文字と話し言葉 文字の年表 文章語とダイグロシア エジプトの文字現在のエジプトの主要な言葉は、アラビア語・アラビア文字のようです。エジプト語は古代のエジプト語を指し死語となっています。7世紀までに使用された文字は、ヒエログリフ、ヒエラティック、デモティック、コプト文字でした。 プトレマイオス朝(BC306-BC30)の間は、ギリシア語(コイネー)・ギリシア文字が広く使われたものと思います。コプト文字がギリシア文字由来であることから考えるとエジプト語もギリシア文字で表記されたものと思います。 新アッシリアのエサルハドンは BC671 にメンフィスに達します。以降、エジプトの文字記録は支配勢力の影響を強く受けることになります。エジプト第26王朝(BC664-BC525)が滅亡すると、エジプト語が何を指すのかは明らかではなくなります。 前7世紀以降のエジプト語はデモティック期と呼ばれています。エジプトの文字の話しはこれに先立つ「新エジプト語」のことを中心にしているものと思います。 エジプトの最古の文字に付いては資料の名前や年代の根拠が示された記述が見つかりません。 ヒエログリフヒエログリフの最も古い記録はBC3100頃のナルメルのパレットのようです。植物の実をすり潰す化粧用の石板で両面に浮彫があります。上端の中央にはヒエログリフと見られる記号が書かれています。大きく描かれた人物の被っている帽子は2種類あり、上、下エジプトのファラオの象徴とされています。ヒエログリフと見られる記号の周りの線はセレクと解釈され、「ナマズ」と「鑿」が書かれていました。これは王名として「ナルメル」と読まれました。ナルメルは、マネトの記したエジプト第1王朝の最初のファラオ・メネスと見られています。浮彫は彼が上、下エジプトを統一した王だった証と見られています。しかし、パレット自体は年代の測定できるものではありません。 ナルメル王より前のスコーピオンキングはサソリのマークから命名されました。ナルメル王はナマズ鑿王とは呼ばれていません。しかしナルメルの命名も BC3100 頃のエジプト語に基づいたものではなく、現在の命名なのだと思います。 ヒエログリフは壁面などに記されて効果を上げるように意図された文字のことを指していると思います。視覚効果のために彩色されたりもするようです。少なくとも初期王朝(第1、第2王朝)の時代の遺物は該当せず、容器などに線刻された短文でした。それでも文字の字形は完成していたようです。第5王朝のウナス王のピラミッドの玄室の壁面はヒエログリフでピラミッド・テキストがぎっしりと記されています。ウナス王は第5王朝の最後の王で BC2350 ころのようです。その前後のヒエログリフの状況は分からず唐突に感じます。新王国時代には神殿など大型建造物の壁面にはヒエログリフが記されよく知られる状況になります。
エジプトの王朝や王の在位期間を信じるとして考えます。ワジ・アル・ジャルフのパピルス片の写真にはヒエログリフの文書があり、クフ王とされているセレク(ホルス名)の部分が写っています。しかし、年代測定されたとは書かれていないようです。 第5王朝のアブシール・パピルスやウナス王のピラミッド・テキストの方が発見場所が王墓である分年代は確かそうです。 いずれにしても不思議に思えるのは字形が完成していることです。垂直な罫線の中に綺麗に並ぶ様子も後代のものと区別できません。 また、第4、または第5王朝になって、ヒエログリフの長文が突然記されるように見えるのも不思議です。ヒエラティックは在庫管理表のような用途だったようです。 突然、長文が書かれるようになったように見えるだけでなく、その後も数百年にわたって長文の資料が上げられていないようです。 中王国の時代にはヒエログリフが改革されたとも説明されます。しかし、前述のように古王国の時代の長文は、新王国の時代のものと見た目は区別が付かないようです。中王国時代のどんな資料を比較しているのか分かりません。上げられている変更点は、使用される字形が750ほどに整理され、綴りが一様になった、ことのようです。 しかし、新王国の時代になっても綴りには注意が向けられていないように見えます。新王国の時代のアビュドス王名表とサッカラ・タブレットは連続した王の遺物で大きな年代差はないものと考えますが、セネド王の名前は異なった綴りで記されました。これは特別ではなく王名表は書かれたものを写している訳ではないように見えます。 1子音文字は、2子音以上の文字の代りができます。1子音文字は、それだけで、フェニキア文字のような音素文字の文字セットに成り得ると言うことです。 上の図は、ヒエログリフとヒエラティックの Unicode の説明文にある1子音文字とラテン転写文字を抜き出したものです。 周辺の文字との関係は概ね以下のようです。 熟語と受け取れるものを探すと以下のようなものがあります。 王を表す文字列の1つは、nsw(ネス)で、王宮は nsw-pr 王と建物の会意のようです。 エジプトは、kmt(ケメト)だったようです。「黒い土地」を意味すると言うことです。しかし、アマルナ文書のファラオは自らの領土をミザリ(Mi-iz-za-ri)と呼びました。周辺国でも楔形文書にはそのように書かれました。線文字Bでは、アクピティジョ(a3-ku-pi-ti-jo)のように記されました。 ヒエラティックヒエログリフは聖刻文字と言うように主に石などに刻まれて残っています。ヒエラティックは、パピルスにインク、葦の筆で書くことを前提に、ヒエログリフを崩して始まったと考えられています。しかし、ヒエラティックも碑文に刻まれたようです。 ヒエラティックの最古の記録はBC3200頃のスコーピオン・キングの墓の壷のラベルとありますが、Tarkhan Tomb 1549 (UC16947,Jar with a name of a king) のことらしく必ずしもヒエラティックには見えません。また墓の年代は第1王朝でホルス名はクロコダイルと解釈されているようです。しかし、壷にインクで筆書きしている点を捉えてヒエラティックの始まりと見ることはできます。その意味では、原始王朝の時代からセレクと共に記されていました。 確かそうなことは、BC3000ころの原始王朝の時代に石や陶器の容器にインクと葦の筆で文字が書かれました。 1子音の字形は、前述のヒエログリフの図にあります。 デル・エル・メディーナ遺跡から書記の訓練の跡が見つかっていて、ヒエログリフではなく、直接、ヒエラテックの単語単位での記法を学習したと言うことです。 ヒエラティックは Unicode には収録されていないようです。ヒエログリフと表現力に差があったとは言わないので、おそらく両者はほぼ同じ規模の字形を持っていて対応が明瞭だったのだろうと思います。
「シヌヘの物語」の完全なものは残らなかったらしく、いくつかの資料を合成して全文が知られているようです。主要な資料は、Berlin Papyrus 3022 ですが、先頭が無く、Berlin Papyrus 10499 によって補われています。公開されているハンドコピー(ファクシミリ)には、重なる部分がないように調整されているらしく、同じ箇所を比較できません。 デモティックデモティックの最古の記録は、BC660頃のサッカラの碑文で、最後の記録はAD451のフィラエ神殿のメモ書きのようです。新アッシリアのエルサルハドン王がメンフィスに達したのはBC671で、デモティックの使用が始まったころのようです。新アッシリアの時代には第26王朝(BC664-BC525)が存続し、王朝の行政文書としてデモティックが使用されたとされています。主にパピルスに書かれたと説明されているので、実際にはほとんど残っていないのだと思います。 BC525ころ第26王朝が滅亡するとエジプト語が公用語ではなくなることになります。新アッシリアやアケメネス朝ペルシアはアラム語を使用したとされますが根拠は分かりません。前5世紀には、アスワンのエレファンティン島のイスラエル人コミュニティがアラム文字の文書を残しています。それ以外は BC525 から BC330頃までの二百年間のエジプト語やエジプトの文字の事情はほとんど説明されていないようです。 BC330以降は、マケドニアの支配下となり、プトレマイオス朝の時代となります。公用にはギリシア語・ギリシア文字が使用されることになります。七十人訳聖書やホメロスの作品などもアレクサンドリアで編纂されました。この時代のギリシア語が「古典ギリシア語」であり、これ以前の文献は存在が知られても伝承されていません。 ロゼッタ・ストーンの存在がなければエジプトの文字はギリシア文字になったと見られていたかも知れません。コプト語の文字は 7文字(Ϣ、Ϥ、Ϧ、Ϩ、Ϫ、Ϭ、Ϯ)はデモティック由来とされますが、他は、ほぼギリシア文字です。これは、エジプト語を文字で読み書きする人も、ギリシア文字を常用していたことを示していると思います。ギリシア語・ギリシア文字の文書を作成する人々が余技としてヒエログリフやデモティックを使用していたものと推測します。 ファイユーム(Faiyum)パピルスは、デモティックによる文学の資料として挙げられますが、内容は分かりません。この文書の年代はローマ時代のようです。1万点のうち3千点がアラビア語だとも言われます。アラビア文字が現在の形状になるのは7世紀以降で、まだシリア文字の形状だったことになります。文学と言うのも確かではないようです。デモティックで書かれたと言う以外に、「デモテックから写されたことが明らかな」資料とも表現されています。 デモティックも Unicode に収録されていないようです。その理由は良く分かりません。需要が無いこともありそうですが、コンセンサスが得られる状況にはないようです。 破損があり、行頭からではありません。右から左に読むように書かれています。各文字は、以下のような音節文字と言う解釈に従っています。 字形と、回転で音節を表しています。 ロゼッタ・ストーンのデモティック部分の解読について wikipedia には、コプト語から解読が試みられ、アレクサンドロスやアレクサンドリアと言ったギリシア語の人名や地名が識別されたとあります。それ以上は解読できず、その原因は表語文字を含むためと説明しています。 コプト文字コプト文字は4世紀ころから14世紀ごろまで使用されたようです。4世紀と言うのはプトレマイオス朝になってエジプトでギリシア文字が使用されるようになってから700年以上経ってからのことです。フェニキア文字の派生文字の影響は新アッシリアによって征服されて以来千年以上におよびます。文字だけでなくエジプト語自体が大きく変化していて何の不思議もありません。コプト文字は、ほぼギリシア文字で、Ϣ Ϥ Ϧ Ϩ Ϫ Ϭ Ϯ は、デモティック由来だと言うことです。コプト語は「近代エジプト語」と呼ばれるらしく、その場合は4世紀以降のエジプト語と言う意味しか示さないようです。 しかし、エジプトのコプト教徒のコミュニティが使用してきたコプト語やコプト文字、典礼言語のボハイラ方言が知られ、それまでのエジプト語との継続性があると考えられているようです。ただし、7世紀にエジプト語がほぼ死語となった後で残った言葉としてのコプト語です。4世紀から6世紀には宗教とは無関係に「近代エジプト語」としてコプト語が広く使用されたことになりますが、おそらく、その様子は分かりません。 必ずしもギリシア文字由来ではない文字は以下のようです。 前3世紀以降エジプトではギリシア文字が広く使用されるようになりエジプト語の表記にも使用されていたと思います。ギリシアから伝わったコイネーの文字は27あったと思います。それは数値を表すためにギリシア文字が使用されていたからです。そのイオニア式記数法もコイネーと共に伝播したはずです。文章を書くのに使用されたのは24なので、3つは主に数字として使用されたと思います。ギリシアでは 6:ディガンマ(Ϝ)、90:コッパ(Ϙ、Ϟ)、900:サンピ(Ϡ)です。
コプト文字のアルファベットの6番目文字は SOU で、ディガンマ(Ϝ)の筆記体に由来しているものと思います。おそらくコイネーとして伝わったものだと思います。ギリシア文字では後にディガンマ(Ϝ)の筆記体とスティグマ(Ϛ)が同じ記号で印刷され 6 はスティグマだと言うようです。 Ϣ Ϥ Ϧ Ϩ Ϫ Ϭ Ϯ は、デモティック由来と説明されます。しかし、Ϣ はフェニキア文字にもヘブライ文字にも似ています。「シェ」のような使用頻度の高い音を復活させただけにも見えます。フェニキア文字は新アッシリアの支配と共に広く知られていたものと思います。ただし [h] 、[q] もギリシア文字でなくなっていたものですが、HORI (Ϩ)、SHIMA(Ϭ)はフェニキア文字に似ていません。 「コプト」はギリシア語のエジプト(Αιγύπτιος)に由来する呼称で、自称ではないようです。 コプト語がエジプト語である根拠に上げられるのはギリシア文字にないエジプト語の音を示す文字を加えていることです。 コプト語がエジプト語を伝えていると言うことから、ヒエログリフやデモティックの解読が試みられ、ほとんど成果がなかったようです。ロゼッタ・ストーンのデモティック部分の解読でも、いくつかのギリシア人の名前や地名を識別されただけのようです。 楔形文字シュメール人の発明とされる楔形文字はアッカド帝国の時代以降はアッカド語の文書と呼ばれています。アッカド語が国際共通語だったと説明されています。アッカド人が楔形文字を使用したことで、アッカド語の音を表すための借字が生じ音節文字化しました。この音節文字を含む文字システムを「アッカド文字」と呼ぶことにします。 実際には BC2000以降、シュメール人もアッカド人も認識されなくなっていき、「アッカド文字」の使用者はアムル人になりました。 アマルナ文書の時代にはアッシリアやバビロニアに王朝を築いたアムル人も認識されなくなっていたものと思います。アムル語と近いカナン諸語を話す人々やフルリ人、ヒッタイト人がアッカド文字を使用しました。 その後はアッシリアがアッカド文字の文書を残しました。アケメネス朝ペルシアもキュロス・シリンダーに見られるようにアッカド文字を使用しました。 アッカド文字(楔形文字)以外に、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字が使用されました。 アッカド文字Unicode には、787文字分の空間が割り当てられています。Unicode の楔形文字は、「Sumero-Akkadian Cuneiform」と名前が付けられています。これは、BC2600 から BC2000 の間に使用された楔形文字です。この年代のうち、BC2350 から BC2113 頃は、アッカド帝国の時代でした。BC2113 から BC2006 は、ウル第3王朝の時代です。マリ文書はマリが都市であった期間から BC1800頃からの約50年間の年代の確かな文書です。この時代の楔形文字は、Unicode の収録している字形とは大きく変わっています。 楔形文字の代表的な字形には、Unicode が収録している「Sumero-Akkadian Cuneiform」と、「Neo-Assyrian Cuneiform」があり、字形は後者に近いものに代わっています。「新アッシリ」は千年も後の時代を指しますが、字形はウル第3王朝の時代から変化してきているようです。 次に年代が明らかな文書群はアマルナ文書です。アマルナ文書は、エジプトの都がアマルナにあった前14世紀の50年ほどの間の書簡です。書簡の送り手は広い地域におよび、地域差や音声言語の差を反映しているものと思います。また、ヒッタイトやミタンニの文書が含まれ、語族の異なる人々とのコミュニケーションの実態を示しています。ヒッタイトは、ヒッタイト語・アッカド文字の書簡を使用しました。 前11世紀以降は、アッシリアの記録が年代の分かる記録となっていきます。アッシリアは王と在位がほぼ文書で裏付けられています。ニネヴェ図書館は多くの文書を残しました。新アッシリアが BC609 に滅ぶころには楔形文字は主要な文字ではなくなって行ったようです。しかし、BC490ころのベヒストゥン碑文には、メソポタミアの人々へのメッセージは楔形文字で記されました。アラム文字は刻まれていません。 BC330以降は、ギリシア語・ギリシア文字の文書が歴史を語るようになって行きます。 ただし、文字は何時でも描けます。今日でも意匠としていろいろな古代の文字が使用されます。多くの場合、古い文字は権威を感じさせます。BC1750ころのハンムラビ法典は、「Sumero-Akkadian Cuneiform」で記されています。カッシート人はシュメール文化を好んで、カッシート朝の時代の公用語としたとも言われています。 シュメール人と楔形文字楔形文字はシュメール人によって発明されたとされています。シュメール人の文字は線刻でしたが BC2600 ころに楔形になりました。シュメール人には、古代文明を築いた人々と、文書から知られる音声言語を話した人々、と言う意味があるものと思います。 ウルク古拙文字は表音文字ではなかったとされています。ウルク古拙文字の文書が表す音声言語は分からず、後の楔形文字の文書から知られたシュメール語と同じかどうかは知り得ません。 ウルク古拙文字は、原シュメール語を表したと言うことになります。しかし、原シュメール人はシュメール人だったと見られています。ウルク古拙文字は、楔形文字の字形の元になっていると見られています。 また、BC8000頃から家畜をカウントするのに使われたと言われる陶片が見つかると言うことです。その形状は、ウルク古拙文字、楔形文字に繋がるものとされています。 しかし、この陶片は、封泥が焼かれたものでもあるようです。 絵文字から始まったと考えると、文字は物や概念の名前で読まれたと考えられます。文字には字義があり、それを表す「話し言葉の語彙」の音で読まれました。 LUGALは1文字で「王」を表しました。GAL(大きい)とLU(人)を合成したものです。おそらくシュメール人は LUGAL のように読んだと見られているのだと思います。ウル第3王朝の王シュルギ(BC2094-BC2047)の名前は、DUNGI と Unicode のように読むのが当時の読みのようです。ドゥンは、「利益」、「掘り起こす」、「捻る」、「雌のロバ」などを示す語だったようです。「ぎ」は、「葦」や「確実にする」と言った意味合いがあったようです。 アッカド文字のシステムアッカド人がシュメール人の文字を使うことで起きたことは、アッカド語以外を話す人々でも同様だったと思います。アッカド語が長い間、世界共通語だったと言われるのは、漢文と同じことだと推測します。「國破山河在」は漢字圏で広く知られていました。これを「国破れて山河在り」と読むのは日本人です。ピン音では「guó pò shān hé zài」のようです。漢文は漢字圏で通用しますが、声に出すとまったく通じません。漢文の読みは、それぞれの「話し言葉」による訓読です。 ティルスの王だった a-bi-mil-ki は10通の書簡を残しています。EA154では音節文字で a-bi-mil-ki と記しています。EA147 では a-bi-LUGAL と記しています。カナン諸語の王は後にフェニキア文字で mlk と表されマルクのような音だったと考えられています。google翻訳で「a king」をアラビア語に翻訳すると「ملك」、mlk(マルカ)となります。ヘブライ語は発音が効けませんが「מלך」、mlk となります。 AN-IM は、最高神を表しました。シュメール人はイシュタル、アムル人はアダトと呼んだと考えられています。ヒッタイトは AN-IM-UN-NI と書いてタルフンニと読んだと考えられています。 アッカド文字の音節文字は1音節が原則だったと考えられます。ただし、楔形文字の音節文字は、V(母音)、CV(子音+母音)と言う日本の仮名文字とは異なっていて、VC や CVC と言う音節もありました。 アッカド文字の音節文字は575音節が識別されているようです。C(子音)V(母音)、VC、CVCがあります。 母音は a、e、i、u です。CV や VC型の子音は一般的に b、d、g、ḫ、k、l、m、n、p、r、s、š、t、z とラテン転写されるものです。おそらくḫ は[x] (無声軟口蓋摩擦音)を意図しています。 おそらく š は、SH で、[ʃ] (無声後部歯茎摩擦音)を意図しています。しかし、これは転写の話しで読み方の話しではありません。読み方は使用した人々の「話し言葉」に依存する問題です。「ハ(h)」や「シェ(SH)」のような音だと思っておきます。この 4つの V と、CVの 14 x 4 = 56 が基本的は音節となります。 エラム楔形文字エラム人は、シュメール人と、ほぼ同じ時代に認識され、アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330)の時代にも認識される人々のようです。これはシュメール人がBC2000以降認識されなくなったのとは異なっています。エラム人はバビロニアに王朝を築いた人々でもあり、早くから楔形文字も使用していたはずです。しかし、言語や人々の継続性が分かる訳ではありません。アケメネス朝の初期はアンシャン王朝と呼ばれ、エラムの首都だったこともあるアンシャンを拠点としていました。前7世紀にメディアの属国となりますが、BC550 にはキュロス2世がメディアを滅ぼしてアケメネス朝の基礎を築きました。この間エラム王国はスサを首都として継続していましたがダレイオスの時代に滅んだと考えられています。 エラム語は孤立語で、インド・ヨーロッパ語族のペルシアとは異なった民族とされますが両者は近しい関係のようです。 エラム楔形文字は、BC1500以降を指すようです。特にベヒストゥン碑文によって知られる 130 ほどの字形だけを主に使用するようになった状況を指しているようです。 しかし、エラム楔形文字やエラム語が存在するのかどうかも確証はないように見えます。エラム人もペルシャ人もアッカド文字(楔形文字)を使用しました。特にバビロニアの王だったときにはアッカド文字(楔形文字)が公式の文字でした。 エラム楔形文字の字形はアッカド文字と変わりません。見た目ではエラム楔形文字やエラム語は区別できません。また、ハンムラビ法典の石柱(ルーブル美術館)の発見地もエラムの首都スサです。 エラム楔形文字が選んだ楔形文字は音節文字で、主に V、CV、VC の音節を使用したようです。CVC も使用されたようですが、総数が130と言うことから考えると例外と思えます。 wikipedia の Shilhak-Inshushinak の項にある写真の一部です。Shilhak-Inshushinak は、BC1130ころのエラムの王のようです。この碑文はエラムの王に因む遺物ですがエラム楔形文字と説明されている訳ではありません。 1(ディシュ)は、男性名の前に置かれるので、そこから huteludus insusnak と読めます。Hutelutus-Inshusinak(BC1120-BC1110)が次の王のようです。 ベヒストゥン碑文は、ダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)の王位継承の正統性を示す目的で存命中に刻まれたと考えられています。碑文は、メソポタミアの楔形文字、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字で刻まれました。 1(dish)は、語の分割に使用されているようです。1文字で sunki と読まれる記号は「王」のようです。 新アッシリアの滅亡から百年たって、アッカド文字(楔形文字)の字形も変化していると思いますが、この碑文では特に大きく変化しています。 アッカド文字の碑文と比べると、選ばれている文字に差があり、同じ文字を選んでいても字形が異なっています。これはエラム楔形文字がアッカド文字(楔形文字)とは別の文字体系として扱われていることを示していると解釈できるかもしれません。しかし、ベヒストゥン碑文は同時に刻まれた保証はありません。また、アマルナ文書の例から綴りは重要でないことも分かっています。 アフラマツダは、AN(DINGIR)で始まっています。アッカド文字の DINGIR は神の限定符で読まれない文字だと説明されます。しかし、アッカド文字でも {d}u-ri-mi-iz-da ではなく、anu-ri-mi-iz-da の方が近そうです。ペルシア楔形文字のように、母音が続く場合、随伴母音を置き換えるルールなら、au-ri-mi-iz-da、au-ra-mash-da と読めます。 エラムの文書はアッカド文字(楔形文字)の全ての文字が使用される可能性があり、片辺や短文では使用されている字形の傾向を判断できません。シュメール語、アッカド語、アムル語、ペルシア語が記される可能性があり、エラム語と判断することも困難なのではないかと思います。 ペルシア楔形文字アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330)で使用された音節文字です。Unicode には、3つの母音と、33の音節が収録されています。ブラフミー文字と同じ年代の文字で、随伴母音を伴うアブギダと見ることもできます。 母音以外の音節は33ですが、下表のように64音節を書き表すようです。ただし、x、f、z は、xrathum、frasham、Auramazda のように読み取られていて単独で音節を形成しないのかも知れません。 この文字は、アッカド文字(楔形文字)とは独立に使用するもので、文字を借りて混合することは想定されていないと思います。 ベヒストゥン碑文の書き出しは、以下のようです。 私はダレイオス(darayavausha)。偉大(vazaraka)な王(kashaathiya)、王の(kashaathiya-anaama)王、ペルシア(paarasiya)の王。 バビロニアは ba-a-bi-ru-u-sha と記され、baabiruusha か babirusha 明瞭ではありません。しかし、da-ha-ya-a-va のように、a が省略されるケースがあるのは確かで、a が明記された時は長母音になるのだろうと推測しておきます。 近い地域でエラム楔形文字が長い間使用されたとされながら、ペルシア楔形文字が作られたのは学習効率の良い文字が必要だったことが考えられます。ペルシア楔形文字は音素の考えに基いていて覚えるのは36の記号で済みます。急拡大するペルシア帝国には重要なことだったと推測します。エラム楔形文字は使用される字形が定まっていた訳ではないようです。 子音文字文字が絵文字から始まったのなら、文字には字義があり、その字義を表す「話し言葉の語彙」が音になったと考えられます。異なる音声言語の人々が文字を採用すると「借字」が生じ表音化するのだろうと思います。借字は1音1字のように音節文字を生じます。 この説明はアッカド文字(楔形文字)には当てはまります。 音素文字は文字に字義はなく、「話し言葉の語彙」で読み書きされます。音素文字は1)話し言葉を写そうとするか、2)最小の記号の文字セットを作ろうとするか、のいずれかの意図がないと生じないように思えます。 ギリシアやローマでは演説を記録すると言った速記の概念があったようです。民主政治には必要だったのかも知れません。しかし、ヒエログリフやヒエラティックを説明できるほど昔に、そうした需要があったのかどうかは分かりません。また文字が口承文献を置き換えるのは前3世紀以降のようです。 エジプトの文字は知られているより前の歴史を持ち、筆記効率の高度化が行われた時代があったと言う以外の説明は思い付きません。 ただし、エジプトの文字が主に子音文字であると言うのがいつからなのかは定かではありません。新エジプト語と言われる前14世紀以降が、そうであることは確かそうですが、どこまで遡るのかは分かりません。しかし、エジプトの文字は最古の文字で子音文字を含むと考えられています。子音文字が最初の表音文字とは考え難く、既にあった表音文字の筆記効率の改善の結果生じるものだと考えます。 ウガリット文字ウガリット文字は特別な楔形文字です。書記方法は楔形文字のもので、記されたのは30種類の文字だけでした。Unicode が収録している字形は、ヒエログリフが千強、楔形文字の字形数が780強なのを考えると、圧倒的に少ないものです。アッカド文字(楔形文字)とは字形が異なり区別が付いたものと思います。エジプトの文字の1子音文字とは直接結び付きませんが音素の認識には共通性があるものと思います。しかし、子音の数を多くカウントしている点は特別に見えます。 前14世紀から使用されたと考えられています。カナン諸語の人々やフルリ人が使用したと考えられているようですが広がりや、いつごろまで使用されたかは明瞭ではないようです。 ウガリット文字の表記する音素の種類は、エジプトの文字(24音素)やフェニキア文字(22音素)の数より多くなっています。アラビア語の音素数28より1つ多い29のようです。 RS 2.[003]の列1行41は、カナン諸語の王 mlk と読めます。il や al は、カナン諸語の「神」ですが、ヘブライ語の「אל מלך」は、google翻訳では、単に「王」と訳されます。 しかし、32行は、「涙を流し、眠る」と訳されるようですが、ヘブライ語の語彙ではないようです。 フェニキア文字フェニキアはギリシア語でギリシア人の認識に基いています。70人訳聖書のフェニキアはカナンと英訳されています。フェニキア文字はカナンの文字と言う意味で、フェニキア人やフェニキア語とは結び付きません。ただし、Unicode が収録しているのはカルタゴで使用された字形です。Unicode はポエニ人(フェニキア人)の字形を収録しています。 フェニキア文字はBC1050頃に使用が始まったと考えられています。フェニキア文字で記されたのはアラム語、ヘブライ語が知られます。また、ギリシア文字や古イタリア文字もフェニキア文字の使用に始まり、前5世紀ごろまでは字形も似ていました。 ヘブライ文字(方形ヘブライ文字)は前2世紀以降のハスモン朝の時代の文字で、それまではヘブライ語もフェニキア文字で記されました。フェニキア文字は古ヘブライ文字とも呼ばれます。イスラエル王国の建国は BC1021 です。しかし、ヒゼギアの地下水路の碑文(シロアム碑文、前8世紀)まで、確かな文書がないようです。 アラム語もフェニキア文字で記されました。アラム語は新アッシリア(BC911-BC609)の公用語だったとされますが、文字はフェニキア文字だったはずです。また、キリキアやアレッポ周辺に残る最初期(前10世紀)のフェニキア文字の碑文はアラム語を記したもののようです。 フェニキア文字は字形は 22 で、ウガリット文字の30より少なくなっています。筆記環境が整っていれば、楔形文字やヒエログリフ、ヒエラティックより効率よく書けたことは確かそうです。 前5世紀のシドン王エシュムナザー(Eshmunazar)の石棺に刻まれたフェニキア文字は鮮明な長文です。既にアケメネス朝ペルシアがカナンを支配した時代と考えられます。エレファンティン島ではアラム文字の使用が始まっていた時代だと思います。
右から左に書かれ、別ち書きされていません。 アラム文字アラム文字は、アラム語とも、アラム人とも結び付かないようです。日本語の聖書でスリアやスリアびとなどと翻訳される箇所は、ギリシア語聖書ではシリア、ヘブライ語聖書ではアラムとなっています。アラム文字はシリア文字ですが、「シリア文字」は Unicode の 700 に割り当てられた Syriac で使われています。歴史でのアラム人は前12世紀ころアッシリアが認識したアラム人です。ヒッタイトを滅亡させた人々をアッシリアはムシュキと呼びました。ムシュキはアッシリアにも向かいましたがアッシリアはこれを撃退しアナトリアの西に追ったと記録しています。その後アッシリアを衰退させたのはアラム人でした。グザナはアラム人の都市国家で属国と記録されました。新ヒッタイト都市国家群とされた都市は、アッシリアにはアラム人の都市国家に見えたようです。新アッシリアがカナンに進出すると最大の抵抗勢力はアラム・ダマスカスでした。 このアラム人がキリキアやアレッポ周辺に最初期(前10世紀)のフェニキア文字の碑文を残しました。 しかし、アラム語やアラム人は、シリア語、シリア人としても、カナン諸語、カナン諸語を話す人々、としても大きな差異はないものと思います。新アッシリアは本来アムル人の王朝であった訳で、元々カナン諸語に近い言葉を話したものと思います。王宮のレリーフから新アッシリアでは楔形文字の書記と、アラム語の書記が1組で記録に当たったとされますが、単にフェニキア文字を採用したと言うことなのだと思います。 「アラム文字」の確かな記録は、エレファンティン・パピルスのようです。この文書には年号の入った複数の文書が含まれ、BC440 ころの文書であることが確認できます。エレファンティン・パピルスの文書群は、エジプトの Syene(アスワン)にあるナイル川の島エレファンティン(Yb)に残されました。新アッシリアの時代の BC650 ころから Yb のイスラエル人コミュニティは千年続いたと考えられ多用な文書が残されました。 もっと前からカナンでアラム文字が使用されたことを示す例としてエジプトで発見されたサッカラ・パピルスがあります。新バビロニアがカナンを制圧する直前のエクロンの王アドンの書簡とされます。しかし、文書は破損していて、年代もエクロンも読み取ることはできません。おそらく、文字の字形がフェニキア文字とアラム文字の中間的な形に見えることを根拠にしているのだと思います。 アラム文字は、フェニキア文字と1対1に対応する、字形だけが異なる文字です。書記環境の変化で生じたように見えます。細い線を書き分けるのが困難で、滲むことを考慮したもののようです。丸く描かれていた部分は、上部が切り離されています。 アラム文字は、右から左へ書かれました。Abydln atrh SHlHn mran pAl yhwhnn khna rba ・・・ のように読めます。atrh は Evra、yhwhnn は Yehohanan、khna は Kahana、rba は ラビの名前だと見なされるようです。 ヘブライ文字現在も使用されているヘブライ文字は、かつてのユダ王国の人々がハスモン朝によって独立を回復した BC141 以降に使用されるようになった文字です。フェニキア文字は古ヘブライ文字、ハスモン朝の文字は方形ヘブライ文字と区別されます。方形ヘブライ文字が作られるころにはアラム文字を使用していましたが、フェニキア文字とアラム文字は1対1に対応し、書体の差異しかないので区別していたのかどうかは分かりません。 新バビロニアによってバビロン捕囚が起き、ユダ王国は滅亡しました。4百年後にかつてのユダ王国の人々はハスモン朝によって独立を回復しました。BC64 ころローマ帝国の属州となるまでの間に、ヘブライ文字によってヘブライ語聖書が編纂された見られています。 死海文書(ナッシュ・パピルス)には「方形ヘロデ文字」と説明のある文書が含まれます。ヘロデ朝はローマ支配化の王朝でBC37からAD93ころまで存在しました。この文字は方形ヘブライ文字よりアラム文字に近いように見えますが年代的には新しいことになります。ナッシュ・パピルスには BC37 以降の文書が含まれているようです。 ヘブライ文字も、字形が異なる以外は、フェニキア文字と機能的に差異のない文字ですが、語末形の字形が加えられました。 別ち書きされていない文書は行頭からしか読むことができず、語を文書から探すことも困難です。イスラエル人は古くから文字を別ち書きする習慣があったようですが、語末形の字形を加えることで、さらに語の視認性が良くなったものと思います。 また語末形文字は書き方向を一様する効果もあったと思います。 現存するヘブライ語聖書の最古のものは11世紀のもののようです。ハスモン朝の時代のヘブライ文字がどのようなものだったかは正確には伝わっていないのかも知れません。 子音文字であるヘブライ文字は発声に必要な情報を完備しないことは確かなようです。ヘブライ語では点を打つことを「ニクダー」と言うようですが「ティベリア式発音」と呼ばれるニグダを使用するようです。
ホラム(HOLAM)は [oː]、カマツ(QAMATS)は [ɑ]、パタフ(PATAH)は [a]、シュヴァー(SHEVA)は [ə]、ダゲッシュ(DAGESH)は破裂音、ヒリク(HIRIQ)は [ i ]、と説明されています。 シリア文字シリア文字は現在も使用されている文字ですが典礼文字として使用が続けられているものと思います。シリア語はシリア、レバノン、トルコ、イラクなどの中東のキリスト教徒が使用しているアラム語の一種を指すようです。また、インドのマラヤーラム語の表記にも使われるようです。(マラヤーラム文字があります。)BC200頃から使用されたアラム文字の一種で東方の文字の基になったアラム文字の有力な候補のようです。 Unicode の文字は以下のようです。
合字が使われることがあるようです。多くの合成用の符号があります。 アラビア文字アラビア文字も子音文字として始まりましたが、現在は母音を表すことができるようです。アラム文字から派生した文字を使用していたナバデア王国の人々が、やがて文字を繋げて記すようになり、アラビア文字の元になったと考えられているようです。ナバデア王国の時代の碑文は文字が連結してか書かれていないようです。2世紀になるとローマの属州となったので、その後の習慣と言うことのようです。7世紀にアラビア文字は使用が始まるようですが初期のアラビア文字がどのようだったのかは良く分かりません。ヘブライ語が長い間死語であり、20世紀に再建された言語であることを考えると、アラビア語が語根を持つ言語の代表のようです。アラビア語も王を mlk と表し、マルカのように読みます。 イスラム教の聖典には教えが石やヤシの葉に記して伝承されてきたことが記されているそうです。アラビア文字が使用される7世紀には筆記環境も大きく改善されていたのだと思います。1語を文字を繋げて書くのは、1語を1回で記すことができたのだと思います。 ペルシアの文字現在、ペルシア語はペルシア文字で表記されるようです。ペルシア文字はアラビア文字の28文字と、ペルシア語固有の4文字で構成されると説明されています。Unicode は、アラビア文字として、この4文字も割り当てています。
アラビア文字は多くの言語の人々が使用しています。Unicode は使用される可能性のある文字を1組にしていて文字の名前などで区別を付けていないようです。外来語もあるので妥当なことなのだろうと思います。 ペルシア語の継続性については10世紀ごろに大きな変化かあったようです。その後のペルシア語の年代区分には14世紀と言う節目があります。それは、ヨーロッパに伝わったペルシア語文献はインドでパールシーから収集された14世紀の写本だと言うことです。このインドで作られた写本はペルシア語がインドでも使用されていたことを示します。パールシーがインドに渡ったのは 936年、あるいは 716年とされています。パールシーがペルシア語をアラビア文字で記していたのかどうかは分かりませんが、14世紀までパフラヴィー文字やアヴェスター文字の文献の写本が作られていました。現存する文書からすれば「書籍のパフラヴィー文字」はインドで使用された文字のようです。 ペルシアが文献に登場するのは新アッシリアが属国としてパールス(pa-ar-su、楔形文字)と記したことのようです。その時代にはキュロス1世はエラムの地のアンシャン王でした。やがて空前の大帝国アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330)が誕生します。ベヒストゥーン碑文は、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字、アッカド文字(楔形文字)で刻まれました。ペルセポリス城砦文書、宝蔵文書はBC490ころのペルセポリス建設時の支払い明細などの文書群です。ほとんどがエラム楔形文字で、アラム文字を陶片にインクで書いたものが含まれるようです。 ペルシア語やパルティア語はインドヨーロッパ語族に分類されています。エラム語は孤立語のようです。バビロニア、カナン、シリア、エジプトはアフロ・アジア語族に分類される言葉が使用されてきました。アラビア語はアフロ・アジア語族に分類されます。 前15世紀のミタンニとヒッタイトの条約にミトラなどのインドの神々が登場することが知られます。アヴェスター語はヴェーダ語と同源でイランやメソポタミアにも伝わっていたことは確かそうです。しかし、そうした口承文書がペルシア人によって伝承された物かどうかは分かりません。ゾロアスター教の聖典としてのアヴェスターはインドで収集されたもののようです。 ホスロー1世(531-571)は哲人王と呼ばれたとされ、アカデメイアを追われたギリシア人学者を受け入れたことや、インドから学者を迎えたことでも知られます。この時代には多くの著述が行われたと考えられますが確かな物証は上げられていません。7世紀以降イスラムの時代となり、イラン系サーマーン朝(873-999)の時代にペルシア文学が栄えたとされます。また、12世紀のトルコ系王朝(ガズナ朝、セルジューク朝、ホラズムシャー朝)はペルシア人を重用し、ペルシア語を公用語としたと言うことです。しかし、実際に伝来しているものは上げられていません。 エラム楔形文字 エラム楔形文字はアッカド帝国とエラムの間の条約文が根拠のようです。130ほどの音節文字と説明されています。 ペルシア楔形文字子音文字ではなく、母音を書き表す文字でした。Unicode では、随伴母音 A のアブギダと見て収録されているようです。「ペルシア」が冠されていますがペルセポリス城砦文書、宝蔵文書には登場しないようです。 字形や例文は楔形文字のところに記しました。 パフラヴィー文字 パフラヴィー語は中期ペルシア語と同義のようです。ペルシア語の年代区分の中世と中期は明確ではありません。いずれもサーサーン朝ペルシア(226-651)の時代を主に指しています。ただし、古代ペルシア語をアケメネス朝(BC550-BC330)に当てると、それ以降が中世、あるいは中期ペルシア語と呼ばれることになります。パルティア帝国の時代が含まれると言うことです。 一方パフラヴィー文字は、「碑文のパフラヴィー文字」、「詩篇のパフラヴィー文字 」、「書物のパフラヴィー文字」と3種に分けられています。主に「書物のパフラヴィー文字」を指すようですが、「書物のパフラヴィー文字」がサーサーン朝の時代に使用されていたと言う物証はないようです。 フェニキア文字の wau、eyn、rosh に相当する文字に Unicode の「碑文のパフラヴィー文字」では WAW-AYIN-RESH と言う名前を付けています。mem、qof も MEM_QOF です。Unicode ではパフラヴィー文字がフェニキア文字と対応することを前提に名前が付けられています。フェニキア文字が22文字なのに対してパフラヴィー文字は19の記号になっています。 「碑文のパフラヴィー文字」の比較的早い例はアルサケス朝パルティアの王ヴォロガセス1世(51-78)のコインのようです。 「詩篇のパフラヴィー文字 」の詩篇は、聖書の詩篇(Psalms)のことで、シリア語聖書から6世紀に翻訳されたと説明されています。 turfanforschung Mittelpersischer Psalter と呼ばれるようです。パフラヴィーを避けて中世ペルシア語の詩篇のようです。シリア語聖書からとする理由や6世紀とする根拠は良く分かりません。 Unicode の字形に置き換え、上の表に従ってラテン転写すると以下のようになります。 70人訳聖書(LXX)の詩篇126の冒頭は下表のように記されています。
シリア語聖書の詩篇は確認できないのでパフラヴィーのラテン転写からの再現して見ました。
どうやらシリア語、ヘブライ語、パフラヴィーは各語が1対1に対応しているようです。「詩篇のパフラヴィー文字 」も字形だけを変えてアラム語を訓読しているようです。 「書物のパフラヴィー文字」は、ホスロー1世(531-579)の時代に、ギリシア語文献、サンスクリット語文献をパフラヴィー語に翻訳するために作られたと説明しているものと、前2世紀から「碑文のパフラヴィー文字」と並行して使用されたと記しているものがあります。 「バーバクの息子アルダシールの偉業の書」は中世ペルシャ文学(パフラヴィー文学)でサーサーン朝を開いたアルダシール1世とソグド王マディッグの戦いが題材のようです。完全な唯一の写本はMK写本と呼ばれるようです。この写本はインドのグジャラートで1322年に作られたことが分かるようです。
タイトルの下は「神の名において」のような定例句のようです。
翻字は下表のよっています。 w と翻字した文字は、その名前から、アラム文字やフェニキア文字の Waw、Nun、Ayin、Resh である可能性があることを示すものと思います。 アヴェスター文字 アヴェスター語はヴェーダと同源で古くからの口承文献を伝えていたことは確かだと思います。しかし、その伝承がペルシア人によって行われていたのかどうかは分かりません。デーンカルドは9世紀に編纂されたとされるゾロアスター教の辞典ですが、アレクサンドロス3世が書物を焼き、あるいはギリシア語に翻訳すするために持ち去ったとしています。しかしアヴェスターやザラスシュトラについて文献がヨーロッパに伝わった痕跡は無いようです。サーサーン朝の滅亡後のイスラム化によって失われたと考える方が自然に思えます。 アヴェスター文字が作られアヴェスターが文書となったのは6世紀と考えられているようです。アヴェスター文字は「書物のパフラヴィー文字」から作られたとも説明されていますが、いずれも6世紀の存在を示す確かな証拠は無いようです。 アヴェスターは6世紀には21巻あり、9世紀ごろまでは伝わったようですが、現存するのは5巻のようです。インドでパールシーから収集されたもののようですが、このことはパールシー教徒にとってアヴェスターは不可欠のものではなかったと言うことだと思います。 Unicode の 10B00 の区画に、16の母音、38の子音を登録しています。ラテン文字と異なり母音と子音の別が明示されています。
Unicode の文字の命名は随伴母音 E を伴って付けられたようです。ペルシア楔形文字の随伴母音は A でした。Unicode の文字の名前でヤスナ写本J2 28を翻字してみます。 右から左へ読むように書かれています。語は中点で別たれています。この中点は行末にもあり、語は改行して書かれることがあるようです。例の最後(左端)の語は次の行に繋がって読まれるようです。また、文字は続け書きされないのが基本のようです。例外は最後の語の SE-TE で、続き書きされた結果の字形と見なされるようです。 ギリシアの文字おそらくギリシア人はヘレネスを自認する人々のことで、前5世紀にはマケドニアを含むヘラスの概念がありました。そしてヘレネスはホメロスの物語るアカイア人やスパルタ人を自らの祖と考えていました。ホメロスのアカイア人はミケーネ文明の担い手で、ミケーネ文明はミノア文明から継続した文明だと見られています。
ギリシア語の最初の文字記録は線文字A、Bによるもので、音節文字と表語文字の組み合わせでした。 「話し言葉」は残らないので文書から推定されることになります。長文の文書が今日まで伝わっているのは「コイネー」の時代以降のものです。ホメロスもヘロドトスもエジプトのアレクサンドリア図書館で編纂されました。 中世ギリシア語の説明は、口語は既に現代ギリシア語と大差ない状況だったが、文語は多様だったと言うことのようです。 線文字A クレタ島のミノア文明の遺跡から、線文字Bと共に見つかった文字です。おそらく、良く似ているが2種類に分類されることは分かって線文字A、Bと区分されたものと思います。 最長の文章と見られるのは、「Archanes ladle」や「Vessel from Troullos」と呼ばれる器の縁に刻まれたもののようです。アルカネス遺跡に近い、Troullos で発見された液体を小分けする道具と見られる石の器です。枡で大きな甕などから液体をすくって、角を使って口の狭い器に入れる様子を想像すると近いようです。マスの縁に文字が刻まれています。実際には上から見ると四角ではなく、角を丸くした3角形です。 クレタ人、ミノア人、ミケーネ人、アカイア人が説明に使われ、これらが継続した人々を指すことも明示的には書かれません。クレタ人、ミケーネ人は場所から呼ばれています。アカイア人は、血縁あるいは文化的系統に付けられた名前だと思います。 線文字Bギリシャ本土、エーゲ海の島々の王宮内の記録にミケーネ文明(BC1450-BC1375)の時代に使用されました。焼成したものが無いことから一時的た記録が目的で、書簡などには使われなかったと考えられています。音節文字と表語文字から構成されています。これは、楔形文字と同じ方式です。 Unicodeには、ここに挙げていない、説明の付与されていない記号がたくさんあります。
王宮内の記録に使用したと考えられ、数字が多く見られるようです。数字は、Unicode では、線文字B ではなく、エーゲ海数字(Aegean numerals)となっていて、ミノア文明、ミケーネ文明の数字と言うことのようです。 キプロスはアマルナ文書でアラシアと呼ばれていたことが知られています。クノッソスの出土の線文字Bのタブレットからは、a-ra-si-jo と ku-pi-ri-jo の両方が確認されています。これらが地名であることは確かそうですが、本当にどこを指しているのかが分かるわけではありません。 a-ra-si-jo が記されているのは、KN Df 1229, Fh369 がタブレットの整理番号のようです。 キプロス音節文字キプロス音節文字(Cypriot syllabary)は前8世紀から前4世紀にかけて使用された音節文字です。前6世紀以降の千ほどの碑文が知られるようです。故人の名などが記されるのみで歴史上有用な資料にはなっていないようです。キプロスには「キプロス・ミノア文字」が知られ前14世紀から前12世紀の間使用されました。この文字は線文字Aから派生した文字と見られ、キプロス音節文字の元になったとされています。
「キプロス音節文字」は Unicodeの U+10800-U+1083F が割り当てられています。数字は、 U+10100-U+1013F(エーゲ海数字)が使用されたようです。 キプロス音節文字が表しているのはギリシア語と見られています。 「キプロス音節文字」の長文の資料はほとんどないようで「イダリオン・タブレット」が唯一のようです。「イダリオン・タブレット」は5世紀の青銅版文書で八百文字以上ありそうですが要旨しか分かりません。キプロスはアケメネス朝ペルシアと戦争中で兵士に無料の医療サービスを提供すると言う内容だと言うことです。 その書き出しの部分は、ote ta potoline etalione kateworokone matoi のようです。「キプロス音節文字」は右から左へ読まれ、中点によって区切りが示されているようです。
イダリオンの町はペルシアに包囲されたと解釈されています。 ギリシア文字ギリシャ共和国(Hellenic Republic)は、ギリシア語の Ελληνική Δημοκρατία で、google翻訳では「エルニキ ディモクラティア」と聞こえます。Greece は、Ελλάδα(エラバ)のようです。Ἑλλάς(エラス)は、その同義語のようです。ヘラスに住むヘレネスの概念は前5世紀には存在し、ギリシア語やギリシア文字もアッティカ、イオニア方言を元に共通語になって行ったと考えられています。 フェニキア文字は BC1050 ころから使用されたと考えられていますが、同じころにギリシア人もフェニキア文字を使用するようになったと思います。ギリシア文字は音節を音素で書き表す最初の文字であり、子音文字のフェニキア文字とは異なります。 しかしギリシア文字が母音を表すのに使っている文字は、フェニキア文字にある文字です。母音の aeiou はフェニキア文字の、alf、he、yod、eyn、wau が使用されました。したがって文字列を見ても違いは分かりません。 フェニキア文字は「右から左」に書かれ、線文字Bは「左から右」に書かれていたようです。ギリシア人は牛耕式の碑文を残していて1行ごとに書き方向が変えてあります。書き方向によって文字を鏡文字で書きました。碑文であることから、書きやすさから自然にそうなるわけではないと思います。 ギリシア文字でアクセントなどを表すためにマークが付けられるのは2世紀以降、大文字・小文字は8世紀以降のようです。
ギリシア文字の音価が変わった時期に付いては分かりません。それぞれ個別の事情で変わったもので一度に変わった訳ではないと思います。知りえるのはコプト文字が Φ、Χ を保存していて、[f]、[x] のためには新たな文字を加えたことです。コプト文字が使用される4世紀のエジプトではコイネーの音は、まだ変わっていなかったようです。ギリシア文字も中世ギリシア語の時代の変化だと理解して置くことにします。 ギリシア文字は数字としても使用されました。6、90、900 は、文字としては使用されなくなりましたが数字としては必要でした。イオニア式と呼ばれる記数法は前4世紀には使用されていたとされています。 この「イオニア式記数法」がコイネーの一部を成すものなら4世紀に使用の始まるコプト文字にも反映されていると考えられます。コプト文字のアルファベットの6番目は SOU で、コイネーの6番目はスティグマの字形だったとすれば納得できます。しかし、90 と 900 に当たる文字はあまり似ていません。 スティグマは Σ(シグマ)とΤ(タウ)の合字と説明されています。速記を表す英語の stenography はギリシア語の στενογραφία のようです。στενο は「狭い」書き方です。子音文字や音節文字に比べて沢山の文字数を書く必要があるアルファベットは最初から筆記効率の問題があったはずです。また、速く書くだけでなく、媒体の消費を減らすことも必要なことだったと推測します。合字を含めたいろいろな短縮型が存在したものと思います。 「ディガンマ」、「スティグマ」、「ヘータ」、「サン」、「コッパ」、「サンピ」は「古典ギリシア語」の前に廃れていたと説明されます。しかし、「ヘータ」、「サン」以外は数字として記されることがあるので使用されなくなったと言う意味ではないようです。
数字の 6 を表す記号に付いては、本来はディガンマ(Ϝ)だったようです。Unicode の説明ではスティグマ(Ϛ)の字形はディガンマ(Ϝ)の筆記体だと言うことのようです。 И のような字形はいろいろに当てられたようです。現在の コッパ(Ϟ)U3de にも似ています。アナトリアのパンフィリア(Pamphylia)ではディガンマとして[w]のような音価を表すのに使用されていたようです。パンフィリアン・ディガンマは U376 ですが標準のフォントには含まれていないようです。また、アルカディア地方ではサン(Ϻ)由来の文字として [ts] のような音価を表すのに使用されました。前者はローカルな発音の表記に使われたものでコイネーの時代以降の習慣だろうと推測します。後者は前5世紀に用例があると説明されています。 Unicode は、コプト文字と共に 370 から 3ff が割り当てられています。しかし、370 のヘータなどはパソコンの標準のフォントには実装されていないようです。 10140 からの区画にある「Ancient Greek Numbers」は数字として使用された文字を集めたもののようです。75の記号があり、パピルスの片々やコインなどからも収集されたもののようです。 ギリシア文字は数学用英数字記号としても 1d400 の区画にも収録されています。 ギリシア文字はラテン文字やフェニキア文字と比較して少ない音素数に見えます。 [b]、[u]、[w]、[h]、[ħ]、[ʃ] を書き表す文字を持たないようです。ギリシア語が文語だと言う説明がありますが、おそらく純粋な音素文字ではないことを言っていて、各文字に対応する以外に語としての読み方があるのだろうと思います。ギリシア語も現在では文字で定義された語彙を持つ言語なのだと思います。 ギリシア文字がイオニア式記数法と共に伝播したのならコイネーのアルファベットも27文字だったと考えるよりないと思います。他の記数法が主力となってからアルファベットは24文字と見られるようになったものと思います。コイネーは「先頭を大文字にしない」と言った記述もあるので中世ギリシア語の時代にもコイネーと呼んでいるのだと推測します。
当然 Ξ、Ζ、Ψ も使用されたはずで、[ks]、[zd]、[ps] が音価です。日本語の音節数は 112 と数えられますが、ほぼ同規模のようです。 ※牛耕式 ギリシア文字やラテン文字で書き方向が変わると鏡文字になるのは自然なことかどうかは良く分かりません。しかし残っているのは碑文であって刻文には筆記上の書き易さは関係ありません。 ※ゴルテュン・コード ゴルテュン(Gortyn)・コードは、ローマ時代の建築物の石材に文字が刻まれていたことから発見されました。直径が30mほどの円筒形の建物の壁面に大きな文字で一面に文字が描かれていたと見られています。 ※Alphabetic Marsiliana d'Albegna 26文字あり、サン(Ϻ)とコッパ(Ϙ)がその後使用されなくなったと言うことのようです。6番目はディガンマ(Ϝ)で、この並びのアルファベットを元にイオニア式記数法が成立していたと言うことになります。 ※ダイグロシア
「死んだ」は、アペサーネン(Απεθανεν)とペーサネ(Πέθανε)で同源の語のようです。「わたしの父」はエモスパティーエル(εμος πατηρ)とパテーラズモ(πατέρας μου )で語順が入れ替わっています。「わたしの」はエモスとモと異なっています。「父」は同源のようです。 結局、ダイグロシアの特徴は理解できません。コイネーは広く使用されたことによって多くの外来語起源の語彙を持っていたことが推測できますが社会運動として看板が架け替えられたと言ったことが書かれているだけで「カサレヴサ」と「ディモティキ」の語彙の差は把握できません。 「ケルンのマニ写本」はケルンの大学が1969年カイロで業者から購入した文書のようです。それまでの経緯は分かりません。 ἰδόντες を google翻訳は when they saw と訳します。左図のように Ι や Υ には上に2つの点が書かれている箇所があります。ダイアクリティカルマークが使用されています。 古い文書は大文字だけで書かれた訳ですが、それは字形のことではなく、使い分けられなかったと言う意味のようです。 今日の大文字、小文字の区分で見れば、両方の字形が使用されています。古い文書の電子テキストが小文字を使っている理由が分かりませんでしたが、今日の大文字だけで記すことにも大した正当性は無いようです。 アルファベット文字のセットは何でもアルファベットと言いますが、ここでは文字が音素を表し、文字を組み合わせて音節を表す文字をアルファベットとします。フェニキア文字のような子音文字は、母音を省略していて、音節が表されていません。 具体的には、ギリシア文字とキリル文字、ラテン文字です。ラテン文字はラテン語の文字のことではなく、現在、欧米で使用されている文字のことです。 すべてギリシア文字からの派生文字ですが、ギリシア文字自体が現在も使用されています。 古代の文字としてはどの文字も大文字小文字の使い分けやアクセント記号などはありませんでした。いずれも中世以降の習慣です。 単語を区切って記す別ち書きが必ず行われるようになるのも中世以降の習慣のようです。ヘブライ語と見られるフェニキア文字やアラム文字の文書は概ね別ち書きされていたようです。一方でフェニキア文字やギリシア文字は、まったく区切りなしに書かれたものもあります。ロゼッタ・ストーン(BC196ころ)のギリシア語とされる部分は区切りなしに書かれています。話し言葉は「語」ごとに区切って発声したりしません。話し言葉が音素文字で写されているものなら区切りがなくても読み上げれば理解できます。 英語もラテン文字で記されますが、英語の状況は表音や音素文字とはいえません。time をタイム と読み、tick をティクと読みます。1つの記号に複数の音価を持つと説明できるかもしれませんが、15世紀以降の第母音推移によって綴りが発音を決めない文字体系になりました。それまでは time は「ティメ」と発音されていたのだと言うことです。「話し言葉」が「ティメ」から「タイム」に変化しましたが文字の綴りは変更されなかったと言うことです。 これは、本質的な問題です。音素文字は少数の記号と音価だけを文字システムが持っています。語彙や言い回しは全て音声言語が持っています。語彙数は音声言語で決まります。意味を理解できない未知の言語を表していても読み上げることができます。 ギリシア文字ギリシア文字は「ギリシアの文字」で既に上げました。ほぼフェニキア文字と見えるような字形で前9世紀ごろから始まり、BC400ころにはイオニアのアルファベットが広く使われるようになったようです。 ギリシア文字はヘレニズムの時代にはコイネーとして広く使用されアショカ王碑文にも刻まれました。ギリシア文字は多くの「話し言葉」の表記に使用されたと考えられますが、あまり取り上げられないようです。良く知られているのは、コプト語、バクトリア語です。 コプト語はギリシア文字に7つの文字を加えたコプト文字で記されました。コプト文字は「エジプトの文字」に上げました。 バクトリア文字は1つの文字を加えてバクトリア語の記述に使用されました。 バクトリア文字バクトリア文字は単にギリシャ文字と言うの普通のようです。バクトリア地方ではギリシャ文字に、sho「Ϸ」「ϸ」を加えて使用されました。Unicode では、U+3F7、U+3F8 です。音は /ʃ/ とされます。バクトリア語の表記にギリシャ文字が採用され、sho の使用はクシャーナ朝カニシカ王の時代(125年以降とされる)に一般的になったようです。 バクトリア語は、インド・ヨーロッパ語族、インド・イラン語、イラン語派、東群、北東、バクトリア語 と分類されています。 アレクサンドロス3世の遠征(BC323)頃には既に話されていて、9世紀には死語となったと見られています。 パシュトー語、近世ペルシア語、ソグド語、パルティア語と近縁と説明されます。これらを話す人々は、それぞれパシュトー人、ペルシア人、ソグド人、パルティア人と呼ばれますが、バクトリア人とはあまり言わないようです。 これはバクトリア人とバクトリア語を話す人々が上手く重ならないことが理由だと思います。 バクトリア語は、コインやカニシカ王の時代の碑文、アフガニスタンでまとまって見つかった碑文と書簡(獣皮)によって裏付けられる言語のようです。それらはバクトリア文字によって認識されているものだと思います。バクトリア語はアラム文字でも残されたことになっていますが具体的な遺物はわかりません。 バクトリアは BC490 ころのベヒストゥン碑文に登場するのが最初のようです。ヘロドトスはペルシア軍のバクトリアとサカの兵の様子を記しています。両者はダレイオスの息子ヒスタスペスによって率いられていました。hdt 7.64 グレコ・バクトリア王国のデメトリオス1世(BC180ころ)のコインにはギリシア文字とカローシュティー文字が使用されました。 具体的なバクトリア語は、スルフ・コタルの碑文、ラバータク碑文の言語のことのようです。あるいはカニシカ王の言語のようです。 キリル文字スラヴ系言語の最古の文字はグラゴル文字でギリシャ文字から作られたと考えられていますが、見た目は全く異質に見えます。940頃にキリル文字は、この文字から作られたことになっていますがギリシャ文字に似ています。
キリル文字は、書体が変わると字形が大きく変わります。また、大変多くの民族が使用していて、表す音声言語による変化も大きいようです。 ラテン文字欧米の文字はラテン文字と呼ばれてます。ラテン語の文字と言う訳ではないようです。欧米の文字を1つの文字体系と見ることは大変有益なことだったと思います。古イタリア文字イタリア半島では紀元前8世紀から紀元前1世紀までは、ギリシャ文字から派生したいろいろな古イタリア文字が使われたとされています。しかし、ギリシアと同様に、フェニキア文字が、そのまま使用されるのが先だったのだろうと思います。ギリシア文字やラテン文字で母音を表している文字はフェニキア文字から由来したものなので文字の上では母音が記されたかどうかは区別できません。ラテン文字も紀元前7世紀頃から使われますが、広く使われるようになるのは紀元前1世紀以降のようです。 古イタリア文字は総称ですが、Unicodeには以下の文字があります。
トスカーナ(イタリア)でアルファベットを示したタブレットが発見されています。前7世紀のものと見られ、Alphabetic Marsiliana d'Albegna と呼ばれるようです。年代的にもギリシアと変わらず、ほぼ同時期にフェニキア文字から作られたアルファベットが広く使用されたものと思います。 右から左に書かれ、文字が鏡文字に見えます。おそらく、ギリシア文字と同様、左から右へ書くようになって、現在の文字の向きに定まったもとのと思います。ギリシア文字との対応と、フェニキア文字の記号名を記すと以下のようになります。 複数の古イタリア文字がイタリア半島の人々によって使用されますが、その後はラテン文字、ルーン文字が使用されるようになって行きます。 ルーン文字ルーン文字は、ギリシャ文字やラテン文字を含む古イタリア文字から2世紀ごろ作られました。アルファベットかどうかは分かりません。ゲルマン諸語を話す人々がラテン文字を使うようになるのは8世紀以降で、それまではルーン文字が使われました。 古英語(アングロ・サクソン語)がラテン文字で表記されるようになるのが11世紀以降です。
ラテン語の文字ローマが帝国を築く前1世紀ごろには、ラテン文字の字形は、ほぼ定まっていたものと思います。ギリシア文字のことから類推すると BC400ころなのかもしれません。それまでは、Unicodeの古イタリア文字のような字形だったと推測できます。ローマ帝国の発達、最盛期は前1世紀から2世紀に掛けてで、この間のラテン語は「古典ラテン語」と呼ばれます。普通にラテン語と言うと「古典ラテン語」を指すようです。古典ラテン語は、ローマ人の話し言葉ではなく、帝国で公用語として広く使われた言葉のことで、帝国の衰退と共に消滅したと見られています。ラテン語を話す人々は、統制が利かないので、各地で俗ラテン語を話すようになったと説明されています。 しかし、俗ラテン語 (Vulgar Latin、sermo vulgaris)は、ロマンス語の祖語をさす言葉でもあるようです。 ロマンス語の認識は西ローマ帝国の滅亡する480年以降のものです。イタリア語やフランス語の認識はさらに遅く9世紀になります。 2世紀から9世紀に掛けてのロマンス諸語は、現代のロマンス諸語との繋がりが明瞭でない状態だと言うことのようです。 そして、4世紀、あるいは5世紀までの変化は分化だと見ていると言うことになります。
古典ラテン語以降は、/k/ の音は、C、K、Q で表すことが出来たことになります。Kは使用されなくなり、QUは /kw/ の場合に使用されたようです。 欧米のラテン文字英語は大母音推移のために音素文字とは言えない状況になっています。また、英語ではダイアクリティカルマークが記されることはなく、文字で抑揚などの情報を表しません。この点で、英語は他のヨーロッパの文字とは異なっています。しかし、欧米の文字は「ラテン文字」と言う1つの区分の文字として扱われています。ダイアクリティカルマークなどの付いた文字も「拡張ラテン文字」のように呼ばれます。 共通の特徴は、左から右へ書かれることです。英語は11世紀以降ラテン文字で表されるようになります。欧米の文書は7世紀ごろ以降分かち書きが始まります。小文字は12世紀のようです。
Unicodeの「基本ラテン」には、ラテン語の文字に J、U、W を加えたものが登録されています。これは、英語が使用している文字セットと同じです。
主にダイアクリティカルマークと呼ばれるアクセントや発音の変化を付けるものでラテン文字の範疇と見なされています。
音節文字「ゆっくり、はっきり話して」と言われて1音ずつ区切って発声する音が音節です。人が発声できる最小単位です。子音だけを発生することは普通できません。また、この音節を録音して繋ぎ合わせても自然な発声にならないことも良く知られています。音節は発声動作の制御単位であって、出力されている音ではありません。同じ発声動作でもその前後の音の影響で出力されている音は変わってしまいます。人は発声するとき単語より長い意味のあるフレーズを想起しています。1音節ずつ区切って発声するのは大変不自然なことです。しかし、それによって話し言葉の音節を把握することができます。話し言葉を写そうとすれば音節文字が作られるのが自然です。 楔形文字(アッカド文字)は音節文字を持っていました。しかし、最初に普及したのは子音文字でした。子音文字は母音を省略する文字で音節を記述しません。この子音文字に母音を加えて音節を書き表すようになるのは前9世紀で、普及するのは前6世紀になります。子音と母音の記号を持ったアルファベット(音素文字)は万能な文字です。最小の記号数で音節が表せます。語彙や言い回しは音声言語によるので学習も最小です。あらゆる話し言葉を表す得るので、ほぼラテン文字に収斂しました。しかし、現在でもアラビア文字のような子音文字も大変多くの使用者がいます。 平仮名や片仮名は音節に対応する字形を1つずつ作りました。「か」と「き」は50音順で隣り合っていますが字形には関連性がありません。これに対して、デーヴァナーガリーやハングルは音素文字と同じ発想で作られました。音素を示す字母の字形を定め、それを組み合わせた合字によって1音節分の字形を作りました。「か」と「き」を表す文字の、子音を表す字母は共通で、似た形をしていることになります。音素文字との差は1文字の決め方の問題です。 アッカド文字の音節文字前述の「楔形文字」「アッカド文字」の例のように、ミタンニの王は mi-i-it-ta-an-ni の王を名乗りました。アッカド人、アムル人、カナン人、ヒッタイト人、フルリ人は、それぞれ自らの話し言葉を写すために音節文字を選びました。しかし、バラバラではなく概ね同じような音が割り当てられていました。 アッカド文字の音節表記は BC2600頃からアッカド人によって始まったものだと思います。 漢字が伝来したとき古事記では日本語の音節を1音1字で表しましたが、これは音節文字とは呼びません。シュメール人も音節を表しましたが同じ理由で音節文字と言うには問題があります。 仮名文字平仮名で書かれた「土佐日記」は935年ころの紀行文です。平仮名は平安時代から使用されるようになったと考えられています。片仮名は漢文のルビに使用されていて、平安時代の末に独立して使用されるようになったと見られているようです。片仮名の使用された初期の例は今昔物語集のようです。「いろは」と言いますが、50音図の形に仮名文字を並べることも室町時代には行われていたと見られています。仏教伝来と共に伝わった悉曇文字の母音、子音の並びに従って並べられたと見られています。 そもそも、反切や悉曇文字よる音節の知識に基づいて仮名文字が作られたと考える方が正しそうです。 仮名の特徴は、音節をV(母音)、CV(子音+母音)で分類したことです。50音表は話し言葉の音節を統制するように働いたと思います。 現在の仮名の音節数は 112 です。 仮名の重要な点は漢字と混合して使用する点にあると思います。 ハングルハングルは Unicode のac00-d7a3 に 11,172 文字の音節文字を登録しています。ハングルの子音の認識は 18 で、他の音声言語と大差ありませんが、母音は 21 と多くなっています。母音は口の開き方で無段階に変わり、言語によらず多くの音が出ているので捉え方で数が変わります。 ハングルは CVC の音節があり、音節末のC(子音)はパッチム(終声)と呼ばれるようです。パッチムは27の字母があります。 V = 21 , C = 18、F = 27 として、V + CV + VF + CVF = 11,172 ハングルは李氏朝鮮4代の世宗によって 1446年に定められた「訓民正音」に始まるようですが、現在使用されている Unicode のハングルを見ます。 音節が母音の場合の文字を google翻訳で見てみます。ア、イ、ウ、エ、オを1文字ずつ変換すると、それぞれ 아、이、우、건、오 と変換されます。
母音の字母は単独で使われず、発声されない U110b のㅇ(イウン)を初声とします。初声は子音になります。
終声の記号は 27 と沢山あります。
終声の1つの記号で出来ている字母のうち、10 は内破音(implosive)を表すようです。
残りの1つの記号で出来ている終声の字母は4つあって、仮名では独立した音節と見る「ん」などを組み合わせるもののようです。
同じ字母を2つ重ねた終声は2つあります。このことと、音とは無関係のようです。それぞれ、。軟口蓋内破音 [k̚]、歯茎内破音 [t̚] です。
異なった字母を2つ組み合わせた終声は11あります。 結局、終声が加える子音は、ᆼ[ŋ] と、ᆯ[l] の2つのようです。
文字で区別されている子音数は 26 あって、内破音を除くと20 のようです。ハングルの1文字は、日本語の音節より長く、大変多くの文字数になっています。日本語と同じ捉え方をすると、 デーヴァナーガリーインドで13世紀以降使用されている文字で、アブギダの代表のようです。仮名文字の字形は文字ごとに個別に作られたもので「か」と「き」は似ていません。デーヴァナーガリーは、「子音 + a」の文字と、母音の字母の合字で音節を表します。「かさたな・・・」は、文字が割り当てられていますが、「きくけこ」は合字で表されます。「か、き、く、け、こ」は、「क、 कि 、 कु 、 के 、 को 」です。「か」は、U915 क の字形です。他は、これに母音を表す記号を合成して作られます。 き U0915(क)、U93F ( ि ) く U0915(क)、U941 ( ु ) け U0915(क)、U947 ( े ) こ U0915(क)、U94B ( ो ) 「か」と「きくけこ」の関係は、随伴母音と説明されています。デーヴァナーガリーの随伴母音は a で、母音が明示されない場合の母音が決まっています。このことがアブギダの特徴のようです。 子音(C)と母音(V)の数の積だけ音節文字が出来ますが、仮名文字の50音表と同じで、全てが可能でも、使用されるわけでもないと思います。
基本は V、CV で1文字(1音節)を表しますが、CCVの形式も使用頻度が高いようです。CCCVと言う事もあるようです。 CC は常用だけでも千を超え単純な規則性だけでは理解できないようです。しかし、Unicode の 900 の区画の 127記号で表示できることも確かなようです。
ボーディサットヴァはパソコンでは4文字(BO-DHI-SA-TTVA)で扱われます。それは Unicode の 10記号で表されています。 デーヴァナーガリーはサンスクリット語の文字として有名ですが、13世紀に作られました。パーニニがサンスクリット語を定めたのは前4世紀と見られ、サンスクリット語は文字によらずに伝承されました。文書として伝承されるようになるのは4世紀以降のグプタ文字にによるようです。日本へは6世紀半ばに悉曇文字(梵字)の文書として伝来したと見られます。
インドの数字は「ゼロの発見」で有名な算用数字の祖です。インドの公用語の定めには数字を国際形で書くと定めているようです。国際形は一般的な算用数字のことで、算用数字を外来とは考えないようです。数字にもいろいろな書体があるようです。 ブラーフミー文字もっとも古い記録は南インドの紀元前6世紀のものです。ブラーフミー文字はアラム文字から派生したとされています。しかし、アラム文字の確かな文書はBC440ころの物のようです。アラム文字が普及していた訳ではないようです。 アジアの漢字以外の文字の祖と考えられています。 また、算用数字(アラビア数字)は、ブラーフミー文字に起源があります。 しかし、計数に有利な、必要なだけ単位文字を並べる表記法もあります。 算用数字は、位(くらい)の考えを持つ点で計算に有利です。 これは、Unicode に収録されているもので、歴史的経緯は分かりません。 下の例は、ka と la の例です。ka と la は、修飾のない字母単独で表します。それ以外は母音を表す形状を結合して表します。 子音を表す字母は以下のようです。単独では A を伴って発音されます。音は Unocode の説明の表記です。 それ以外の文字: カローシュティー文字アケメネス朝ペルシャ支配下のガンダーラで行政上の必要性から作られたと考えられているようです。紀元前3世紀ごろには、ハザーラーのマーンセヘラーとペシャーワルのシャーバーズ・ガリーにあるアショーカ王による磨崖碑文に使われました。グプタ朝(320-550)のころには、グプタ文字(ブラーフミー系文字)が使われるようになります。 この文字は仏教文書に使用され遺物も中央アジアに残ったようです。 遺物は3地域、「タキシラ、ギルギット、ヴァルダク」、「クンドゥズ、テルメズ、Adzhina—Tepe遺跡」、「 ホータン(于窴)、ニヤ(尼雅)、ロウラン(楼蘭)」に分けられ、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタンと、タリム盆地の南の縁に沿った地域にあります。 母音を表す記号との結合文字を使うことはブラーフミー文字と同様です。 子音を表す字母は以下のようです。単独では A を伴って発音されます。音は Unocode の説明の表記です。 結合した結果の例は、以下のようです。 合字する組み合わせと出来上がる文字の関係は多様で個別に覚えるもののようです。 漢字「異体字辞典」には 106,230、「中華字海」には 85,568 の漢字が収録されていると言うことです。殷代の甲骨文字は漢字の書体の1つとされ、BC1200頃には漢字が存在していました。 秦代(BC221-BC206)には、漢字は中国の強力な王朝の統制が利いた文字として広く使われるようになりました。 これに先立つ周代(BC1046-BC771)に形声によって多くの漢字が作られたと見られています。 春秋戦国時代(BC770-BC221)は地域ごとに多くの漢字が作られ混乱していたと考えられているようです。 BC100頃の「説文解字」(許慎)には 9,353字が収録され大半が形成であったようです。現在の漢字は9割が形声とされています。 BC100頃には、意符と音符は分類され、それを元に漢字が出来ていたことを示します。おそらく形声で漢字が大量に作られる前にも長い漢字の歴史がありました。現在の漢字が数万あるなら、形声でない文字が1割としても数千字あるわけで、その経験なしには形声のしようがありません。 前述のシュメール人の文字のように、文字を作った人々と、使った人々が同じ人々なら文字は、表語や表音と言う区分は意味がありません。文字は、その文字が指し示す物の名前で読まれただけです。 六書漢字の成り立ちは、指事、象形、形声、会意、転注、仮借の六つに分類できることが知られていました。121年に上奏された、「説文解字」(許慎撰)は、六書を説明し、9,353字を分類解説していると言うことです。許慎は540の部首を認識したようです。 しかし、形声や会意で説明できるためには、組み合わせる漢字が普及していなければ成り立たないので、元来の漢字の起源や発達とは別の話しです。 漢字は広く認識されていて、その文化的基礎の上に、形声や会意で語彙が増やされたのだと思います。 また、細部を書き分けることが出来る筆記環境も重要です。筆、墨、竹簡は、これを可能にしたようです。 六書や、指事、象形、形声、会意、転注、仮借と言った言葉は、その前から使用され「周礼」を典拠とし前3世紀には知られていたことのようです。 秦代に強力な王朝の統制が利くようになるころには、ほぼ漢字は完成されていたのだろうと思います。
「説文解字」の収録した漢字の8割は形声だと言うことです。現在の漢字の9割は形声のようです。少なくとも秦代以降は、意味と音の両方を想起させる記号が求められたようです。 漢字の性質文字は絵文字がその示すものの「話し言葉」の音を持つことで始まったと考えられています。文字には字義があり、字音がありました。中国語の音節数は 418 あるようです。この2音節の組み合わせは単純計算で17万通りあります。「話し言葉」の語彙は、ほとんどが1音節か2音節だったはずです。日常の語彙の範疇では似ているものが近い音だと言うよりは使用頻度の高いものから順に決まっていっただけと言ったことだったと推測できます。新しく登場したものは「おいしい実」などと一時的に呼ばれても、いずれキョウ(杏)のような名前が付いたと考えられます。 2音節を超える語は、語を組み合わせて造語することや、活用によって生じます。 漢字の「音」も1音節か2音節になります。また、1つの漢字には1つの「音」が原則です。 必要に合わせて絵文字を書いたように、新しい語を加える場合は、造字することになります。「話し言葉」の語彙としては一般的で文字がまだ無いのなら「話し言葉」の「音」を想起するような字形を作り出すことになります。多くの場合、字形も「音」もセットで普及させる必要があります。この場合、会意・形声による造字は大変優れた方法でした。 漢字の基本的な性質は「1語1音1文字」にあります。したがって、漢字の文章は区切り無く漢字を並べることが出来ます。 日本の漢字日本の漢和辞典には、「訓読み」と「音読み」が記されています。日本人は漢籍を日本語として読んで「訓読」しました。したがって、文脈によって同じ文字を何通りにも読みました。しかし、「音読み」は呉音や漢音の別があっても同じ場所、同じ時代には1つだったことを伝えています。その「音読み」は1音節か2音節です。中国では漢字の読みは「反切」で表されました。それは日本にも伝えられ、日本で作られた辞書にも採用されました。 「新撰字鏡」には「旭 許玉反 旦日欲除也 日乃氐留 又 阿加止支」のように記され、「旭」の音が反切で許玉反、「キョク」であることが示されています。「旦日がのぞくを欲するなり」と説明され、1音1字で和訳が「ひのてる」、「あかとき」と記されました。 反切は漢字の「音」がほとんど2音節であることを前提に成り立っています。 「愛」を「アイ」と読むのは「音読み」です。「訓読み」は、いとしい、かなしい、おしむ、めでる、まな、うい、などがあり、更に人名に使われる訓があります。「君子愛日...」は、君子は日を「おしみ」て...」と訓読されました。 日本人は、1つの文字にたくさんの読みを付したり、長い訓を付けました。 また、熟字による造語を大量に行って、現在の日本語の語彙の大半を作りました。 国字日本に漢字が伝来して以来日本人が加えた漢字は300ほどあるようです。翻訳などを通じて膨大な熟語を作り出したことに比べれば大変僅かです。日本に漢字が伝来した時点で、既に漢字は定まっていました。広める手段の乏しい時代に徐々に文字が形成されていくことは考えにくいことです。新しい漢字を作っても広まることはほとんど期待できません。 凪は広めなくても広まった稀な例だと思います。沿岸部で気象の記録に記号として書かれたり、願いを表したことは想像できます。「なぎ」の読みを伴って漢字となったのは何時のことか分かりませんが、人名漢字に残り、地名に使用されています。 「なぐ」は、「投ぐ」、「薙ぐ」、「和ぐ」がありますが、「安定させる」意があったことは確かそうです。「風がなぐ」と言っていたのかどうかは分かりません。 畠も国字とされますが、「和名類聚抄」には「續捜神記云・・・」とあり、著者は漢籍にある文字だと理解していたようです。 「和名類聚抄」は平安時代に作られた辞書ですが伝わっている写本は16世紀以降のようです。 この、風雪類の項には、風 焱風 嵐 爆風 大風 微風、と風に関する語が解説されています。ここには、「凪」はありません。 「焱風」は、文字がUnicodeに無いので、こう記しました。写本には「飆(つむじかぜ)」の辺が「焱」になった漢字が記されています。その字の音は焱(エン、ケキ、キャク)で「和名豆無之加世(つむのかぜ)」と説明されています。「つむ」は「紡錘」かも知れません。 漢文4世紀に漢字を導入した日本では漢字だけで文章を記しました。漢文は日本語です。漢文の規則は、日本語を知らない人には理解不能なものです。しかし、漢文は当時の中国の文章と同じ文字列を作り出します。 作り出された文字列だけを見れば、中国で書かれたものと区別のできない文章ができます。 古事記の序には、「時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。」のように記されました。 これを見て、日本人は、「ときにとねりあり。うじはひえだ、なはあれ。としはこれにじゅうはち。ひととなり聰明にして、目にわたれば口によみ、耳にふるればこころにしるす。」のように読んだと考えられています。 概ね日本で話された言葉が当てられたと考えられますが、「聡明」は音で読まれ熟字と見られたかも知れません。「時に舎人あり」のような言い回しは、本来の日本語にはなかったものだと思います。漢文は話し言葉にはあった人称や時制の情報を欠落させた体言止めのような文末を普及させました。 聡明と言うのは、見たものは口で説明でき、聞いたことは記憶できることでした。 見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥は、すべて「みる」と読まれました。しかし、日本人は漢字を使い分けて書くようになります。漢字を学ぶことは語彙を学習することでもありました。 1音1字古事記の序には、「然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣更長。是以今或一句之中。交用音訓。」と太安万侶は書きました。古事記を書き表そうとすると、上古の言葉は素朴で漢字で表すのは難しい。漢文(訓)で表すのは心情が伝わらず、音を連ねるのは必要以上に長くなる。したがって、音訓を交えて記す。と言っています。 そして、「音」の表示は、以下のように説明されています。 「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」、姓の日下は玖沙訶(くさか)、名前の帯は多羅斯(たらし)と書くと「1音1字」を説明しています。 既に、話し言葉と漢字の関係は深く理解されていました。1音1字は反切にも見られ、「音」を伝える一般的な方法でした。 万葉仮名と宣命体「1音1字」は漢字伝来と共に音節を書き表す方法として必要になったはずです。しかし音節数だけ漢字を書くことは実用的ではなかったようです。以下の万葉集の例では「万葉仮名」は「1音1字」の 6割で書き表すことが出来ています。
万葉仮名は「月」や「遊」を字義通りに訓で読んでいます。「清し」の「し」は借字で表されています。1音1字も「借字」ですが、漢字の「字音」の1音節目を使うと言う規則性があります。万葉仮名の借字は、音、訓、いずれも使用され1音節とは限りません。「下」は「おろし」、「五十」は「い」と読まれました。 万葉集や宣命体は上代にあったように説明されますが明確な証拠は分かりません。万葉集の平安時代の写本はことごとく歌謡を仮名書きしているようです。万葉仮名で記されているのは鎌倉時代の写本のようです。宣命体も続日本紀の詔の引用部分が上げられるようです。 梵字デーヴァナーガリーはサンスクリット語の文字として有名ですが、13世紀に作られました。インドの口承文献は4世紀以降にグプタ文字によって文書化されました。グプタ文字はブラフミー文字と大差の無い文字だったようです。6世紀に使用されたシッダマートリカー文字が日本に伝来した悉曇文字の元になったと見られています。 日本には6世紀の仏教伝来の際にアーユルヴェーダが含まれていたことが知られているようです。アーユルヴェーダがどのような文字で記されていたのかは分かりませんが梵字も伝わったものと考えられているようです。 伝来は中国からのもので中国で紙の文書となって伝来したものと考えられます。悉曇はサンスクリットの音写だと言うことです。梵字はブラフミーの音写だと言うことです。 いずれも特定の文字を示すものではなく、幾通りかのブラフミー系の文字が伝来したものと思います。 この梵字は、ほとんど日本にだけ残ったもののようで、実態は日本の仏教に関連した文書にだけ見られるもののようです。 梵字はデーヴァナーガリーと同様アブギダに分類される文字で音素を表す字母を組み合わせて音節を表します。音節を表す字形は1文字として扱うので音節文字です。33の子音と、14の母音がありますが、子音+母音の形では10母音だけが使われるようです。 子音を示す字母だけが記されると随伴母音 a を伴って読まれる点でアブギダと分類されるようです。 母音が単独の場合は左図の字形が使用されます。 算用数字の起源がインドであることは「ゼロの発見」で有名です。ゼロを使用して位取りをすることは計算に有利でした。日本にも梵字の記数法は6世紀に伝来していたことになります。日本では算用数字と漢数字を併用しています。数字は、計算。計数、序数で使い分けられる可能性があります。梵字が実際にどのように数字を使用したのかは良く分かりません。 東京国立博物館蔵、法隆寺献納宝物に「梵本心経並尊勝陀羅尼(貝葉)2枚」があり、以下のような書き出しになっています。 現在、インターネットには貝多羅葉の写真と共に、これを写した掛け軸の写真が公開されています。 NA-MA は、南無で礼拝することのようです。google翻訳でヒンディー語からの訳は、SA-RVAは「全て」、JNYAAは「知識」、YAは「その他」で、「一切 知」のようです。広辞苑に観世音は avalokiteśvara(アバロキティシュヴァラ)、菩薩は bodhisattva(ボーディサットヴァ)に由来することが書かれています。漢字訳を見るとボーディサットヴァは名詞として受け取られていますが、観世音は意訳されています。 日本では「梵字悉曇章」や「大悉曇章」のような文書で梵字が学ばれたようです。国会図書館が公開している「梵字悉曇章」(享保19)の表紙には「弘法大師請来」と記されています。最初に母音とCV型の文字に付いて漢字転写が上げられています。しかし大半は字形だけが記され十万六千字余の数字が記されています。空海撰とされる「篆隷万象名義」が一万六千字の漢字を収録していることから考えると梵字は果ての見えないものだったのかもしれません。33の子音でCCCV型を機械的に作れば35万通り以上になります。 ※貝多羅葉と般若心経 ※菩薩 その他の文字アナトリア文字アナトリア文字は古イタリア文字のようにアナトリアの文字の総称として使われたものだろうと思います。しかし、実際に確認されているのは「象形ルウィ文字」と「フリギア文字」のようです。特に「象形アナトリア文字」と言うのは「象形ルウィ文字」のようです。どうやらアナトリアに残された象形文字は、象形ルウィ文字以外は知られていないようです。 ルウィ語はヒッタイト語と同様、ハットゥシャから出土した楔形文字の文書によって知られました。一方、象形アナトリア文字の遺物はカルケミシュの出土品が上げられています。前者はヒッタイト帝国の歴史に属し、後者は新ヒッタイト都市国家群(シリア・ヒッタイト)の歴史に属すると見られています。 ルウィ語はヒッタイト語と同じインド・ヨーロッパ語族に分類されます。 Unicode には採用されていないようですが Anatolian Hieroglyphs と言うドラフトがあるようです。字形に関する資料には場所や年代がありませんが出典は「Hieroglyphic Luwian」と言う書籍のようです。おそらく、長文の資料のあるシリア・ヒッタイトの字形なのだろうと思います。そして、前14世紀ころのヒッタイト帝国の時代の文字とも連続性があると考えられているようです。 BC1430からBC1190までのヒッタイト帝国(ヒッタイト新王国)の時代にハットゥシャなどに楔形文字の文書が残されました。そこから知られた音声言語は「楔形文字ルウィ語」と言うようです。一方、「象形ルウィ文字」によって知られた音声言語は「象形文字ルウィ語」と言うようです。両者は異なった物だと見られているようです。 シリア・ヒッタイトの都市国家はキズワトナやアレッポ周辺にあり、フェニキア文字の使用が始まる BC1050 以降、アラム語碑文が残された地域です。アッシリアはアラム人の都市国家と認識しました。新アッシリアは、これらの地域を支配したと考えられます。 ヘロドトスは「カラベル(Karabel)の摩崖碑文」をエジプトの王が来た証拠だと考えヒエログリフだと思ったようです。Hdt. 2.106 アマルナ文書のアルザワからの書簡にはエジプトの書記へのメッセージが添えられました。書簡はハットゥシャに残ったヒッタイト語の楔形文字の文書と同じ文体で記されました。ヒッタイト語の楔形文字の文書で書簡の交換が行われることを「ネサの言葉で」(nešumnili)のように都市名で表しています。また、ヒッタイト語の楔形文字の文書にはルウイヤ(Luwiya)の言葉でと表現されるものがあるらしく、 ルウィ語(Luwian)の根拠のようです。
古ヨーロッパ文字セルビアの新石器時代の説明にヴィンチャ文化(BC5500-BC4500)があります。ヴィンチャ文化にはヴィンチャ文字が含まれています。ヴィンチャ文字は古ヨーロッパ文字と同じことのようです。この記号は、ヴィンチャ文化の範囲を超えて、南東ヨーロッパで広く見つかるようです。ただし、この記号群は文字として了解されているものではないようです。また、アナトリア文字との類似性がないとされています。 素材の粘土が分析され他の場所から持ち込まれたものではなく、発見場所で製造されたことが分かっているようです。 しかし、記号を複数記したものがなく、長い期間、同じ記号だけが使用されていて、記号や文字ではなく、単に意匠、図柄と言う解釈もあるようです。
ファイストスの円盤クレタ島のファイストス宮殿の線文字Aの文書が収蔵されていた書庫から発見された円盤状の焼成された粘土板で、記されている文字は類例の無いものだと言うことです。直径は、およそ 16cm、厚さは2cm強で両面に文字があります。2cm強の幅の粘土の帯を螺旋状に3周分巻いて終端は細くして円を作り、さらに少し広い幅の帯で外周1周分を付加して直径が16cm程になっているように見えます。螺旋の部分は中心から反時計回りで、文字は帯に沿って書かれています。文字の上下を人型で判断すると、円板の中心が上になるように文字が配置されています。文字は概ね均等に並び、数文字ごとに線で区切られています。A面は31区画、122文字、B面は30区画、119文字です。A、B面は発見時の上がAと決められたと言うことです。241文字から45の記号が認識されました。この記号は、Unicodeに含まれています。 ただし、この円盤が文書で、記号が文字だと言うことは確かなことではないようです。 この円盤の作成された年代は、BC1600頃とされています。また、BC2000-BC1001 としていることもあります。しかし、年代を測定する方法はなさそうで、王宮が使用されていた時には既にあったと言うこと以外は分からないように思えます。 この円板には興味深い2つの点があります。 |