文献要旨(楔形文字1)
「文献要旨(楔形文字2)」
「文献要旨(アマルナ文書)」
RIME 2.01.04.10, ex. 01 LUGAL-ri のように、LUGAL が sharru と読まれたことが推察される記述があります。 アマルナ文書には、LUGAL-ri の使用例が多くあり、次いで半数以下ですが LUGAL-ru があります。 これは初期からあったようで、Bassetki Statue の碑文にも見られます。Bassetki Statue は銅像の一部で、直径67cmの円盤に座った男性像の下半身部分です。重量が150kgで、碑文を含みます。BC2340-BC2200の年代の碑文とされています。ナラム・シン(Naram sin、BC2155-BC2119)は、アッカド帝国の4人目の王で、初代のサルゴン王と並んで強力な王でした。反乱を鎮めた都市に自らを祀る神殿を建てたと考えられています。在位年数を取れば、この碑文はBC2120頃のものとなります。
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ナラム・シン(na-ra-am-{d}suen)は、彼に逆らう4つの世界を1つにする、偉大なアッカド(a-ga-de3{ki})の王
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女神イシュタル({d}inanna)は彼を愛し、1年の間に、9つの戦いに勝利した
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彼は反抗した王たちを捕えた
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彼が町を守ったので、エナ(e2-an-na-ki-im、ウルクの一部)のイシュタル、ニップル(nibru{ki})のエンリル({d}en-lil2)、ツッツル(tu-tu-li{ki})のダガン({d}da-gan)、キシュ(kesz3{ki})のニンフルサグ({d} nin-hur-sag)、エリドゥ(eridu{ki})のエア({d}en-ki)、ウル(uri2{ki})のシン({d}suen)、シッパル({d}zimbir{ki})のシャマシュ({d}utu)、クサハ(gu2-du8-a{ki})のネルガル({d}ne3-iri11-gal)は、それぞれの市からアッカドに要請を行った
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そして、アッカド市の中心に彼らはナラム・シムを祀る神殿を築いた
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これを除こうとするものは、サムス、イシュタル、ネルガル、そして王の執行官、すべての神々によって、一族は引き裂かれ、彼らに種は根絶される
LUGAL-ri |TAG2-UD-i-?-? | i-ik-mi の、箇所は、「反抗する王たちを彼は捕まえた」のように訳されており、LUGAL-riは目的語(対格)を示すようです。アッカド語の王(sharru)の対格は sharri であるために生じていて、LUGAL-ri は、シャリのように読まれたものと思います。 複数形に訳されていますが理由は分かりません。
ナラムは音節文字で、na-ra-am と3文字で記されています。シンに当たる部分は、AN suen と記されています。AN-EN-SUの記号列は、何故か{d}suen のように翻字されることになっているようです。 {d}suen は、「神シン」と同じ表記です。神シンは、{d}suen、{d}nanna と表され、シュメール語では、{d}SES-KI、{d}nanna が同じ神を指すようです。 神シンは、月の神、暦の神で、どの神より遠い日々までの計画を巡らせることができると言うことです。 神シンは、エンリルとニンリルの子で、ニンガルとの間に、太陽神シャマシュ(Šamaš)をもうけました。
都市シッパルは、{d}zimbir{ki} のように翻字されるようです。
都市名は、URU と KI で挟んで記される訳ではないようで、古い文書には、URUがないようです。都市には規模や、都市王国のように行政行の差異があるものと思います。たまたま、URUに該当しない可能性もあります。
ARM 01, 036 マリ文書中の書簡で、a-ga-de3{ki} の記述があり、アッカド市が存在することが分かります。
マリ文書は、BC1800 から BC1750の間の文書で、年代の明らかな文書です。 マリは古い歴史のある都市ですが、アッカド帝国の時代に廃墟となりました。その後、アムル人の王国が栄えた期間の文書です。この王国は、BC1750ころ、バビロン第1王朝のハンムラビによって滅亡します。イシン・ラルサ時代と呼ばれる時代の終盤を裏付けます。 BC2000ころ、ウル第3王朝がエラムによって滅亡すると、イシンの王朝が勢力を持つようになりました。その後の BC1800頃のメソポタミアは、アムル人の部族間の抗争の場だったようです。 ラルサは、BC1944頃にアムル人が王となり、イシンとウルを巡って争います。アレッポ周辺にはアムル人の大国ヤムハド王国がありました。マリ王国はヤムハド王国に近い勢力によって築かれたようです。また、バビロン第1王朝(BC1830-BC1530)もアムル人の王朝でした。エシュヌンナ周辺に進出していたシャムシ・アダド1世(BC1813-BC1781)はアッシリア王となります。 シャムシ・アダド1世は、BC1801にマリの内紛に乗じて、息子ヤスマフ・アダド(Yasmah Adad)をマリの王位に着けます。 BC1781にシャムシ・アダド1世が没するとアッシリアは衰退します。マリの王位はヤムハド王国によって復されることになりました。ヤムハド王国に亡命していた王子ジムリ・リムが王位に着きました。 ARM 01, 036は、書簡の受け取り人の部分が欠損していて、3文字しかありません。しかし、ほぼ同様の書簡(ARM 01, 010、...)が多数あり図のようになっていたようです。代表的な楔形文字の字形は、Unicodeが収録している「シュメール・アッカド」と「新アッシリア」の2つのようです。最下段は書簡にある文字のうち、どちらにも似ていないものです。ASH2は Unicode の字形は「新アッシリア」とも書簡とも一致しています。MA、SUR は、「新アッシリア」の字形です。 新アッシリアと言う時代区分は 10世紀以降を指しますが、楔形文字の字形は既に「新アッシリア」の字形になっているようです。 Unicode の説明の記号では、書簡の受取人は、IA-ASH2-MA-SUR-AN-IM です。これは、ヤスマフ・アダド(Yasmah Adad)と読まれています。 SURは、音節文字 HI と AS を合わせたものです。AN-IM は、神アダトです。 AN-IM と言う記号は、シュメールのイシュクル(Ishkur)を意味したもので、アッカドではアダド(Adad)、後にカナン諸語ではハダト(Hadad)と読まれたようです。 差出人は、AN-UD-IGI-AN-IM A-BU-KA-A-AM のようです。 AN-UD は神シャマシュ(太陽神)で、IGIは SHI の音節を表す送り仮名だと思います。送り仮名によって、その前が表音であることを示すのはヒエログリフと同じ方法だと思います。シャムシ・アダドと読まれます。 LUGAL が使用されていないのも特徴だと思います。 A-BU は「父」を表すアッカド語です。 A-DI IM-RI-E-UD AN NI-SUR / I-NA A-GA-DE3 KI PI-ASH-BA-KU と続きます。ina Agade ki 、アッカド市があるようです。 この時代の、アムル人の文書でも、都市名には URU がなく、KI が後に付く形のようです。
RIP 001a (Behistun Akkadian) ベヒストゥン碑文(Behistun Inscription)の新バビロニア語・アッカド文字の部分。 ダレイオス1世(Dareios I、BC558-BC486)の正統性を示す目的で刻まれたとされ、在位中に刻まれたと見られています。
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わたしはペルシアの王であり、ペルシャ人の王であり、アケメネス朝の王である
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王統 アケメネス、テイスペス、アリアラムネス、アルサメス、ヒスタペス、ダレイオス1世
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アケメネス朝は古くから王族であり、わたしは9番目の王である
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アフラマツダ(u-ri-mi-iz-da)の加護によって23の国の王となった
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ペルシア |
Persia |
KUR pa-ar-su |
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エラム |
Elam |
KUR elam-ma KI |
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バビロニア |
Babylonia |
din-tir KI |
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アッシリア |
Assyria |
KUR ash-shur |
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アラビア |
Arabia |
KUR a-ra-bi |
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エジプト |
Egypt |
KUR mi-za-lim |
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海のそばの国 |
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ina mar-ra-ti |
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リディア |
Lydia |
KUR sa-par-du |
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ギリシア |
Greeks |
KUR ia-a-ma-nu |
イオニア |
メディア |
Media |
KUR ma-da-a-a |
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アルメニア |
Armenia |
KUR u2-ra-ash-tau |
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カッパドキア |
Cappadocia |
KUR kat2-pa-tuk-ka |
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パルティア |
Parthia |
KUR pa-ar-tu-u |
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ドランギアナ |
Drangiana |
KUR za-ra-an-ga |
サランギアンス、ザランギアナ、ザランカ |
アリア |
Aria |
KUR a-ri-e-mu |
ハライバ、ハラエウア |
コラスミア |
Chorasmia |
KUR hu-ma-ri-iz-mu |
ウバラズミア、ホラズム |
バクトリア |
Bactria |
KUR ba-ah-tar |
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ソグディア |
Sogdia |
KUR su-ug-du |
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ガンダーラ |
Gandara |
KUR pa-ar-u-pa-ra-e-sa-an-na |
パロパミサス |
スキティア |
Scythia |
KUR gi-mi-ri |
ギミリ |
サタギディア |
Sattagydia |
KUR sa-at-ta-gu-u |
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アラコシア |
Arachosia |
KUR a-ru-hat-ti |
アルハティ |
マカ |
Maka |
KUR ma-ka |
マガン、アラビア半島東端 |
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これらの国は、アフラマツダによって我が統治するところとなり、称賛をもって迎えられた
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これらの国の人々は完全に保護される。敵対するものは完全に破壊される。
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これらの国は、アフラマツダの力で我が法が行われる
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先王カンビュセスは兄弟スメルディスを殺した。スメルディスの死は隠された。カンビュセスがエジプトに遠征するとスメルディスを騙るガウマタが反乱を起した。ペルシアやメディアさえも欺かれカンビュセスが病没するとガウマタはスメルディスとして即位した。 ガウマタ(gu-ma-a-tu)はマギ(ma-gu)で、スメルディスを知る人々を殺した。
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わたしは、少数の手勢でガウマタを打ち王位に着いた。土地が反乱の前に戻るように努力した。
※エラムとペルシア ペルシアと言う地域は現在のイランのファールス州に相当する地域を指すようです。この地域は、BC3000ころからエラムとして知られていた地域です。エラムではウルク古拙文字と同源とされる原エラム文字が同時代に使用されていました。エラム人は大きな勢力でバビロニアに何度か王朝を築きました。ハンムラビ法典の碑もスサで発見され、戦利品と見られています。 BC3000頃のエラムの中心はアンシャン(現在のイラン、ファールス州)で、後にはスサなど、よりバビロニアに近い地域を都としました。 バビロニアでは何度も王朝の交代があり、シュメール人、アッカド人、エラム人、アムル人、カッシート人などが王朝を築きました。エラムの王国はアケメネス朝の登場まで存在したことになっていますが、その内実は知られていないものと思います。 アケメネス朝は、ペルシアから分かれて、アンシャンを都としたペルシア人の勢力が起源と説明されています。このペルシャは、アケメネス朝が都とした場所から考えると、アンシャンから遠くないエラムの王国内なのだろうと推測します。 エラム人とペルシア人が区別される理由は、おそらく、エラム語が孤立語であることにあります。ペルシア語は印欧語族に分類される言語であり、エラム人とペルシア人は明確に認識されただろうと見られます。しかし、カナンやメソポタミア全域がアラム語に代表される北西セム語の諸語を使用するようになったのに、エラムだけがBC2000頃から変わっていないはずはないと思います。 エラムの人々はペルシア語やアラム語を使用したと考える方が有り得そうです。しかし、エラム語はアケメネス朝の公用語だったとも言われています。ベヒストゥン碑文にもエラム楔形文字が使用されました。
※メディア アケメネス朝ペルシアが誕生する前6世紀には、エラム王国もアンシャン王朝もメディアの支配下にありました。アケメネス朝ペルシアを築くアンシャン王朝のキュロス2世の母マンダネは、メディアの最後の王アステュアゲスとアリュエニス(リュディア王アリュアッテスの娘)の子です。 メディア人は印欧語族の言葉を話したとされます。メディア王国の時代の文書は残されておらずメディアの存在はアッシリアとヘロドトスの記述によります。メディア人がエラム人やスキタイ人と区別されていたことは確かですが、この時代のペルシア語を話す人々との差異はわかりません。古代ペルシア語はアケメネス朝の時代のペルシア語を指しています。メディアの時代のペルシア人はメディア人と類似の言葉を話したと考えて特に矛盾はなさそうです。 メディア王国の軍事的な活動はスキタイ人の勢力によっていました。スキタイ人の言葉も印欧語族に分類されています。スキタイ人も文書を残さない人々でした。
※アケメネス朝ペルシア アケメネス朝ペルシアは、BC550ころキュロス2世によって誕生し、BC330にアレクサンドロス3世の東征によって滅亡します。 厳密には、キュロス2世はアンシャン王朝に属し、ダレイオス1世とは血縁がない可能性があるようです。 エラム王国の都市だったアンシャンにペルシア人アケメネスの息子テイスペスが7世紀ごろ王朝を築きました。この王朝はアンシャン王朝と呼ばれメディアの属国でした。この王朝の母体となるペルシア人の集団が共同王を立てていたと考えられています。ダレイオス1世はこの集団の王族だったようです。 彼の父はヒスタペス(Hystaspes、usz-ta-as-pi)のようです。 アケメネス朝ペルシアは、メディアを滅ぼして属国ではなくなった年を基点とした呼び名のようです。
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アケメネス |
前7世紀ごろ |
Achaemenes |
a-ha-ma-ni-ish-shi |
アケメネスはペルシア人の長だった |
テイスペス |
| Teispes |
| アケメネスの息子はアンシャンに王国を築いた |
キュロス1世 |
| Cyrus I |
| テイスペスの息子 |
アリアラムネス |
(キュロス1世の共同王) |
Ariaramnes |
ar-ia-ra-am-na-a |
テイスペスの息子 |
カンビュセス1世 |
| Cambyses I |
| キュロス1世の息子 |
アルサメス |
(カンビュセス1世の共同王) |
Arsames |
ar-sha2-am-ma-a |
アリアラムネスの息子 |
キュロス2世 |
BC550-BC529 |
Cyrus II |
ku-ra-ash |
カンビュセス1世の息子 |
カンビュセス2世 |
BC529-BC521 |
Cambyses II |
kam-bu-zi-ia |
キュロス2世の息子 |
スメルディス |
BC521 |
Smerdis |
bar-zi-ia |
キュロス2世の息子。碑文では数に入っていない。 帝位に着いたのはスメルディスの偽物としている。 |
ダレイオス1世 |
BC521-BC486 |
Darius I |
da-ri-ia-mush |
キュロス2世の後継者。ヒスタペスの息子。アルサメスの孫。 |
RIP 001b (Behistun Old Persian)
ベヒストゥン碑文のペルシア楔形文字の書き出しの2行です。
私はダレイオス(darayavausha)。偉大(vazaraka)な王(kashaathiya)、王の(kashaathiya-anaama)王、ペルシア(paarasiya)の王。 この読み方は、ペルシア楔形文字が随伴母音 a を伴うアブギダだと言うことに基いています。va-u は「バウ」ではなく「ヴ(vu)」と読まれると言うことです。 ba-a-ba-i-ru-u-sha の ba-a や、da-a-ra-ya-va-u-sha の da-a は、バビロニア、ダレイオスの読み方からすると、長母音ではなく、ba、da のようです。随伴母音 a と言うのは当たっていないように見えます。 随伴母音を表さない転写は babirush、daryvush で、より適切そうに見えます。ペルシア楔形文字はアルファベットなのかもしれません。 アフラマツダは随伴母音 a とすれば a-u-ra-ma-za-da-a で、アルファベットなら a-u-r-m-z-d-a となります。auramazda が正しければ、どちらも近くなく、子音文字のようです。一般に「ツ」は zu ではなくz と転写するようですが理由は分かりません。 いずれなのか判断は付きませんが、母音 a が特別に扱われているようには見えません。
RIP 001c (Behistun Elamite)
最初の2行。
Daiva inscription
石板が発見されたパサルガダエはアケメネス朝ペルシアの王キュロス2世の時代の首都でダイレオス1世がスサに遷都した。この石板自体は失われているようですが、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字の写しがあるようです。 アフラマズダの賛辞で始まるクセルクセス1世(BC486-BC465)の刻文。
bagaは神で、「偉大な神はアフラ・マズダー」のようです。
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アフラマツダは天と地を想像した偉大な神
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カシャヤアラシャアはこれを領有する唯一の偉大な王
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アーリア人のペルシア、ペルシアのペルシアの一族、アケメネス、ダレイオスの息子
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カシャヤアラシャアは語る。私はペルシアを離れて以下の国の王だった。 メディア、海のこちら側に住む人々と海を渡って住む人々 、マカ、 サウジアラビア、 ガンダーラ、インド、カッパドキア、ダアイ(Dahae)、サカ、トラキア、アカウファチヤ、リビア、カリア、ヌビア
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カシャヤアラシャアは語る。これらの国々で悪魔を崇拝する人々によって反乱が起きた。アフラマツダの恵みによって悪魔の信仰は排除される。アフラマツダの信仰と法は死後の幸福を約束する
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カシャヤアラシャアは語る。我が願いによってアフラマツダは、この地と一族を守る
碑文の呼称の Daiva は、刻文中から取られ、クセルクセスが内戦を戦ったのは Daiva 信仰者達だったようです。
クセルクセスは、ダレイオスの子のようです。
daarayahusha |
カシャヤシヤハヤ |
| ハカマニシヤ |
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| アリヤ |
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王 |
息子 |
アケメネス |
ペルシア |
ペルシア人 |
息子 |
アーリア人 |
アーリア |
※写真の最下段の2行。上の最後から、SA-KA-A PA-I-GA-RA-XA-U-A
※ダエーワ ダエーワ(Daeva)は、ペルシアの悪魔の総称のようです。「ヴェンディダードの7大魔王」が知られ、アカ・マナフ(Aka Manah)、ドゥルジ(Druj)、サルワ(Saurva)、タローマティ(Tarōmaiti)、タルウィ(Taurvi)、ザリチュ(Zairic)、アンラ・マンユ(Angra Mainyu)。あるいは、ナース、インドラ(Indra)、サルワ、ノーンハスヤ、タルウィ、ザリチュ、アンラ・マンユ。 アンラ・マンユが最大の悪魔で、「ヴェンディダードの7大魔王」に代表される悪魔たち、ダエーワが地獄で仕事をしていると言うことのようです。 アフラマツダは生きているときも死後も幸福をもたらすと刻文にあり、死後のことが重大なことのようです。
※尖がり帽子のサカ ギリシアと戦ったペルシア軍は混成部隊で、バクトリアとスキタイについてヘロドトスは「尖がり帽子のサカ」を記録しています。hdt 7.64 この記述は「尖がり帽子」かどうかは分かりませんがアミュルギオン(Amyrgian)のサカのことだと説明しています。
※クセルクセス1世 クセルクセス1世はダレイオス1世の共同王だった可能性があり、在位は10年ほど前になる可能性があるようです。 クセルクセス(Xerxes)はギリシア語からで、カシャヤアラシャア(XA-SHA-YA-A-RA-SHA-A)がペルシア楔形文字の表記から知られる名前です。 ラテン語のアハシュエロス(Ahasuerus)は、ヘブライ語でも同じ音のようです。 クセルクセス1世は、ギリシアへ本格的に遠征を行った最初の王のようです。
※エステル記(Esther) 七十人訳聖書のエステル記には、古代のイスラエル人のエステル(εσθηρ、エスティール)との結婚、その叔父モルデカイ(μαρδοχαιω、マルドジオス)の宰相就任が記されています。 スサにはバビロン捕囚後の古代のイスラエル人の大きなコミュニティがありました。 マケドニア人(μακεδων)の血を引く大臣アマン(αμαν)は、ペルシア(περσων)の王アルタクセルクシス(αρταξερξης、Artaxerxes)を騙してユダヤ人を根絶する勅命を出させます。エステルの機知によってユダヤ人は救われ、アマンは処刑されます。 アルタクセルクシス1世は、クセルクセス1世の子で、ヘブライ語聖書のアハシュエロスが クセルクセス1世なら不一致のようです。
UET 3, 0007
BC2000ころ、ウル第3王朝の時代の書簡。シュメール語の例。
概ね Unicode に収録されている字形で記されています。例外は GI4(gi4) で、この文字は Unicode の字形と異なるだけでなく、タブレットごとに異なっています。 年代や場所から、この文書がシュメール語であることは間違いないのでしょうが、文字列には明確な区別はないようです。 前述の「RIME 2.01.04.10, ex. 01」では、i-ik-mi が「捕える」と言う動詞で、音節文字としてアッカド語の「捕える」と同じ音だと見られることから、アッカド語の文書と判断することが可能なのだろうと思います。 SU-A-GA2-LA2 と言う文字列が「皮袋」指すことは知られています。しかし、各文字を音節文字として読んでいたかどうかは分かりません。何と読まれていたかのかの確証はありません。アッカド人は、皮袋を記すとき、同じ文字列を naruqqu と読んだのか、音節文字で naruqqu と書いたのかも良く分かりません。
日本語の例で考えて見ます。古事記の序に、1音1字の記法を説明して、「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」と記されています。古事記が中国語で記されているとは普通考えません。しかし、この文字列は、中国語に分類されても、他の漢字を採用した国の文書に分類されても不思議はありません。日本語の漢文は意図的に中国の文書と同じものが出来上がるように仕組まれました。したがって、出来上がった文書は文法的にも区別は着きません。シュメール語とアッカド語の文書も同じ関係にあるようです。 「姓において日下を玖沙訶(くさか)」と読めば、この文書は日本語です。「日下」を「くさか」と読むのは日本だけなら、この文章は日本語だと分かります。
RIME 3/1.01.07, Cyl A witnes
Gudea cylinders は、素焼きされた粘土の円筒で、直径が33cm、高さが56cmほどのもののようです。A と B と呼ばれる2つのシリンダー(円筒)が都市国家ラガシュ(Lagash)の都だったギルス(Girsu、Tell Telloh)の遺跡から出土しています。 ラガシュ(Lagash)の王グデア(BC2144-BC2124) 現存する最長のシュメール語の文書。今日では、The building of Ningirsu's temple(ニンギルスの神殿の建物)と呼ばれる物語を記しています。ラガシュの王グデア(Gudea、在位:紀元前2144年頃 - 紀元前2124年頃?)は、ラガシュの主神ニンギルスの神託によって多くの神殿を建立しました。
RIME 3/1.01.07, Cyl B witness
Gudea cylinders の、もう1つ。
VS 01, 041 ネブカドネザル2世のシリンダーは、VS 01, 041a(VA3111)とVS 01, 041b(VA3309)があり、同一内容なのか、重複登録なのかは区別が付きません。 バビロン捕囚を行ったネブカドネザル2世(BC604-BC562)は3つの宮殿を建設し、宮殿の宮殿の隅に樽型の粘土製シリンダーを埋めました。 建設の経緯を記した目に触れる建立碑文ではなく、建物の壁の内部に隠されたもののようです。
ネブカドネザル2世 ネブカドネザル2世(BC604-BC562)の名前は、いろいろに表記されています。BC612までは新アッシリアの統制が機能して文字は安定していたものと思います。バビロニアの地域性か、統制が効かなくなったのか、不思議に思えます。また、工芸品には年代や生産地が不明なものもあるのだと思います。ネブカドネザル2世のシリンダーは発見の状況が明らかな資料ではないようです。
ネブカドネザル2世のシリンダー、VS 01, 041a(VA3111)、VS 01, 041b(VA3309)の書き出しは以下のようです。 AN NA-BI-URUDA-KU-DUR2-RU-U2-ZUM-UR2 LUGAL BA-BI-LAM KI {d}na-bi-urud-ku-dur-ri-u2-zum-ur2 sharru ba-bi-lam{ki} (神)ナビ(ウルド)クドゥリウズムル、バビラムの王 ネブカドネザルはアッカド語でナブー・クドゥリ・ウツルのようです。 ナブー(na-bi-urud)・クドゥリ(ku-dur-ri)・ウツル(u2-zum-ur2)と分けると、ナブー以外は適合しそうです。
神のナブーは、KA で表されますが、この場合は音節文字で表記しようとしているようです。 普通は {d}na-bi-um と翻字されるようです。新アッシリアの字形の um から、縦の線が2つ欠落していることになります。
U2、BA、KI の字形は、新アッシリアの字形ではなく、古い時代の字形(Unicodeの字形)が使用されています。 RU、ZUM、LUGAL、LAM は、新アッシリアの字形でも、古い時代の字形でも読むことができません。逆に読み方から推定すると図のようになります。 KU と DUR2 と言う文字は同じ形です。この文字の古い時代の字形は幅が異なっています。KU の方が DUR2 より幅の狭い文字です。新アッシリアの字形では区別がされなくなり実際のスケッチも差異はないようです。 宮殿の建立時に格納される王朝の文書中の王名にしては明瞭でないように思えます。
wikipedia にはオニキスの円形の装飾品らしいものが掲載されています。
{d}AMAR-UD |
| (神)ナブー |
・ガルド・シェシュ |
王 |
バビロン |
境界の守り手 |
これは、古い時代の字形で描かれています。シリンダーでは ba-bi-lam と音節文字で表記されていたバビロンが DIN-TIR と記されています。表記はシュメールの時代のものと思いますが、バビロンと読まれたのだろうと思います。ベヒストゥン碑文も DIN-TIR と表記しているので古風な記法と言うわけでもなさそうです。 ナブーに続く王名は、ネブカドネザルと読めるのかどうかは良く分かりません。
ネブカドネザル2世のブリック・スタンプとして、レンガの刻文のスケッチが見られますが、いろいろに記されています。 どれもナブー・クドゥリ・ウツルとは見えません。少なくとも SHESH が単独でウツルと読まれる必要がありそうです。 バビロンは、音節表記で BA-BI-LU と記されるか、bab-ilim と記されています。bab-ilim は、なぜそう読めるのか分かりません。Wikipedia にバビロンの名前の起源として挙げられているもので、「神の門」の意だと言うことです。
キュロス・シリンダー
新バビロニアを滅ぼしたキュロス2世がバビロンに残した樽型の粘土製シリンダー。 ナボニドスの圧政に苦しむバビロニアの人々の求めに応じて無血でバビロニアの王となったと記しています。
RIME 1.14.13.01, ex. 01
アッカド帝国前のシュメール人の文書の例。ウルク、BC2500-BC2340。
ハンドコピーとラテン転写から Unicode に置き換えたもの。 CDLIの Museum no. は ? が付いているので実物は定かでないようです。 また、Material stone: lapis lazuli となっていますが粘土板に宝石が付けられたもののようです。 内容はレンガの刻印のようです。
ハンドコピーは、線刻で楔形ではありません。RIME 1.14.17.03, ex. 01 は写真が掲載されていますが、字形は一致します。ウルク古拙文字と同じ書記方法なのだろうと思います。しかし、字形は Unicode の字形が類推できるものです。同じ時代でも Girsu のタブレット(ITT 5,09240)は楔形でハンドコピーされています。
先頭の AN は for と訳されています。古い時代のシュメール語に前置詞と解釈できるものがあるのかどうかは分かりません。 KUR-KUR-RA は、「全ての国」で、ずっと使用されます。同じ文字を重ねて「全ての」や「多くの」とするのもずっと使われます。 この箇所は、RA を書いてから KUR-KUR を書いています。 AN MUSH3 は、{d}inanna、神イナンナ。 SAL-TUG2 は、nin とCVC型の音節文字として使用されます。nin-an-na(Queen of Heaven)は、人名に使用されイナンナのようです。nin-an-MUSH3-ra は「天界の女王」のようです。 lugal-sila-si は、名前で、キシュの王。 彼が築いたのは、KISAL(中庭、回廊)。EZEN か EZENxBAD 定かではありませんが、EZEN は ug と読まれ「高貴」と言った意味があります。 MU-NA-KAK(mu-na-du3)は、建立碑文の常套句で、he built 。
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