変わった訳ではないと思います。知りえるのはコプト文字が Φ、Χ を保存していて、[f]、[x] のためには新たな文字を加えたことです。コプト文字が使用される4世紀のエジプトではコイネーの音は、まだ変わっていなかったようです。ギリシア文字も中世ギリシア語の時代の変化だと理解して置くことにします。

  ギリシア文字は数字としても使用されました。6、90、900 は、文字としては使用されなくなりましたが数字としては必要でした。イオニア式と呼ばれる記数法は前4世紀には使用されていたとされています。
  6 はディガンマかスティグマが書かれたようです。90 と 900 は、それぞれカッパとサンピだったようです。
  しかし、その字形は一様ではなく、同じ値がいろいろに書き表されたことになります。

  この「イオニア式記数法」がコイネーの一部を成すものなら4世紀に使用の始まるコプト文字にも反映されていると考えられます。コプト文字のアルファベットの6番目は SOU で、コイネーの6番目はスティグマの字形だったとすれば納得できます。しかし、90 と 900 に当たる文字はあまり似ていません。
  90 に当たるとされるコプト文字の FEI はヒエログリフ I9 に由来する文字と説明されています。ギリシア文字の koppa や sampi が記数法の必要性からコイネーのアルファベットとして伝えられていたのかどうかは定かではありません。 

   スティグマは Σ(シグマ)とΤ(タウ)の合字と説明されています。速記を表す英語の stenography はギリシア語の στενογραφία のようです。στενο は「狭い」書き方です。子音文字や音節文字に比べて沢山の文字数を書く必要があるアルファベットは最初から筆記効率の問題があったはずです。また、速く書くだけでなく、媒体の消費を減らすことも必要なことだったと推測します。合字を含めたいろいろな短縮型が存在したものと思います。

  「ディガンマ」、「スティグマ」、「ヘータ」、「サン」、「コッパ」、「サンピ」は「古典ギリシア語」の前に廃れていたと説明されます。しかし、「ヘータ」、「サン」以外は数字として記されることがあるので使用されなくなったと言う意味ではないようです。
  「ヘータ」、「サン」は本当に使用されなくなったものと思います。おそらく碑文で知られる文字で、文書としては伝播しておらず、コイネーの時代に忘れられていた文字だと推測します。コプト文字では [h] に対応する新しい文字ホリ( Ϩ )を作っていて、ヘータを復活させていません。

廃れた文字
文字 数字 説明
スティグマ
Stigma
Ϛ 6 字形はディガンマの筆記体。アルファベットの6番目の文字の字形。
スティグマはΣ(シグマ)とΤ(タウ)の合字で中世から19世紀に使用。
印刷でスティグマとディガンマは区別が無かった。
数字の 6 を表す記号は今ではスティグマと呼ばれる。
シグマの語末形 3c2 ς はスティグマの小文字 3db ϛ ではない。
ディガンマ
Digamma
Ϝ 6 [w]、Υ(イプシロン)と共にフェニキア文字 wau  に相当する。
ラテン文字の F となったがギリシア文字としては使用されなくなった。
[w]、[u]の音価を持つ文字がギリシア文字に無くなった。前8世紀以前らしいが局所的には必要性から使用されてきた。
アナトリア南部のパンフィリア(Pamphylia)では И のような字形が使用され、[w]のような音価を持っていた。
イオニア式記数法の 6 は本来はこの文字だった。筆記体は後に使用されるスティグマと同じ字形だったのでスティグマと呼ばれるようになる。
ヘータ
Heta
[h]、BC400ころΗ(イータ)が使用されるようになったが平行して使われた。
フェニキア文字 het に相当する
サン Ϻ [s]、前6世紀に[ts]として使用されていた。Σ が使用されるようになった。
フェニキア文字 sade  に相当する。(Σ は shin に相当する)
コッパ
Koppa
Ϙ 90 [k]、Κ(カッパ)が使用されるようになった。
フェニキア文字 qof  に相当する。(Κ は kaf に相当する)
サンピ
Sampi
Ϡ 900 サンピは数値の900として使われる。形状はT字型と左図が使用される。
前7世紀から前5世紀に [ts]、[ss]、[tt] として使用された。

  数字の 6 を表す記号に付いては、本来はディガンマ(Ϝ)だったようです。Unicode の説明ではスティグマ(Ϛ)の字形はディガンマ(Ϝ)の筆記体だと言うことのようです。
  コイネーの時代にはディガンマの筆記体がアルファベットの6番目にあったと考えればコプト文字の SOU は納得できます。

  И のような字形はいろいろに当てられたようです。現在の コッパ(Ϟ)U3de にも似ています。アナトリアのパンフィリア(Pamphylia)ではディガンマとして[w]のような音価を表すのに使用されていたようです。パンフィリアン・ディガンマは U376 ですが標準のフォントには含まれていないようです。また、アルカディア地方ではサン(Ϻ)由来の文字として [ts] のような音価を表すのに使用されました。前者はローカルな発音の表記に使われたものでコイネーの時代以降の習慣だろうと推測します。後者は前5世紀に用例があると説明されています。

  Unicode は、コプト文字と共に 370 から 3ff が割り当てられています。しかし、370  のヘータなどはパソコンの標準のフォントには実装されていないようです。
  1f00 からの区画はアクセント記号や気息記号の付いた字形を収録しています。

  10140 からの区画にある「Ancient Greek Numbers」は数字として使用された文字を集めたもののようです。75の記号があり、パピルスの片々やコインなどからも収集されたもののようです。
  主に「アッティカ式記数法」と呼ばれるものに使用された記号のようです。主に前4世紀より前に使用されたもののようです。
  10140 からの区画には1、10、100 が無く、文字のイオタ(Ι)、デルタ(Δ)、エータ(Η)がそれぞれ使用されたようです。1は単に縦の棒のようです。
  数字を表す記号が75あることは不自然で同時に使用されたものではないのでしょうが、いろいろに書かれたと言うのも不思議です。

  ギリシア文字は数学用英数字記号としても 1d400 の区画にも収録されています。
  370 の区画のコプト文字はギリシア文字と組み合わせて使用する意図で、コプト文字固有部分だけが含まれます。
  それ以外のギリシア文字との重複分に付いては実際に近い字形が 2c80 からの区画に改めて収録されたようです。

  ギリシア文字はラテン文字やフェニキア文字と比較して少ない音素数に見えます。

  [b]、[u]、[w]、[h]、[ħ]、[ʃ] を書き表す文字を持たないようです。ギリシア語が文語だと言う説明がありますが、おそらく純粋な音素文字ではないことを言っていて、各文字に対応する以外に語としての読み方があるのだろうと思います。ギリシア語も現在では文字で定義された語彙を持つ言語なのだと思います。

  ギリシア文字がイオニア式記数法と共に伝播したのならコイネーのアルファベットも27文字だったと考えるよりないと思います。他の記数法が主力となってからアルファベットは24文字と見られるようになったものと思います。コイネーは「先頭を大文字にしない」と言った記述もあるので中世ギリシア語の時代にもコイネーと呼んでいるのだと推測します。
  コイネーは24を7つの母音(ΑΙΥΕΟΗΩ)と14の子音(ΒΓΔΘΚΛΜΝΠΡΣΤΦΧ)に明確に分けていたとも見られているようです。残りは ΞΖΨ の3文字です。
  母音のうち2つは長母音を表すので、日本語と同じ5つを認識しています。音価もアイウエオで同じようです。ただし、ウプシロン(Υ)は [uː]、[yː] のようです。
  14子音に付いては音節が規則的に割り当てられ98音節になります。

コイネーの音節
母音
Α(ア) Ι(イ) Υ(ュ) Ε(エ) Ο(オ) Η(エー) Ω(オー)

Β バ行 ビュ べー ボー
Γ ガ行 ギュ ゲー ゴー
Χ カ行 キュ ケー コー

  当然 Ξ、Ζ、Ψ も使用されたはずで、[ks]、[zd]、[ps]  が音価です。日本語の音節数は 112 と数えられますが、ほぼ同規模のようです。

※牛耕式
  牛耕式はギリシア語でブストロフェドン(βουστροφηδόν)と呼ばれるようです。BC400より前の習慣だと考えられているようです。しかし、碑文や焼成された粘土板以外は残っていない時代のことで習慣だったのかどうかは知りえそうにありません。おそらくBC400以降のギリシア文字の文書は「左から右」へ書かれていると言う意味だと思います。
  ギリシア人もフェニキア文字を最初期から使用していたものと思いますが、他所では「右から左」書かれたのに逆向きに書くことを始めました。おそらくフェニキア文字には学習が容易で速く書くと言う意図があって書き方向は「右から左」の横書きのみに固定されていたものと思います。
  理由は分かりませんがギリシア人はフェニキア文字の鏡文字を多く残しているようです。書き方向によって文字が鏡文字なるのはヒエログリフで行われていたことです。また、「線文字B」は「左から右」へ書かれていたようです。
  リバース・ブストロフェドンと呼ばれる記法があるようです。これは、1行ごとに用紙の上下を逆にして書いた状態の文書のようです。文字に着目すると逆さ文字です。一行ごとに上下を逆にして読めば「牛耕式」な訳ではないとも言えます。この記法は、イースター島のラパヌイ文字(ロンゴロンゴ)でのみ確認されているようです。18世紀に西洋人が到達した時点で使用されていたもので、古代の状況は分かっていないもののようです。

  ギリシア文字やラテン文字で書き方向が変わると鏡文字になるのは自然なことかどうかは良く分かりません。しかし残っているのは碑文であって刻文には筆記上の書き易さは関係ありません。
  壁面に大きく書かれた文章は縦書きなら読みながら一方向に歩けば良い訳ですが、横書きだと行ったり来たりしないと読めません。牛耕式はその回数を半分にする効果はありそうです。
  古イタリア文字には、Alphabetic Marsiliana d'Albegna と言う資料があり、前7世紀のアルファベットの一覧があります。ほぼフェニキア文字の字形で、右から左へ並べられています。おそらく、ギリシアも同様でアルファベットとしては、フェニキア文字と同様、右から左に書く時の字形が標準型と見られていたものと推測できます。

※ゴルテュン・コード
 アッティカ、イオニアの文字が一般的なギリシア文字になる前の状況が分かる資料にはゴルテュン・コードがあります。

  ゴルテュン(Gortyn)・コードは、ローマ時代の建築物の石材に文字が刻まれていたことから発見されました。直径が30mほどの円筒形の建物の壁面に大きな文字で一面に文字が描かれていたと見られています。
  前5世紀ごろのものと見られ、ローマの時代に石材として再利用されたと見られています。
  牛耕式に記されていて、1行ごとに文字が鏡文字になっています。文字の字形ではイオタ(Ι)がS字状に描かれていてクレタのギリシア文字の特徴と説明されています。パイ(Π)はラテン文字の C に似ています。ウプシロン(Υ)はV字に記されています。ニュー(Ν)は傾いていてフェニキア文字を思わせます。
  この図にはありませんが、ディガマ(Ϝ)が使用されています。また、シータ(Θ)は丸に十字でフェニキア文字状です。
  ΑΔΕΛΠΙΟΝ ΛΑΝΚΑ[ΝΟΝΤΙ]
  これは、たまたま、語の先頭の部分で、アドルピオン(ΑΔΕΛΠΙΟΝ)は、兄弟のようです。google翻訳では、アドルフス(αδελφούς)は brothers、アベルフャ(αδέλφια)は siblings と訳されます。
  [ΛΑΝΑ]ΝΟΝΤΙ ΑΙ ΔΕ Κ ΕΡ[ΣΕΝΕς]
  αρσενικά は、males と訳され、ΑΙ ΔΕ Κ ΕΡΣΕΝΕςは「もし男性でないなら」のようです。

※Alphabetic Marsiliana d'Albegna
  この資料は前7世紀のトスカーナ(イタリア)の出土品のようです。年代の根拠は分かりません。
  古イタリア文字の資料と言うことになりますが、ギリシア文字のアルファベットかも知れません。

  26文字あり、サン(Ϻ)とコッパ(Ϙ)がその後使用されなくなったと言うことのようです。6番目はディガンマ(Ϝ)で、この並びのアルファベットを元にイオニア式記数法が成立していたと言うことになります。
  ヘータ(Ⱶ)はエータ(Η)に置き換えられたと説明されますがフェニキア文字の字形に近い段階からエータ(Η)だったようです。

※ダイグロシア
  ダイグロシアと言う用語を作った人が例に上げたのはギリシア語とアラビア語だと言うことです。現在のギリシア語では「カサレヴサ」と「ディモティキ」があり、明確な意図を持って使い分けがされているように説明されています。

カサレヴサとディモティキの文例
カサレヴサ Απεθανεν ο εμος πατηρ
デモティキ Πεθανε ο πατερας μον
google翻訳 Ο πατέρας μου πέθανε
死んだ the わたしの わたしの 死んだ

  「死んだ」は、アペサーネン(Απεθανεν)とペーサネ(Πέθανε)で同源の語のようです。「わたしの父」はエモスパティーエル(εμος  πατηρ)とパテーラズモ(πατέρας  μου )で語順が入れ替わっています。「わたしの」はエモスとモと異なっています。「父」は同源のようです。
  google翻訳は「My father died」をギリシア語に翻訳した結果です。

  結局、ダイグロシアの特徴は理解できません。コイネーは広く使用されたことによって多くの外来語起源の語彙を持っていたことが推測できますが社会運動として看板が架け替えられたと言ったことが書かれているだけで「カサレヴサ」と「ディモティキ」の語彙の差は把握できません。
  看板の例として上げられているのはビールと食料品店です。ビールはイタリア語からビラリア(μπιραρία)だったようです。google翻訳はビラ(μπύρα)です。ギリシア語の醸造はジサポリオン(ζυθοπωλείον)らしくジソス(ζύθος)もビールと訳されます。
  食料品店はトルコ語からバカリコ(μπακάλικο)だったようです。google翻訳はパンダポリイオ(Παντοπωλείο)です。ギリシア語の食料品はパンダポリイオン(παντοπωλείον)です。
  考えられるのは、ギリシア語もアラビア語も「典例語」だと言うことです。「話し言葉」を共有するコミュニティによって維持される部分と、文献や聖典によって「話し言葉」の異なる人々が共有している部分が存在する言語です。

  「ケルンのマニ写本」はケルンの大学が1969年カイロで業者から購入した文書のようです。それまでの経緯は分かりません。
  おそらく、中世ギリシア語の速い時期のギリシア文字の文書の様子を示しているものと思います。4世紀か5世紀のものと見られ、エジプト人によるアラム語からの翻訳と考えられているようです。オリジナルはマニ自身がアラム語で書いたものである可能性があるようです。
  語を分かち書くことは無く、1語は行を跨ります。文節の区切りは下点(ピリオド)が打たれますが空白を開けることは無いようです。
  文末は中点が打たれ空白を伴っています。
  ΑとΔ、Λ は、良く似ています。アルファやラムダは現在の小文字の形状をしています。Ο は傾いた縦棒のように見え、Ε やΣ、ς と紛らわしい形状です。
  まだ大文字小文字が使い分けられている訳ではなく、この文書のラムダ(Λ)は全て λ と書かれていると言うことです。

  ἰδόντες を google翻訳は when they saw と訳します。左図のように Ι や Υ には上に2つの点が書かれている箇所があります。ダイアクリティカルマークが使用されています。
  しかし、文節や文の区切りの点と同様、後で書き足すことも可能なことです。

  古い文書は大文字だけで書かれた訳ですが、それは字形のことではなく、使い分けられなかったと言う意味のようです。
  この文書のアルファベットは以下のようです。

  今日の大文字、小文字の区分で見れば、両方の字形が使用されています。古い文書の電子テキストが小文字を使っている理由が分かりませんでしたが、今日の大文字だけで記すことにも大した正当性は無いようです。

アルファベット

  文字のセットは何でもアルファベットと言いますが、ここでは文字が音素を表し、文字を組み合わせて音節を表す文字をアルファベットとします。
  フェニキア文字のような子音文字は、母音を省略していて、音節が表されていません。
  具体的には、ギリシア文字とキリル文字、ラテン文字です。ラテン文字はラテン語の文字のことではなく、現在、欧米で使用されている文字のことです。
  すべてギリシア文字からの派生文字ですが、ギリシア文字自体が現在も使用されています。
  古代の文字としてはどの文字も大文字小文字の使い分けやアクセント記号などはありませんでした。いずれも中世以降の習慣です。
  単語を区切って記す別ち書きが必ず行われるようになるのも中世以降の習慣のようです。ヘブライ語と見られるフェニキア文字やアラム文字の文書は概ね別ち書きされていたようです。一方でフェニキア文字やギリシア文字は、まったく区切りなしに書かれたものもあります。ロゼッタ・ストーン(BC196ころ)のギリシア語とされる部分は区切りなしに書かれています。話し言葉は「語」ごとに区切って発声したりしません。話し言葉が音素文字で写されているものなら区切りがなくても読み上げれば理解できます。

  英語もラテン文字で記されますが、英語の状況は表音や音素文字とはいえません。time をタイム と読み、tick をティクと読みます。1つの記号に複数の音価を持つと説明できるかもしれませんが、15世紀以降の第母音推移によって綴りが発音を決めない文字体系になりました。それまでは time は「ティメ」と発音されていたのだと言うことです。「話し言葉」が「ティメ」から「タイム」に変化しましたが文字の綴りは変更されなかったと言うことです。

  これは、本質的な問題です。音素文字は少数の記号と音価だけを文字システムが持っています。語彙や言い回しは全て音声言語が持っています。語彙数は音声言語で決まります。意味を理解できない未知の言語を表していても読み上げることができます。
  これに対して英語は「文字の語彙」を持っています。「文字の語彙」と「話し言葉の語彙」を関連つけることによって文字を読み書きしています。話し言葉で始まった新語や外来語は、しばらくいろいろに綴られることになります。また文字の学習が語彙を増やす学習になります。
  西洋の文字ではダイアクリティカルマークが使用され、音節として区別されない発音の差異を表現しています。おそらく「話し言葉」を写すためにマークを記す方法が採られ、音素文字の性質を守っています。英語がラテン文字で表されるのは11世紀と遅く、文字を語の単位で学習するものと考えたのでダイアクリティカルマークは不要だったのだと思います。

ギリシア文字

  ギリシア文字は「ギリシアの文字」で既に上げました。
  ほぼフェニキア文字と見えるような字形で前9世紀ごろから始まり、BC400ころにはイオニアのアルファベットが広く使われるようになったようです。
  ギリシア文字はヘレニズムの時代にはコイネーとして広く使用されアショカ王碑文にも刻まれました。ギリシア文字は多くの「話し言葉」の表記に使用されたと考えられますが、あまり取り上げられないようです。良く知られているのは、コプト語、バクトリア語です。
  コプト語はギリシア文字に7つの文字を加えたコプト文字で記されました。コプト文字は「エジプトの文字」に上げました。
  バクトリア文字は1つの文字を加えてバクトリア語の記述に使用されました。 

バクトリア文字

  バクトリア文字は単にギリシャ文字と言うの普通のようです。バクトリア地方ではギリシャ文字に、sho「Ϸ」「ϸ」を加えて使用されました。Unicode では、U+3F7、U+3F8 です。音は /ʃ/ とされます。
  バクトリア語の表記にギリシャ文字が採用され、sho の使用はクシャーナ朝カニシカ王の時代(125年以降とされる)に一般的になったようです。
  バクトリア語は、インド・ヨーロッパ語族、インド・イラン語、イラン語派、東群、北東、バクトリア語 と分類されています。
  アレクサンドロス3世の遠征(BC323)頃には既に話されていて、9世紀には死語となったと見られています。
  パシュトー語、近世ペルシア語、ソグド語、パルティア語と近縁と説明されます。これらを話す人々は、それぞれパシュトー人、ペルシア人、ソグド人、パルティア人と呼ばれますが、バクトリア人とはあまり言わないようです。
  これはバクトリア人とバクトリア語を話す人々が上手く重ならないことが理由だと思います。

  バクトリア語は、コインやカニシカ王の時代の碑文、アフガニスタンでまとまって見つかった碑文と書簡(獣皮)によって裏付けられる言語のようです。それらはバクトリア文字によって認識されているものだと思います。バクトリア語はアラム文字でも残されたことになっていますが具体的な遺物はわかりません。
  バクトリア語を話す人々のうち、バクトリア文字の文書を残した有力なグループがあったことは確かそうです。しかし、バクトリア語を話す人々の中には他の文字を使用したグループがあったかも知れません。

  バクトリアは BC490 ころのベヒストゥン碑文に登場するのが最初のようです。ヘロドトスはペルシア軍のバクトリアとサカの兵の様子を記しています。両者はダレイオスの息子ヒスタスペスによって率いられていました。hdt 7.64
  バクトリアにはバクトリア人とサカ人が住みアケメネス朝ペルシアが支配していました。これ以前からサカ人が住みメディアの支配下にあったと考えられています。
  バクトリア人=ペルシア人、サカ=塞=スキタイ、と言った図式が正しいのかどうかは分かりません。BC256 から BC130 ころにはグレコ・バクトリア王国が存在しギリシア人の支配下にありました。紀元前1世紀にインド・スキタイ、1世紀にインド・パルティアが北西インドを支配した時代には、バクトリアは月氏が支配したと見られています。1世紀から3世紀にかけてバクトリアから北インドはクシャーナ朝が支配しました。
  バクトリア語はクシャーナ朝の遺物によって確認される言語だとすればだいぶ明瞭になります。しかし月氏の言葉がバクトリア語だと言うのは受け入れられないのだと思います。大月氏が活動した前1世紀から3世紀の間の前後にもペルシア語に近い言葉を話す人々がバクトリアにいたということが命名の主旨なのだと思います。

  グレコ・バクトリア王国のデメトリオス1世(BC180ころ)のコインにはギリシア文字とカローシュティー文字が使用されました。
  カローシュティー文字はアケメネス朝ペルシアが支配地域の行政上の都合から作ったとされています。バクトリア周辺の主要な文字であったはずです。グレコ・バクトリアのギリシア文字は主にギリシア人の文字だっただろうと思います。
  カニシカ王(2世紀)のコインには、「ΒΑΣΙΛΕΥΣ ΒΑΣΙΛΕΩΝ ΚΑΝΗϷΚΟΥ」と記したものと、「ϷΑΟΝΑΝΟϷΑΟ ΚΑΝΗϷΚΙ ΚΟϷΑΝΟ 」と記したものがあります。ΒΑΣΙΛΕΥΣは、ギリシャ語の「王」です。ϷΑΟΝΑΝΟϷΑΟはギリシャ語ではないようです。おそらくバクトリア語の「王の中の王」です。
  クシャーナ朝の時代には北インド一体でバクトリア語やバクトリア文字が使用されて良さそうですが、そうした証拠はなさそうです。
  ガンダーラにはカニシカ王のころに最盛期となり周辺の文化的な中心地だったとされています。仏典は口承文献として伝えられていた時代です。ガンダーラを訪れる文献を求めるものは、それぞれ文書にして持ち帰ったものだと思います。そうした文書が中央アジアで発見される仏典なのだと思います。カローシュティー文字が作られたとされるアケメネス朝ペルシアの時代から500年以上経っています。楼蘭は3世紀にガンダーラ語・カローシュティー文字の文書を使用していました。商業文書が中心だと言うことです。ニヤ遺跡の文書は公用文書だと言うことです。
  2世紀、3世紀のバクトリア語・バクトリア文字の文書が碑文以外にどんな用途に使用されたのか良く分かりません。ガンダーラ語・カローシュティー文字の文書もクシャーナ朝に帰されます。
  アショーカ王の時代にはガンダーラにギリシャ人など多くの民族が集まって学究する場(寺院)が作られていたとされています。当時の記録は口承によるもので、討論のためにも共通の言語が存在したことが推測されます。仏典はパリ―語によって記録、布教されていたことが知られています。
  アショーカ王はガンダーラにカローシュティー文字の碑文を残しました。アショーカ王碑文は、その地域の優勢な言語で作られているようです。碑文はガンダーラ語と説明されますが、これは、その時代に優勢だったガンダーラ地方の言葉と言う意味だと思います。
  バクトリア語の最後の記録に上げられている文書には、バクトリア語・マニ文字の文書(トルファン)があります。

  具体的なバクトリア語は、スルフ・コタルの碑文、ラバータク碑文の言語のことのようです。あるいはカニシカ王の言語のようです。
  ラバータク碑文の写真から最初の2行を見ると以下のようです。
  (ΒΩΓΟ ΣΤΟ)ΡΓΟ ΚΑΝΗϷΚ(Ε ΚΟϷΑΝΟ ΡΑϷΤΟ)ΓΟ ΛΑΔΕΙΓΟ ΧΟΑΖΑΟΑΡΓΟ ΒΑΓ
  (ΖΝΟΓΟ ΚΙΔΙ ΑΣΟ Ν)ΑΝΑ ΟΔΟ Α(Σ)Ο ΟΙ(ΣΠ)ΟΑΝΟ ΜΙ ΒΑΓΑΝΟ Ι ϷΑΟΔΑΝΙ ΑΒΟΡΔΟ ΚΙΔΙ ΙωΓΟ ΧPΟ(ΝΟ)
  当然、分かち書きされていませんし、読めないところも多いのですが、概ねこのように読まれるようです。
  この訳文は Wikipedia などで知ることができます。
  ΚΑΝΗϷΚΕ ΚΟϷΑΝΟ は、カニシカ クシャーノ です。その前の ΣΤΟΡΓΟ (ストルゴ)と、最後の ΧPΟΝΟ (フロノ)は、ギリシャ語に似た語があります。
  訳文では、それぞれ、救済者、年 と訳されています。それぞれ google翻訳 でギリシャ語に翻訳してみると、σωτήρας(シュティラス)、χρόνια(フロニア)となります。
  メナンドロス1世のコインには、王名の前に ΣΩΤΗΡΟΣ(シュティロス) と書かれています。この地域のコインの定型で多くのコインに使われています。
  στοργή を日本語に翻訳すると「愛情」になります。
  χρονο を日本語に翻訳すると「時間」になります。
  神NANAは、いろいろな神の可能性があるようです。フリギアのNANA神でも有り得ることに思えます。

キリル文字

  スラヴ系言語の最古の文字はグラゴル文字でギリシャ文字から作られたと考えられていますが、見た目は全く異質に見えます。940頃にキリル文字は、この文字から作られたことになっていますがギリシャ文字に似ています。
а б в г д е ё ж з и й к л м н о п р с т у ф х ц ч ш щ ъ ы ь э ю я
а б в г д е ё ж з и й к л м н о п р с т у ф х ц ч ш щ ъ ы ь э ю я

   キリル文字は、書体が変わると字形が大きく変わります。また、大変多くの民族が使用していて、表す音声言語による変化も大きいようです。

ラテン文字

  欧米の文字はラテン文字と呼ばれてます。ラテン語の文字と言う訳ではないようです。欧米の文字を1つの文字体系と見ることは大変有益なことだったと思います。

古イタリア文字

  イタリア半島では紀元前8世紀から紀元前1世紀までは、ギリシャ文字から派生したいろいろな古イタリア文字が使われたとされています。しかし、ギリシアと同様に、フェニキア文字が、そのまま使用されるのが先だったのだろうと思います。ギリシア文字やラテン文字で母音を表している文字はフェニキア文字から由来したものなので文字の上では母音が記されたかどうかは区別できません。
  ラテン文字も紀元前7世紀頃から使われますが、広く使われるようになるのは紀元前1世紀以降のようです。
  古イタリア文字は総称ですが、Unicodeには以下の文字があります。

Unicode の古イタリア文字

古イタリア文字の数字

  トスカーナ(イタリア)でアルファベットを示したタブレットが発見されています。前7世紀のものと見られ、Alphabetic Marsiliana d'Albegna と呼ばれるようです。年代的にもギリシアと変わらず、ほぼ同時期にフェニキア文字から作られたアルファベットが広く使用されたものと思います。

  右から左に書かれ、文字が鏡文字に見えます。おそらく、ギリシア文字と同様、左から右へ書くようになって、現在の文字の向きに定まったもとのと思います。ギリシア文字との対応と、フェニキア文字の記号名を記すと以下のようになります。

  複数の古イタリア文字がイタリア半島の人々によって使用されますが、その後はラテン文字、ルーン文字が使用されるようになって行きます。
  ローマの発展と共にローマ人の古イタリア文字であるラテン文字が広まり、2世紀以降ゲルマン諸語を話す人々はルーン文字を作り出すことになりました。

ルーン文字

  ルーン文字は、ギリシャ文字やラテン文字を含む古イタリア文字から2世紀ごろ作られました。アルファベットかどうかは分かりません。
  ゲルマン諸語を話す人々がラテン文字を使うようになるのは8世紀以降で、それまではルーン文字が使われました。
  古英語(アングロ・サクソン語)がラテン文字で表記されるようになるのが11世紀以降です。
ルーン文字の文字
U+ 説明 U+ 説明 U+ 説明
16a0 FEHU FEOH FE F 16b9 WUNJO WYNN W 16d2 BERKANAN BEORC BJARKAN B
16a1 V 16ba HAGLAZ H 16d3 SHORT-TWIG-BJARKAN B
16a2 URUZ UR U 16bb HAEGL H 16d4 DOTTED-P
16a3 YR 16bc LONG-BRANCH-HAGALL H 16d5 OPEN-P
16a4 Y 16bd SHORT-TWIG-HAGALL H 16d6 EHWAZ EH E
16a5 W 16be NAUDIZ NYD NAUD N 16d7 MANNAZ MAN M
16a6 THURISAZ THURS THORN 16bf SHORT-TWIG-NAUD N 16d8 LONG-BRANCH-MADR M
16a7 ETH 16c0 DOTTED-N 16d9 SHORT-TWIG-MADR M
16a8 ANSUZ A 16c1 ISAZ IS ISS I 16da LAUKAZ LAGU LOGR L
16a9 OS O 16c2 E 16db DOTTED-L
16aa AC A 16c3 JERAN J 16dc INGWAZ
16ab AESC 16c4 GER 16dd ING
16ac LONG-BRANCH-OSS O 16c5 LONG-BRANCH-AR AE 16de DAGAZ DAEG D
16ad SHORT-TWIG-OSS O 16c6 SHORT-TWIG-AR A 16df OTHALAN ETHEL O
16ae O 16c7 IWAZ EOH 16e0 EAR
16af OE 16c8 PERTHO PEORTH P 16e1 IOR
16b0 ON 16c9 ALGIZ EOLHX 16e2 CWEORTH
16b1 RAIDO RAD REID R 16ca SOWILO S 16e3 CALC
16b2 KAUNA 16cb SIGEL LONG-BRANCH-SOL S 16e4 CEALC
16b3 CEN 16cc SHORT-TWIG-SOL S 16e5 STAN
16b4 KAUN K 16cd C 16e6 LONG-BRANCH-YR
16b5 G 16ce Z 16e7 SHORT-TWIG-YR
16b6 ENG 16cf TIWAZ TIR TYR T 16e8 ICELANDIC-YR
16b7 GEBO GYFU G 16d0 SHORT-TWIG-TYR T 16e9 Q
16b8 GAR 16d1 D 16ea X
16eb SINGLE PUNCTUATION 16ed CROSS PUNCTUATION 16ef TVIMADUR SYMBOL
16ec MULTIPLE PUNCTUATION 16ee ARLAUG SYMBOL 16f0 BELGTHOR SYMBOL

ラテン語の文字

  ローマが帝国を築く前1世紀ごろには、ラテン文字の字形は、ほぼ定まっていたものと思います。ギリシア文字のことから類推すると BC400ころなのかもしれません。それまでは、Unicodeの古イタリア文字のような字形だったと推測できます。
  ローマ帝国の発達、最盛期は前1世紀から2世紀に掛けてで、この間のラテン語は「古典ラテン語」と呼ばれます。普通にラテン語と言うと「古典ラテン語」を指すようです。古典ラテン語は、ローマ人の話し言葉ではなく、帝国で公用語として広く使われた言葉のことで、帝国の衰退と共に消滅したと見られています。ラテン語を話す人々は、統制が利かないので、各地で俗ラテン語を話すようになったと説明されています。
  しかし、俗ラテン語 (Vulgar Latin、sermo vulgaris)は、ロマンス語の祖語をさす言葉でもあるようです。
  ロマンス語の認識は西ローマ帝国の滅亡する480年以降のものです。イタリア語やフランス語の認識はさらに遅く9世紀になります。
  2世紀から9世紀に掛けてのロマンス諸語は、現代のロマンス諸語との繋がりが明瞭でない状態だと言うことのようです。
  そして、4世紀、あるいは5世紀までの変化は分化だと見ていると言うことになります。
ラテン文字の推移
区分 年代 A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z
古ラテン語 -前2世紀 *1 g *1 *1 *1 *1
古典ラテン語 前1-2世紀 *2 k *2 g *2 *2 *2 *2
俗ラテン語 -7世紀 *3 k *3 g *3 *3 *3
中世ラテン語 4-14世紀 *4 k *3 g *3 *3 *3 *3
ラテン語の文字の推移
*1 *2 *3 *4
A a、aː a、aː a a
E e、eː e、eː ɛ、e ɛ、e
I i、iː i、iː i、ʤ i、ʤ
O o、oː o、oː ɔ、o ɔ、o
V u、uː u、uː u、v u、v
Y y i
AE ae ae e e
AV au au o au
OE oe oe e e
EI ei ei ei ei
VI ui ui ui ui
EI eu ei eu eu
  古典ラテン語の後のラテン語は教会の残した文書によって知られるもののようです。また、中世ラテン語は著作用の文章語として使用された母語とする人のいない言語のようです。4世紀から14世紀の間のラテン語の文書には、中世ラテン語の文献と、俗ラテン語とロマンス諸語の日常的な文書があることになります。

  古典ラテン語以降は、/k/ の音は、C、K、Q で表すことが出来たことになります。Kは使用されなくなり、QUは /kw/ の場合に使用されたようです。
  母音の長短を書き分けませんでしたが、それが発音に反映されたと言うことのようです。
  基本的に、大文字で、分かち書きもされないはずですが、14世紀までを考えると、何でもありだと思います。
  小文字の使用。J、U、W の使用。分かち書き。VがUと記される。ダイアクリティカルマーク。などがあっても不思議はありません。
  フェニキア文字とアラム文字は、1対1に文字が対応する字形のセットですが、別々に名前が与えられています。ラテン文字以降の文字の書体の差は大変大きくなりますが、欧米の文字はラテン文字と呼ばれます。

欧米のラテン文字

  英語は大母音推移のために音素文字とは言えない状況になっています。また、英語ではダイアクリティカルマークが記されることはなく、文字で抑揚などの情報を表しません。この点で、英語は他のヨーロッパの文字とは異なっています。
  しかし、欧米の文字は「ラテン文字」と言う1つの区分の文字として扱われています。ダイアクリティカルマークなどの付いた文字も「拡張ラテン文字」のように呼ばれます。
  共通の特徴は、左から右へ書かれることです。英語は11世紀以降ラテン文字で表されるようになります。欧米の文書は7世紀ごろ以降分かち書きが始まります。小文字は12世紀のようです。
ラテン語の文字と、基本ラテン
古ラテン語の文字 A B C D E F G H I K L M N O P Q R S T V X - -
古典ラテン語の文字 A B C D E F G H I K L M N O P Q R S T V X Y Z
基本ラテン A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z
a b c d e f g h i j k l n m o p q r s t u v w x y z

  Unicodeの「基本ラテン」には、ラテン語の文字に J、U、W を加えたものが登録されています。これは、英語が使用している文字セットと同じです。
  古英語(アングロ・サクソン語)がラテン文字で表記されるようになるのが11世紀以降であり、U、V、W や I、J の扱いが現在のようになったのは17世紀中ごろ以降のようです。
  Unicodeでは、追加文字(ラテン1補助、ラテン拡張A、ラテン拡張B)を定義しています。

DIAERESIS
(ウムラウト、トレマ)
GRAVE
(アクサングラーヴ)
ACUTE
(アクサンテギュ )
CIRCUMFLEX
(アクサンシルコンフレクス)
Ä Ë Ï Ö Ü Ÿ À È Ì Ò Ù Á É Í Ó Ú Ý Â Ê Î Ô Û
ä ë ï ö ü ÿ à è ì ò ù á é í ó ú ý â ê î ô û

  主にダイアクリティカルマークと呼ばれるアクセントや発音の変化を付けるものでラテン文字の範疇と見なされています。
  Unicodeには、セディーユ、オゴネク状の付いた文字が他にもあります。それがラテン文字かどうかは良くわかりません。ラテン文字を使う言語で常用される記号ならラテン文字だと言うことだと思います。

TILDE
(チルダ、ティルデ)
合字
(AE、CE、EO、IJ、SS)
CEDILLA
(セディーユ)
OGONEK
(オゴネク)
THORN
(アイスランド語)
Ã Ñ Õ Æ Œ Ø IJ Ç Ş Ą Ę Į Ų Þ
ã ñ õ æ œ ø ij ß ç ş ą ę į ų þ

音節文字

  「ゆっくり、はっきり話して」と言われて1音ずつ区切って発声する音が音節です。人が発声できる最小単位です。子音だけを発生することは普通できません。また、この音節を録音して繋ぎ合わせても自然な発声にならないことも良く知られています。音節は発声動作の制御単位であって、出力されている音ではありません。同じ発声動作でもその前後の音の影響で出力されている音は変わってしまいます。
  人は発声するとき単語より長い意味のあるフレーズを想起しています。1音節ずつ区切って発声するのは大変不自然なことです。しかし、それによって話し言葉の音節を把握することができます。話し言葉を写そうとすれば音節文字が作られるのが自然です。

  楔形文字(アッカド文字)は音節文字を持っていました。しかし、最初に普及したのは子音文字でした。子音文字は母音を省略する文字で音節を記述しません。この子音文字に母音を加えて音節を書き表すようになるのは前9世紀で、普及するのは前6世紀になります。子音と母音の記号を持ったアルファベット(音素文字)は万能な文字です。最小の記号数で音節が表せます。語彙や言い回しは音声言語によるので学習も最小です。あらゆる話し言葉を表す得るので、ほぼラテン文字に収斂しました。しかし、現在でもアラビア文字のような子音文字も大変多くの使用者がいます。
  ギリシア文字やラテン文字が普及すると新たなアルファベットを作り出す理由は特にありません。その後に作られた文字は主に音節文字です。
  音節文字は、話し言葉に合わせて作られます。可能な音節を列挙すると数が大きすぎるので、実際に話し言葉で使用される音節だけに字形を与えることになります。これは、他の音声言語の人々には読み上げることもできず、国家や民族と言った集団の文字の性格を生じます。

  平仮名や片仮名は音節に対応する字形を1つずつ作りました。「か」と「き」は50音順で隣り合っていますが字形には関連性がありません。これに対して、デーヴァナーガリーやハングルは音素文字と同じ発想で作られました。音素を示す字母の字形を定め、それを組み合わせた合字によって1音節分の字形を作りました。「か」と「き」を表す文字の、子音を表す字母は共通で、似た形をしていることになります。音素文字との差は1文字の決め方の問題です。

アッカド文字の音節文字

  前述の「楔形文字」「アッカド文字」の例のように、ミタンニの王は mi-i-it-ta-an-ni  の王を名乗りました。
  アッカド人、アムル人、カナン人、ヒッタイト人、フルリ人は、それぞれ自らの話し言葉を写すために音節文字を選びました。しかし、バラバラではなく概ね同じような音が割り当てられていました。
  アッカド文字の音節表記は BC2600頃からアッカド人によって始まったものだと思います。
  漢字が伝来したとき古事記では日本語の音節を1音1字で表しましたが、これは音節文字とは呼びません。シュメール人も音節を表しましたが同じ理由で音節文字と言うには問題があります。

仮名文字

  平仮名で書かれた「土佐日記」は935年ころの紀行文です。平仮名は平安時代から使用されるようになったと考えられています。片仮名は漢文のルビに使用されていて、平安時代の末に独立して使用されるようになったと見られているようです。片仮名の使用された初期の例は今昔物語集のようです。
  「いろは」と言いますが、50音図の形に仮名文字を並べることも室町時代には行われていたと見られています。仏教伝来と共に伝わった悉曇文字の母音、子音の並びに従って並べられたと見られています。
  そもそも、反切や悉曇文字よる音節の知識に基づいて仮名文字が作られたと考える方が正しそうです。
  仮名の特徴は、音節をV(母音)、CV(子音+母音)で分類したことです。50音表は話し言葉の音節を統制するように働いたと思います。
  現在の仮名の音節数は 112 です。
  仮名の重要な点は漢字と混合して使用する点にあると思います。

ハングル

  ハングルは Unicode のac00-d7a3 に 11,172 文字の音節文字を登録しています。
  ハングルの子音の認識は 18 で、他の音声言語と大差ありませんが、母音は 21 と多くなっています。母音は口の開き方で無段階に変わり、言語によらず多くの音が出ているので捉え方で数が変わります。
  ハングルは CVC の音節があり、音節末のC(子音)はパッチム(終声)と呼ばれるようです。パッチムは27の字母があります。
  V = 21 , C = 18、F = 27 として、V + CV + VF + CVF = 11,172

  ハングルは李氏朝鮮4代の世宗によって 1446年に定められた「訓民正音」に始まるようですが、現在使用されている Unicode のハングルを見ます。
  ハングル文字は音節を表す記号を作る意図ははっきりしているようですが、字母が1義の音素だとは限らないようです。合成字母の概念があり、字母の組み合わせが、元の音価とは異なった、新たな音価を持ちます。ㅏ[a] とㅣ[i] の合成字母 ㅐは、[ɛ] となるようです。
  また、金浦は 김포 と記され、音節の捉え方も仮名文字とは異なっています。

  音節が母音の場合の文字を google翻訳で見てみます。ア、イ、ウ、エ、オを1文字ずつ変換すると、それぞれ 아、이、우、건、오 と変換されます。
  文字としては単独の字母で表されることはないようで、子音が無いことを示す ㅇ(イウン)を伴っています。エだけは異なっていて、初声ㄱ[k]、中声ㅓ[ʌ]、終声ㄴ[n] で構成される音節を表しています。音を聞くと「カン」と聞こえます。건 を英語に訳すと Tendon となり腱のようです。
  本来、エは、에 で、ㅓ[ʌ]とㅣ[i] の合成字母で ㅔ[e] です。合成字母は2重母音を表すためのものではありません。
  この例から、字母の並べ方は、左右、上下があることが分かります。終声の字母は必ず下に書かれるようです。
  「管」は 관 と訳されます。初声ㄱ[k]、中声 ㅗ[o]、中声ㅏ[a] ]、終声ㄴ[n] の4つの字母で構成され、カゥアンのように聞こえます。 
  ハングルの字母の並べ方としては、初声、中声、終声があり、初声は子音になります。母音が単独の場合は、子音が無いことを示す ㅇ(イウン)を初声とします。中声は母音で2重母音の場合は2つ字母が書かれます。
  最後の字母が常に終声ではなく、中声で終わります。終声はは概ね子音です。

ハングルの母音(Unicode順)
音節 字母 音節 字母 音節 字母
a c544 1161 je c5ec 1168 c6cc 116f
ɛ c560 1162 o c624 1169 we c6e8 1170
ja c57c 1163 wa c640 116a wi c704 1171
c598 1164 c65c 116b ju c720 1172
ɔ c5b4 1165 we c678 116c ɯ c73c 1173
e c5d0 1166 jo c694 116d ɰi c758 1174
c5ec 1167 u c6b0 116e i c774 1175

  母音の字母は単独で使われず、発声されない U110b のㅇ(イウン)を初声とします。初声は子音になります。

ハングルの子音字母(初声、Unicod順)
U1100 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 0a 0b 0c 0d 0e 0f 10 11 12
初声
発音 k n t / d r m p/b s/ɕ s̚ / ɕ̚ ʨ / ʥ ʨ̚ ʨʰ h / ɦ

  終声の記号は 27 と沢山あります。
  ㄱ、ㄲ、ㄳ、ㄴ、ㄵ、ㄶ、ㄷ、ㄹ、ㄺ、ㄻ、ㄼ、ㄽ、ㄾ、ㄿ、ㅀ、ㅁ、ㅂ、ㅄ、ㅅ、ㅆ、ㅇ、ㅈ、ㅊ、ㅋ、ㅌ、ㅍ、ㅎ
  終声は音節の最後の音素の意味ではありません。VやCVの音節にはありません。
  CVCの音節を表すだけなら初声の子音数を越えないはずです。

ハングルの終声(1記号、内破音)
発音 終声 終声 終声 終声 終声 終声
各個 
각개 カッケェ
[kak̚]
閉じる
닫기 カッケイ
冠のひも
갓끈 カックン
いろいろな種類の
온갖 オンガ

[kat̚] [kat̚] [kat̚]
甲殻
갑각 カプッカー
[kap̚]

  終声の1つの記号で出来ている字母のうち、10 は内破音(implosive)を表すようです。
  「コーヒーカップ」の促音「ッ」は、「ツ」と言う音とは無関係で、「カ」と「プ」の間に「無音」を作ります。これは「カ」を短く発声するとも取れ促音を「つまる音」と習います。
  もう一つの見方は、[kap̚] と [pu] と解釈することです。[pu] の発声は、「唇を閉じて準備」し、閉じた唇を開いて気流を開放すると音が出ます。この「唇を閉じて準備」する動作を前の音節の動作だと解釈します。「カップ」と発声動作をしますが、唇を閉じたところで止めた状態が最初の音節です。
  [p̚] は唇で気流を閉じるので両唇内破音と呼ばれます。[ t̚] は歯茎と舌で気流を閉じるので歯茎内破音、[ k̚] は上顎と舌で気流を閉じるので軟口蓋内破音と呼ばれています。

ハングルの終声(内破音以外の1記号)
発音 終声
n 間隔 간격 カンギョ
l 生活 살다 サリダ
m 柿 감 カム
ŋ 川原 강변 タンディヤン」

  残りの1つの記号で出来ている終声の字母は4つあって、仮名では独立した音節と見る「ん」などを組み合わせるもののようです。
  「ん」は、鼻音化の有無で区別されます。「ム」、「リ」も音節末に組み合わせるようです。

ハングルの終声(2重)
発音 終声

窓の外 창밖 チャンバ



I can read it.  
He watched TV.  
I will answer it.
He replied to it.

난 읽을 수 있습니다.
그는 TV를 봤다.
제가 답변 해 드리겠습니다.
그는에 응답했습니다.

  同じ字母を2つ重ねた終声は2つあります。このことと、音とは無関係のようです。それぞれ、。軟口蓋内破音 [k̚]、歯茎内破音 [t̚] です。
  終声の字母 ᆻ は、動詞の活用と関係がある個所に使われているようです。

ハングルの終声(2記号)
発音 終声

読み取りたい 읽겠다 ユケッタ
読む 읽다  イッタ

踏まれたい 밟겠다 パイゲッタ
踏む 밟다 パイタ

詠み 읊어 ウイパ、詠んで 읊고 ウプコ
p̚ (s) 値 값 [kap̚]、ka 値や 값과 カプクワ[kap̚kwa]、値段が 값이 カプシ[kapsi]

  異なった字母を2つ組み合わせた終声は11あります。
  その意図は、続く音節との関係を表すことにあるようです。このタイプの文字が単独で読まれるときは左の字母が有効で、右は無視されるのが原則のようです。google翻訳では、「値」は 값 と翻訳されます。「甲」は 갑 と訳されます。共に カ [kap̚] と聞こえます。「値段が」は 값이 と訳され、カプシ[kapsi] と聞こえます。終声の右の記号は、次の音節が母音の場合、読まれることになります。
  これは、基本で多くの例外があるようです。

  結局、終声が加える子音は、ᆼ[ŋ] と、ᆯ[l] の2つのようです。

ハングルの子音
U1100 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 0a 0b 0c 0d 0e 0f 10 11 12
字母
k n t r m p s ŋ ʨ ʨ̚ ʨʰ h
d l b ɕ ɕ̚ ʥ ɦ

  文字で区別されている子音数は 26 あって、内破音を除くと20 のようです。ハングルの1文字は、日本語の音節より長く、大変多くの文字数になっています。日本語と同じ捉え方をすると、
  V = 21、C = 20 で、V + CV = 441 が、ハングルが表している音節数のようです。仮名文字の 112 の4倍あります。
  中国語の 418 より僅かに多いようです。

デーヴァナーガリー

  インドで13世紀以降使用されている文字で、アブギダの代表のようです。仮名文字の字形は文字ごとに個別に作られたもので「か」と「き」は似ていません。デーヴァナーガリーは、「子音 + a」の文字と、母音の字母の合字で音節を表します。「かさたな・・・」は、文字が割り当てられていますが、「きくけこ」は合字で表されます。
   「か、き、く、け、こ」は、「क、 कि 、 कु 、 के 、 को 」です。「か」は、U915 क の字形です。他は、これに母音を表す記号を合成して作られます。
    き U0915(क)、U93F ( ि )
    く  U0915(क)、U941 ( ु )
    け U0915(क)、U947 ( े )
    こ U0915(क)、U94B ( ो )

  「か」と「きくけこ」の関係は、随伴母音と説明されています。デーヴァナーガリーの随伴母音は a で、母音が明示されない場合の母音が決まっています。このことがアブギダの特徴のようです。

  子音(C)と母音(V)の数の積だけ音節文字が出来ますが、仮名文字の50音表と同じで、全てが可能でも、使用されるわけでもないと思います。
  子音 45、母音 14 ですが、子音 33、母音 10 が常用で、他は言語依存や外来語表記に使用されるようです。

デーヴァナーガリーの母音
ɐ i u ɻ ɭ ɑː ɻː ɭː əi əu
  左図は単独の母音です。ア、イ、ウ、は日本語と同様で、その長母音と合わせて6つ、エ、オは長母音だけがあります。アイ、アウの2つの二重母音があります。残りの4つは ɻ 、ɭ  と、その長母音です。この2つはIPAの子音で、それぞれ、そり舌接近音、そり舌側面接近音と名前が付いています。これらはサンスクリット語の古音で、現在のヒンディー語では /ɾɪ/ (り)と説明されています。
  基本は V、CV で1文字(1音節)を表しますが、CCVの形式も使用頻度が高いようです。CCCVと言う事もあるようです。
  CC は常用だけでも千を超え単純な規則性だけでは理解できないようです。しかし、Unicode の 900 の区画の 127記号で表示できることも確かなようです。
ボーディサットヴァ(菩薩)
बो धि त्त्व
ि
BA
92c
O
94b
DHA
927
I
93f
SA
938
TA
924
VIRAMA
94d
TA
924
VIRAMA
94d
VA
935

  ボーディサットヴァはパソコンでは4文字(BO-DHI-SA-TTVA)で扱われます。それは Unicode の 10記号で表されています。
  Unicode は文字に名前を付けます。Unicode の BA(92c)とO(94b)の合字を BO と表記しました。
  BO、DI は、CV型の合字で表されています。SA は1記号ですが随伴母音「ア」を伴って「サ」を表します。TTVA は CCCV型ですが母音が「ア」なので省略されています。母音が「ア」でなければ更に記号が付くことになります。また、連続した同じ子音は促音と解釈されるようです。
  子音が連続する場合、原則はVIRAMA(母音除去記号)を伴って、随伴母音が読まれないことを示します。しかし結合された字形にVIRAMAが書かれるかどうかは記号によって異なるようです。TTVA の場合は VIRAMA は無いようですが、TA の縦の棒が書かれなくなるようです。 

  デーヴァナーガリーはサンスクリット語の文字として有名ですが、13世紀に作られました。パーニニがサンスクリット語を定めたのは前4世紀と見られ、サンスクリット語は文字によらずに伝承されました。文書として伝承されるようになるのは4世紀以降のグプタ文字にによるようです。日本へは6世紀半ばに悉曇文字(梵字)の文書として伝来したと見られます。
  インドの文字は前6世紀から使用されたとされるブラーフミー文字から合字で音節を表す方法が採用されていました。
  インドでは13世紀には仏教がほぼ一掃されたと言われます。現在の仏教徒は全人口に対して 1% 未満のようです。したがって、デーヴァナーガリー自体は仏教と直接結び付く物ではありません。しかし、ヒンドゥー教やジャイナ教の聖典を含む、ヴェーダ由来の文書は今ではデーヴァナーガリーで伝わっているものと思います。

デーヴァナーガリーの数字
1 2 3 4 5 6 7 8 9 0

  インドの数字は「ゼロの発見」で有名な算用数字の祖です。インドの公用語の定めには数字を国際形で書くと定めているようです。国際形は一般的な算用数字のことで、算用数字を外来とは考えないようです。数字にもいろいろな書体があるようです。

ブラーフミー文字

  もっとも古い記録は南インドの紀元前6世紀のものです。
  ブラーフミー文字はアラム文字から派生したとされています。しかし、アラム文字の確かな文書はBC440ころの物のようです。アラム文字が普及していた訳ではないようです。
  アジアの漢字以外の文字の祖と考えられています。
  また、算用数字(アラビア数字)は、ブラーフミー文字に起源があります。
  しかし、計数に有利な、必要なだけ単位文字を並べる表記法もあります。

  算用数字は、位(くらい)の考えを持つ点で計算に有利です。

  これは、Unicode に収録されているもので、歴史的経緯は分かりません。
  ブラーフミー文字の特徴は、母音を明示し、結合文字で音節を表す点です。
  母音は、以下のような文字に飾りを付ける形で表現します。

  下の例は、ka と la の例です。ka と la は、修飾のない字母単独で表します。それ以外は母音を表す形状を結合して表します。
  AA,IIと言った書き方は、Unicode の説明にあるものです。単に長母音を示すものだと思います。

  子音を表す字母は以下のようです。単独では A を伴って発音されます。音は Unocode の説明の表記です。

  それ以外の文字:

カローシュティー文字

  アケメネス朝ペルシャ支配下のガンダーラで行政上の必要性から作られたと考えられているようです。紀元前3世紀ごろには、ハザーラーのマーンセヘラーとペシャーワルのシャーバーズ・ガリーにあるアショーカ王による磨崖碑文に使われました。
  グプタ朝(320-550)のころには、グプタ文字(ブラーフミー系文字)が使われるようになります。
  この文字は仏教文書に使用され遺物も中央アジアに残ったようです。
  遺物は3地域、「タキシラ、ギルギット、ヴァルダク」、「クンドゥズ、テルメズ、Adzhina—Tepe遺跡」、「 ホータン(于窴)、ニヤ(尼雅)、ロウラン(楼蘭)」に分けられ、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタンと、タリム盆地の南の縁に沿った地域にあります。

  母音を表す記号との結合文字を使うことはブラーフミー文字と同様です。

  子音を表す字母は以下のようです。単独では A を伴って発音されます。音は Unocode の説明の表記です。

結合した結果の例は、以下のようです。

  合字する組み合わせと出来上がる文字の関係は多様で個別に覚えるもののようです。

漢字

  「異体字辞典」には 106,230、「中華字海」には 85,568 の漢字が収録されていると言うことです。
  殷代の甲骨文字は漢字の書体の1つとされ、BC1200頃には漢字が存在していました。
  秦代(BC221-BC206)には、漢字は中国の強力な王朝の統制が利いた文字として広く使われるようになりました。
  これに先立つ周代(BC1046-BC771)に形声によって多くの漢字が作られたと見られています。
  春秋戦国時代(BC770-BC221)は地域ごとに多くの漢字が作られ混乱していたと考えられているようです。
  BC100頃の「説文解字」(許慎)には 9,353字が収録され大半が形成であったようです。現在の漢字は9割が形声とされています。
  BC100頃には、意符と音符は分類され、それを元に漢字が出来ていたことを示します。おそらく形声で漢字が大量に作られる前にも長い漢字の歴史がありました。現在の漢字が数万あるなら、形声でない文字が1割としても数千字あるわけで、その経験なしには形声のしようがありません。

  前述のシュメール人の文字のように、文字を作った人々と、使った人々が同じ人々なら文字は、表語や表音と言う区分は意味がありません。文字は、その文字が指し示す物の名前で読まれただけです。
  漢字は、秦代になって統制が利くようになったころには、漢字を作った人々とは異なった音声言語だったと考えられているようです。
  漢字を並べて作られた文章は、話し言葉を表したものではなく、最初から文章語として始まりました。
  特に漢代には多くの文書が編纂され、中国だけでなく周辺国でも、それらを典例とした文書が作られるようになりました。読み上げると通じなくとも、文書は通じると言ったことが中国でも起きていただろうと思います。

六書

  漢字の成り立ちは、指事、象形、形声、会意、転注、仮借の六つに分類できることが知られていました。
  121年に上奏された、「説文解字」(許慎撰)は、六書を説明し、9,353字を分類解説していると言うことです。許慎は540の部首を認識したようです。
  しかし、形声や会意で説明できるためには、組み合わせる漢字が普及していなければ成り立たないので、元来の漢字の起源や発達とは別の話しです。
  漢字は広く認識されていて、その文化的基礎の上に、形声や会意で語彙が増やされたのだと思います。
  また、細部を書き分けることが出来る筆記環境も重要です。筆、墨、竹簡は、これを可能にしたようです。
  六書や、指事、象形、形声、会意、転注、仮借と言った言葉は、その前から使用され「周礼」を典拠とし前3世紀には知られていたことのようです。
  秦代に強力な王朝の統制が利くようになるころには、ほぼ漢字は完成されていたのだろうと思います。
六書
区分 説明 備考
指事 視て知るべく、察してみるべし 指事者、視而可識、察而可見、「上、下」是也。
象形 書きてそのものと成し、体に随いて詰っす 象形者、書成其物、隨體詰詘、「日、月」是也。
形声 事をもって名となし、譬えを取って相となす 形聲者、以事爲名、取譬相成、「江、河」是也。
会意 類を比して義を合わせ、見をもって差し招く 會意者、比類合誼、以見指撝、「武、信」是也。
転注 類の一なる首を建て、同意相い受く 轉注者、建類一首、同意相受、「考、老」是也。
仮借 もとその字なく、声によりて事を託す 假借者、本無其字、依聲託事、「令、長」是也。

  「説文解字」の収録した漢字の8割は形声だと言うことです。現在の漢字の9割は形声のようです。少なくとも秦代以降は、意味と音の両方を想起させる記号が求められたようです。

漢字の性質

  文字は絵文字がその示すものの「話し言葉」の音を持つことで始まったと考えられています。文字には字義があり、字音がありました。
  中国語の音節数は 418 あるようです。この2音節の組み合わせは単純計算で17万通りあります。「話し言葉」の語彙は、ほとんどが1音節か2音節だったはずです。日常の語彙の範疇では似ているものが近い音だと言うよりは使用頻度の高いものから順に決まっていっただけと言ったことだったと推測できます。新しく登場したものは「おいしい実」などと一時的に呼ばれても、いずれキョウ(杏)のような名前が付いたと考えられます。
  2音節を超える語は、語を組み合わせて造語することや、活用によって生じます。
  漢字の「音」も1音節か2音節になります。また、1つの漢字には1つの「音」が原則です。

  必要に合わせて絵文字を書いたように、新しい語を加える場合は、造字することになります。「話し言葉」の語彙としては一般的で文字がまだ無いのなら「話し言葉」の「音」を想起するような字形を作り出すことになります。多くの場合、字形も「音」もセットで普及させる必要があります。この場合、会意・形声による造字は大変優れた方法でした。
  漢字の1語は1文字です。

    漢字の基本的な性質は「1語1音1文字」にあります。したがって、漢字の文章は区切り無く漢字を並べることが出来ます。

日本の漢字

  日本の漢和辞典には、「訓読み」と「音読み」が記されています。日本人は漢籍を日本語として読んで「訓読」しました。したがって、文脈によって同じ文字を何通りにも読みました。しかし、「音読み」は呉音や漢音の別があっても同じ場所、同じ時代には1つだったことを伝えています。その「音読み」は1音節か2音節です。
  中国では漢字の読みは「反切」で表されました。それは日本にも伝えられ、日本で作られた辞書にも採用されました。
  「新撰字鏡」には「旭 許玉反 旦日欲除也 日乃氐留 又 阿加止支」のように記され、「旭」の音が反切で許玉反、「キョク」であることが示されています。「旦日がのぞくを欲するなり」と説明され、1音1字で和訳が「ひのてる」、「あかとき」と記されました。
  反切は漢字の「音」がほとんど2音節であることを前提に成り立っています。
  「愛」を「アイ」と読むのは「音読み」です。「訓読み」は、いとしい、かなしい、おしむ、めでる、まな、うい、などがあり、更に人名に使われる訓があります。「君子愛日...」は、君子は日を「おしみ」て...」と訓読されました。
  日本人は、1つの文字にたくさんの読みを付したり、長い訓を付けました。

  また、熟字による造語を大量に行って、現在の日本語の語彙の大半を作りました。
  これは、仮名交じり文によって、文字種の変わり目が容易に識別でき、連続した漢字列を1語と見ることが出来たためだと思います。
  「朝刊(チョウカン)」は、「チョウカン」と言う「話し言葉」の語彙が普及したので作られた訳ではありません。「朝刊」と言う文字を見て、人々が「話し言葉」の語彙に「チョウカン」を加えました。「チョウ」と言う「音」には、本来の日本語の「朝」と言う意味はありません。
  「大恥(おおはじ)」、「たびたび(度々)」は、書いた人は熟字したつもりは無かったと考えられます。「おおきにはじて」と書いたものや、「度」を重ねて強調したつもりが、日本では1つの語になりました。

国字

  日本に漢字が伝来して以来日本人が加えた漢字は300ほどあるようです。翻訳などを通じて膨大な熟語を作り出したことに比べれば大変僅かです。日本に漢字が伝来した時点で、既に漢字は定まっていました。
  広める手段の乏しい時代に徐々に文字が形成されていくことは考えにくいことです。新しい漢字を作っても広まることはほとんど期待できません。
  凪は広めなくても広まった稀な例だと思います。沿岸部で気象の記録に記号として書かれたり、願いを表したことは想像できます。「なぎ」の読みを伴って漢字となったのは何時のことか分かりませんが、人名漢字に残り、地名に使用されています。
  「なぐ」は、「投ぐ」、「薙ぐ」、「和ぐ」がありますが、「安定させる」意があったことは確かそうです。「風がなぐ」と言っていたのかどうかは分かりません。
  畠も国字とされますが、「和名類聚抄」には「續捜神記云・・・」とあり、著者は漢籍にある文字だと理解していたようです。
  「和名類聚抄」は平安時代に作られた辞書ですが伝わっている写本は16世紀以降のようです。
  この、風雪類の項には、風 焱風 嵐 爆風 大風 微風、と風に関する語が解説されています。ここには、「凪」はありません。
  「焱風」は、文字がUnicodeに無いので、こう記しました。写本には「飆(つむじかぜ)」の辺が「焱」になった漢字が記されています。その字の音は焱(エン、ケキ、キャク)で「和名豆無之加世(つむのかぜ)」と説明されています。「つむ」は「紡錘」かも知れません。

漢文

  4世紀に漢字を導入した日本では漢字だけで文章を記しました。
  漢文は日本語です。漢文の規則は、日本語を知らない人には理解不能なものです。しかし、漢文は当時の中国の文章と同じ文字列を作り出します。
  作り出された文字列だけを見れば、中国で書かれたものと区別のできない文章ができます。
  古事記の序には、「時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。」のように記されました。
  これを見て、日本人は、「ときにとねりあり。うじはひえだ、なはあれ。としはこれにじゅうはち。ひととなり聰明にして、目にわたれば口によみ、耳にふるればこころにしるす。」のように読んだと考えられています。
  概ね日本で話された言葉が当てられたと考えられますが、「聡明」は音で読まれ熟字と見られたかも知れません。「時に舎人あり」のような言い回しは、本来の日本語にはなかったものだと思います。漢文は話し言葉にはあった人称や時制の情報を欠落させた体言止めのような文末を普及させました。
  聡明と言うのは、見たものは口で説明でき、聞いたことは記憶できることでした。
  見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥は、すべて「みる」と読まれました。しかし、日本人は漢字を使い分けて書くようになります。漢字を学ぶことは語彙を学習することでもありました。

1音1字

  古事記の序には、「然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣更長。是以今或一句之中。交用音訓。」と太安万侶は書きました。
  古事記を書き表そうとすると、上古の言葉は素朴で漢字で表すのは難しい。漢文(訓)で表すのは心情が伝わらず、音を連ねるのは必要以上に長くなる。したがって、音訓を交えて記す。と言っています。
  そして、「音」の表示は、以下のように説明されています。
  「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」、姓の日下は玖沙訶(くさか)、名前の帯は多羅斯(たらし)と書くと「1音1字」を説明しています。
  既に、話し言葉と漢字の関係は深く理解されていました。1音1字は反切にも見られ、「音」を伝える一般的な方法でした。

万葉仮名と宣命体

  「1音1字」は漢字伝来と共に音節を書き表す方法として必要になったはずです。しかし音節数だけ漢字を書くことは実用的ではなかったようです。以下の万葉集の例では「万葉仮名」は「1音1字」の 6割で書き表すことが出来ています。
大宰帥大伴卿
大典 麻田連陽春
此間 不去 将歸
つく よし かわ おと きよ いざ ここに ゆく ゆかぬ あそび ゆかん

  万葉仮名は「月」や「遊」を字義通りに訓で読んでいます。「清し」の「し」は借字で表されています。1音1字も「借字」ですが、漢字の「字音」の1音節目を使うと言う規則性があります。万葉仮名の借字は、音、訓、いずれも使用され1音節とは限りません。「下」は「おろし」、「五十」は「い」と読まれました。
  宣命体は、万葉仮名と同じ、漢字の訓読みと借字の組み合わせですが、借字は1音1字に限られていました。しかも「は」は常に「波」と書かれ、他の音節も文字が決まっていました。また、借字は小さい文字で書かれ、借字部分が一目で分かるように工夫されていました。

  万葉集や宣命体は上代にあったように説明されますが明確な証拠は分かりません。万葉集の平安時代の写本はことごとく歌謡を仮名書きしているようです。万葉仮名で記されているのは鎌倉時代の写本のようです。宣命体も続日本紀の詔の引用部分が上げられるようです。

梵字

  デーヴァナーガリーはサンスクリット語の文字として有名ですが、13世紀に作られました。インドの口承文献は4世紀以降にグプタ文字によって文書化されました。グプタ文字はブラフミー文字と大差の無い文字だったようです。
  6世紀に使用されたシッダマートリカー文字が日本に伝来した悉曇文字の元になったと見られています。
  日本には6世紀の仏教伝来の際にアーユルヴェーダが含まれていたことが知られているようです。アーユルヴェーダがどのような文字で記されていたのかは分かりませんが梵字も伝わったものと考えられているようです。
  伝来は中国からのもので中国で紙の文書となって伝来したものと考えられます。悉曇はサンスクリットの音写だと言うことです。梵字はブラフミーの音写だと言うことです。
  いずれも特定の文字を示すものではなく、幾通りかのブラフミー系の文字が伝来したものと思います。
  この梵字は、ほとんど日本にだけ残ったもののようで、実態は日本の仏教に関連した文書にだけ見られるもののようです。
  梵字はデーヴァナーガリーと同様アブギダに分類される文字で音素を表す字母を組み合わせて音節を表します。音節を表す字形は1文字として扱うので音節文字です。33の子音と、14の母音がありますが、子音+母音の形では10母音だけが使われるようです。
  子音を示す字母だけが記されると随伴母音 a を伴って読まれる点でアブギダと分類されるようです。

  母音が単独の場合は左図の字形が使用されます。
  サンスクリットに代表されるインドの言葉が悉曇文字の文書として伝来したものと思いますが、それらの文字は仏教と結び付いたものではなかったのだと思います。インドでは普通の音節文字として使用されていたものと思います。1文字1文字が仏を指すとか、1文字ごとに字義を与えているのは日本人なのだと思います。ただし、元は外来かも知れません。編集作業や速記のために仏の名前を短縮表記したり、略号を定めることはあったと思います。

  算用数字の起源がインドであることは「ゼロの発見」で有名です。ゼロを使用して位取りをすることは計算に有利でした。日本にも梵字の記数法は6世紀に伝来していたことになります。日本では算用数字と漢数字を併用しています。数字は、計算。計数、序数で使い分けられる可能性があります。梵字が実際にどのように数字を使用したのかは良く分かりません。

  東京国立博物館蔵、法隆寺献納宝物に「梵本心経並尊勝陀羅尼(貝葉)2枚」があり、以下のような書き出しになっています。

  現在、インターネットには貝多羅葉の写真と共に、これを写した掛け軸の写真が公開されています。
  カタカナの読みと、漢字訳は、この掛け軸に書かれているものです。
  Unicode のデーヴァナーガリーの文字の名前から、ラテン転写をしました。NA-MA は、Unicode が付けた字形の名前です。BA と O の合字は BO と書きました。母音をV、子音をCと表して、V型、VC型の音節が基本のようですが、RVA、JNYAA、RYAA、SHVA は CCV型 です。TTVO は CCCV型です。

  NA-MA は、南無で礼拝することのようです。google翻訳でヒンディー語からの訳は、SA-RVAは「全て」、JNYAAは「知識」、YAは「その他」で、「一切 知」のようです。広辞苑に観世音は avalokiteśvara(アバロキティシュヴァラ)、菩薩は bodhisattva(ボーディサットヴァ)に由来することが書かれています。漢字訳を見るとボーディサットヴァは名詞として受け取られていますが、観世音は意訳されています。
  アリア・アバ・ロキティ・シャバラと分解され、アリアの部分のヒンディー語からの訳は「アーリア人」になります。「高貴な」「聖なる」と言うことのようです。サンスクリット語のアバは down 、ロキティは see のようで「観察する」ことのようです。シャバラは「自在」と訳される言葉だったようです。「自在」に当たる言葉を探すのは困難です。「自在」の意味が説明できません。

  日本では「梵字悉曇章」や「大悉曇章」のような文書で梵字が学ばれたようです。国会図書館が公開している「梵字悉曇章」(享保19)の表紙には「弘法大師請来」と記されています。最初に母音とCV型の文字に付いて漢字転写が上げられています。しかし大半は字形だけが記され十万六千字余の数字が記されています。空海撰とされる「篆隷万象名義」が一万六千字の漢字を収録していることから考えると梵字は果ての見えないものだったのかもしれません。33の子音でCCCV型を機械的に作れば35万通り以上になります。
  悉曇章には、種字(種子)や字義と言ったことは含まれないようです。おそらく日本固有か、外来だとしても日本にしか残っていない習慣なのだろうと推測します。 

※貝多羅葉と般若心経
  貝多羅葉の文書はインド、東南アジアで広く使用されました。長期の保存には向かないものらしく2世紀以降のものしか存在しないようです。最も貝多羅葉の文書を保有するのはネパールらしく、貝多羅葉は17世紀ごろまで中央アジアにまで輸出されたもののようです。
  両端を切りそろえた葉は長い短冊状で長い方の辺を横にして文字が横向きに書かれました。通常、2つ穴が開けられ紐を通して綴じられました。読むときは紐を緩めて1枚ずつ読みました。
  法隆寺に伝来した「梵本心経」と「尊勝陀羅尼」を記した貝多羅葉は穴は開いていますが2枚のみです。
  この資料は年代測定されたことも、貝多羅葉(コウリバヤシ、オウギヤシ)であるかどうかも確認されたことはないようです。
  「梵本心経」は「般若心経」のようです。「般若心経」は中国の著作物でサンスクリットに翻訳されたとも言われるようです。
  広辞苑には聖遊廓(洒落本)の用例があり、江戸時代には貝多羅葉は洒落のネタになる程度に知られていました。この貝多羅葉が輸入されていたのなら年代からオウギヤシだったと考えられます。

※菩薩
  菩薩はボーディサットヴァに当てられた漢字のようです。音写、つまり借字なので漢字の字義とは無関係のようです。
  「ボーディ」と「サットヴァ」の合成語と解釈されています。いずれも広い意味を持つ言葉ですが、しれぞれ「賢い」と「生きている」と考えられ菩薩は「人」です。日本の朝廷は僧の位として使用しました。

その他の文字

アナトリア文字

  アナトリア文字は古イタリア文字のようにアナトリアの文字の総称として使われたものだろうと思います。しかし、実際に確認されているのは「象形ルウィ文字」と「フリギア文字」のようです。特に「象形アナトリア文字」と言うのは「象形ルウィ文字」のようです。
  どうやらアナトリアに残された象形文字は、象形ルウィ文字以外は知られていないようです。
  ルウィ語はヒッタイト語と同様、ハットゥシャから出土した楔形文字の文書によって知られました。一方、象形アナトリア文字の遺物はカルケミシュの出土品が上げられています。前者はヒッタイト帝国の歴史に属し、後者は新ヒッタイト都市国家群(シリア・ヒッタイト)の歴史に属すると見られています。
  ルウィ語はヒッタイト語と同じインド・ヨーロッパ語族に分類されます。
  Unicode には採用されていないようですが Anatolian Hieroglyphs と言うドラフトがあるようです。字形に関する資料には場所や年代がありませんが出典は「Hieroglyphic Luwian」と言う書籍のようです。おそらく、長文の資料のあるシリア・ヒッタイトの字形なのだろうと思います。そして、前14世紀ころのヒッタイト帝国の時代の文字とも連続性があると考えられているようです。

  BC1430からBC1190までのヒッタイト帝国(ヒッタイト新王国)の時代にハットゥシャなどに楔形文字の文書が残されました。そこから知られた音声言語は「楔形文字ルウィ語」と言うようです。一方、「象形ルウィ文字」によって知られた音声言語は「象形文字ルウィ語」と言うようです。両者は異なった物だと見られているようです。
  アナトリアの東部には、ヒッタイト語、ルウィ語、ウラトゥ語、フルリ語を話す人々がいて、「象形ルウィ文字」は、それらの表記に使用されたと考えられているようでうす。
  しかし、日本の例を考えると漢文を書く人が万葉仮名の文書も残した訳で、文書が示す言語が必ずしも異なった人のグループを示しません。

  シリア・ヒッタイトの都市国家はキズワトナやアレッポ周辺にあり、フェニキア文字の使用が始まる BC1050 以降、アラム語碑文が残された地域です。アッシリアはアラム人の都市国家と認識しました。新アッシリアは、これらの地域を支配したと考えられます。
  前8世紀ごろのカルケミシュに「象形ルウィ文字」の碑文が残ったことは確かなのでしょうが、ルウィ語が周辺の記録でどのように裏付けられているのか分かりません。

  ヘロドトスは「カラベル(Karabel)の摩崖碑文」をエジプトの王が来た証拠だと考えヒエログリフだと思ったようです。Hdt. 2.106
  現在では、この碑文はヒッタイトがエーゲ海に達したことを示すものだと見られています。ミラの王 Tarkasnawa の名が読見取られています。前13世紀と見られる、この碑文はルウィ語が使用されたと見られるアナトリア東部のキズワトナやシリア北部からは遠く離れています。ルウィ語の遺物の分布はヒッタイトの勢力範囲と一致しているようです。

  アマルナ文書のアルザワからの書簡にはエジプトの書記へのメッセージが添えられました。書簡はハットゥシャに残ったヒッタイト語の楔形文字の文書と同じ文体で記されました。ヒッタイト語の楔形文字の文書で書簡の交換が行われることを「ネサの言葉で」(nešumnili)のように都市名で表しています。また、ヒッタイト語の楔形文字の文書にはルウイヤ(Luwiya)の言葉でと表現されるものがあるらしく、 ルウィ語(Luwian)の根拠のようです。
  ハットゥシャの楔形文字の粘土板は、ほとんどルウィ語だとも言うようです。
  象形ルウィ文字は表語文字を含む音節文字で、アッカド文字(楔形文字)、線文字Bと同じシステムです。
  遺物のほとんどは石に刻まれたもので、文章になったものはほとんどないようです。
  「楔形文字ルウィ語」の BC1430 - BC1190と言う年代はミケーネ文明の線文字Bと重なり、さらに遅い時代まで使われたことになります。
  アナトリアにはインド・ヨーロッパ語族の人々が古くからいてギリシャ文明の発祥の地の候補でもあるようです。また、ウガリット文字やフェニキア文字が存在し、ギリシャ文字がこれらから派生したことを考えるとアナトリアにもその痕跡があって良いように思えます。ウガリット文字やフェニキア文字が手紙や荷札など、実用的な記録を残しますが、アナトリアではルウィ文字がその役割を担ったようには見えません。

アナトリア文字の数字
アナトリア文字の音節文字
アナトリア文字の表語文字(一部分)

古ヨーロッパ文字

  セルビアの新石器時代の説明にヴィンチャ文化(BC5500-BC4500)があります。ヴィンチャ文化にはヴィンチャ文字が含まれています。ヴィンチャ文字は古ヨーロッパ文字と同じことのようです。この記号は、ヴィンチャ文化の範囲を超えて、南東ヨーロッパで広く見つかるようです。
  ただし、この記号群は文字として了解されているものではないようです。また、アナトリア文字との類似性がないとされています。
  素材の粘土が分析され他の場所から持ち込まれたものではなく、発見場所で製造されたことが分かっているようです。
  しかし、記号を複数記したものがなく、長い期間、同じ記号だけが使用されていて、記号や文字ではなく、単に意匠、図柄と言う解釈もあるようです。
  1. ほとんどが陶器に刻まれている
  2. ほとんど一品に1つの記号が刻まれている
  3. 数世紀の間、同じ記号列を刻んだものが作られた
  4. 距離の離れた場所で同じ記号群が使用されている
  5. 知られた記号の種類は225強のよう

ファイストスの円盤

  クレタ島のファイストス宮殿の線文字Aの文書が収蔵されていた書庫から発見された円盤状の焼成された粘土板で、記されている文字は類例の無いものだと言うことです。直径は、およそ 16cm、厚さは2cm強で両面に文字があります。2cm強の幅の粘土の帯を螺旋状に3周分巻いて終端は細くして円を作り、さらに少し広い幅の帯で外周1周分を付加して直径が16cm程になっているように見えます。螺旋の部分は中心から反時計回りで、文字は帯に沿って書かれています。文字の上下を人型で判断すると、円板の中心が上になるように文字が配置されています。文字は概ね均等に並び、数文字ごとに線で区切られています。A面は31区画、122文字、B面は30区画、119文字です。A、B面は発見時の上がAと決められたと言うことです。
  241文字から45の記号が認識されました。この記号は、Unicodeに含まれています。

  ただし、この円盤が文書で、記号が文字だと言うことは確かなことではないようです。

  この円盤の作成された年代は、BC1600頃とされています。また、BC2000-BC1001 としていることもあります。しかし、年代を測定する方法はなさそうで、王宮が使用されていた時には既にあったと言うこと以外は分からないように思えます。

  この円板には興味深い2つの点があります。
  1つは、最初から焼成されていたと見られている点です。線文字Aの文書は書簡などには使用されず、王宮内での一時的な記録なので焼成されなかったとされています。発見された線文字Aのタブレットは火災で焼かれたために残ったと説明されています。
  もう1つは、文字は手書きではなく、型押しされている点です。同じ文字は同じ大きさ、形状で、スタンプを押して描かれたことが確かなようです。
  非常に細い線を綺麗に描くには金属のスタンプが思いつきますが、蝋型などで鋳物を鋳造したのだろうかと不思議に思います。


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