mikeo_410
  1. とき
    1. 天正遣欧使節の復活祭の日
    2. 暦日と通日
    3. 神武天皇即位紀元
    4. 和暦とja-JP
    5. 西欧の暦年
    6. 西洋の「こよみ」
      1. 典礼書のカレンダー
      2. イギリスの暦法
      3. エパクト
    7. グレゴリオ暦の1年と和暦の表

天正遣欧使節の復活祭の日

 天正遣欧使節は、天正10年1月28日、西暦1582年2月20日に出発しました。その年はマカオに滞在し、翌年3月31日にマナパルで復活祭を迎えました。

 トリカンドールに渡り、同所よりマナパルに進み、ヨーロッパに於いては一五八三年四月十日(天正十一年二月十八日ニ當ル)に行はれたる復活祭を、同年三月三十一日(天正十一年二月八日)に行ひたり、蓋し前年十月の曆法改定(改曆は天正十年九月十九日ニ當ル)は未だ東洋に通達せられざりしが故なり

大日本史料 第11編別巻之1
国立国会図書館デジタルコレクション
ダニエルロ·バルトリ編耶蘇會史 アジア第二部 日本第一編 信長の世 29コマ(33コマ)

 グレゴリオ暦と呼ばれる改暦は、1582年10月4日の翌日を10月15日とするものでした。
 引用文の括弧書きの年月は翻訳者が付与したものだと思います。

  1. ヨーロッパの復活祭は、1583年4月10日
  2. マナパルの復活祭は、1583年3月31日

 翻訳者は、ヨーロッパと東洋では、異なる日に復活祭が祝われたと解釈しています。


 1582年10月4日の翌日は、ヨーロッパでは 10月15日、東洋では 10月5日でした。


ヨーロッパ 東洋
10/15 10/5
11/1 10/22
12/1 11/21
1/1 12/22
2/1 1/22
3/1 2/19
4/1 3/22
4/10 3/31

 ヨーロッパにおける10月15日から翌年4月10日までの日数と、東洋における10月5日から翌年3月31日までの通日は等しく、呼び名は異なりますが、同日に復活祭を祝いました。

# 10/15 から翌年4/10までの各月の日数
17 + 30 + 31 + 31 + 28 + 31 + 10
# 10/5 から翌年3/31までの各月の日数
27 + 30 + 31 + 31 + 28 + 31
[1] 178
[1] 178

 それは、天正11年2月18日でした。
 翻訳者の引いた、天正11年2月8日は、ヨーロッパの3月31日です。東洋では3月21日でした。
 また、翻訳者は、改暦を、天正10年9月19日としています。これは、西暦1582年10月15日で、前日はヨーロッパも東洋も共に10月4日でした。その翌日は、ヨーロッパは10月15日、東洋では10月5日でした。


欧州 東洋 1583年 1584年

3/21

3/11
3/26 3/16 復活祭の満月(欧州)
3/31

3/21

4/1 3/22 復活祭(欧州)
4/6 3/27 復活祭の満月(欧州)
4/9 3/30 復活祭の満月(東洋)
4/10 3/31 復活祭
4/11 4/1
::
4/28 4/18 復活祭の満月(東洋)
4/29 4/19 復活祭(東洋)

 偶然というよりは、改暦の翌年の混乱を避ける配慮が払われたものと思います。
 復活祭は3月21日以降の満月が基準なので、日の呼び名が異なれば、同じ満月が基準になるとは限りません。1584年の復活祭は、改暦の採否で異なった日に行ったことになります。


 国立天文台 > 暦計算室 > こよみの計算 長期版で、1583年4月6日の月齢は、およそ 13、4月9日は 16 となります。
 イギリスがグレゴリオ歴を採用するのは、およそ 170年後の 1752年です。日本は、さらに、およそ 120年後の 1873年に採用します。
 イギリスがグレゴリオ歴を採用するころまでは、イギリスを含めて、必ずしも1月1日に年をカウントアップしていた訳ではないようです。
 コペルニクスは 1543年に歿し、ガリレオが終身刑となったのは 1633年のようです。地球は、まだ公転していませんが、グレゴリオ暦の企図は、公転による1年に暦日を近づけることでした。
 勅令では、「ニカイア公会議のころの春分は4月のcalend.(1日)から数えて12日前(3月21日)と決まっていた。
復元のために、1582年の10月の à tertia Nonarum(Nonarum(7日)から3日前、10月5日)から ad pridie Idus(Idus(15日)の前日、10月14日)までの10日を除くことを命ずる。
」と記され、春分の日を3月21日に回復することが示されました。また、「春分の日が移動しないように、100年を除いて、4年ごとのBissextum(閏年)を行う。ただし、1600年は閏年で、400年ごとに閏年となる。1700年、1800年、1900年は閏年ではないが、2000年は閏年で、2月は29日になる。」と記されました。
 当時の人々に起きたことは、10月4日の翌日が10月15日になったことです。閏年に関する記述の方は、100年以上後に起こることです。

Romani Calendarii A Gregorio XIII. P. M. restitvti explicatio S. D. N. Clementis VIII. P. M. Ivssv edita
CHRISTOPHORO CLAVIO 1603
ここ収録されたグレゴリウスの勅書の第2頁。(1582)

 ダニエルロ·バルトリは、訳注を除けば、天正遣欧使節は、「ヨーロッパで1583年4月10日に行われた復活祭を同年3月31日に行った」と言っているので間違っていません。天正遣欧使節が3月31日と呼んでいた日を、ローマでは4月10日と呼んでいました。理由はローマでは、前年の10月4日の翌日を10月15日と呼ぶことにしたからで、10日の差を生じています。
 そして、「未だ東洋に通達せられざりしが故なり」となるので、起きたことは望ましいことではなく、通達が行き渡らないことを指摘しているようです。あるいは、それほどに遠隔の地だと言うことかもしれません。
 知りたいのは、当時の人々が、

  1. 改暦の影響を正しく理解していたか
  2. 改暦の困難さをどう考えていたのか
  3. 改暦から数か月後の状況をどのように想定していたのか

と、言ったことですが、残念ながら何も読み取れません。


※以下の資料をgoogle翻訳して見ました。

 a celebrarvi la Pasqua, che colà nell’ india cadde ne’ trentun di marzo, dove noi in Europa, questo medesimo anno del 1583., la celebrammo a’dieci d’aprile, e ciò perchè ancor non era giunta in oriente la correzione del calendario, fatta l’ ottobre dell’ anno antecedente. (P100)

*Opere del p. Daniello Bartoli della Compagnia di Gesu. - Firenze : presso L. Ciardetti. - v. ; 20 cm: 1.2
https://books.google.co.jp/books?id=RyaXGNEnqg4C
表紙:DELLA COMPAGNIA DI GESÙ DELL ISTORIA / IL GIAPPONE / SECONDA PARTE /
LIBRO PRIMO PARTE SECONDA / FIRENZE / PRESSO LEONARDO CIARDETTI / 1831

 google翻訳は「questo medesimo anno del 1583.」を「同じ1583年に4月10日に祝われました。」と翻訳しました。
 おそらく、「ダニエルロ·バルトリ編耶蘇會史」の翻訳では「同年1583年の4月10日に祝われました。」と解して、異なる日として和暦が注記されたのだと推測します。

そこでイースターを祝うのですが、インドではイースターは3月31日でしたが、我々ヨーロッパでは同じ1583年に4月10日に祝われました。これは前年の10月に行われた暦の修正がまだ東洋に伝わっていなかったためです。


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