mikeo_410


 文字の年表

文字と日本語
文字と話し言葉
古代の文字
文章語とダイグロシア

  文字は記号の中で、話し言葉と関連したものです。記号が音声言語の語彙に基いて解釈される点で他の記号と区別できます。
  通常、文字は読み上げることができ、それは話し言葉と同じ方法で理解されます。
  ただし、日本語は少し違っているようです。
  記号と文字は明確に区別が出来るわけではありません。手帳に「10:00 M」などと書いて、10時に森さんに会ったりするのは、文字とも記号とも言えます。
  数万年前に現生人類は音声言語を獲得し他の人類と異なった活動をするようになりました。人は母語とする話し言葉で思考するようになりました。それを記録する文字は文明にとって大変重要な役割を持っていると考えるのは当然なことです。
  また、近代の歴史的な出来事は国家や民族と結び付けて語られ、人々をグループ分けする根拠は音声言語です。そして話し言葉は残りません。残された遺物は文字を記録しています。

  数万年前、現生人類は「言葉」を獲得し、他の人類とは異なった活動跡を残すようになったと考えられています。現生人類は母語によって思考しています。したがって、現在知られている BC3200 ころからの文字の歴史が全てなのかどうかは分かりません。残りやすいものが残っただけのこととです。奇跡的に、石に刻んだものや焼成された粘土板が伝わりました。

年表

文字の歴史
出来事
十数万年前










ミトコンドリア・イブ
数万年前 現生人類が音声言語を獲得した。現生人類はこの頃アフリカから出た。
3万2千年前 ショーヴェ洞窟の壁画
1万5千年前 最終氷期最寒冷期が終わる。ラスコー洞窟壁画、ゲナスドルフ遺跡のスレートに絵。
BC9500 ギョベクリ・テペ遺跡。動物彫刻のある巨大石板群。麦の栽培。
BC8000




コイン状や錐体などの粘土片(陶片)に刻みを入れたものがエジプト、メソポタミア、アナトリア、パキスタンなど広範囲に見つかる。エラムのスサの出土品は、その外観と刻みが、原エラム文字、ウルク古拙文字の原型となったと考えられている。羊や牝牛などを表すものと、数字を表すものから成り、家畜の計数に使用されたとされ、粘土板記録が始まってからも長い期間使用されたとされる。
これは封土の刻印を焼いたものとも。

BC5500 ウバイド文化(新石器・銅器)
ウルクを含むメソポタミアの遺跡から、定住、農耕、牧畜を示す集落跡が見つかる。運河を作っていた。シュメールの初期王朝時代に相当し、神殿などが築かれた。
BC4000 南東ヨーロッパで、古ヨーロッパ文字、あるいはヴィンチャ文字と呼ばれることがある記号群が使われていた。
BC3500




粘土板、楔形文字。表語文字、音節文字。(メソポタミア)

BC3300 ヒエログリフ、ヒエラティック。エジプトの文字
BC3200

ウルク古拙文字
原エラム文字

BC3100 エラム線文字
BC2900 原エラム文字
BC2600
メモ


粘土板の記録が
楔形になった。
アッカド人が使用。
音節文字。

BC2200 (エラム楔形文字) エラム楔形文字。音節文字。(ペルシア付近)
BC1700 マリ文書
(ことごとく
アムル人の王朝の時代)
漢字の始まり
殷王朝の時代には亀甲獣骨文字などが残された。
殷の時代には、現在の漢字に繋がる文字が竹簡に、墨、筆を使って書かれた。細かく書き分けることができた。
BC1500 (ウガリット文字) 子音文字、ウガリット文字
BC1300 アマルナ文書

(線文字A,B)

BC1100

アッシリアが主に
楔形文字の文書を
残す

殷金文の長文化
初期の青銅器には
約1,200種類の記号
が確認されている
が解読されていな
い。
殷の末期には、40
文字程度の成文銘
が見られ読み取れ
る。
これらの文字は、
BC770頃までは内側
に鋳込まれた。
(キプロス文字)
BC1070 西周金文
周の青銅器も殷と
同じ工房で作成さ
れたと見られ500字
に及ぶ長文も鋳込
まれた。
褒章として諸侯に
渡されたもので功
績、領地、褒賞に
付いて記してい
る。
BC1050 フェニキア文字
BC900













アルファベット、ギリシャ文字
大篆(篆書体の始
め)西周の宣王
(BC827-BC782)の
時代に金文が整理
され「大篆」が編
纂されたとされる
BC770 東周(列国)金文
春秋戦国時代とな
り、国ごとに字義
や字形が異なるよ
うになった。
青銅器は祭祀用に
限られ、異なった
書体も登場した。
外側に文字が鋳込
まれるようにる。
BC700 古イタリア文字
ラテン文字
BC671 ニネヴェ図書館 (新アッシリアの
メンフィス侵攻)
BC660 デモティックの
最初の記録
BC600 (新バビロニア)

ブラーフミー文字
カローシュティー文字
アラム文字
(確実なのはBC440)
BC540
BC520 アケメネス朝ペル
シア(キュロス
・シリンダー)
ペルシア楔形文字
BC400




(パーニニの文法) ギリシア文字、ラ
テン文字の字形や
正書法が定まる
BC380

石鼓文
年代は定かでない
が石鼓(石碑)
は、金文を整理し
た大篆で記されて
いる。
秦の公文書の小篆
となった。現在も
印鑑に使われる篆
書体の最古の記録

BC306 プトレマイオス朝
コイネー・ギリシ
ア文字の時代
(コイネー)
BC272 碑文の
パフラヴィー文字
BC221 漢字の統一
秦は、小篆を公文
書に使用した。小
篆を元に効率の良
い秦隷が作られた
BC196 メンフィス勅令
(ロゼッタ・
ストーン)
BC141 ヘブライ文字
BC100
BC30 ローマ属州
ラテン語が公用語に
(古典ラテン語)
100 シリア文字
エデッサは初期
キリスト教の中心
となり、聖書がギ
リシア語からシリ
ア語翻訳され、複
数の書体の典礼
文字として残った
249















最古の楷書
呉の朱然(182-249)
の墓の名刺。
同じころに草書も
使われた。
ルーン文字
ゲルマン諸語の表
記に使用された。
ギリシャ文字、ラ
テン文字、古イタ
リア文字が元とな
った
300 (コプト文字) ナバテア文字 コプト文字
エジプトで使われ
たギリシャ文字か
ら派生した。デモ
ティック由来の字
形もある。
アヴェスター文字
口承されたアヴェ
スターを記録。
12世紀ごろまで使
われた。
320 グプタ文字
インド北部を統一
したグプタ朝(320-
550)の時代にはサ
ンスクリット文学
の最盛期となり、
口承文献の文書化
が行われた。
(日本へ漢字伝来)
400













フスハー(アラビ
ア語の共通語)が
ナバテア文字から
派生した文字で記
されるようになる
アングロサクソン
のルーン文字使用
451

デモティックの最
後の記録
(フィラエ神殿壁)

500 シッダマートリカ
ーは日本に梵字
(悉曇文字)とし
て伝来した。
530 書物のパフラヴィ

サーサーン朝ペル
シアのホスロー1世
(521-579)は、ギ
リシア語文献、サ
ンスクリット語文
献をペルシャ語に
翻訳した。(この
文字は前2世紀から
あったようだ)
600 ギリシア語が公用
語となった
ナーガリー
646 イスラム支配下
700 (アラビア文字) アラビア文字 古ドイツ語のラテ
ン文字表記
800 仮名 古フランス語、古
イタリア語が認識
される
940 キリル文字
1066 古英語のラテン文
字表記(ノルマン
王朝)
1200 デーヴァナーガリー
1400 ラテン文字の I とJ
が区別される
1446 ハングル
1450 グーテンベルクの活版印刷機
1687 「プリンキピア」刊行「自然哲学の数学的諸原理」アイザック・ニュートン(1642-1727)
1854


木材を材料に紙の量産紙が量産されて始めて今日のようなマスコミュニケーションの時代になる
2012 文書の本格的な電子化文字はパソコンで扱うものになった。文字だけでなく視覚情報の新しい活用が可能になっている。Unicodeが一般的となりどの地域のパソコンでも世界中の文字を表示できる状況になった。
携帯端末も264dpiの製品があり、印刷品質になった。

文字の系統

  年表は以下のような系統で記しています。個別の文字に付いては「古代の文字」にあります。

  現在語られる文字の起源のうち最も古いのはメソポタミアの陶片のようです。8千年前とも言うようですが陶片は年代が測定できるものではありません。
  年代に付いては他の資料も同じで大多数が年代が定かではないものだと思います。
  ウルク古拙文字は近代的な発掘調査で発見されたもので地質学的な年代の裏付けがあるものだと思います。
  BC3200ころからBC2600ころまで線刻で粘土板などに記されました。BC2600ころからは「楔形文字」になったと考えられています。
  楔形文字の歴史は、絵文字が字義に対応する「話し言葉」の音で読まれると言う文字の発生の説明に合っています。
  BC2600以降の楔形文字は、表語文字と音節文字を組み合わせた文字体系と見られています。

  エジプトの最古の文字の記録はスコーピオン・キングの墓を含むアビュドスのネクロポリス Umm el-Qa'ab の U 墓の発掘品のようです。
  U-j(スコーピオン・キング)からは荷札と見られる動植物の絵を書いたタグが見つかっています。第1王朝のナルメルの前の王墓からはセレクと共にヒエログリフの文字の形状が描かれた陶片などが見つかるようです。王朝や歴代の王の在位の編年を信じれば BC3100 ころと言うことになります。年代が測定されているのはスコーピオン・キングの墓の甕の残留物で BC3150 が最も古いと言うことのようです。
  しかし長文の文章が書かれた遺物は第5王朝の時代までないようです。BC2450 ころにはウナス王のピラミッド・テキストのような長文がヒエログリフで記されました。この時代にはヒエラティックは在庫管理表のような用途で使用されていました。
  この後の文字の記録は数百年希薄なようです。
  古代エジプトの文字に付いて詳しく知られているのは新王国(BC1570-BC1070)の500年間のことのようです。
  新王国の時代の文字は、1子音文字、2子音文字、3子音文字で構成される子音文字として解釈されています。

  漢字は楔形文字と同じ構成の文字と思います。年代が遅く墨、筆、竹簡と言った筆記環境のおかげで造字が容易だったことが異なっていたのだと思います。楔形文字も千以上の字形を作りましたが書き分けることは困難だったと思います。

  話し言葉を区切って発声すれば音節に帰着します。音節文字だけの文字セットは話し言葉を写す方法としては自然な方法です。エラム楔形文字は音節文字だとされています。ただし字形が共通なので本当に音節文字だけで書いていたのかどうかは確認できません。音節の捉え方は多様なのでハングルのように後々まで作られることがありました。

  古代エジプトの2子音文字、3子音文字は、1子音文字で代替できるので、最小の文字のセットは1子音文字になります。ウガリット文字やフェニキア文字のような1子音文字だけの文字セットが使用されました。

  子音文字も音素文字ですが、音節を音素で書き表すアルファベットはギリシア文字が最初です。基本的には音素の表記は1つあれば良いので現在ではラテン文字が広く使われています。

メソポタミアの文字

  メソポタミアとその周辺の主要な「話し言葉」、文字は概ね以下のようだったとされています。

メソポタミアの言語
BC3200 - ウルク古拙文字 バビロニア アッシリア アナトリア カナン・シリア ペルシア ギリシア
BC2500 - 楔形文字 アッカド語 アッシリア語
BC2100 - アッカド文字 エラム
楔形文字
BC1900 - アムル語 アムル語
BC1570 - カッシート語 カナン諸語

ルウイ語

線文字A
BC1400 - ヒッタイト語 フルリ語

原カナン
文字

ウガリット
文字
線文字B
BC1200 -
BC1000 - カナン諸語 フェニキア文字
BC800 - (フリギア) ギリシア文字
BC600 - (リディア)


BC500 -   (アケメネス朝) アラム文字 ペルシア
楔形文字
BC300 - ギリシア文字 シリア文字
BC100 - ヘブライ文字

アッカド文字

  「アッカド文字」(楔形文字)は、アッカド帝国の時代に始まった楔形文字による記法です。文字を作ったシュメール人が楔形文字を使用している間は、楔形文字は、「字義」と、それを指す「シュメール語の音」で構成されていました。アッカド人が使用するようになると、アッカド人は「字義」に当たるアッカド語の「音」で読むようになりました。シュメール人とアッカド人は同じ文字を異なる「音」で読みました。アッカド語にしかない語彙や外来の言葉を表すために借字が行われ、音節文字が生じたのだと思います。
  同じ文字を音声言語によって異なった読みをする「訓読み」と、共通の音節文字からなる文字システムを「アッカド文字」と呼ぶことにします。この文字システムは主にカナン諸語を話す人々によって長く使用されました。シュメール人やアッカド人はBC2000ころには認識されなくなって行ったものと思います。
  「アッカド文字」は漢字を導入した日本で起きたことからの類推です。古事記の序で「1音1字」を説明して「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」と記されています。太安万侶は中国語を書いたつもりはなく、読み手も「姓に於いて日下は『玖沙訶』と言い、名に於いて帯を『多羅斯』と言う」と訓読しただけで中国語でどう読むかを気にしなかったと思います。
  漢文は漢字圏で文章が通じます。しかし読み上げるとまったく通じません。漢文は、それぞれの国語で訓読されました。
  ただし「玖沙訶」、「多羅斯」は「借字」で音節表記です。「帯」を「たらし」と言うのは日本人だけです。
  借字による「1音1字」は、漢字の「字音」の1音節目の「音」だけを使用し、それぞれの漢字の「字義」は無視します。
  日本では漢字に「音読み」と「訓読み」があります。「音読み」は日本語とは無関係だった訳ですが「字音」として使われ続けています。漢字の「音読み」は呉音や漢音と言った区別はありますが、1つの場所1つの時点では1つなのが原則です。これは文字の原則でもあり文字の識別と造語に重要な役割を果たしてきました。
  万葉仮名は漢字です。漢字だけで書いた「仮名交じり文」です。万葉集の「孤悲而死萬思」は、「こひてしなまし」と読まれたと考えられています。もし仮名文字が使用されていれば、おそらく「こひて死なまし」と書いたところで、「孤、悲、而、萬、思」は借字です。
  借字であれば、たとえば「木比而死麻斯」と書いても良い訳ですが、「独りは悲しい」のかどうかは分かりません。

  メソポタミアには馬はいなかったとされています。居たのはアジアノロバだとされています。
  シュメール人やアッカド人にとって馬は外来でした。
  アッカド語の「馬」は sisi となり、文字でも ZI-ZI と書かれました。アッカド人はシュメール人の「音」が  ZI と言う文字を借字して「馬」と書きました。
  漢字であれば、「自自」や「耳耳」と借字(音写)したもので、字義からは「馬」とは見えません。
  シュメール人の ZI の字義は「喉(のど)」や「生命」だったようです。読み手にとっては、「喉喉」や「命命」のように見えたと言うことです。
  「話し言葉」で「馬」を「シシ」や「ジジ」と言ったアッカド人だけが、ZI-ZI と読み上げれば「馬」だと認識しました。

  ZI-ZI は「喉喉」や「命命」に見え、借字かどうかは区別がありません。文意を理解して初めて分かることです。そこで ANSHE-ZI-ZI と書いたりしたのだと思います。ロバは ANSHE と言う1文字で表されていました。ANSHE はシュメール人もアッカド人もロバと言う「字義」で理解し、それぞれの「話し言葉」のロバの音で「訓読」する文字でした。ANSHE-ZI-ZI は「形声」です。漢字の大半は「形声」で造字されたものです。

  それから数百年経ってアマルナ文書の時代には、馬は ANSHE-KUR-RA と書かれるようになっていました。このラテン転写は sisi で、アッカド語の馬だと解釈されています。しかし、アマルナ文書を書いている人々はアッカド語ではなくカナン諸語を話していました。アッカド語の「馬」を音写した「シシ(ZI-ZI)」は、アッカド語を話す人々以外には馬とは解釈できません。そこで会意的な ANSHE-KUR-RA に変わって行ったのだと思います。おそらく ANSHE-KUR-RA は「外来のロバ」や「山の向こうのロバ」と言った「字義」を使用した表記です。

  アッカド文字の音節文字はミタンニのように多様に記述できます。地名や人名に付いて綴りには注意が向けられていないことも特徴だと思います。理由は分かりませんがアマルナ文書にはエジプト発の書簡があり、エジプトの王の名も書簡で異なった綴りがされています。

 バビロニアの言葉

  バビロニアで話された言葉はバビロニア語と呼ばれますが何も物語りません。またアッカド語を話したことになっていますが根拠が分かりません。アッカド語を話したのならアッカド人かと言うと、そうでもないようです。
  アッカド人や、アッカド人の都市と言った概念はBC2000以降、シュメール人と同様に認識されなくなったのではないかと思います。
  そこでバビロニアを治めた王朝に着目します。バビロン第1王朝はアムル人の王朝でアムル語を使用したと思います。
  BC1570からBC1157 までカッシート朝(バビロン第3王朝)が続きます。
  バビロン第10王朝は新アッシリアの王が兼務しました。
  第4から第9王朝と、新バビロニアのことは良く分かりません。
  バビロン捕囚でかつてのユダ王国の人々がアラム語を話すようになったのなら新バビロニアではアラム語が使用されていたことになります。
  おそらく、バビロン第1王朝以来、北西セム語と言われるアムル語やカナン諸語、アラム語に近い言葉が一貫して話されていたのではないかと推測します。

アッシリアの言葉

  紀元前1813年にアッシリアに帝国を築いたのシャムシ・アダド1世はアムル人でした。
  周辺のバビロニア、マリ王国、ヤムハド王国もアムル人の王朝でした。マリ文書には、この時代の書簡が残ります。
  アッカド文字(楔形文字)の文書ですが、アムル語を話す人々の間の書簡です。
  中アッシリア、新アッシリアの時代の人々がどんな人々かはバビロニアのようには説明されていません。バビロニアはアムル人の後、カッシート人やエラム人が王朝を築きました。アッシリアもいろいろなことがあって不思議はありません。
  しかし、アッシリアの王朝は継続して王名が振られています。新アッシリアのシャムシ・アダドは5世と表記されます。少なくとも歴史家はいくらかの継続性を認めているのだと思います。シャムシ・アダドを名乗った王がいる事は AN-IM と言う楔形文字が「アダド」と読まれたことを意味し、シャムシ・アダド1世以来、北西セム語と言われるアムル語やカナン諸語、アラム語に近い言葉が一貫して話されていたと考えても外れていないように思います。
  アッシリアの王朝はアッカド帝国の継承者を自認していたことも事実だろうと思いますが、サルゴンと言う王はシャムシ・アダド1世の前に1人と、新アッシリアの1人だけです。
  新アッシリアではアラム語が公用語だったとも言われますが、フェニキア文字が使われたことを指すものと思います。

アラムとシリア

列王記のアラム
Melachim A 20:1 ובן הדד מלך ארם
wbn hdd mlk arm
1 Kings 21:22 υιος αδερ βασιλευς συριας
息子 アゼル シリア
ベン・アダド

  カルカルの戦い(BC853)の翌年、イスラエル王国の首都サマリアはアラム・ダマスカスのベン・アダト王によって包囲されます。アラム・ダマスカスの人々は列王記上にギリシア語でシリア人と記されました。ヘブライ語聖書ではアラムと記されています。ヘブライ語聖書の英訳にはアラムをシリアと訳しているものもあるようです。
  イスラエル人以外はシリア人で、シリアとアラムを区別することもないようです。
  アッシリアは新アッシリアとして帝国を築く前にはアラム人の侵入を記録しています。これは長期間続きアッシリアを衰退させました。このアラム人はグザナなどの新ヒッタイト都市国家群と見られた都市の人々でした。キリキアからアレッポ周辺にアラム語・フェニキア文字の碑文を残しています。これがフェニキア文字の使用された最初期の記録です。
  アラム語を記録する文字はフェニキア文字でした。しかし、フェニキア文字はカナン諸語の表記に広く使用され、古ヘブライ文字とも呼ばれます。フェニキア文字の文書は何語を記録しているのかは簡単には知りえません。
  年代の確かなアラム文字の文書は前5世紀のイスラエル人によって記されたものです。アラム文字の命名はシリア地域で使用された文字と言った意味のようでアラム語とは直接関係が無いようです。
  ただし、アラム語をシリアやカナンで話されたカナン諸語だとすれば、アラム語・アラム文字の文書だと言うのは当たっています。

カナン諸語

  カナンという呼称は初期の楔形文書にもあるということですが、アマルナ文書の EA151 の Ki-na-an-na が該当するようです。
  この書簡はエジプトのファラオのカナン情勢に関する問いにティルスの a-bi-mlk が答えるものです。
  カナンは自称と考えて良いものと思います。
  長い間には人々は移動し、言葉も変化しますがカナンを含むメソポタミアでは北西セム語に分類される近しい言葉が話されていたようです。正しい呼称は分からないので「カナン諸語」と呼びます。
  カナン諸語は、王を mlk と言い、楔形文字のAN-IMをアダドのように読んだとされる人々です。
  ヘブライ語やウガリット語だけでなく、アッシリアやバビロニアも該当します。アラビア語も該当し現在も話者の多い言葉です。
  アラビア語はヘブライ語と多くの語彙が共通するようです。アラビア語では王は「マルカ」、息子は「ウブナ」と聞こえ、前述の「列王記のアラム」の表のヘブライ語と対応します。

ギリシア

  ギリシア人がヘレネスとして一体感を持ち、言葉や文字が統一されたことが確実なのは前5世紀ごろのことのようです。
  ヘロドトスはアナトリアの出身のドーリア人と見られていますがイオニア語で執筆したとされています。ヘロドトスは「いまやマケドニア人もヘレネスだ」と経緯を書いています。(hdt. 5.22)
  ヘロドトスの時代には、アッティカ、イオニアの言葉や文字を標準とするギリシア語が形成されていたようです。
  しかしギリシア語の古典と言うのはBC330ころのアレクサンドロス3世の東征以降のようです。
  BC1200ころのギリシア人は「ホメロスのアカイア人」や「ミケーネ人」と表されるようです。
  ギリシア人はフェニキア文字を採用しギリシア文字を作りましたが、それ以前に線文字A、Bがギリシア語を表すのに使用されていました。線文字B と類似のキプロス音節文字はBC400ころまでギリシア語の表記に使用されました。
  ギリシア人は古くからアナトリアにいました。

エジプトの文字

  現在のエジプトの主要な言葉はアラビア語です。エジプト語は母語とする人々がいなくなった古代の音声言語を指しています。
  エジプト語の年代区分は以下のようです。

エジプト語の年代区分
年代 呼称 備考
― BC2600 原エジプト語
Archaic Egyptian
・初期王朝(BC3100-BC2686)
BC2600 ― BC2000 古エジプト語
Old Egyptian

・古王国(BC2686-BC2185)
・第1中間期の前半(BC2180-BC2160)

BC2000 ― BC1300

中エジプト語
Middle Egyptian

・第1中間期の後半(BC2160-BC2040)
・中王国(BC2040-BC1782)
・第2中間期(BC1782-BC1570)
・新王国時代の前半(BC1570-BC1300)

BC1300 ― BC700 新エジプト語
Late Egyptian
・新王国時代の後半(BC1300-BC1070)
・第三中間期(BC1070-前7世紀)
前7世紀 ― 4世紀 デモティック期エジプト語
Demotic Egyptian
・BC671 新アッシリアがメンフィス占領
・BC525 アケメネス朝ペルシアの支配
・プトレマイオス朝(BC305-BC30)
・ローマ皇帝の私領アエギュプトゥス
4世紀 ― 17世紀

コプト・エジプト語
Coptic Egyptian

・東ローマ帝国(395-1453)ギリシア語
・639年イスラム帝国(アラビア語)

  しかし、エジプト語はロゼッタ・ストーンが解読されるまで知られなかったはずです。

新王国前のヒエログリフの資料
区分 王朝 紀元前 資料、備考
原始王朝 3150 アビュドスのネクロポリス(Umm el-Qa'ab)
・U-j 墓(スコーピオン・キング)の荷札
・Tomb B 7,9(カ)の陶片のセレク
・Tomb B のIry-Hor、Scorpion2の遺物
初期王朝 1
2
3100 ・ナルメル王のパレット、カナンを含む
12の遺跡でセレクが確認された
・歴代の王のセレクなど
古王国

3

2680 階段ピラミッド(ジョセル)が作られる
碑文などが多く残されるようになる
4 2613 ・ワジ・アル・ジャルフ(Wadi al-Jarf)の
パピルス
・クフ王の大ピラミッド。(ギザ)
(4代目カフラー以降は良く知られず
文書が薄かったとようだ)
5 2494 ・アブシール・パピルス(Abusir Papyri)
ネフェルイルカラー王の葬祭殿パピルス片
・ウナス王のピラミッド(玄室の壁面の
ピラミッド・テキスト)
・パレルモ・ストーン(作られた年代は
不詳、ネフェルイルカラーまでの歴代王の
各年の活動を記録)
6 2345 ・テティ王のピラミッド・テキスト
・ウェニの伝記
ウェニ(宰相)のマスタバ(アビュドス)
第1中間期 7-10 2180 地方勢力の台頭で統一が失われた時代
中王国 11 2040 メンチュヘテプ2世の神殿王墓
12 1991 ・ピラミッドの建設を再開。構造と石材の
流用によって全て崩壊。盗掘も多い
・多くの文学作品が創作されたとされる
第2中間期 13-17 1782 ・最後のピラミッド(13王朝ケンジェル)
・ヒクソスによる支配
・ウェストカー・パピルス(Berlin 3033)
新王国 18 1570 良く知られるヒエログリフの使用
  エジプト語は長い間、歴史に影響を与えておらず、知られるのは長文の文書が残された期間だけだと思います。
  コプト語がどの程度エジプト語を伝えているのかも定かではないものと思います。
  エジプト語の話しは概ね新エジプト語のことだと考えられます。

  プトレマイオス朝(BC305-BC30)の時代には多くのギリシア語・ギリシア文字の文献がエジプトで作られました。
  コプト文字が概ねギリシア文字であることから見ても、この時期以降はエジプト語の記述にもギリシア文字が広く使用されたものと思います。
  デモティック期は、新アッシリアの支配下にあり、後にはアケメネス朝ペルシアに併合されました。
  この時期は新アッシリアがニネヴェ図書館に楔形文字の文書を残した以外は、ほとんど資料が無いようです。
  エレファンティン・パピルスにはデモティックの文書が含まれるようですがイスラエル人コミュニティの文書です。

  最も古い長文の資料は第5王朝のウナス王のピラミッド・テキストのようです。このヒエログリフの長文以外には前後に例がないようです。
  年代の確かな資料は他に無く、新エジプト語の時代まで長文の資料は無いようです。

  BC2450ころのウナス王まで長文の例が上げられていませんが BC3100 ころからヒエログリフの文字で容器に線刻された遺物は知られます。
  それらの字形は後に長文で使用されるヒエログリフと概ね同じようです。
  また、ウナス王のピラミッド・テキストは、字形だけでなく、縦に引かれた罫線の中に整然と文字が並ぶ様子も新エジプト語の時代と区別が付きません。エジプトの文字の使用は BC3100 ころに始まったのかもしれませんが典例とすべき文字システムが既に存在していたのかも知れません。

  新エジプト語の時代の文字は、子音文字だと見られています。1子音文字だけでなく、2子音文字、3子音文字が使用されました。
  エジプトには馬はおらず、ロバがいました。馬はヒクソスによって、戦車や製鉄技術と共に第2中間期に入ってきたと考えられています。
  Unicode が収録するヒエログリフには馬が含まれます。Unicode は新エジプト語の時代の字形を収録しているようです。
  ヒエログリフは造字によって「馬」を取り入れました。ロバは aA、馬は zzmt だったようです。

  ヒエログリフの1子音文字が表す音素数は 24 のようです。フェニキア文字などカナン諸語の音素の認識は 22 です。f や x、i、dʒ があり、sˤ(sade)を持たないようです。

  ギリシア文字やラテン文字はフェニキア文字から始まっていますが、f 、x、i が加わっています。フェニキア文字の sade はギリシア文字の san だったようですが使用されなくなったようです。
  ʃ や SH、ħ に当たる音はフェニキア文字やヒエログリフにありますがギリシア文字やラテン文字に含まれませんでした。
  dʒ はヒエログリフにありますがギリシア文字やラテン文字に含まれませんでした。
  エジプト語とカナン諸語、ギリシア語は音素の認識に付いて大きな差異は無いもののようです。

  コプト文字は4世紀に使用されるようになったとされています。コプト文字はエジプトにコイネーがどう伝わったかを知る手がかりを与えます。

  ギリシア文字にデモティク由来の7文字が加えられていると説明されています。

ギリシア文字
Name alpha beta gamma delta epsilon digamma zeta eta theta iota kappa lambda mu nu xi omicron pi koppa rho sigma tau upsilon phi chi psi omega sampi
Letter Α Β Γ Δ Ε ϛʹ Ζ Η Θ Ι Κ Λ Μ Ν Ξ Ο Π Ϟ Ρ Σ Τ Υ Φ Χ Ψ Ω ϡ
古代 [a]
[aː]
[b] [ɡ] [d] [e] [zd]
[dz]
[ɛː] [tʰ] [i]
[iː]
[k] [l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [y]
[yː]
[pʰ] [kʰ] [ps] [ɔː]
現代 [a] [v] [ɣ]
[ʝ]
[ð] [e] [z] [i] [θ] [i] [k]
[c]
[l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [i] [f] [x]
[ç]
[ps] [o]
数字 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 200 300 400 500 600 700 800 900

  ギリシアから伝わったコイネーの文字は27あったと思います。それは数値を表すためにギリシア文字が使用されていたからです。そのイオニア式記数法もコイネーと共に伝播したはずです。文章を書くのに使用されたのは24なので、3つは主に数字として使用されたと思います。ギリシアでは 6:ディガンマ(Ϝ)、90:コッパ(Ϙ、Ϟ)、900:サンピ(Ϡ)です。

  数字の 6 として使用されていたディガンマ(Ϝ)は筆記体で伝えられたようです。ディガンマ(Ϝ)は筆記体は、その後のスティグマ(Ϛ)と同じ形状だったので、今では 6 を表す文字をスティグマと呼んでいるようです。コイネーが伝わった当初はスティグマは、まだ使用されていなかったようです。4世紀には使用されていたのかも知れません。
  90 と 900 に使用するコッパとサンピはギリシア文字の字形と異なる文字が割り当てられました。コプト文字で 90 に使用されたのは FEI のようです。

  現在のギリシア文字では Φ が [f]、Χ が [x] ですが、コプト文字では FEI(Ϥ)、KEI(Ϧ)が作られました。少なくともエジプトでは4世紀にもΦ が [pʰ] 、Χ が [kʰ] だったようです。
  j(dj)、f、h、i、q、ʃ、x が増やされましたが、h、q、ʃ はフェニキア文字にもありました。j(dj)以外は必ずしもエジプト語を表すためとは言えないかも知れません。

音節文字

  アッカド文字(楔形文字)は音節文字を含みました。

  アマルナ文書のミタンニは左図のように音節文字で表記されました。
  ミタンニは自ら mi-i-it-ta-an-ni と6文字で表しました。ミタンニは、C(子音)V(母音)型の音節だけでなくVC型の音節を使用しました。
  楔形文字で使用された音節はCVC型もあります。したがって、音節数は多く、ラテン転写に見られる音節の種類は 575 あるようです。しかし、同じ文字が複数に読まれるので、Unicode 787 文字中 246 が音節表記に使用されています。母音が4つ、子音が14と言うのが基本で、母音4つとCV型 14 x 4 = 56 と言うのが基本的な音節です。
  アッカド文字は漢文のように異なる「話し言葉」の人々の間で通じました。それぞれが「訓読み」するので、音声は通じませんが文意は通じました。しかし、音節文字は地名や人名のようなもの意外は通じません。万葉集にある「余能奈可」(世の中)は、他の音声言語の人々には理解不能です。

  仮名文字のように音節文字だけを抜き出して「話し言葉」を書き留めることは長い歴史の間に常に行われていたものと思います。しかし、それは「話し言葉」を共有する人々の間でのみ通用するものでした。また、アッカド文字に比べて書かなければならない文字数がずっと多いことも欠点になります。 したがって、音節文字だけを抜き出したセットを用意すると言う方法が主要な文字になることはなかったのだと思います。 

  エラム楔形文字は BC2200 ころに、アッカド文字から音節文字を130ほど選んで、音節文字だけのセットを作ったとされているようです。その証拠は「アッカド帝国とエラムの平和条約」のようです。
  しかし、ダレイオス1世(BC522-BC486)のベヒストゥン碑文のエラム楔形文字はアッカド文字と変わらない字形のようです。ほぼ、「新アッシリア」と呼ばれる字形で、アマルナ文書間の字形の差異より小さいように見えます。
  これは「エラム楔形文字」が存在したかどうかが確実でないことを示しています。エラム人は何度もバビロニアに王朝を築いた人々であり、またエラム地方は早くからアッカド文字が使用されていました。同じ字形では長文でなければアッカド文字の文書と区別が出来ません。
  ダレイオスが da-ri-ia-ma-u-ish と綴られていますが ma-u が mu と読まれたように見えます。これはペルシア楔形文字の特徴です。ペルシア楔形文字はアブギダで va-u を vu と読みます。

  ベヒストゥン碑文のエラム楔形文字の最初の部分は下図のように読まれ、エラム人は王を「スンキ」や「シュンキ」と呼ぶ人々だったようです。

  ベヒストゥン碑文のアッカド文字の部分は、いろいろな音声言語の人々が、それぞれ「訓読」したものだと思います。
  エラム楔形文字とペルシア楔形文字の部分は、特定の音声言語の人々に向けたものだと言うことになります。
  ペルシア楔形文字の部分はペルシア語が記されているのだと思います。エラム楔形文字の部分が何語を示すのかは説明されていないようです。

  ペルシア楔形文字がいつから使用されているのかは分かりません。ブラーフミー文字は測定された年代として前6世紀に存在したようです。しかし資料は陶片とあるので測定されたのは付随物です。カローシュティー文字は前4世紀からとされています。
  ブラーフミー文字、カローシュティー文字はアラム文字の派生文字とされますがアラム文字自体の年代の確かな資料は前5世紀のもののようです。
  この3者にはアブギダの特徴があるとされています。しかし長文の資料は、ペルシア楔形文字はダレイオス1世の時代の資料で、ブラーフミー文字、カローシュティー文字の文書は年代の新しいものになります。ブラーフミー文字、カローシュティー文字が最初からアブギダの特徴を持っていたのかどうかは良く分かりません。

  表の「th」の列の上段は 「tha」で、下段は「thu」です。下段を「th + u」と見ると、上段は「th」が随伴母音 a を伴っていると見ることができます。「a」の段は母音を記さない、アブギダだと見ることが出来ます。「th + u」を1文字と見れば音節文字です。

ブラーフミー文字の例
カローシュティー文字の例

  左図はブラーフミー文字の例です。「ka」「la」は、母音を表す字母が書かれていません。母音が a 以外の場合は、母音を示す字母が合成されます。
  カローシュティー文字も同様でアブギダの特徴を持っています。
  この随伴母音 a を伴っている基本の字母と、a 以外の母音の字母を組み合わせる方法が、なぜ重要なのかは分かりません。しかし特定の誰かが発明したことを裏付けるとするなら画期的です。

 音節文字をアブギダで作る場合CV型だけなら、母音数と子音数の積の数だけ音節文字が出来ます。「話し言葉」で使用されているかどうかとは無関係です。「話し言葉」に合わせて最適化しようとする試みは常にあったと思います。

  インドでヴェーダや仏典、他の経典などが文書になるのは4世紀以降で、グプタ文字によって実現されました。グプタ文字はブラーフミー文字に近く、あまり変化がなかったようです。文書化が進んだのは文字以外の要素によっているようです。
  重要な口承文献が文書になると、文字の使用状況は一変し、文字も変化することになったようです。6世紀には日本にも伝来する悉曇文字が、7世紀にはナーガリーが使われます。サンスクリットを表す文字として使用されているデーヴァナーガリーは13世紀に作られました。これらの文字はアブギダの代表に上げられます。

  重要な音節文字にハングルがあります。ハングルは15世紀に作られました。ハングルはCVC型の音節を表し、Unicode の ac00-d7a3 に 11,172 文字の音節文字を登録しています。
  ハングルの子音の認識は 18 で、他の音声言語と大差ありませんが、母音は 21 と多くなっています.。CVC の音節末のC(子音)はパッチム(終声)と呼ばれるようです。パッチムは27の字母があります。
  V = 21 , C = 18、(パッチム)F = 27 として、V + CV + VF + CVF = 11,172 と言うことです。

  日本の仮名は10世紀には使用されていましたが、アブギダではない代表だと思います。1つの文字は字母に分けることは出来ず、字形は全て独立に決まったもので音による関連性はありません。仮名は外来の漢字の音を借字し、借字の字形を簡略化して成立しました。

漢字

  漢字の起源はまったく想像が及びません。甲骨文字が起源と言われても直ちに納得できるものではありません。
  年代的には BC1700 ころに起源があるとされるのでウガリット文字などよりは古い年代が与えられています。
  直接的な起源は周代(BC1046-BC771)で、形声によって大量の造字が行われ、多くの漢籍が著されたと考えられています。
  諸子百家や史書五経は春秋戦国時代(BC771-BC221)に当たります。
  BC221に秦が中国を統一すると、春秋戦国時代の漢籍を典例とした漢文の体系が作られていくことになったようです。
  日本に伝来した漢籍のほとんどは漢の時代に編纂されたものです。
  中国でも漢字は作った音声言語の人々ではない人々によって使用されていたものと思います。つまり、秦代以降の人々にとって、字音は「話し言葉」の語彙とは無関係に決まっていたものと思います。

  漢字を導入した日本で起きたことは日本人が一番良く知っています。日本人は名前を文字で付けます。戸籍には読みが記録されてきませんでした。話していて通じないと「どう書くの?」と聞きます。日本人の話し言葉の語彙は文字で決まっています。

子音文字

  楔形文字の音節文字はアッカド帝国の時代にシュメール人の文字をアッカド人が使用し、借字が行われて生じたのだと思います。
  したがって音節文字の始まりは BC2300 ころまで遡るのかも知れません。表音文字の最初は音節文字だったようです。
  しかし前5世紀までの間、新たな音節文字が作られることはなかったようです。
  BC1500ごろから広く使用されたのは子音文字でした。子音文字だけの文字のセットはウガリット文字が最初のようです。
  エジプトのヒエログリフやヒエラティックは表語文字と子音文字で構成されています。ただし、これが確実なのは新王国時代と呼ばれるBC1570以降です。この時代には長文の資料が多くあり最も良く知られています。この時代には、1子音、2子音、3子音の文字と表語文字を組み合わせて文章が表されていました。
  これより前の長文の資料は BC2450ころのウナス王のピラミッド・テキストまで年代の確かなものは存在しないようです。この資料の前には長文の資料がないようです。ウナス王のピラミッド・テキストは、縦に引かれた罫線内にヒエログリフが整然と並び、新王国時代の遺物と区別が付きません。
  エジプトの文字の起源は定かではありませんが、ウガリット文字やフェニキア文字はエジプトの1子音文字だけで文章を記すと言うアイデアに基いていると考えられているようです。

  言葉を分解していくと発生できる最小単位の音節に行き着きます。文字が「話し言葉」を写す目的で作られるのなら音節文字になるのが自然なことに思えます。音節が音素から構成されていることに直接到達すると言うのは理解できません。
  実際には「話し言葉」を写すと言う意図はあまりなかったようで、音節文字は借字によって始まったようです。

  ヒエログリフやヒエラティックでは「送り仮名」と取れる記述が多く見られます。「誤り」は「ゴ」ではなく、「あやまり」と読みを誘導します。「誤」の訓は「あやまり」なので、理屈では「あやまり・り」と書いていることになります。第4王朝の最初の王スネフェルの名はいろいろに記されています。記された年代は主に新王国の時代以降です。
  nfr と言う文字は複数の読み方が存在し送り仮名が付けられたと解釈すれば、「nfr」、「nfr-r」、「nfr-f-r」と記されたことに疑問はありません。
  これは、古代エジプトの文字は、新王国の人々にとっては外来の文字であることを示しているのだと思います。古代エジプトの文字は何か典例とすべきものが存在し、取り入れられたものだと推測します。
  音素文字も直接到達したのではなく、音節文字の存在があって、その分析から生じたのだと思います。

  ただしエジプトの文字が子音文字であることは証拠を上げて説明されていないことに見えます。同じ文字がどのような規則性で母音交代すると言うのか示されてはいないように思います。
  音素文字に到達しただけでなく、子音文字であることは難解です。唯一思いつくのは速記が行われた結果と言うことです。

  とにかく、ウガリット文字やフェニキア文字など子音文字は存在しました。セム語では子音文字が適切だったと言う説明がありますが理解できません。
  すくなくとも、ヘブライ語、アラビア語からは、子音文字が文字だけで音声が再現できないことが分かります。
  ヘブライ語聖書はニクダーを伴って伝承されました。点を打つことがニクダーで、8世紀にティベリア式発音を付与していると言うことのようです。子音文字と「話し言葉」の持つ規則性だけでは維持されないと言うことです。
  イスラムの聖典もアラビア文字の母音記号(シャクル、ハラカ)を伴って伝承されています。

  フェニキア文字とアラム文字は筆記環境の差異による字形の差があるだけの同じ文字です。フェニキア文字はBC1050ころからBC300ころまで主要な文字でした。その後はギリシア文字に変わります。しかし、プトレマイオス朝やセレウコス朝が衰退すると方形ヘブライ文字やシリア文字、ナバテア文字など子音文字が多く記録されました。
  パフラヴィー文字はインドヨーロッパ語族に分類されるペルシア語の記述に使用されました。

  その後ヘブライ語は死語になったと見られているようです。子音文字は7世紀以降はアラビア文字が多くの使用者のいる文字のようです。 
  ヘブライ語、ヘブライ文字は20世紀に再建されました。

子音文字と、その派生文字
BC AD
19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
・ヒエラテック(1子音文字が含まれる)
・ウガリット文字
・フェニキア文字(古ヘブライ文字)
・ギリシャ文字
・古イタリア文字
・ラテン文字
・ルーン文字
・コプト文字
・バクトリア文字
・アラム文字









・ヘブライ文字
・シリア文字
・ソグド文字
・突厥文字
・ナバテア文字
・アラビア文字
・パフラヴィ文字
・アヴェスタ文字
・カローシュティー文字
・ブラーフミー文字
・グプタ文字
・悉曇文字
(シッダマートリカー)
・ナーガリー文字
・南アラビア文字
・ゲエズ文字

音素文字

  音節が子音と母音の組み合わせであると気が付くと最小の記号のセットで音節を表すことが出来ます。
  音節を音素記号の組み合わせで表す文字の最初はギリシア文字でした。

  ギリシア文字は前9世紀から使用されたとされていますがフェニキア文字とほとんど区別ができません。
  おそらく、ギリシア人はフェニキア文字を使用していました。特に障害は考えられないのでフェニキア文字の最初期の利用者の1つだったものと思います。
  母音を書き表す点でギリシア文字は子音文字と区別されますが、ギリシア文字が母音を書き表すのに使用した文字はフェニキア文字の alf、he、yod、eyn、wau でした。したがって記された文字列を見ても区別はできません。
  「ネスターのカップ」の文字はギリシア文字だと思って転写すれば母音を書き表しているように見えますが、フェニキア文字として hymhr と転写すれば子音文字のようでもあります。

ギリシア文字
Name alpha beta gamma delta epsilon digamma zeta eta theta iota kappa lambda mu nu xi omicron pi koppa rho sigma tau upsilon phi chi psi omega sampi
Letter Α Β Γ Δ Ε ϛʹ Ζ Η Θ Ι Κ Λ Μ Ν Ξ Ο Π Ϟ Ρ Σ Τ Υ Φ Χ Ψ Ω ϡ
古代 [a]
[aː]
[b] [ɡ] [d] [e] [zd]
[dz]
[ɛː] [tʰ] [i]
[iː]
[k] [l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [y]
[yː]
[pʰ] [kʰ] [ps] [ɔː]
現代 [a] [v] [ɣ]
[ʝ]
[ð] [e] [z] [i] [θ] [i] [k]
[c]
[l] [m] [n] [ks] [o] [p] [r] [s] [t] [i] [f] [x]
[ç]
[ps] [o]
数字 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 200 300 400 500 600 700 800 900

  ギリシア語は前5世紀にアッティカ、イオニア方言を元に、ギリシア語、ギリシア文字、記数法が統一されたとされています。
  その後、アレクサンドロス3世の東征以降、コイネーは大変広い地域の共通語になったと見られています。
  前4世紀にはイオニア式記数法が使用されたと言うことなのでコイネーのアルファベットは27文字だったのだと思います。
  コイネーは24を7つの母音(ΑΙΥΕΟΗΩ)と14の子音(ΒΓΔΘΚΛΜΝΠΡΣΤΦΧ)に明確に分けていたとも見られているようです。残りは ΞΖΨ の3文字です。

コイネーの音節
母音
Α(ア) Ι(イ) Υ(ュ) Ε(エ) Ο(オ) Η(エー) Ω(オー)

Β バ行 ビュ べー ボー
Γ ガ行 ギュ ゲー ゴー
Χ カ行 キュ ケー コー

  当然 Ξ、Ζ、Ψ も使用されたはずで、[ks]、[zd]、[ps]  が音価です。日本語の音節数は 112 と数えられますが、ほぼ同規模のようです。

  フェニキア文字はイタリア半島でも使用され古イタリア文字になります。古イタリア文字はイタリアで記されていた文字の総称です。
  ローマ帝国の文字はそうした文字の1つとギリシア語の影響から作られたと考えられています。
  現在のラテン文字は、ラテン語の文字ではなく、西欧のほとんどの文字である Unicode のラテン文字のことです。
  西欧の文字はダイアクリティカルマークを伴ったり、書体が異なっていて必ずしも同じには見えませんが、全てラテン文字と呼ばれています。ギリシア文字の派生文字のうちラテン文字に含まれないのはキリル文字です。歴史的にはバクトリア文字、コプト文字があります。

  ラテン文字は中国のピン音や日本のローマ字のように「音」を表す方法として大変広く使用されています。音素文字といってもラテン文字がどこでも共通の「音」を示す訳ではないので「音声記号」が存在します。しかし実用範囲でラテン文字は「音」を表しています。
 


mikeo_410@hotmail.com