mikeo_410


 文献要旨(楔形文字2)

文献要旨(楔形文字1)

文献要旨(アマルナ文書)

  ヒッタイトとエジプトは概ね良好な関係にあったことが知られています。エジプト第18王朝の末には女王がヒッタイトのシュッピルリウマ1世に、エジプトの王位継承を要請し、王子ザナンザが送られました。
  第19王朝のラムセス2世の治世にはカデシュの戦い(BC1274)が起き平和条約が結ばれ内容は両国で公開されました。
  ラムセス2世の治世にエジプトとヒッタイトの間で交換された書簡はハットゥシャ(ボアズカレ遺跡)で27通確認されているようです。このうち 20通がラムセス2世が送ったもので、2通が女王ネフェルタリによります。受取人で見るとハットゥシリ3世宛てが13通、女王プドゥヘパ宛てが11通のようです。

ラムセス2世の治世のヒッタイトへの書簡
差出人 受取人 タブレット
ラムセス2世 ハットゥシリ3世 KUB 3.22,KUB 3.25,KUB 3.28,KUB 3.63
KBo 1.9,KBo 1.122,KBo 1.132,KBo 1.652
Bo 69/564
プドゥヘパ

KUB 3.63,KUB 3.66,KUB 3.68,

ネフェルタリ ハットゥシリ3世
プドゥヘパ KBo 1.29,KBo 1.74E

最古の平和条約

  カデシュの戦い(BC1274)の後、ラムセス2世とハットシウリ3世の間で平和条約が結ばれ銀版文書が作られたようです。エジプトはカルナックなどに碑文で残しました。ヒッタイトは粘土板が残りました。
  この分類番号は良く分かりませんが、Wikipedia の「Istanbul Archaeological Museum」と記された写真のタブレットがヒッタイト・バージョンのようです。
  このタブレットには、それぞれ3代の大王の名前が記されています。ヒッタイトの王の名前は楔形文字の文書から知られたものなので通称と一致します。
  エジプトの王名は新王朝の時代にどのように使用されたのかを示す例になります。

  ここに上げた楔形文字は Unicode に収録されている字形で表しています。楔形文字の上に付したのは Unicode の文字の名前です。実際のタブレットは「新アッシリア」と呼ばれる書体に近いものです。破損が有り、エジプトの王の名前は部分的にしか読み取れませんが他の資料から補われています。
  エジプトに残されたヒエログリフによる王名は以下の通りです。
  アビュドスの王名表はセティ1世に関する遺物、サッカラ・タブレットはラムセス2世に関する遺物です。

  セティ1世は歴史の記述で「メンマートラー・セティ1世」のように記されていますが、メンマートラーは即位(nswt-bity)名です。王も王になる前から名前があるわけで誕生(sa-ra)名があります。それぞれカルトゥーシュの前に nswt-bity、sa-ra と書かれます。
  条約では、先王の名は即位名で記されています。
  条約の当事者のラムセス2世の名前は即位名ではないようです。
  ラムセスは誕生名(サラー名)の一部のようです。ラムセスの誕生名は数通りの書き方があるようです。

  ヒッティの偉大な王の王ハツシリはミズリの偉大な王の王リアマシェシャマーイアマナと平和条約を結びました。

  ヒッタイト帝国のことは 1910年ころボアズキョイ遺跡の発掘以降に知られたもので、王名もヒッタイト語・アッカド文字の粘土板文書の解読に依っています。シュッピルリウマ、ムルシリ、ハットゥシリの王名は在位中も死後も使用されたことになります。即位前の王の名がどうだったのかは分かりません。
  ラムセス2世の崩御に伴って作成されたサッカラ・タブレット(王名表)ではラムセス2世も含めて王名の前には ntr-nfr(良き神)と記され、即位名のカルトゥーシュが続きます。エジプトの王名も、在位中、死後とも即位名が使用されていました。この平和条約でもラムセス1世とセティ1世は即位名で記されています。条約の締結者であるラムセス2世がサラー名(誕生名)なのは「人」であることが要件なのかも知れません。これが、エジプト、ヒッタイトいずれの事情に拠るのかは分かりませんが、エジプト版ではラムセス2世も即位名で記されています。

  エジプトの王名もロゼッタ・ストーンの解読以前は良く知られていなかったわけですがラムセスは西欧で伝承されていたようです。ラムセスは「ラーによって生まれた」と言うエジプト語で、第19王朝と第20王朝の11人の王が名乗ったようです。
  マネトはラメセスと言う王名を伝えています。しかし、ヘロドトスは大型建造物の遺跡に関した逸話を収集していて、歴代の王の業績と言ったものは既に伝わっていなかったようです。ラムセス2世やカデシュの戦いなどについても全く触れられていないようです。
  ラムセスは地名でもあるようで言葉としては残ったようです。
  オジマンディアスは悪役の名前らしく、エジプトのファラオを連想させるもののようです。ヒエログリフが読めるようになると、ラムセス2世の即位名ウセルマートラーが知られ結び付けられました。

最古の平和条約(エジプト版)

  ヒエログリフのラテン転写は翻字でないだけでなく、文字の記述順とは異なった読み順が適用されているので、ラテン転写から再構成するのは困難です。また、カルトゥーシュのような記号は転写されないことがあります。
  エジプトの碑文はカルナックのアメン神殿と、ラメセウムにあると言うことですが、実際にヒッタイトの王名がどう書かれたのかは分かりません。
  根拠は分かりませんが、条約は楔形文字で起草され、エジプト語に翻訳されたとされています。エジプトは既にアマルナ時代からヒッタイト語・アッカド文字の書簡を作成することができました。(EA32)
  対等の関係が強調されますが、ヒッタイトの王名がどのように表記されたのかは重要なはずです。
  また、エジプトの文字の音の妥当性を判断するためにも重要です。
  今のところは、知り得た間接的な情報を記して置きます。

楔形文字 ヒエログリフ
ヒッタイト

HA-AD-TI
ha-at-ti

xAt
エジプト

MI-GISH-RI-I
mi-iz-ri-i

kmt
シュッピルリウマ1世 shu-up-pi-lu-li-u-mu
ムルシリ2世 mur-si-li
ハットゥシリ3世 ha-at-tu-si-li
ラムセス1世 me-en-pa-hi-a-ri-a
セティ1世 me-en-mu-a-ri-a
ラムセス2世

ri-a-ma-she-sha ma-a-i-an-a-ma-na

 アブ・シンベル神殿のカデシュの戦いのレリーフの碑文のxAt(ヒッタイト)は以下のようです。kmt は出所は分かりません。
  エジプトで平和条約が碑文として作られたのは国内向けの宣伝効果があったからで、エジプトの王名には最大の権威が込められたと推測します。ヒエログリフ版を見ることが出来ないので、ラテン転写されたものを見てみます。それぞれの国の3代の王名を列挙した箇所を見ます。

  ヒッタイトが残した楔形文字の文書ではエジプトの王名は、メンペフティラー(ラムセス1世の即位名)、メンマートラー(セティ1世の即位名)、ラムセスメルアメン(ラムセス2世のサラー名)が記されました。エジプト国内の碑文には正式な名前を書く以外にはないように思えます。
  しかし、「上下エジプトの王(nswt-bity)」や「良き神(ntr-nfr)」とラテン転写されていないことからカルトゥーシュも記されていないのかも知れません。

pA nta ir
the 条約 作った

wr aA-n xtA xtsil pA tnr pA SHri-n mrsl pA wr aA-n xtA tnr pA SHri-n
pA SHri-n
splulu pA wr aA-n xtA tnr
偉大な kheta ハットゥシリ the 強力 the son ムルシリ the 偉大な kheta 強力 the son
the son
シュッピルリウマ the 偉大な kheta 強力

hr anw-n hz-n
upon タブレットの 銀の

wsr-mAat-n-ra
stp-n-ra

pA hkA aA-n kmt tnr pA SHri-n mn-mAat-ra pA hkA aA-n kmt tnr pA SHri-n
pA SHri-n
mn-hpty-ra pA hkA aA-n kmt tnr
ウスル
マートエンラー
セテプエンラー
the 統治者 偉大な kemet 強力 the son メンマートラー the 統治者 偉大な kemet 強力 the son
the son
メンペフティラー the 統治者 偉大な kemet 強力

   ヒッタイト版では、エジプトの3代の王名、ヒッタイトの3代の王名の順になっています。
  ラムセス2世の名前は即位名で記されています。ラムセス2世の時代にはエジプト国内では即位名が正式な名前だったようです。
  ラムセス2世もファラオになる前から名前があった訳で、その誕生名(サラー名)もヒッタイト版で使用されています。ファラオになって名前が変わるわけではなく両方使用されました。おそらく、ラムセスはヒッタイトで知られた名のだろうと思います。あるいは神名アメン(DINGIR a-ma-na)が重要なのかも知れません。
  また、定冠詞 pA は、新王国時代になって使用されたもののようです。

    snsn はセンセンで brotherhood と訳されています。音が繰り返しになっている語は余り多くないだろうと推測しています。しかし、文字上では単純に繰り返しになっているのではないようです。

CTH 176(KUB 21.38)

  プドゥヘパ(Puduhepa)からラムセス2世への書簡。

CTH 384(KUB 21.27)

  プドゥヘパ(Puduhepa)のアリンナの太陽神への祈り。アリンナはギリシア人がクサントスと呼んだリキュアの都市。
  神を称え、身を捧げ、ハットゥシリ3世の長命を神に乞う。

KUB 3.63

  ラムセス2世からプドゥヘパへの書簡。
  ラムセス2世はハットゥシリ3世やプドゥヘパを兄弟と呼んでいる。ハットゥシリ3世の娘をラムセス2世に嫁がせると言う提案の回答らしい。

KBo 28.23

  ラムセス2世からプドゥヘパへの書簡。

CTH 167(KBo 129 + KBo XXIX 43?)

  ネフェルタリからプドゥヘパへの書簡。

RINAP 3/1 Sennacherib 17, ex. 01

 CDLIにはスケッチがある。写真はない。下図は、Unicodeによる表示。文字はアッシュールバニパル・フォント。

 最初の3行から王名を見る。CDLIの翻字は以下の通り。

1. {disz}{d}en-zu-szesz-mesz-eri-ba _lugal gal_
2. _lugal_ dan-nu _lugal_ kisz-sza2-ti
3. _lugal kur_ asz-szur{ki} _lugal_ kib-rat _limmu2_-ti

 ZU と URU は、ほぼ同形。U1236a と U12337。
 Unicodeの文字の名前からは、エンズシェシュメシュウルバとなる。
 ナラム・シンのシンもEN-ZUで、EN-ZUはシンと読むらしい。理由は分からない。シンシェシュメシュウルバのような名前らしい。
 Wikipediaはシン・アヘ・エリバと言う読みを挙げている。
 これは、おそらくUnicodeの文字名がシュメール・アッカド語の音訓によるのに対して、アッカド語の訓に基づいた読みを当てたためと推測する。-mesz-eri-ba は、良く分からないが、王名に普通に使われているようだ。
 Wikipediaは、王名が兄弟に代わりに王となったと取れることを挙げている。szesz(シェエシェ)は、アッカド語の訓が ahu で「兄弟」と見られる。
  
 エンズシェシュメシュウルバ、王の王、キシュシャチの王、アッシリアの国王、四方世界の王。

RINAP 3/2 Sennacherib 230, ex. 01
 {d}30-pab-mesz-ku4 がSennacheribと訳されている。
RINAP 3/2 Sennacherib 088, ex. 18
 {d}30-pab-mesz-ku4は、30 は、Unicodeの THREE ASH TENU です。他の文字を Unicode の文字の名で記すと、AN-30-PAP-MESH-KU4 です。
 ただし、このbrickは、最後が KI のようです。

RIMA 2.0.101.030, ex. 01

C面の地名
地名 備考
kur su-hi Suhu
kur hi-in-da-na-a-a Hindanu
kur pa-ti-na-a-a Patinu
kur hat-ta-a-a Hatti
kur s,ur-ra-a-a Suru / Tyre
kur s,i-du-na-a-a Sidunu / Sidon
kur gur2-gu-ma-a-a Gurgumu
kur ma-li-da-a-a Malidu
kur hub-usz-ka-a-a Hubushku
kur gil2-za-na-a-a Gilzanu
kur ku-ma-a-a Kumu
kur mu-s,a-s,i-ra-a-a Musashiru
iri kal-hi URU KAL HI
Kalhu(Nimrud)

 アッシュールナツィルパル2世(Assurnasirpal II)、在位紀元前884年-紀元前859年の絵のある長文の刻まれた石碑のようです。
 カルフ(ニムルド)の都(旧約聖書のカラフ)を建設し、複数の宮殿跡や多くの遺物を残したようです。
 この碑文にはシドンの名前が含まれます。しかし、アマルナ文書や、アッシュールナツィルパル2世の後のセンナケリブの表記と異なっています。
 アマルナ文書やセンナケリブの刻文では URU が付けられていて、iri と翻字され都市と認識されていたと見られます。
 この碑文では、URUが使用されず、KUR となっています。一律にKURとなっているので、動かせない碑文と、書簡スタイルの差なのか、ニムルドの人々の用法なのか分かりません。
 唯一、URU が付されているのは、KAL-HI で碑文のあったカルフのようです。
 また、地名の終わりは、最初の su-hi を除いて -a-a となっていて、並列関係を示すようです。

 この碑文は、地名を列挙していて、階層的に表されていません。センナケリブ以降の刻文では、ハッティ・ランドへの遠征の中に、都市名が列挙されます。
 kur hat-ta-a-a は、「ハッティの地」だと思いますが、シドンがハッティにあるのかどうかは物語っていません。

RINAP 3/1 Sennacherib 17 composite

 a面

420. ia-a-ti {disz}{d}en-zu-szesz-mesz-eri-ba
421. _lugal_ kisz-sza2-ti _lugal kur_ asz-szur{ki}
422. e-pesz szip-ri szu-a-tu ki-i t,e3-em _dingir-mesz_
423. i-na uz-ni-ia ib-szi-ma ka-bat-ti ub-lam-ma
424. te-ne-szet {kur}kal-di {lu2}a-ra-me {kur}man-na-a-a
425. {kur}qu-e u3 {kur}hi-lak-ku {kur}pi-lisz-ti u3 {kur}s,ur-ri
426. sza a-na ni-ri-ia la ik-nu-szu
427. as-su-ha-am-ma tup-szik-ku u2-sza2-asz2-szi-szu2-nu-ti-ma
428. il-bi-nu _sig4 e2-gal_ mah-ri-tu

 我、エンズシェシュメシュウルバ、キシュハティの王、アッシュルの国王は、神の耳に告げるところを行う。
 e-pesz(do) szip-ri(sending) szu-a-tu(him) ki-i(like) t,e3-em(report) _dingir-mesz_(ilu、GOD) i-na(in) uz-ni-ia(ear)
 移住させた。
 ib-szi-ma(be) ka-bat-ti(liver) ub-lam-ma(carry)
 te-ne-szet {kur}kal-di カルディ(Kaldi)の人々
 {lu2}a-ra-me {kur}man-na-a-a {kur}qu-e :マンナー(Mannaa)、クエ(Que)のアラム人
           u3 {kur}hi-lak-ku {kur}pi-lisz-ti :ヒラック(hilakku)、ピリシャティ(Pilishati)
           u3 {kur}s,ur-ri :スウリ(Suri)

RINAP 3/1 Sennacherib 22, ex. 01

 新アッシリアのセンナケリブ(BC705-BC681)の業績碑文。6角柱の粘土製。レバントは「ハッティの地」らしい。

CDLIの翻字
column 2
37. i-na szal-szi ger-ri-ia a-na {kur}hat-ti lu al-lik
38. {disz}lu-li-i _lugal_ {iri}s,i-du-un-ni pul-hi me-lam-me
39. be-lu-ti-ia is-hu-pu-szu-ma a-na ru-uq-qi2
40. qa-bal tam-tim in-na-bit-ma szad-da-szu2 e-mid
41. {iri}s,i-du-un-nu _gal_-u2 {iri}s,i-du-un-nu _tur_
42. {iri}e2-zi-it-ti {iri}s,a-ri-ip-tu {iri}ma-hal-li-ba
43. {iri}u2-szu-u2 {iri}ak-zi-bi {iri}ak-ku-u2
44. _iri-mesz_-szu2 dan-nu-ti _e2 bad3-mesz_ a-szar ri-i-ti
45. u3 masz-qi2-ti _e2_ tuk-la-te-szu2 ra-szub-bat _{gesz}tukul_ {d}asz-szur
46. _en_-ia is-hu-pu-szu2-nu-ti-ma ik-nu-szu2 sze-pu-u2-a
47. {disz}tu-ba-a'-lum i-na _{gesz}gu-za lugal_-u2-ti
48. _ugu_-szu2-un u2-sze-szib-ma _gun_ man-da-tu be-lu-ti-ia
49. szat-ti-szam la ba-at,-lu u2-kin s,e-ru-usz-szu2

 三度目の遠征はヒッタイト({kur}hat-ti)の地で、制圧した都市は以下のようです。

都市 備考
{iri}s,i-du-un-nu gal 大きいシドン
{iri}s,i-du-un-nu tur 小さいシドン
{iri}e2-zi-it-ti Bît-Zitti
{iri}s,a-ri-ip-tu Zaribtu
{iri}ma-hal-li-ba Mahalliba
{iri}u2-szu-u2 Ushu(ティルス)
{iri}ak-zi-bi Akzib
{iri}ak-ku-u2 アッコ

 e2-zi-it-ti は Bît-Zitti と読まれています。具体的に比定される場所があるからではなく、e2 は「家」を表す文字であることから、アッカド語で「家」を指す bitu と読まれたと言うことだと思います。音訓と考えれば、音の Ezitti で不都合はなさそうです。
 アマルナ文書のEA232、233、234は、アッコからファラオへの書簡とされています。iri ak-ka{ki} の SurataとSataanaが差出人です。アッカのようです。
 おそらく、アッシリアの資料にアッコの位置は明確に書かれていないものと推測します。類推できるのは、記述順からハッティの地の最遠だろうと言うことです。
 アマルナ文書のアッカは、複数のタブレットに登場し記述内容から場所が推定されているものと思います。
 アッシリアのアッコと、アマルナ文書のアッカが同一の場所と見られる根拠は分かりません。
 アッコ、英語Acre(エイカー)、アラビア語عكّا(アッカ)、ヘブライ語עכו(AKW)は、イスラエル国のアッコ市(北緯32.927778,東経35.081667)のようです。
 アッコ市は、士師記1:31のアッコに比定されています。七十人訳聖書はΑΚΧω(アク)、ヘブライ語聖書は、עכו(A-K-W)のように伝えています。
 イスラエル王国の建国は1021年とされるので、そのころにはカナン人の大きな都市があり、イスラエル人はカナン人と共に住んでいました。
 アッコはアマルナ文書の紀元前14世紀には主要な都市であり、紀元前11世紀にも代表的な都市だったようです。七十人訳聖書が編纂されたのは、紀元前2世紀ごろのことで、その時代の人々の認識と言うことです。
 レバントの内、少なくともアッコ市の当たりまでは、アッシリアにとっての「ハッティの地」だったようです。

センナケリブのレバント 

 アマルナ文書にある地名から場所が比定されているよう。アマルナ文書から500年たっても都市名は有効らしい。

都市名 KJV士師記1 センナケリブ刻文 アマルナ文書 備考
ヒッタイト
hittite
Hittites {kur}hat-ti(*2)
ハッティ
kur iri ha-at-ti(E44)
シドン
sidon
Zidon {iri}s,i-du-un-ni(*2)
シドン
{iri}s,i2-du-na{ki}(EA144)
ティルス
テュロス
tyre
{kur}s,ur-ri(*1)
スウリ
URU s,ur-ri(EA147)

EA146からEA155まではテュロスのAbimilkuから
ファラオに宛てた書簡とされている。

ヘブロン 旧名:キリアテ・アルバ
アヘラブ Ahlab
アクジブ Achzib {iri}ak-zi-bi(*2)
ヘルバ Helbah
アピク Aphik
レホブ Rehob
アッコ
acre
Accho {iri}ak-ku-u2(*2)
アック
{iri}ak-ka{ki}(EA234)
アッカ
士師記1:31、現在のイスラエル国アッコ市
ゲゼル Gezer
ゼブルン
キテロン
ペテシメシ
ペテアナテ
ハルヘレス アモリ人
アヤロン アモリ人
シャラビム アモリ人
ドル
ベテシャン
タアナク
イブレアム
メギド
ベゼク
デビル 旧名:キリアテ・セペル
ホルマ ゼパテ
アシュケロン
キテロン
エルサレム

 *1 RINAP 3/1 Sennacherib 17 composite
 *2 RINAP 3/1 Sennacherib 22, ex. 01

RIMB 3xx

 CDLIの検索で RIMB 3xx は集合名らしく397点ヒットする。最も長文の Museum no. SLAM 160:1928 について。
 これはネブカドネザル(Nebuchadnezzar)2世の業績碑文(粘土の円筒)と見られているようだ。
 この刻文の書き出しはCDLIの翻字で以下のようになっている。
 {d}na-bi-um-ku-dur-ri-u2-s,u-ur2 szar ba-bi-lam{ki}
 AN ナビウムクドゥリウシュル シャー バビラム KI
 この刻文の主は、「バビラムの地のシャル、ナビウムクルリウシュウル」です。王を示す LUGAL は使われず、アッカド語の王を指すシャルが記されたようです。
 LUGALと書けば、アッカド語の人はシャル(サル)と読み、カナン諸語の人々は MLK と解することが出来ます。シャーと書いたのは同族へのメッセージなのか、「私をシャーと呼べ」と言うことだろうと思います。
 ネブカドネザル2世の名前は、ナブ・クドゥリ・ウスルとされています。実際にはいろいろに綴られたようです。
 {d}na3-ku-dur2-ri-uri3 lugal ba-bi-lu{ki}
 {d}na3-ku-dur2-ri-u2-s,ur lugal babila{ki}
 {d}na3-nig2-du-uri3 lugal babila{ki}
 {d}muati-nig2-du-uri3 (Neo-Babylonian Larsa 19)
 ブロックの刻印は概ね以下のように見えます。

 RIMB 3xxの中には、LUGALが6カ所使われています。これは王名に付いているのではなく一般名詞のようです。ネブカドネザルの肩書では、「きみ」のように訓が仮名書きされ、文章の中では「王」と漢字が使われたと例えられます。文章中の「王」は「オウ」、「きみ」いずれに読んだか知りえません。

 地名にはURUが先行していないようです。地名の後に KI と書くことは必須のようです。地名と見られるものを下表に上げます。

翻字 説明
ba-bi-lam バビロニア
iri

市を意味し、Akkad語の訓はアル
iri {ki}は、何々の「町」のような事らしい。

ud-kib-nun ユーフラテス川。シュメール語:Buranuna、アッカド語:Purattu
ba-ar-zi-pa2 ボルシッパ(ビルス・ニムルド遺跡、創世記10ニムロド王、バベルの塔)
シュメール語:Badursiabba、アッカド語:Barzipa
ka2-dingir-ra バビロン
ku-ma-ar
dil-bat ディルバト
unu ウルク
larsa ラルサ(エラサル(Ellasar)創世記14:1)
uri3 ウル
mar2-da マラダ

※チグリス川(Tigris)は、シュメール語:Idigna/Idigina、アッカド語:Idiqlat(と、説明されるが後述参照)
※ネブカドネザルの名の始めは神ナブに由来するとされるがナブはボルシッパのジッダ神殿に住むとされた。
※Wikipediaは、ナブ・クドゥリ・ウスル。新バビロニア期のレンガの刻印 {d}na3-ku-dur2-ri・・・には数種類ある。
 {d}na3-ku-dur2-ri-uri3 は上、{d}na3-ku-dur2-ri-u2-s,ur は下のように書かれたことになる。写真では雰囲気と文字数の差程度しか分からない。

神ナブ

 ネブカドネザルの名前は神ナブに由来するものとして、AN-AK がネブと読まれています。Unicode の AK は、CDLIでna3と翻字されています。しかし、na3 と翻字されているのはナブと読まれる場合のようです。
 神ナブは左図のように多様に書かれました。おそらく、古バビロニア王国の時代、アムル人の王朝になってからのことで、紀元前1800年以前にはメソポタミアの神になっていなかったのだろうと思います。
 アマルナ文書のEA32の該当箇所は正確には読み取れないようです。{d}paと見られナブと訳されるようです。

 CDLIの翻字で{d}ag も神ナブのようです。

 ag は、AK の新アッシリアの字形の変化したもののようです。
 

マルドゥク(Marduk)とマルトゥ

 新バビロニアでは王名に神ナブが冠されたことからナブが重要な神であることは確かそうです。ボルシッパのジッダ神殿はナブの住む処でした。
 ボルシッパはバビロンの弟の都市とされ王はいなかったと考えられています。バビロンの神マルドゥクはナブの兄と見られていました。
 ネブカドネザルの文書には、最高神としてマルドゥクが呼び出され、王はナブの化身のようです。マルドゥクもナブもアムル人の神とされますが、新バビロニアの時代には、既にそこに住む人々の神になっていたようです。
 アッシリアの王朝を築いたアムル人(Amorite)はレバントの人々と同じ北西セム語でした。新バビロニアはカルデア人の王朝と見られ、アッカド語に類する東方セム語を使用したとされています。
 これより八百年ほど前のアマルナ文書のEA32(アルザワの王Tarhundaraba からアメンホテプ3世への書簡)の訳文にはナブが登場します。この手紙は両国間の最初の書簡らしく書紀間のメッセージが含まれます。その中に書記への賛辞としてナブ神が記されました。(該当箇所は欠損しているようです。)
 ナブはアッシリアでは書記の神だったとされますが、広く認められたことだったようです。

 ニップルで見つかった「マルトゥの結婚」(CBS 14061)は都市に住む神マルトゥを主人公にしているとされます。神マルトゥは AN-MAR-TU と3文字で記されました。文字はUnicodeの文字の名前です。CDLIの翻字は {d}mar-tu です。
 mar-tu を新アッシリアの時代で検索すると {d}mar-tu 以外に kur mar-tu{ki} や kur mar-tu がヒットします。マルトゥは地域名として一般的だったようです。アモリと呼ばれた地域は、アムル人の地で、マルトゥの地だったようです。しかし、マルトゥ = アムル人と使用したのかどうかは分かりません。また、神マルトゥだったのかアンマルトゥだったのかも分かりません。
 神マルドゥクは、AN-AMAR-UD と記されました。(EA256)
 この翻字はUnicodeの文字の名前ですが、CDLIでは {d}marduk と翻字されています。
 これが神アマルトゥと読めたので、アムル人の神と解されたものと思います。
 新アッシリアの時代には、{d}marduk も {d}mar-tu も使われています。前者は神であることは確かですが、後者が神マルドゥクであるかどうかは分かりません。

ベヒストゥン碑文のネブカドネザル

 ベヒストゥン碑文にはネブカドネザルの名前が出てきます。ネブカドネザル3世、4世は新バビロニアの滅亡後に使用された王名のようです。バビロンが直接統治となるのはダレイオスがネブカドネザルを名乗るニディントゥ・ベール(ネブカドネザル3世)の反乱を鎮圧してからのようです。新バビロニアは紀元前539年バビロン無血入城で終焉となりました。最後の王はナボニドゥス(Nabonidus)ですが、息子のベルシャザル (Belshazzar)が内政を行っていました。ダニエル書8章には「ベルシャザル王の3年」のように王名として登場します。
 ニディントゥ・ベール(ネブカドネザル3世)の反乱は、紀元前522年のことのようです。
 碑文に記されたのは、ケンザの子ニディントゥ・ベールは、ナボニドゥスの子ネブカドネザルを名乗ったと言うことです。

ペルシャ楔形文字 エラム語部分 アッカド語部分
ネブカドネザル
Nebuchadnezzar
n-b-u-ku-d-r-c-r nab-ku-tur-ru-sir AN-PA-GAR-DU-URI3
ナボニドゥス
Nabonidus
n-b-u-n-i-t-h-y-a nab-bu-ni-da-na AN-PA-NI2-TUK
ニディントゥ・ベール
Nidintabel
n-di-i-t-b-i-r nu-ti-ut-be-ul NI-DIN-TUM-AN-EN

Ainaira
a-i-n-i-r-h-y-a ha-a-na-a-ra kin-numun
ダレイオス
Darius
d-a-r-y-v-u-$ da-ri-ia-ma-u-isz DA-RI-IA-MUSH

 

 ダレイオスの名に使われ、MUSHと翻字されている文字は、新アッシリアの書体のMUSHより縦棒が一つ少なく、SHEとHUを組み合わせた形状にスケッチされている。

ME 21946(British Museum)

 この粘土板は一連の歴史の記述の一部で、紀元前605年から紀元前594年に当たると見られているようです。博物館のタイトルは、 
 Cuneiform tablet with part of the Babylonian Chronicle (605-594 BC)
 です。「バビロン捕囚」に当たる事件の記述が含まれると説明されています。
 新アッシリアの滅亡後もギリシャがフェニキアと呼ぶ地域は、「ハッティの地」だったようです。
 見ることが出来た翻字は、(māt)akkadi(KI)、babili(KI)のように記され、アッカドやバビロニアがどのように綴られたのか分かりません。
 意図は単純な翻字ではなく、意味が通るように行われているように見えます。
 ネブカドネザルはアッカドの王と表されているようです。

ME 21946 の地名など
kur akkadi ki アッカドの軍隊によって敵はハマスに逃げた。敵はエジプト勢らしい。
kur ha-ma-a-tu
kur hat-ti ハッティの地での戦闘中にネブカドネザルはバビロンに戻って即位した。
iri Isqalluna

英訳文にAskelonとある。 この箇所は読み取れず語末-il-lu-nuからの推定らしい。
{iri}is-qa-al-lu-na(RINAP 3/1 Sennacherib 04, ex. 03)などから推定
されたものと思う。イスカルナがアシュケロンである根拠は良く分からない。
 メンフィスの碑文にヒエログリフのiskeluniがありイスカルナに比定される。
 アマルナ文書のEA321には iri asz-qa-lu-na とあり、{disz}yi-id-ia はエジ
プトの臣下のアシュケロン領主と見られている。イイディアの書簡はEA320から
326まで。
 現在アシュケロンと呼ばれる地域とiri asz-qa-lu-na、iskeluni、
iri asz-qa-lu-na の位置関係がどのように推定されるのかは分からない。
 想定されていることは、アシュケロンと言う地名はレバント南部で紀元前1350年
ころには使用されていた。エジプトではイスケルニのように呼んだかもしれないが
アシュカルナはファラオに宛てた書簡で使用された。その後、新アッシリアの時代、
新アッシリアはイスカルナを記録し、アシュケロンが比定されている。

kur mi-sir これはベヒストゥン碑文と同じエジプトの綴り。(後述)
(āl)gal-ga-meš カルケミシュ(iri gar-ga-misz)
i-diq-lat チグリス川(Tigris)。しかし根拠がこのタブレットになっている。後述。

 このタブレットからレバント方面を新アッシリアと同様ハッティと読んでいたことが分かります。センナケリブの業績碑文から少なくともイスラエルより北のアッコまではハッティのようです。

チグリス川、ユーフラテス川

 チグリス川の名前の説明は循環していて良く分かりません。名前の意味解釈には、「矢のように早い」と「トラ」があります。また創世記のヒデケル川に見立てます。
 確かそうなのはベヒストゥン碑文のエラム語部分が ti-ig-ra と綴られていることです。ペルシャ楔形文字をUnicodeの文字の名で見るとチガラマとなります。しかし、音節の母音は定かでないので、確実なのは T-I-G-R-A-M で、エラム人もペルシャ人もチグラムのように呼んだことは確かそうです。印欧語族であることを考えれば「トラ」と言うことのようです。
 ペルシャ楔形文字は音節文字と見られていて、三十数個の記号だけなので音の裏付けになります。
 碑文は他にアッカド語、アラム語で書かれていると説明されますが、スケッチされたものを見る限りは差がありません。文字は同じ楔形文字です。字形はヒッタイトの字形に近く年代、地域的に近い新アッシリアとはかなり異なってす。アッカド語とされるものが何語を記しているのかは分かりませんが、エラム語の碑文は、アッカド語と同じ楔形文字でエラム語が書かれたと考えて良いのだろうと思います。
 この碑文は紀元前五百年ころのことですが、新アッシリア、新バビロニアでは、Idiqlat と呼ばれたと見られています。
 川はどのように繋がっているのか簡単には分からないので一連の川を総称する名があったかどうかは定かではありません。しかし、紀元前2500年より前から広域で通用する名前があったのかも知れません。この考えに沿って、シュメール人は下図のシュメール・アッカドように書いて、idigina と読んだとされています。

 ベヒストゥン碑文のアッカド語の部分には左図の最上段のように刻まれたようです。
 この字形は時代、地域の近い新アッシリアの字形とはあまり似ていません。ヒッタイトの字形の終わりの2文字を合字して描いたように見えます。UnicodeのGU2の右端の小さい2つの矢印をGAR3の右に描いています。
 ヒッタイトは紀元前1180年に滅亡していて、紀元前5世紀のヘロドトスの歴史を見る限り既に忘れ去られています。
 CDLIの翻字は {id2}idigna となっています。id2 は、A と LAGABxHAの2文字のセットになっています。
 Aは水、LAGABxHAは engur と読んで水のようです。id は「川」で、川のMASH GU2 GAR3となります。
 {id2}は川を示すことが分かったので周辺を見ると {id2}ku-ul-lu-u' 、{id2}di-ig-lat、{id2}buranun があります。
 {id2}di-ig-lat もチグリス川と解されているようです。これが新バビロニアでは Idiqlat と呼ぶと言う根拠の綴りのようです。また、イデカルはヒデケルにもなりそうです。
 {id2}buranun はユーフラテス川のようです。エラム語碑文は {asz}u2-ip-ra-tu3 だと推測します。これはアッカド語で pu-rat-tu だと言う説明に近いと思います。

 ティグリス川のことから考えるとユーフラテス川にもサンスクリットで説明の付く語源があるもとと思います。あるいは紀元前6世紀にはギリシャ語の地名が普及していて、チグリスはギリシャ語のトラと同じになったのかも知れません。アヴェスタ語の Huprthwa を当てる説明を見ました。
 左図の最下段はペルシャ楔形文字の碑文からは、U-F-R-A-T-U-V-A で、エラム語部分からは {asz}u2-ip-ra-tu3-isz です。
 ペルシャ人やエラム人は、ウフラツウアやウイプラツイシュのように呼んでいたようです。
 アッカド語で pu-rat-tu と言うのは、新アッシリアの時代に使われたことのようです。この時代には辞書が見つかり、{id2}buranun が {i7}pu-rat-te と記されていました。{id2}buranun がユーフラテス川ならと言うことになります。

 使われた例は RINAP 4 Esarhaddon 108, ex. 01 のようです。

 {i7}と{id2}と同形のようです。{id2}idigna や {id2}buranun は、ペルシャ人やエラム人によってチグリス、ユーフラテスと訓じられたと考えると、{id2}bu-rat-te がどのように読まれたのかは分かりません。

 

新アッシリア以降のエジプト

 アマルナ文書のEA1では、CDLIの翻字で kur mi-is,-ri-i{ki} と綴られました。アムル語を含むカナン諸語の人々からはミサリのように呼ばれたようです。
 アケメネス朝ペルシャのダリウス王のベヒストゥン碑文のエジプトに該当する箇所は、kur mi-s,ir と翻字されています。ミシルのようです。
 前述の ME 21946 のエジプトは同じ翻字がされています。s,ir と翻字される文字を探すと左図のようになりました。
 左図の最上段はベヒストゥン碑文のエジプトです。まったく同じ字形が RIME 4.04.01.08, ex. 26 にもあります。
 新バビロニアの王朝とアケメネス朝は、エジプトを同じ綴りで書いたようです。
 ペルシャの王朝は印欧語族と考えられています。
 CDLIの s,ir は、Unicode の MUSH に当たる記号のようです。

エルサレム

 イスラエル王国の建国は紀元前1021年とされています。アマルナ文書は300年ほど前の時代の記録とされています。
 アマルナ文書のEA285からEA290は、エルサレムの王アブディヘバからファラオへの書簡とされています。
 エルサレムと言う市はイスラエル王国の建国の前から存在したようです。
 差出人の名前は ARAD-HI-BA (Unicodeの文字の名で表記、CDLI:ARAD2-hi-ba)です。Aradhibaの名前にはLUGALは付けられず、「あなたのしもべ」と書かれているので、王ではないようです。しかし、エルサレムは父から受け継いだと言っているので代々の近隣の領主のようです。
 エルサレムは、kur iri u2-ru-sza10-lim{ki} と綴られました。ウルシャリム、あるいはウルサリムがエルサレムである決定的な証拠があるのかどうかは分かりません。kur ・・・{ki}は、地域を示すのに使われますが、さらに市を表す iri が記され、領土の中の1つの拠点のようです。
 EA287には、kur u2-ru-sa-lim{ki} と翻字された箇所もあります。概ね以下のような文字が刻まれました。

ビブロス、シドン、ティルス

 ビブロスは、ヘドドトスや聖書が記録していないので、シドン、ティルスとは異なり、新しい名前だと思います。ビブロスは聖書が記録したゲバルと呼ばれていたと考えられています。

KJV LXX ヘブライ語聖書 アマルナ 新アッシリア
ビブロス Gebal ΓΑΒΛΙ / ΓΕΒΑΛ GBL(גבל)

Gubla / DU-LA

シドン Sidon ΣΙΔΩΝΑ CYDUN(צידון) Zidun / ZI-DU-NA Zidun / ZE-DU-UN
ティルス Tyre ΤΥΡΟΝ CUR(צור)    Zuri / AMAR-RI Zuri / AMAR-RI

  楔形文字の地名の語尾は a となることが多いようです。前述のアッシュールナツィルパル2世の刻文の例のように、地名を列挙する場合、並立関係を示す語尾変化のためだと思います。概ね nu や li のように結ばれるのが定型のようです。

 EA122の iri gub-la と翻字されている箇所を、Unicodeで翻字すると左図のようになります。
 CDLI の gub と言う翻字は主にアマルナ文書で使用されています。Unicode の DU と思われる文字を gub とする理由は分かりません。
 、概ね グブラと読まれ、聖書のゲバルと見られています。
 これは、グブリやデュリでも不思議はないように思います。

 アマルナ文書の一覧ではシドンからの書簡は Zidon となっています。左図はUnicodeによる翻字です。
 概ねEA101のように書かれました。EA101のZE2の字形は、Unicodeの字形(Neo Assyriaの字形)と似ていません。
 しかし、CDLIの翻字は、UnicodeのZI を s,i、EA101の字形を s,i2 としているようです。
 おそらく、ZE2の縦棒を中央に移動し、横棒4本の向きを反転した同じ文字と見るのだと思います。
 アマルナ文書から数百年たった時代に、新アッシリアでは、下段のように記されました。
 新アッシリアの字形は、「RINAP 3/1 Sennacherib 17, ex. 01」「RINAP 4 Esarhaddon 002, ex. 04」が同じ表記です。
 概ねシドンは、Zidun や Zedun のように表記されたようです。 

 ティルスの現在はスールと言う漁村のようです。アマルナ文書の時代から一貫してスールのような名前だったようです。

 EA147 などのアマルナ文書では、AMAR-RI のように書かれ、s,ur-ri のように翻字されています。AMAR は、zur と読まれたと考えられているので、Zuri かもしれません。
 ヘロドトスは、「歴史」の冒頭で「ΤΥΡΟΝ」に言及します。ペルシャ人の言い伝えるペルシャ戦争の発端は、ギリシャ人がティルスの王アゲーノールの娘エウロペを掠め取ったことに始まります。チュロンのエウロペはヨーロッパの名の由来でもあり、フェニキアのチュロンは広く知られていました。
 ヘレニズム期になって、七十人訳聖書にも「ΤΥΡΟΝ」の地名が使われました。
 ホメロスやヘロドトスが伝えるギリシャ神話のフェニキアの「ΤΥΡΟΝ」が、スールに比定された理由は分かりません。 

女神

 アマルナ文書のEA122はビブロスとされるゲバルからファラオに送られた書簡です。左図は、その書き出しの部分です。
 差出人は、RI-IB-AN-IM です。AN-IMはシュメールの時代からイシュクルなどの最高神を表して来ました。
 アッシリアの王名に使われた場合はアダトと読まれたと考えられています。アッシリアはアムル人の王朝でした。
 同じ北西セム語と見られるカナンでは神アダトはハッダと呼ばれたとされています。
 したがて、RI-IB-AN-IM は、リブアダトやリブハッダと読まれることになります。しかし、確実なことは何も知られないものと思います。
 RI-IB-AN-IM は書く。主(EN SHU)、国々の王(LUGAL KUR KI)、大王(LUGAL GAL)、戦いの王(LUGAL TA AM HA AR)へ。
 続く、AN-NIN は神名で、URU DU-LA はグブラと言う都市と解されます。根拠は分かりませんが UnicodeのDU を GUB と翻字していて、GUB-LA は、グバル、ゲバル、ビブロスと解されています。(Dulaでも不思議はないものと思います。)「ビブロスの貴婦人(女主人)」などと訳されています。
 アッカド語の辞書の NIN は lady のようです。どちらが先かは分かりませんが、シュメールの時代から AN-NIN は女神を表していたいようです。

 風と嵐の神エンリルの配偶神ニンリルは AN-NIN-KID と表されました。
 アッシリアの王は神アッシュルの副王を名乗ったとされます。神アッシュルの配偶神は女神ムリッスとされています。ムリッスとニンリルは同一視されました。
 新アッシリアの文書では AN-NIN-urta が多く使われています。女神ニヌルタと読まれています。
 urta と翻字された文字は、Unicodeに収録されていないようです。図の AN-NIN-KID と AN-NIN-urta は、共に古い時代の書体です。
 新アッシリアの時代の urta の字形は良く分かりません。KID と urta は、同じ時代に使われましたが、同じ文字だとしても不思議はないようです。

 新アッシリアは、ヘロドトスの生まれる百五十年前に滅びました。ヘロドトスはアッシリアのアフロディテをミュリッタ(ΜΥΛΙΤΤΑ)と伝えました。(歴史1:131)
 EA122の AN-NIN はアスタルテであると推測できますが、フェニキアのアスタルテは聖書によって広まったもののようです。ヘロドトスはアスタルテを知らないようです。
 ヘロドトスはビブロスもゲバルも記録していないようです。ヘロドトスの時代にはシドンやテュロスのように重要な都市ではなかったようです。また、キプロスのアフロディテ神殿の根本神殿はアシュケロンにあると言っています。(歴史1:105)
 エジプトにとってレバント沿岸の拠点は木材の入手のために大変重要だったと考えられます。その拠点は kbn や kpny と表されました。kpny はビブロスに比定されています。
 ビブロスに残る遺跡からエジプト古王朝時代からの奉納品が見つかるようです。バアラト・ゲバル神殿(Ba‘alat Gebal)の名は、聖書によって生じた名のように見えます。
 ヘロドトスはギリシャの神々もエジプト起源だと言っています。エジプト古王朝の時代に存在したkpnyの神殿は、エジプトの神を祭っていたのだと思います。それがハトホルである証拠はないようです。

 Unicode の 1238F の NIN は、新アッシリア、ヒッタイトなどから収集された後代の字形のフォントには字形がありません。明らかな NIN の使用例がないようです。
 しかし、新アッシリアのタブレットの翻字でも、AN-NIN-urta があるので、使われなくなった訳ではないようです。
 新アッシリアの時代の NIN の字形は、上の EA122 と同形です。
 Unicodeには、SAL(122A9)とTUG2(12306)があり、NIN を表すことが出来ます。この字形は、新アッシリアのフォントにも取集されているので、図のように表せます。しかし、EA122 の字形とは違って見えます。EA122 の AN-NIN は、AN-SAL-TUG2 と読まない根拠かもしれません。

字形

 字形は年代や地域で異なっていることは理解できる。

フォント
フォント名 年代 備考
Akkadian 紀元前二千数百年前から Unicodeの字形の代り
Ullikummi 紀元前16世紀から1180年 アナトリアのヒッタイトの遺物から
(ウルリクムミはヒッタイト神話の岩の巨人)
Assurbanipal 紀元前934から609年 新アッシリアの字形
Santakku 紀元前1894年以降 Paleo-Babylonian Cuneiform Font
Old Babylonianの楔形文字を指すサンタクから
UnicodeのSAG-KAKやASH、DISH、ASH ZIDA TENU、ASH KABA TENUを書いて楔形文字や三角形を表した。

 Unicodeはシュメール・アッカドとなっていて紀元前2千年より前のメソポタミアの字形と解される。この字形は画数が多く書簡を書くのには向かないがレンガの刻印などには古色、権威を与える。したがって、年代を問わず使われた。
 アマルナ文書は、レバントからの書簡が含まれるが、新アッシリアの三百年前なのに、字形は新アッシリアの字形に近い。実際にはレバントだけでなく広く使われていた書簡用の字形が新アッシリアの図書館に多く残されたと言うことなのだと推測する。

u

u
フォント u
1230b
u2
12311
u3
12146+121fb
Akkadian
Santakku
Assurbanipal
Ullikummi

 Uの音と考えられる字形は多数ある。翻字のために字形が異なれば u2、u3、・・・と名前が付けられた。しかし翻字は音写を兼ねていることが多いようで音に差異があるのか、字形だけの差なのか不明瞭なことが多い。時代、地域により使われる字形が異なるのと、1つの文書の中で使い分けられるケースは意味合いが異なるはずだ。

 CDLIがU3と表記している字形は、Unicodeになく、IGIとLUを並べた形をしている。
 アマルナ文書のEA1には、AkkadianやSantakkuのU3の形状で記されている。
 AssurbanipalやUllikummiの形状が実在するかどうかは分からない。
 EA1には、u2とu3が使われている。意図して使い分けられている。 

sza

sza
フォント sza
122ad
sza2
120fb
sza3
122ae
sza10
Akkadian -
Santakku -
Assurbanipal -
Ullikummi -
- - - -

 CDLIの翻字では、UnicodeのSHAはszaとなる。Šをszとすることによる。
 Akkadianのsza2、sza3がSHAと読まれるのかどうかは分からない。
 sza、sza2、sza3は、音声に違いがあって使い分けられたと見られているようだ。母音の「ア」に違いがあると言うことらしい。
 アマルナ文書にはsza10が使用されている。EA149 の字形は左表の右下隅ような形状で、Unicodeに該当がない。しかし、この文字は Unicode の ASHGAB の斜めに棒が水平に描かれたものであることは確かそうだ。短い縦棒が3本と4本と異なるがsantakkuフォントのASHGABは3本でどちらも書かれた。
 したがって、sza10がシャかどうかはsza、sza2、sza3より確度が低いのだろうと推測する。
 UnicodeがASHGABと名前を付けている文字はASHとGABの合字と言う理解できる。UnicodeにはGABはなく、GABAがある。GABAはGABと表記している場合があるので同じと見る。
 ASHGABはシュメール人は ašgab や šikangu、erib と読み、leatherworker を指したとされている。
 Akkad語では aškāpu だった。
 ASHGABが革職人なら、ほとんど書簡には使われない。CDLIでの翻字も分からないのでASHGABがSHAと読まれたかどうかは探せない。
 合字は、左端の縦棒と残りの部分でできている。本来は横棒のASHが縦棒になっている。残りがGABAだが、Neo-Assyrian の字形を見ると異なった解釈だったようだ。
 少なくとも新アッシリアでは GABA、DUH、SAの3つの字形は明確に使い分けられた。

 シュメール・アッカドの時代には、GABAとDUHは同形、あるいはDUHが使われなかったようだ。新アッシリアではGABAとDUHは書き分けられた。
 しかし、GABAもDUHも、ASHGABの右側に似ていない。新アッシリアのSAが正にASHGABの右側だ。
 sza10が縦棒とSAと認識されたとすれば、ASHASA や ASA かも知れない。また、単に縦棒が4本のSAなのかも知れない。
 Neo-Assyrian の字形と呼ばれるが、アマルナ文書の字形は既にその形状に近く、ずっと早い時期にレバントでも普及していた字形のようです。

AK、ag、nabu

AK
フォント AK
1201d
Akkadian
Santakku -
Assurbanipal
Ullikummi
 新バビロニアの王名であるネブガドネザルやナボニドスの名は、神ナブと同じ文字列で始まります。神ナブはUnicodeの文字の名で AN-AK と書くのが基本のようです。AN-KA は、 ナブやナボ、ネブと読まれます。
 CDLI の翻字で{d}ag となっているものは以下のような字形です。

 ag は、AK の新アッシリアの字形から生じたもののようです。


mikeo_410@hotmail.com