文字と話し言葉
文字と日本語 古代の文字 文字の年表 文章語とダイグロシア
言葉を話すことは人と動物を分つ基準に上げられます。現生人類が他の化石人類と異なった活動の跡を残すようになる数万年前に獲得した能力だと見られています。 言語の獲得には「コミュニケーション」と「思考」の2つの面があります。 コミュニケーションの高度化は、狩猟などの共同作業に効果を示したと考えられます。しかし、個体間で情報を交換していることは蟻や蜂などでも知られることで、言葉だけが高度なコミュニケーションと言うわけではありません。 人と動物を分つ基準は言語的思考の方にあるのだと思います。思考は心の中で言葉を紡ぐことです。 話し言葉は文章に表現でき相互に変換できると考えていますが文字の歴史は数千年しか知られていません。人のコミュニケーション能力として数えられるものには文字の効能が多く含まれています。しかし文字は「話し言葉」の歴史の、ほんの後端に確認されるものです。
言語的思考
人に限らず生物は物理法則を学んでいます。宇宙ステーションでもメダカは泳ぎ、クモは巣を掛けます。学習し、それを応用することが知識なら、概ね生物は知識を持っています。
こうした行動は「条件反射」と説明されるかも知れませんが人にとっても大変重要な部分を占めています。左図は同じ図形を上下逆にして並べたもののです。パソコンの画面に表示する「ボタン」の図ですが、私には左が凸、右が凹に見えます。2つのボタンは同じ図を180度回転したものです。これは明暗を影と認識し、光りは上から指していると言う学習によるものだと説明できます。人も多くのことを反射的スピードで判断や行動に結び付く方法で学習しています。 イラストの書き方として「影を付けて立体的に」と教えるのは「言語的理解」です。伝えることが出来るのは「言語的思考」の結果です。
人は小石を拾って標的に当てることができます。鳥は飛んでいます。アイザック・ニュートン(1642-1727)の偉大さは「知識」そのものではなく、「言語的思考」によって表したことにあります。物理法則を言語的に表現することによって自分自身の行動以外に「知識」を利用することが可能になりました。惑星の重さや軌道、砲弾の弾道を計算したりできます。「自然哲学の数学的諸原理」は、文字の歴史の1つの到達点なのだと思います。
「話し言葉」は単語を区切って発声したりしません。意味のある長いフレーズを想起すると調整されて発声されます。聞くときも単語は自動的に認識されています。話し言葉には何らかの規則性があることは確かですがほとんど説明できません。 ロゼッタ・ストーンのギリシア文字の部分も語が区切られることなく文字が続きます。
文字と記号
人は優れた自然法則の観測装置で多くの非言語的理解をしています。人は内省によって多くの「言語的理解」を得て記録してきました。 言語的理解の記録には「文字」と数式などの「記号処理」される情報が含まれています。 記号処理能力は人の話し言葉や文字の使用の根幹にあるものだと思います。 しかし、一般には「文字」と「記号」は区別されています。文字は音声言語によって裏付けられる「記号」で、「記号」自体は人に限らず意図的に付けた「しるし」全てを指すと言うことです。 ここでは言語処理上扱われる記号には音声言語の語彙を示す「文字」が含まれると考えることにします。
文字
一般的には絵文字が文字になったと説明されています。音声言語の語彙を示すのが文字で、起源は音を持った絵文字と言うことになります。 しかし、日本語のように文字によって語彙を増やしてきた言語では事情が異なります。「獅」、「菊」と言った文字には「訓」がなく、日本語の語彙には対応がなかったことが覗えます。漢字は伝来する前から文字だったと言うよりありません。
母語
人は言葉を紡いで思考しますが、その話し言葉は「母語」です。「母語」は民族や血統とは何の関係もなく、乳幼児期に自然と学習したもので、1代で変わり得るものです。また人の死をもって「母語」の学習結果も失われます。 したがって「母語」は共に生活する人々の間で日常の語彙の範囲で伝承されてきたものと思います。「母語」は1代で変わり得ますが、どの「母語」も数万年の歴史を持つことは変わりません。 したがって古代から話し言葉は洗練されたものだと思います。曖昧な表現は除外され切れ目なく話しても語彙が認識されるようになっているのだと思います。話し言葉は語を区切って発声したりしません。話し言葉は意味のある長さを想起することで調整されて発声されます。
人の言語能力
文字がなかったのなら日常話される語彙以外は伝承されません。誰かが語彙を蓄積しても死を以てリセットされます。 また、通信や移動手段が乏しかった時代に新しい言葉をはやらせることも大変困難だったと考えられます。 それにも拘らず人の語彙を扱う能力は数万語を越えるようです。辞書の収録語数は数万語や数十万語と表されています。 言葉を扱う能力に大きな余裕があることを前提にして、話し言葉や文字は成り立っているのだと思います。 日本では小学校就学前に3千語程度の語彙を持つと見られているようです。
話し言葉と学習
話し言葉によって意思疎通が出来ることと、言葉によって思考すると言うことは同じことではありません。 人は動作と語彙の組を学習するようで、発声動作が多くのパターンを生み出せると言うことだと思います。動作は代替できるもののようです。物には名前があると言う理解が言語的思考の始まりのようです。 言葉が通じることの本質は同じ動作をすることによる共感にあるのだと思います。言い回しまで覚えていて言い真似が出来るのも裏付けになると思います。
文字と音声合成
文章を読み上げるソフトウエアは存在しますが、文字が表す音節を連ねても自然な話し言葉にならないことは確かです。「おばあさんは川へ」の「へ」だけでなく、「京都」は「きょうと」ではありません。 音声合成を行うには意味解釈が必要で、少なくとも語ごとの辞書が必要です。 英語も同様で、name とnanometer の na は違った発音です。 話し言葉は語より長い単位で調整されて発声されます。このことは文字が必ずしも話し言葉を忠実に記録する意図の物ではないことを示しています。また、音声記号も語や文節と言った概念がないので不十分です。 文字や音声記号は、発声動作を制御するコマンドの列であり、それによって発生する「音」を示すものではないと言うことだと思います。
文字の表すもの
話し言葉は意味のある語より長い単位で調整されています。文字は、本来そうした情報を含まないようです。 現在の西欧の言語ではダイアクリティカルマークが使用されています。アクセントなどを表すことができますが、ダイアクリティカルマークを欠いても語義が変わらないのが普通のようです。スペイン語にはいくつか例外があるようです。 ギリシア文字やラテン文字に大文字小文字の別ができるのも中世以降で、ダイアクリティカルマークはさらに後の習慣だと思います。 日本語の場合はまったく文字には表しません。仮名文字には拗音を小さい文字で書くことや、濁音、半濁音のマークがありますが現在の表記方法は明治以降の学校教育で普及したものだと思います。 「端」と「箸」、「橋」は違うと言いますが、これは漢字の導入に伴って生じたことで、私には区別が付きません。
母音と子音
「か」は軟口蓋・破裂音と説明されます。子音「k」は後舌と上顎(軟口蓋)で息を塞いで解放する際の破裂で発生していると言うことです。子音を作る部位と方法で示されています。「か」は「あ」と言う時の口の形で、この動作をすることで生じています。 「あ」と言う母音はほぼ口の形で音が決まり、息を吐き続ければ長く発声できます。子音の「k」は強弱以外にはほとんど制御しようがありませんが、母音は口の開き方次第なので前後の音の影響を受けて無段階に変化します。 子音を発声すれば母音を伴い子音だけを発声できません。実際に発声できる最小単位は音素(子音、母音)を組み合わせた音節です。母音は単独で音節を形成します。
語の活用と母音交代
話し言葉は数万年の歴史を持っています。話し言葉が基本的な構成を変えずに人称や時制、単複などを表現することは自然なことです。 漢文は、こうした情報を表現しておらず文字語であることを示していると思います。 語頭や語末を変化させて人称や時制を表現することは良く見られ、母音交代も含まれます。「来た」、「来る」、「来ない」は、「ki」、「ku」、「ko」と母音を変えて活用されています。 英語でも come(came)、send(sent)、see(saw)、run(ran)のように「話し言葉」によって生じたと思われる日常的な語彙の活用は何かを付け足したりせずに行われるのだと思います。
子音文字と語根
カナン諸語では王を mlk と表し、女王は h-mlk-t と表されました。 mlkm は「王たち」、mmlkt は「王族」でした。 接頭辞や接尾辞で語が活用されました。造語が行われたとも見ることもできます。王(mlk)から王族(mmlkt)と言う語が作られました。 話し言葉として考えると mlk は「マルカ」や「メルク」など多様に読め、母音交代によって活用されたと考えられています。 文字の話しとして mlk は語を派生させる「語根」であると言うことは納得できます。 しかし、文字のない状態で「話し言葉」が語根から語彙を派生して成立したと言うのは信じ難いことです。
日本の仮名文字の表す音節数は 112 のようです。中国語の音節数は400強と数えられています。単純計算で2音節の語が1万から16万通り作れると言うことです。日常の語彙が数千程度だと考えると2音節を超える語は特別な語だと言えます。 漢字には多くの読みがあると考えるかも知れませんが、漢和辞典で「音読み」を見れば、ほぼ2音節であることが分かります。呉音や漢音と言った違いがありますが1つの場所、1つ時代に限れば1つの「音」しかありません。 こう考えると3子音の語根が最も多いアラビア語やヘブライ語は自然には見えません。
3音節以上の語が生じるのは派生語です。日本語では「うる」から「うるわし」や「うるおう」などが作られたと考えられています。 また、2音節の動詞を活用すれば3音節以上になります。
現在のラテン文字を使用した文書には3文字略語が頻繁に使用されます。古代ギリシアの時代から速記として略語や合字が行われました。速記と言っても速く書くことだけでなく、小さいスペースで書くことは長い間書記方法の要点だったものと思います。 語根と言うのは「話し言葉」の語彙の生成方法として最初に生じる物ではなく、再構成によって作られたもののように思えます。
話し言葉の造語
フェニキア文字などの「子音文字」が mlk のように母音を記さないことは、母音交代や、「語根」を持つセム語と結び付けられています。しかし話し言葉による造語では関連があるから似た音になると言うことはあまりないようです。仮名文字が書き表す音節数は112のようですが、日常の語彙数なら2音節語で概ね足ります。たとえば食器などの器は「け」だったようです。「甕(みか)」の「か」は「け」のことのようです。「椀」の「訓」は「まり」です。 また、数を「ひ」、「ふ」、「み」と数え、特に似ていません。10が「と」、20は「はた」も、「ひ」「ふ」とは必ずしも似ていません。日常の語彙は使用頻度の高いものから固定されたもので規則性は低いものだと考えます。 一方で、「うるわし」、「うるち」、「うるい」、「うるし」と言ったような語幹「うる」を活用する造語もあります。「うるうどし」は「ジュンネン(閏年)」を書き誤ったためとされますが話し言葉による造語としては不思議ではありません。これは使用頻度の低い語は規則性によって普及することを示すものだと思います。広める手段のなかった時代には連想の働く造語が普及したことは理解できます。 また規則性を使った造語が2音節より長いのは当然なことです。
語根の話しではアラビア語の ktb が例に上げられます。google翻訳で「書く」は「カタバ」、「図書館」は「マクトバ」、「事務所」は「マクタブ」と聞こえます。 もし、語根による造語が文字のない時代に起きたと考えるなら、直接音素文字が作られても不思議ではないことになります。
文字による造語
日本語の語彙は大半が文字によって造語されたものです。 「朝刊(チョウカン)」は「音」で読まれる熟語で「チョウ」や「カン」は日本の「話し言葉」とは無縁でした。「チョウ」と言う音は「あさ」と言う意味はありません。「カン」に「印刷」と言った意味はありません。 「竹林(チクリン)」も同様ですが「たけばやし」と訓読できます。「朝日(あさひ)」など訓読する熟語も多くが文字の影響で生じています。「たけ」、「はやし」、「あさ」、「ひ」は、それぞれ元々日本語ですが2文字で熟語なのは漢籍に記されていたからです。本来、「朝日」を指していた日本語があったのかも知れませんが使用されなくなって行ったのだと思います。 訓読による熟語は、「大雨(おおあめ)」、「雨音(あまおと)」、「朝日(あさひ)」、「三日月(みかづき)」のように同じ文字がいろいろに読まれることになります。また、漢字の「音」が、ほぼ2音節なのに「訓」は一定せず長いものもあります。したがって、熟語は「音読み」されることが多くなりますが、漢字の「音」は日本語の本来の話し言葉とは無縁なものです。
日本人が作ったのは「文字の語彙」と「話し言葉の語彙」の両方です。「チョウカン」と言う「話し言葉」が普及したので「朝刊」が作られたのではなく、「朝刊」と書いたので「話し言葉」に「チョウカン」が加わりました。 普通には「外来語」や「新しい話し言葉」など「話し言葉の語彙」が増えたので造字や熟語が作られると考えられているのだと思います。しかし、日本では「文字よる造語」によって「話し言葉の語彙」が増えました。
漢字自体が会意や形声によって造字されました。漢字の造語は基本的には造字です。日本人は2つの漢字を組み合わせた熟語を大量に作り出しました。それは「文字の語彙」だけでなく「話し言葉の語彙」にも加えられました。会話で通じないと「それどう書くの」と言うのは日本人は「文字の語彙」を使用した「文字語」を話していると言うことです。 文字が絵文字から始まるなら文字の語彙を増やすには造字が自然です。しかし、文字を書き分けるには筆記環境が整っている必要があります。「異体字辞典 106,230字」と言うようですが、漢字の大半は周代後半以降に形声によって造字された物のようです。墨や筆、竹簡などの筆記環境によっているものと思います。2千年遡るヒエログリフや楔形文字は千数百を越えるものではないようです。
メソポタミアには馬はいなかったとされているようです。「ウル標準(Standard of Ur)」と言うモザイク画はBC2500ころのものだと考えられているようです。そこには4輪の戦車隊が詳細に描かれています。この戦車を引いているのは馬ではなく「アジアノロバ」だと説明されます。この話しの真偽は分かりませんが楔形文字の話しとしては馬を表す文字はアッカド帝国の時代になって加えられたものだと考えられています。 アッカド語の馬は sisi で、音節文字で表されました。漢字の借字と同じ発想だと思います。Unicode が ANSHE と名前を付けている文字はシュメールの時代からロバを表しました。ANSHE-ZI-ZI と馬を表し、sisi と読むのも形声のようなもので理解できます。 書簡には常套の挨拶文があり、自らと相手の繁栄を称えますが、その称えられるべき項目に馬が含まれます。アマルナ文書では ANSE-KUR-RA と記されました。(たとえばEA1) おそらくカッシート朝のバビロニアを含むカナン諸語を話したと考える人々の馬は sisi ではなかったのだろうと推測します。KURは国や地域を表す限定符ですが本来は山を示すようです。山や域外の「外来のロバ」の方が適切だったのだと思います。 日本人が作った「余能奈可」(世の中)は他の音声言語の人々には理解不能ですが ZI-ZI も同じ借字なのだと思います。
エジプトに馬がもたらされたのは第2中間期だとされています。ヒクソスが馬、戦車、製鉄を伝えたと推測されていますが明らかな物証はないようです。ただし、馬が最初から飼われていたと言う話しはなく、メソポタミアより遅れて導入されたことに異論はないようです。 ヒエログリフは Unicode 130d7 E006 に馬を含みます。Unicode が収録する字形は新王国時代のもののようです。 驢馬の E007 は aA、馬の E006 は zzmt とラテン転写されます。 エジプトでは馬の導入に造字を行いました。それがどのような話し言葉の「馬」だったのかは zzmt とラテン転写されること以外は分かりません。
文字の語彙
言葉の話しでは「語彙」は話し言葉にあることが前提になっていると思います。表音文字は話し言葉を書き表したもので文字に語彙があると考える理由はありません。 しかし、英語のように単語ごとに発音を覚えるような言語や、日本語の語彙は文字にあるとも言えます。 会話で通じないと「それどう書くの?」と言うのは日本人は「文字の語彙」を使用した「文字語」を話していると言うことです。また、読み方が不確かでも字義が分かれば気にしません。 これに対して表音文字だけが使用される場合、読めないと言うことはありえませんし、理解できるかどうかは話し言葉の語彙の問題です。
見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥には、すべて「みる」と言う「訓」が当てられました。区別するには書く以外にありません。 おそらく漢字が伝来した時点では日本人は区別がありませんでした。しかし、現在では漢字を使い分けていて、文字の語彙としては明確に区別されています。 これは外来の文字を導入すると起きたことです。文字語の語彙は日常語の数をはるかに超えていました。 話し言葉は長い歴史があり日常語の範囲で曖昧な表現は除去されているはずですが、外来の文字によって大量の同音異義語が出来ました。
造語と造字
日本人は「フィロソフィ」を翻訳するのに「哲学」と言う言葉を作りました。「自由」も西欧の思想の訳語となりましたが、これは後漢書などの漢籍にあり日本書紀にも使われました。「哲学」は、文字としても、話し言葉としても新しく作り出されたものです。しかし漢字を2つ組み合わせる漢語が長い間に使用例があっても不思議はなく、一般的に使用されていなければ新たな訳語として機能したのだと思います。 日本語は「仮名交じり文」で漢字列を熟語と認識しやすく、漢字には字義があり、「音読み」は日本語の語彙に当たらないことが多いので、特に労せず普及したものと思います。
文字を作り出さずに熟語にすることは普及に大きく貢献していると思います。 しかし、これは日本の特殊事情です。本来漢字は1語1文字です。新しい語には造字が自然です。「椀」や「碗」のように会意や形声で造字されて来ました。 ただし、何が1文字かに明確な基準はなく、熟語を1文字と見なせば良いだけです。
重要なのは、日本人は字義を組み合わせて造語し、音は結果として決まったことだと思います。多くが文字によって造語され、話し言葉にも加わりました。 これに対して、漢字の造字は、基本的には話し言葉の語を表す文字を造るもので、音が先に決まっているのだと思います。
筆記効率
1音1字で日本語を表記するのは「更に長し」と古事記の序に書かれました。 また、万葉仮名は漢字です。1音1字ではなく仮名交じり文を漢字だけで書いたようなものです。文字は「音」、「訓」両方で読まれ、1文字が示す音節数も定まっていません。 「船乗世武登」は「船乗せむと」です。「船」「乗」は字義通りで、「世」「武」「登」は字義は使用されない「借字」です。どこを訓読し、どこを借字と見るかに明確な規則性はありません。おそらく漢文を書く際の「句を構える」前の下書きが、そのまま他人にも理解されたと言うことです。 万葉仮名の方法は、1音1字の文字数の7割ぐらいで書き表すことができます。 日本では借字部分を簡略化した仮名文字にすることで概ね筆記効率の問題を解決したものと思います。 広辞苑の「早書き」には「日葡辞書」からの「速筆の書記・書家」があり、草書は口述筆記などの需要を満たしたものと思います。これは、文字の問題だけでなく筆記環境に恵まれたこともあるのだと思います。
当然、表音文字だけで文章を書いたギリシア人も冗長さを感じていたことが考えられます。文字の字形はエジプトの文字や楔形文字からすれば大変簡略化されていますが、フェニキア文字の文書と比べれば母音を書き表す分、文字数を多く書く必要があります。速記に関連してギリシア語由来の3つの語があります。stenography は στενος(閉じる)、brachygraphyは ταχυς(迅速)、tachygraphyは βραχυ(短い)、に由来します。筆記効率には「難読化」、「筆記速度」、「短縮表記」の観点があるようです。stenography は今では「電子透かし」なども指すようです。速記はギリシア時代からあり、ローマ時代には演説が速記されたとされています。西欧には口述筆記の需要があり、筆記環境から短縮表記が必要でした。&(アンパサンド)は et を1文字で書くことに起源があると言うことです。古代には速記したものを清書して使用するようなことが普通だったとは考えがたく、速記記法は一般の記法と共に使用され影響を与えているものと思います。
初期の速記の話題ではギリシア文字について行われた方法と、ラテン文字のティロの速記(Tironian notes)のことが上げられています。しかし、具体的な例はなく、どちらの話しなのかも良く分かりませんが概ね以下のようなことが行われたようです。
- 文字の単純化
Aの横棒が省かれるといったアルファベットが簡略化される
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前置詞や接続詞を1文字にする &(アンパサンド)は et が1文字になった。また、Unicode の 204a は TIRONIAN SIGN ET と言う名前。
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音節を1文字であらわす
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使用頻度の高い文字並びを1文字にする
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単語を短く表記する
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頭文字による短縮
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新たに記号と語義を定義する
子音文字は「速記」なのかも知れません。母音を除いた短縮形は多くが3文字略語で語根とも見えます。
文字と筆記環境
現在は文字を手書きすることもほとんどなくなり機械支援によって文書が扱われています。文書は電子的に取り扱われ距離を問わず瞬時に伝えることができます。この影響は大きなものですが評価できるような状況にはありません。 それより前を考えると 1840年ころ木材パルプから製紙が可能になったことが最大の出来事だと思います。 もともと日本は突出して紙の消費量の高い国でしたが明治5年(1872)には洋紙を生産する工場が作られました。木材パルプを原料とした洋紙は明治22年(1889)以降になります。木材パルプを原料とした洋紙が大量生産に入るのは西欧でも同じころで、それまではボロ布などを原料としていて生産量には限界がありました。 やがて読み手の能力を上回って印刷物が作られるようになります。マスメディアによって新しい言葉を広める事が可能になりました。黙読によって早く読むことも有効になりました。 それまでは話し言葉や文字に恣意的な変更を加えることは困難で為政者と言えども受動的だったものと思います。今日でも文字で書かれたものには客観性や拘束力があると思い込みがちです。
文字と筆記環境の推移
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石、オストラコン、獣皮、 パピルス、粘土板 |
ヒエログリフ、ヒエラティック、 楔形文字、フェニキア文字 |
王朝の残した文書 |
パピルス、粘土板、獣皮、樹皮、 オストラコン、竹簡、木簡 |
楔形文字、デモティック、 ギリシア文字、ラテン文字、 カローシュティー文字、漢字
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ホメロスの作品が文字になる ヘロドトスの「歴史」、マネト 70人訳聖書、ユリウス暦 インドのコインのギリシア文字 |
パピルス、羊皮紙、竹簡、木簡、 貝多羅葉 |
ラテン文字、ルーン文字、 カローシュティー文字、漢字 |
漢籍の編纂 |
パピルス、羊皮紙、紙(ボロ布)、 貝多羅葉 |
ラテン文字、ルーン文字、 グプタ文字、漢字 |
インドで口承文献の文書化 |
パピルス、羊皮紙、紙(ボロ布)、 貝多羅葉、和紙 |
ラテン文字、ルーン文字、 アラビア文字、 ナーガリー文字、漢字 |
日本の文字文化の始まり |
羊皮紙、紙(ボロ布)、 貝多羅葉、和紙 |
パピルスから紙へ |
ラテン文字、アラビア文字、 ナーガリー、漢字 |
英語がラテン文字表記となる 源氏物語 |
紙(ボロ布)、和紙 |
ラテン文字、アラビア文字、 デーヴァナーガリー、 ハングル、平仮名、片仮名、 漢字 |
インド仏教の滅亡 |
グーテンベルクの印刷機 英語の大母音推移 |
シェイクスピア グレゴリオ暦
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西欧の各語の文法・辞書の整備 江戸幕府、東インド会社 清教徒革命、北アメリカへ移民 |
紙(木材パルプ) |
ラテン文字、漢字 |
マスメディアの時代 |
ピラミッドに収められた文書は保存の意図があったのだと思います。埋葬に関わる碑文なども残すことが目的に含まれていたと思います。それ以外は単に残りやすいものが残っただけだと思います。残っている文書の量は保存に適していたことを物語るだけで必ずしも当時の文字の使用状況を物語らないと思います。 楔形文字は幾つかの都市王国の王宮の書庫からまとまって見つかり重要な資料になっています。焼成された粘土板は突出して保存性に優れた媒体でした。線文字A、Bの粘土板は偶然火災によって焼けたと説明されています。
昔の人口
言葉のことを考える上で人口は大きな要素だと思います。しかし昔の人口が正確に把握できるはずもありません。
- 現生人類がアフリカをでて世界に広がったと考えられていますが、その集団の規模は150人程度と計算されています。
- 江戸時代の人口はほとんど変化かがなく3千万人程度だったと考えられています。
- 同じ18世紀ごろの世界人口は6億から10億人と考えられています。
- 国連は1950年以降の統計を持ち、1950年の世界人口は25億人でした。
- AD1年の世界人口は2億から4億人と考えられています。
- 弥生時代(BC300-AD250)ころの日本の人口は59万人程度と推定されているようです。
- 700年ころの日本の人口は500万人と見られています。
- BC7000-BC600頃の世界人口は500万人から1000万人と考えられています。
- 縄文時代(BC14000-BC300)には温暖な時期や寒冷な時期があり、3千人程度たった人口はピーク時には26万人になったと見られているようです。弥生時代に入る前は7万人程度だったと見られているようです。
- 聖書からはエジプトを出たイスラエル人は60万人、ダビデの時代のイスラエル王国の人口は500万人が知られます。
プトレマイオス朝やセレウコス朝によってエジプトからインドまでギリシア語・ギリシア文字が使用された時代にも世界人口は4億人にも達しないものだったと言うことです。 日本が漢字や律令制などを導入し、古事記などが記される時期の人口は500万人程度だったようです。
文字と話し言葉
録音が残るのは蝋管蓄音機(1877)以降だと思います。古代の話し言葉は残りませんでした。しかし現在の話し言葉は幼児期に覚える母語として数万年の間継承されたものであることは確かだろうと思います。話し言葉の性質は現在の話し言葉から類推することができます。 個別の古代の話し言葉の知識は文字で残されたものから推測されるものです。しかし必ずしも文字は話し言葉を忠実に表すとは限りません。「子曰」は日本人は「しいわく」と読み書きした訳ですが、おそらく著者はそれを予測していませんでした。また文字は残りやすいものが残っただけで、その時代の言葉の様子を表しているとは限りません。
文字のラテン転写
ラテン転写のラテンはラテン文字セットのことです。英語のアルファベットやローマ字もラテン文字セットで、活字やパソコンで簡単に扱える文字に置き換えることです。 大きくは2通りあって、1つは主にギリシア語の語彙の取り込み、もう1つは古代文字の解読です。 聖書を含む古い文献はギリシア語・ギリシア文字で残され、欧米の語彙には人名、地名、述語などにギリシア語由来のものが多くあります。Μιχαήλ(ミカイル)はラテン語で Michael(マイコル)となり英語はラテン語に由来します。 ΔΑΜΑΣΚΟς(ダマスコス)はラテン語で Damascus と表され英語はラテン語と同じです。 αναλογία(アナロギア)はラテン語で analogia と表され英語で Analogy(アナラジ)となりました。 おそらくテレックスが商取引に使用されていたときには品名などが英大文字の範囲で表される必要があり各国語が変換ルールを持っていたものと思います。概ね綴りが復元できるような可逆的変換が行われたものと思います。
古代文字の解読のためのラテン転写は2段階あります。1つは翻字で、もう1つは音写です。記録が困難な楔形文字やヒエログリフは字形にラベルを付けて記録されました。次にそれを音写して解読することになります。 しかし、実際のトランスリテレーションと呼ばれるラテン転写は両方を兼ねたものになっています。したがって、字形を一意に示す訳ではなく、発音を示すとも言っている訳ではありません。
エジプトのファラオ、ラムセス2世はヒッタイトのハットゥシリ3世と間で平和条約を結びました。ヒッタイト語バージョンの条文にはラムセス2世の名前が楔形文字で記されることになりました。ラムセス2世の名はサラー名(誕生名)で表されました。 楔形文字の上に大文字で付したのは Unicode が定める文字の名前です。字形が一意に定まるので翻字になります。Unicode は概ね文字の音から名前を付けたようです。下に書いたのはトランスリテレーションのつもりです。音を表しますが時代や発見場所と言ったことは考慮されていません。ラムセス2世の名前はエジプト語からは アモン、マー、ラー、mss(w) と言う4つの部分から成っていたことが分かります。 楔形文字では、リアマシェシャ、マーイ、アマナのようです。語順が入れ替わっているので意訳されたと見られ アモン マー や マーイ アマナは「アモン神に守られた」と言ったところのようです。 トランスリテレーションは完全には元になった字形を一意に示しませんし、音も確実なものではありませんが十分実用的なようです。
wikipedia で「杜甫」を引くと「國破山河在」には「国破れて山河在り」と言う和訓と、「guó pò shān hé zài」と言うピン音が記されています。杜甫自身や同じ時代の人々がどう読み書きしたのかは推測はされますが誰も知りません。しかしピン音でラテン転写するのは有意義です。「ku-ni-ya-bu-re-te-sa-n-ga-a-ri」と転写するのも目的によっては有効です。
王を表す LUGAL と言う文字はいろいろな形にかかれましたが、長い年月と広い地域を考えれば不思議はありません。 この文字のラテン転写は概ね Unicode と同じ LUGAL ですが、中には šarru や šar となっていることがあります。これはアッカド語の王は シャルーのような音だったとされているからです。BC2000以降の文書は一律にアッカド語と分類されることよるのだと思います。 たとえばハンムラビ法典も šarru と転写されますが、バビロン第1王朝はアムル人の王朝です。BC1800ころにからメソポタミアの王朝はことごとくアムル人の王朝になります。おそらくBC2000ごろシュメール人が認識されなくなるころにはアッカド人も認識されなくなって行ったものと考えられます。アムル語に近いカナン諸語の王は mlk でした。アッシリアもアムル人の王朝ですが šarru と転写されているようです。アケメネス朝の王はスンキやシュンキだったようです。 アマルナ文書(EA147)でティルスの a-bi-LUGAL はアビメレクのような人名と見られています。 これは「漢文」の訓読のようなことが楔形文字の文書にもあると言うことです。読みは、読み手の「話し言葉」によって変わり、音写は1通りではないと言うことです。
文字の使用者
エジプトのヒエログリフやヒエラティック、メソポタミアの楔形文字の話題では、職業的書記が文字を読み書きしたと説明されます。 一方で、文字は絵文字や家畜の係数、在庫管理から始まったとも言われます。 多くの遺物が王朝の活動に結び付けられるのは当然で文字も王朝の文字だったに違いありません。しかし、一般の人々も家畜を数え所有物には名前を刻んで暮らしていたものと思います。
文字に多数の音
絵文字に「話し言葉」の音を結びつけて成立した文字は本来1文字に1つの音しかありません。日本語の文字が1文字に数十もの音を与えていることは、文字の定義を外れています。 1文字に多くの音があるのは漢字の性質ではありません。漢字も本来は1文字に1音です。漢字には「音」と「訓」がありますが、沢山の読み方があるのは「訓」です。 「君子愛日...」は、「君子は日を『おしみ』て...」のように文脈に合わせて読むので「訓」は日本語として自然に読めば読むほど多くなります。現在では「訓」も整理されていますが人名なども合わせれば十を超えるものは珍しくありません。 これも外来の文字を導入すると起きたことです。自然に発達した文字には考えられないことです。
漢字の基本的な性質
漢字の「音」は基本的に1つです。「漢音」や「呉音」と言った区別がありますが地域的、時間的に異なったところでのことです。時代や場所によって異なるのは自然なことです。 漢字の読みは「反切」で表されてきました。日本にも反切で伝えられました。 空海の撰とされる日本最古の辞典「篆隷万象名義」の「塒(ねぐら)」には「塒 視之反鶏棲」と記されています。「視之反」が音を表し、「視」も「之」も「シ」です。字義は「鶏棲」でニワトリの住処です。 「新撰字鏡」には「旭 許玉反 旦日欲除也 日乃氐留 又 阿加止支」のように記され、「旭」は「許玉反」と言う音です。「キョ」と「ギョク」から「キョ・ク」であることを示しています。漢文で「旦日がのぞくを欲するなり」、1音1字で「ひのてる」、「あかとき」と説明されました。
反切が表現する漢字の音は1音節か2音節です。これを1音として、漢字は1語1文字1音の文字です。中国語の実効の音節数は418程度のようです。その2音節の組み合わせは単純には17万通り以上です。 これは漢字の性質です。中国の「話し言葉」の語が2音節なのかどうかは良く分かりません。しかし、日本も中国も漢籍を典例として文章を記してきたものであり、会話とは大きく隔たっていたことは推測できます。
表音文字と英語
ラテン文字は音素文字で多くの音声言語の表記に使用されています。しかし、英語は例外のようです。name と nanometer の na の発声は異なっています。英語も14世紀ごろまでは name、time をナーメ、ティメと発音したと言うことのようです。15世紀から16世紀に英語には大母音推移と言う出来事が起き語の単位で音を定める言語となったようです。 「話し言葉」の音だけが変化し綴りは維持されました。英語は文字の語彙を持つ言語のようです。
エジプト語の文字
エジプト語は死語となった古代の言葉です。現在のエジプトの主要な言語はアラビア語のようです。 4世紀以降のコプト語がエジプト語を継承していたと見られていますが、コプト語からエジプト語を解読する試みはあまり成功しなかったようです。 エジプト語はロゼッタ・ストーンによってエジプトの文字が解読されて以降知られるようになった音声言語だと言うことです。ロゼッタ・ストーンはBC196のメンフィス勅令を記したもので、プトレマイオス朝になって百年以上後のものです。ほぼギリシア語・ギリシア文字が定着した後で作られたものです。識字率が低かったことを考えると文字を使用する人々が30に満たないギリシア文字を知らずにいたと言うことは有り得ないことです。 おそらくロゼッタ・ストーンのヒエログリフは、そうした人々の余技として使われていたものだろうと思います。ヒエログリフは既に役割は終わっていて、読まれることを期待して書かれた訳ではないと思います。 BC200ころのエジプト語が知られたとしても、それが3千年前のエジプト語を説明できるのかどうかは定かではありません。 BC700ころには新アッシリアが、BC525にはアケメネス朝ペルシアがエジプトを支配しました。プトレマイオス朝によってギリシア語の影響を強く受ける前からエジプトの文字は王朝の文字ではなくなっていました。 新アッシリアやアケメネス朝ペルシアはアラム文字を公用にしたとされますが、実際は確認できるものはないようです。この間のエジプトの文字の事情はエレファンティン・パピルス以外には資料がないようです。エレファンティン・パピルスはアラム文字の文書を多く含みますがイスラエル人コミュニティの残した文書です。 古代のエジプトについて知られていたのはヘロドトスの「歴史」や「70人訳聖書」、ホメロスの作品がアレクサンドリア図書館で編纂され後世に伝わったことです。 3千年はとても長い時間ですが、エジプト語もエジプトの文字も継続性があると見られています。BC1300からBC700ころを「新エジプト語」と分類し、この時代のエジプト語が最も良く知られているのだと思います。 BC1300ころはアマルナ文書の時代でもあり楔形文字の文書による裏づけが可能な年代でもあります。 それに先立つ「中エジプト語」(BC2000-BC1300)は中王国時代を含み文学作品などが多く作られたとされています。 ヒエラティックはBC3200ころ古王国時代に入る前から確立された文字だったと見られています。具体的な遺物はスコーピオンキングの墓の壷に書かれた文字のようです。その文字がどのように成立したのかは知られていません。 ただし、エジプトの遺物の年代はほとんど科学的には裏付けられていないものだと思います。
エジプトの文字は子音文字だと見られています。語根については「話す」と「選ぶ」と言う語の例が挙げられる以外はあまりないようです。 子音文字には、1子音文字、2子音文字、3子音文字があります。第2王朝のセネド王の名前は1子音文字4つで表されたり、3子音文字1つで表されたりしています。綴りを問題にすることはないようです。 また、1子音文字は他の用途には使用されないようで送り仮名のように使用されます。第4王朝のスネフェル王の名は s-nfr-w と記されましたが、nfr の部分は、nfr-r や nfr-f-r のように表されています。 Unicode にはヒエログリフが収録されています。文字の名前は G001 のように英字と3桁の数字からなるコードで示されています。このコードはヒエログリフの分類コードで G は「鳥」にあたります。Unicodeに収録されたヒエログリフは 1071 あるようです。
上の図は1子音文字です。ヒエログリフは左右両方向から書かれました。文字には向きがあり、書き方向が変わると文字も鏡文字になります。ヒエラティックは常に右から左へ書かれました。上の図で、ヒエログリフとヒエラティックの文字の向きが逆に見えるのは Unicode が左から右へ書く場合の字形を収録していることによります。ヒエラティックは横書きの場合は常に右から左にかかれ文字の向きが変わることはありません。 2子音文字が 139、3子音文字が 44知られているようです。
ヒエログリフとヒエラティックが子音文字なのかどうかは同じ文字が母音を変えて読まれたのかどうかと言うことです。第2王朝のセネド王と第4王朝のスネフェル王の名の1文字目は同じ s の子音文字です。これが「セ」と「ス」と読まれたと言うことが如何に裏付けられるのかだと思います。
楔形文字
楔形文字は BC2600ころから粘土板(タブレット)に特別なペンで記録されました。断面が3角形の棒で両端を使い分けたようです。一端は楔形、他端は正三角形のようになっていて粘土板に押し付けて先端の形を写しました。 楔形文字は石に刻まれたり、銅版、青銅版文書としても残されました。
絵文字からウルク古拙文字を経て楔形文字になったと見られています。ウルク古拙文字も粘土板に葦のペンで書かれましたが線刻でした。 また、文字の形をした陶片が広い範囲で多数見つかるようで、これが起源だとも言うようです。単にシールが焼かれたものとも言われていますが、いずれにしても広く日常的に文字が使用されていたと考えられています。
楔形文字はシュメール人がシュメール語を表した文字とされますが、すぐにアッカド人によって使用されアッカド語を表す文字でもありました。 北のアッカドと南のシュメールは1人の王の治めるべき場所だったようで王権や信仰については共通の認識を持っていたものと思います。最初にメソポタミを統一したのは BC2300ころのアッカド帝国でした。その後、最後のシュメール人の王朝となるウル第3王朝がアッカドとシュメールを治めますが BC2000ころには滅亡します。 その後メソポタミアはことごとくアムル人の王朝で占められます。アッカドとシュメールはバビロニアと呼ばれますが、アムル人のバビロン第1王朝の後もカッシート朝(バビロン第3王朝)がBC1157ころまで支配します。おそらく、シュメール人同様にアッカド人も認識されなくなったのではないかと思います。アマルナ文書の前14世紀にはアムル人さえ既に意識されなくなっていたのではないかと思います。アマルナ文書からはカナンの北部にアラム王国があり、エジプトの対ヒッタイト戦の指揮権を持っていましたがアラム王国はアラム人の故地にエジプトによって作られた国なのだろうと想像します。 楔形文字の文書はアッカド帝国の時代のスタイルで使い続けられたと見られています。国際的な共通語だったとも言われます。アッシリアもアムル人の王朝ですが BC900年ころ以降は新アッシリアによって楔形文字の使用が続けられました。
アッカド語の楔形文字と言うのは主に音節文字として使用された楔形文字のことです。アッカド帝国の時代に定まったものだと考えられています。 Unicode の楔形文字は 982文字あります。Unicode が収録しているのはアッカド帝国の時代の字形です。BC2000ころには「新アッシリア」の字形に近い形に変化しています。ただし、古い書体は最後まで使われることがありました。
シュメール語、カッシート語
シュメール人はウルク古拙文字から始まって長い間文字記録を残しています。カッシート人も文書を残しています。アマルナ文書のEA1はカッシート朝の王、カルドニアシュ(KUR ka-ra-an-ud-ni-ia-ash)の王カダシマン(ka-da-ash-ma-an en-lil)宛ての書簡で、EA2,3,4 はカダシマンがアメンホテプ3世に送ったものです。
しかし、シュメール人やカッシート人の「話し言葉」はほとんど知られないと言うことです。「國破山河在」は「guó pò shān hé zài」なのか「ku-ni-ya-bu-re-te-sa-n-ga-a-ri」なのか分からないのと同じです。 シュメール人は楔形文字を始めた人々で、その人々にとっては文字に表音や表語と言った区別はありません。文字が示すものに対応した音声言語の語彙を発声するだけです。外来語を表したり造語が必要になって借字が行われれば音が推定できるようになって行きます。 また、漢文の例に当て嵌めればカッシート人はあまりに旨く漢文を書いたと言うことです。カッシート語がシュメール語ではなかったことは語彙の対応表が出土して確認されていることのようです。
アッカド文字
シュメール人の文字を採用したアッカド人はアッカド語で文字を読み書きしたものと考えます。これは日本に漢字が伝来したときと同じで、日本人は中国語に翻訳して漢文を書いた訳ではありませんでした。日本では漢文は訓読され、漢文訓読調の日本語を文字にしました。 同じ内容をシュメール語とアッカド語で表して比較できると良いのですが、そうした例は見つかりません。年代からシュメール語と判断される文書は文章を含まない表のようなものがほとんどです。ウル第3王朝の時代のシュメール人の都市とされる場所からの出土品には明瞭な差がありません。
ベヒストゥン碑文はアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世(Dareios I、BC558-BC486)の正統性を示す目的で刻まれました。エラム語・エラム楔形文字、古代ペルシア語・ペルシア楔形文字、新バビロニア語・アッカド文字の3様式でほぼ同じ内容が刻まれました。 図は上に碑文の文字を似せて書いてあります。下には「新アッシリア」とUnicode の字形を記し、その文字の名前を付しました。 エラム楔形文字、ペルシア楔形文字は音節文字で、アッカド文字の音を裏付けます。ペルシア楔形文字では以下のように表されました。
また、エレファンティン・パピルスに含まれるベヒストゥン碑文のアラム語バージョンもカンピュセスを「k-n-b-w-z-y」と記しています。
カンピュセスとダレイオスには ia が含まれ、ダレイオスとアフラマツダには ri が含まれています。これらの文字は音節を表していると考えて良さそうです。また ri は ra かも知れませんが音も大きくは外れていないようです。
楔形文字の文書は概ね「アッカド語」と分類されていますが、何語を表しているのかは簡単には知りえません。「アッカド語」と言う分類は「アッカド文字」の文書だと言うことだと思います。
線文字A、B、キプロス音節文字
ギリシア人やギリシア語がアッティカやイオニアの言葉や文字を標準とするのは前6世紀ころの話です。ギリシア人の元になった人々の一部は「ホメロスのアカイア人」や「ミケーネ人」と呼ばれています。ミノア文明とミケーネ文明は継続性のある文明でアカイア人の文明だったと見られているようです。その発祥の地はペロポネソス半島のアルゴリス地方でBC1450ころとされています。クレタ島のミノア文明の編年は BC3500以降を前宮殿時代としており、古くからの活動が知られるようです。ミノア文明の「諸宮殿崩壊後」がミケーネ文明に相当するようです。 ミケーネ文明はBC1150ころ、トロイア戦争があったとされる年代の後で滅亡しました。
線文字Bは音節文字と表語文字からなるアッカド文字(楔形文字)と同じ種類の文字体系でした。 キプロスは ku-pi-ri-jo や a-ra-si-jo と表されました。アラシアは楔形文書で知られるキプロスの呼称です。ko-ri-ja-do-no は、コリアンダーを指すと解釈されています。 線文字Bの文書は、書簡など文章を記したものは見つかっていないと言うことです。 しかし、アカイア人は書簡や文章を必要としなかった訳ではないようです。ヒッタイトにはアカイアの大王からの書簡が残ります。 ヒッタイトの王はムワタリ(Muwatalli、BC1290-BC1272)と見られ、アヒヤワ(ah-hi-ya-wa)の大王の名は記されていません。(CTH 183) アカイアの大王はヒッタイト語、楔形文字の書簡を作ることができました。アスワの地を占めたヒッタイトに、その沿岸の島々はアカイアに帰属することを確認します。トロイア戦争が史実なら、その前からヒッタイトとアカイアは意思疎通をしていたようです。
線文字B(U+1000) |
|
トロイア戦争に出陣した諸王は容易には帰国できませんでした。キプロスに漂着し王国を築きます。「キプロス音節文字」は字形が異なりますが線文字Bと同じ系統の文字と見られ前4世紀まで使用されました。 前14世紀から前12世紀にキプロスでキプロス・ミノア文字が使用されました。この文字は線文字Aから派生した文字と見られています。この文字がキプロス音節文字の元になったとも説明されます。
新アッシリアはキプロスがダナオイの10の王国から成ることを記録しています。エジプトや周辺国は楔形文字でアカイア人をダナと記しています。ホメロスの作品でもダナオイはアカイア人の別称のようです。
キプロス音節文字の長文の文書は「イダリオン・タブレット」(前5世紀)が、ほぼ唯一の資料のようです。「イダリオン・タブレット」は青銅版文書でペルシアとの戦争中の市民に医療給付制度を行うことが記されていると言うことです。イダリオンは古くから銅の取引の中心地として記録されています。 「キプロス音節文字」は、右から左に読まれ、区切り文字が使用されているようです。 「イダリオン・タブレット」は両面に文字があり800文字以上あるように見えます。書き出しとされる部分は以下のようです。
イダリオンの町はペルシアに包囲されたと解釈されています。
ラテン転写 |
οτε |
τα |
πτολιν |
εδαλιον |
κατεϜοργον |
μαδοι |
οταν |
την |
πολη |
ιδαλιο |
πολιορκουσαν |
οι περσες |
when |
the |
city |
Idalion |
was besieged |
by the Persians |
包囲されたのはエダリオン、包囲したのはマドオイです。 この文書の年代が前5世紀なら既にエジプトもアケメネス朝ペルシアの支配下にあります。新アッシリアのエサルハドン(BC681-BC669)はイダリオンを ed-di-al と楔形文字で表しました。マドオイは「メディア」と訳しているものもあります。メディアはアナトリアのリディアへ585年侵攻しました。メディアはキプロスに達していても不思議はありません。メディアの支配下にあったアケメネス朝ペルシアはBC550にメディアを滅ぼし、BC525にはエジプトを征服しました。 キプロス音節文字がギリシア語を記しているのかどうかは良く分かりません。しかしギリシア文字と平行して使用されたギリシア語を記録する文字であることには疑問はないことのようです。
線文字Bは Unicode に88の音節文字と、123の表意文字(イデディオグラム)が収録されています。 キプロス音節文字は55の音節文字が収録されています。 音節文字の名前は音節を表すラテン文字になっています。 数字に関しては共通性が高いようで、Unicode では、エーゲ海数字として U+10100 の区画にあります。
ウガリット文字
ウガリット文字は楔形文字と同じ筆記環境を利用して書かれました。アッカド文字(楔形文字)が数百あるのに対してウガリット文字は30の音素文字と分離符号だけで出来ています。 ウガリット文字の字形は前述のヒエログリフと同じ表に上げてあります。 左図はウガリットで見つかった書簡の書き出しの部分です。粘土板の側面にはアルファベットが書かれていて、書き手や読み手が参照したようです。これが有効なのはアルファベットの読みは唱えて覚えていると言うことなのだと思います。アルファベットを記したものは複数見つかっていて、その並びは2通りあるようです。1つはラテン文字に受け継がれているフェニキア文字やギリシア文字の並びに類似しています。他方は古南アラビア文字の並びで HE、LAMEHD、HETH、MEM、・・・となります。古南アラビア文字はゲエズ文字の元の文字でアラビア文字とは異なる系統の文字と見られています。 書き出しの1文字は欠けています。 thm itl l-mnn ilm tGrk tSHlmk tAzzk alp ym w-rbt SHnt b-AdAlm のように読めます。残念ながらアマルナ文書などの書簡と似ていません。lmnn は「to mnn」で、mnn への itl の書簡(thm)と言うことのようです。 alp ym w-rbt SHnt の部分は、w が接続詞 and で、「alp ym」と「rbt SHnt」です。ヘブライ文字に置き換えてgoogle翻訳で確かめると、「אלף」は「千」、「ים」は「海」、「רבת」は「多くの」、「שנת」は「年」、となります。概ねカナン諸語の語彙を記しているようです。この訳文は「千の日々、十万の年」で、ym は「日々」のようです。ヘブライ語の「ymym」、「ימים」は「日々」と訳されます。 アマルナ文書の EA45 から EA50 はウガリットからの書簡ですが全てアッカド文字で書かれています。アッカド文字の書簡で差出人が先にかかれる場合は、概ね「um-ma 差出人 a-na 受取人 ki-bi-ma」のように記されています。「um-ma ki-bi-ma ・・・」と書かれる事もあります。 カナン諸語を話す人々はアッカド文字の書簡の定型部分を音節文字として読んだ訳ではなく訓読していたのかも知れません。 おそらく、王朝の文字だったアッカド文字よりは広く使用されたものと推測できますが、実際に多くの資料が残っている訳ではないようです。日常的な用途では焼成されなかったからかもしれません。しかし、線文字Bと異なって書簡など文章の表記に使われたことが確認できます。
ウガリット文字は、表音文字だけの文字のセットの、確認されている最古のものです。音素文字は古代エジプトの文字に含まれる1子音文字が最古となります。フェニキア文字が登場するより四百年以上前と突出して古いことになります。
文字の始まり
文字は絵文字が話し言葉の語彙と結びついて始まったと説明されます。絵文字自体は記号ですが、まだ文字ではないと考えます。記号は所有者を表したり、場所を示したりする目的で現生人類以前から使用されていたものだと思います。たとえば三角マークを山田さんが棍棒に刻んでいて、加藤さんが家に三角マークを刻んでいる状態は三角マークが記号の状態です。三角マークは適宜「山田さんの棍棒」、「加藤さんの家」と呼ばれます。三角マークがどこに書かれても「ヤマダ」と発声されるなら三角マークは文字です。 羊の絵を描いて、羊に当たる話し言葉の語彙を常に発するようになれば文字の始まりと言うことです。文字として使用するようになると絵は個人差を小さくするように簡略化されることは予測できます。必要なのは話し言葉の羊を想起させることです。
日常語の語彙数は千数百から数千語だと思いますが、それを書き分けるのは筆記環境の面で困難だったと考えます。漢字は書き分けていますが筆や墨、竹簡、紙と言った筆記環境があってのことです。書き分けが困難なら文字を組み合わせて熟字が行われたと考えられます。
言葉を区切って発音していくと音節に行き着きます。言葉を写そうとしたのなら音節を記号で表すことが行われても不思議はありません。しかし、実際には直接、表音文字が作られたことはないようです。文字は長い間、話し言葉を写す意図を持たなかったようです。 表音文字は、「他の音声言語の文字の使用」→「 借字」 → 「音節文字」、と推移してきたようです。
表音文字は、記号数が少なく、学習するのが容易です。これは「話し言葉の語彙」によって解釈されるので記号だけを覚えれば良いためです。しかし、この方法は異なる「話し言葉」の人々の間では「話し言葉」と同様に「文字」も通じなくなることです。 これは重要な問題だったのではないかと思います。また、職業的書記によって文字が読み書きされたのなら「学習するのが容易」なことは重要なことではなかったものと思います。 識字率が大変低かったと言うのは需要がなかったと言うことで、ウガリット文字によって識字率が飛躍的に高まったと言うこともなさそうです。
音素文字は「話し言葉」を移す最小の文字セットです。子音文字は理屈ではさらに少ない記号数と言うことになります。しかし、ウガリット文字は31の記号が使用され、実際には両者に差はありません。 楔形文字が音節表記するようになる前に、エジプトの文字は子音文字だったのかもしれません。直接、子音文字が作られたとは考え難いので、知られていない文字の歴史があるのだと思います。漢字のように「話し言葉」を写すのに向かない文字が長く使われたのとは別の需要があって表音化したものと思いますが、それは話し言葉を写すこと以外には思い付きません。 いつの時代かに口述筆記のような需要があったのか、何らかの文字体系の「読み」を示すための記号だったのかも知れません。
熟字
文字の語彙を増やすには文字の字形を増やす(造字)か、既にある字形を組み合わせる(熟字)かの何れかです。字形を増やすのは文字を細かく書き分けることが必要になります。ただし、この話しは1文字の占めるスペースが、ほぼ同じと言う前提を置けばと言うことです。文字によってスペースが大きく変わっても良いなら、造字と熟字は区別できません。「芻隹」と「雛」を区別することには明確な根拠はありません。
造字や造語は容易には広められないことも重要です。広める手段がないので、誰でもそう思うと言うようなことしか広がりません。 日本では「水田」に対して「火田(畑)」や「白田(畠)」は自然に通用する力がありました。 話し言葉の語彙にあって文字が割り当てられていないものや、話し言葉に新たに加わった語が造字や造語の対象になったものと思います。逆に、文字によって造語したものが話し言葉の語彙となって広がるには識字率が高いことが必要に思えます。
身近な日本語のことを考えて見ます。関連する語が似ているのは良くありそうなことです。「大雨」や「小雨」は文字によって作られた語であることは確かそうです。「話し言葉」の場合は、パパ、ママ、ちち、はは、じじ、ばばのような類似性です。「ひかり」、「あかり」もそうかも知れません。話し言葉では日常で使用するものには概ね2音節で名前が付いていて、「大きい」や「小さい」と言った形容詞で区別するようなことにはならないと思います。似たものでも日常使用する頻度の高い語は区別が明瞭に付くものだと思います。 「ひさめ(大雨)」、「こさめ(小雨)」の訓も文字の使用が始まってからの造語だと思います。「ひ」、「こ」、「さめ」は元々有って熟字の訓としてまとめられたのだと思います。あさひ(朝日)などと同じだろうと思います。
日本人は漢籍から多くの熟語を取り入れました。しかし、多くは書いた人の意図しないことだったと思います。「大恥」は「大きに恥じて」と訓読されます。「造語」は「語を造る」と書いただけで、「ぞうご」と言う語彙を増やそうとした訳ではありません。 日本人が取り入れた熟語は以下のように分類できそうです。
- 漢籍に由来してそのまま使用されているもの
雷雨(ライウ)、慈雨(ジウ)、雲雨(ウンウ)
- 漢籍に由来して訓読みされるもの
雨水(あまみず)、雨脚(あまあし)、梅雨(つゆ)
- 漢籍にあるが本来は熟字ではないもの
降雨(コウウ)、雨滴(ウテキ)
- 和訓に漢字を当てたもの
さみだれ(五月雨)、しぐれ(時雨) ただし、時雨は「時を得た雨」の意で漢籍にある。(孟子「若時雨降」)
- 和訓と熟語がセットで作られたもの
雨音(あまおと)、俄雨(にわかあめ)、小糠雨(こぬかあめ)
- 新しい熟語を作ったもの
雨量(ウリョウ)、雨域(ウイキ)
左図は BC2600-BC2500 の年代を与えられたタブレットの一部です。この年代はアッカド帝国より前でシュメール人が文字を残したと考えられます。またテル・ファラ遺跡の出土品で、テル・ファラ遺跡はシュルッパクと見られています。シュルッパクはシュメール人の伝える最も古い都市の1つです。 罫線の中にいっぱいに GIR2 MUSH と書かれています。GIR2は「サソリ」、MUSHは「ヘビ」を表す文字だと考えられています。 GIR2-MUSHは「毒蛇」を指すとされています。もしそうなら「文字によって造語」されたことになります。ただし、その読みが GIR2 と MUSH によるのか、まったく別の話し言葉の「毒蛇」が当てられたのかは直接的には知りえません。「時雨」を「しぐれ」と読むことは現在でも話者がいる言語であることや古辞書が残っていることによっています。
表音文字
文字を他の音声言語の人々が使用するといろいろな特徴が現れます。訓読によって多様な読み方が生じるのもそのひとつです。また、前述のファラオ・スネフェルの名のように nfr と言う文字に送り仮名があるのは他の読みがあることを推測させます。 Unicodeの文字の名前で AN-IM と楔形文字で記すと、イシュクルやアダドとラテン転写されます。AN(DINGIR)は神を示す限定符で、IMは最高神を表すと考えられています。シュメール人なら「イシュクル」、アッカド人なら「アダド」と読まれただろうと言うことです。ヒッタイト人は最高神タルフンニを AN-IM-un-ni のように表しました。 読みを誘導する必要から借字による表音表記が行われました。 エジプトの文字の起源は何も分かりませんが、知られるようになる年代には、既に他の音声言語の人々の文字を導入した状態だったようです。楔形文字はシュメール人の文字をアッカド人、そしてヒッタイト人と導入されたと考えられています。
送り仮名が送れるというのは借字が定着して「表音文字」と見なされるようになっていると言うことです。 話し言葉を写す目的で文字を作るなら音節文字が最も自然だと思います。話し言葉の語を1音ずつ区切って発声していけば音節文字に帰着します。しかし実際には音節文字は借字による1音1字によって始まったようです。 日本では「字音」としてもとの「音」が使用されました。字形を示すには「字音」が必要で、漢字を読み書きする人は誰でも知っていました。この外来の「音」は基本的に1文字に1つなので造語に便利でした。日本の「話し言葉」にとって「ギョ」は魚(うお、いお)と何の関係もなかったと思いますが「鮮魚(センギョ)」や「魚醤(ギョショウ)」などを作り出しました。
1音1字と万葉仮名(万葉集)
余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊与余麻須万須加奈之可利家理 よのなかはむなしきものとしるときしいよよますますかなしかりけり |
19文字32音節 |
万葉集は漢文で書かれたとされています。歌謡は「1音1字」か「万葉仮名」で記されました。1音1字は文字通り31音節の歌を31文字で表しています。一方、万葉仮名は32音節を19文字で表しています。万葉仮名は「仮名交じり文」です。「行も去ぬも」と書いているわけですが全て漢字なので試行錯誤して読むことになります。意味があるよう読むと言う以外にはないので、意味が理解できなければ読み上げることは出来ません。これは語順を整える前の漢文訓読状態で、漢文の下書きだと思います。下書きのまま他人にも通じたと言うことだと思います。 仮名が普及するまでは 曖昧さのない1音1字は必須で辞書に「和名」として日本語の発声を示すのに使用されました。仮名は1音1字と同じ意図のもので、万葉仮名は仮名交じり文のことです。 「船乗世武登」は「船乗せむと」と読まれ、「船乗」は2文字が4音節(ふなのり)に訓読され、「世武登」は借字で音を表します。 「世武登」は1音1字の借字で明瞭ですが、万葉仮名では「相(さが)」や「下(おろし)」のように複数音節のものがあり音訓両方が使用されました。また、下(おろし)は借字かどうかも定かではないように思います。
仮名文字のように字形を単純化しても仮名だけで文章を書くことは普通行われていません。まして漢字の1音1字で文書を作ることは大変冗長に感じられていました。 おそらく古代エジプトの文字もアッカド文字(楔形文字)も筆記効率の点で万葉仮名に類似した状態だったのだろうと思います。 アッカド文字のアマルナ文書は書簡で、長い定例句が記されています。あなたの全てが良好で、私の全てが良好だ、と言うことのようで、「全て」としては、「一族」、「妻たち」、「子供たち」、・・・と続きます。 エジプトのファラオがカッシート朝バビロニア(EA1)とアルザワに送った書簡(EA31)の差異を見てみます。バビロニアはアフロ・アジア語族セム語派の言語を記し、ヒッタイトはインドヨーロッパ語族に分類される言葉を記していると考えられています。
EA1とEA31の定例句から
定例句 |
一族 |
a-na E2 ka |
e-hi-a ti |
妻たち |
a-na DAN-MESH ka |
DAN-MESH ti |
子供たち |
a-na tur-MESH ka |
tur-MESH ti |
一族 |
a-na E2 ia |
e-hi-a mi |
妻たち |
a-na DAM-MESH ia |
DAN-MESH mi |
一族 |
a-na tur-MESH ia |
tur-MESH mi |
「一族」は、それぞれ E2 と e-hi-a です。E2と言う文字はアッカド語では bitu のような読みだったと考えられています。 「妻たち」、「子供たち」は、共通で DAN-MESH、tur-MESH と、それぞれ2文字で書かれました。 これは、文字では同じでも異なる「音」で読まれることを示していると思います。一族にあたる語は「文字」も「音」も異なっていて、他もそれぞれの言語の語彙で読まれたと考える方が自然だと思います。 MESHは複数形を作ります。妻、子供は、DAN、tur と言う1文字で示されています。a-na は to や for にあたる前置詞です。ka、ti は「あなたの」、ia、mi は「わたしの」にあたるようです。 E2、DAN、tur と言った文字がどのように読まれたかは、この記述からは知りえません。a-na、ka、ia、ti、mi は音節を表し、概ねラテン転写のように読まれたのだと思います。MESHは複数形を造りますが、これもそれぞれの言語の方法で行われたと思います。
古代エジプトの文字もアッカド文字(楔形文字)も音節を表すための特別な文字があるわけではなく徐々に音節を主に表す文字が選ばれたということのようです。 古代エジプトの文字の1子音文字は送り仮名に使われ特別です。それ以外に2子音、3子音文字が知られます。アッカド文字は1音節の音節文字のようです。2音節以上の文字が音節を表す借字なのか、語義を伴っているのかは簡単には区別できません。 古代エジプトの文字は、ほぼ表音文字と見られているので2子音、3子音文字が認識されています。
音節の表し方
日本語では音節は母音と、子音+母音で捉えています。V、CVの音節です。かな文字が表す音節数は112と数えられています。 アッカド文字の音節は、VC(母音+子音)やCVC型もあります。 アマルナ文書でミタンニは自らを mi-i-it-ta-an-ni と6文字で表しました。 日本語の「伊賀」、「甲賀」の「が」は異なった音だと言われます。「お」に続く「が」は鼻音化する(鼻から気流が抜ける)と言うことです。VC型の音節文字を加えて i-ig-ga と ko-o-og-ga と表記すれば区別できることは言えそうです。しかし大変長い表記になってしまいます。
音素文字は複数の文字で1音節を表します。 音節文字は1文字で1音節を表します。 漢字は1文字で複数音節を表します。しかし、長い訓を付しているのは日本人で、本来1,2音節を1音とした、1語1音1文字の体系です。
子音文字
古代エジプトの文字は子音文字だったと見られています。しかし前述の表のようにヒエログリフ、ウガリット文字、フェニキア文字にも「あ」、「い」、「う」を書き表す文字はあったようです。 また、子音文字だけで十分だった訳ではないのは確かそうです。子音文字の系統のアラビア文字やヘブライ文字は現在では母音を書き表す方法を持っています。少なくともアラビア語やヘブライ語を母語としない人々にとっては母音を加えることは必須のようです。また、辞書を作るのにも必要だったと推測します。 アラビア文字の母音記号(シャクル、ハラカ)の起源は「アラビア文字の成立後まもなく聖典の音を正しく伝えるために書かれた」と説明されているので7世紀以降と言うことだと思います。 ヘブライ語はディアスポラ(世界離散)によって死後になっていたと見られていますがヘブライ文字の読み書きは続けられていました。中世にはニクダー(点)を使って母音が記されるようになりました。母音を書き表すことは発音を決めることであり「ティベリア式発音」と言うようです。 それぞれの言語を母語とする人々なら母音が不要だと言う訳ではないようです。
隋半母音と言う考え方は理解できます。アブギダは母音が記されない場合は隋半母音を伴って読まれる音素文字の体系です。デーヴァナーガリーは音節文字だと思いますが字母が明確に音素を示すのでアブギダの例に挙げられます。 デーヴァナーガリーの「か、き、く、け、こ」は、「क、 कि 、 कु 、 के 、 को 」です。「か」は、Unicode の 0915 क の字形です。他は、「क(か)」に母音を表す記号を合成して作られます。 き U0915(क)、U93F ( ि ) く U0915(क)、U941 ( ु ) け U0915(क)、U947 ( े ) こ U0915(क)、U94B ( ो ) k、ka、ki、ku、ke、ko のような記法で、「ka」は単に「k」と記すと言うことです。デーヴァナーガリーの隋半母音は「あ」であり、意図的に造られた規則です。 子音文字の母音が隋半母音によって一義に決まるなら子音文字ではなく音節文字だと言う事になってしまいます。
ラテン文字で表記する欧米の言葉には語末が子音文字や、語中で子音文字が続く箇所が有ります。随伴母音や潜在母音と呼ばれているかどうかも分かりません。本来音素文字であるアルファベットには音価があると言うことかも知れません。
ラテン文字の音価
1 |
B |
C |
D |
E |
F |
G |
H |
I |
J |
K |
L |
M |
N |
O |
P |
Q |
R |
S |
T |
U |
V |
W |
X |
Y |
Z |
ブ |
ク |
ドゥ |
エ |
フ |
グ |
フ |
イ |
ユ |
ク |
ル |
ム |
ン |
オ |
プ |
ク |
ル |
ス |
ト |
ウ |
ウ |
ウ |
クス |
ユ |
ズ |
日本のローマ字ではアルファベットは音価を持たず、常に音素として音節の表記に使用されます。ローマ字で採用された母音を表す文字を伴わない子音文字は、同じ文字を重ねた促音や拗音で使用されています。 ラテン語では「b」は概ね「ブ」で隋半母音「u」とも、「b」の音価が「bu」とも言えそうです。「b」に関する書き分けは以下のようです。
ラテン文字 b の書き分け
区分 |
libatio、ambitus、 libellus、bibo |
母音に従ってバ、ビ、ベ、ボ |
cibus、tabula |
チブース、ターブラ |
blandior、subnecto |
ブランディオル、スブネクト |
abbatia |
アッバーティア |
- |
- |
sub |
スーブ |
「bb」となる場合は促音になります。 「bl」と「bul」の差は明確ではありません。「u」を明記すると「ブー」となる訳でもなようです。他の母音と同様に母音の長さは綴り以外で決まっているようです。 また、post、quot 、infit などの語末の「t」は聞こえないようです。
隋半母音や潜在母音、子音文字の音価と言ったことは、西欧の言語の単語から考えると「子音文字」にもあったことは確かそうに思えます。
「子音文字」は「文脈によって母音を補う」と説明されますが具体的な例は見つかりません。同じ綴りの単語が、母音を変えて複数に読まれたと確認できる例は上げられていないように見えます。 語根による派生や接尾辞や接頭辞によって語が活用されることは見る事が出来ます。前5世紀のシドン王アシュムナーザ(Eshmunazar)の石棺の碑はフェニキア文字で記されています。この碑文から以下のような語が見つかります。
シドンの表記
|
シドン |
2つのシドン |
シドンにおいて |
2つのシドンに(属す) | |
mlk は malku、mlkt は malkatu のように読まれ、「k」が ku や ka と読まれることが「子音文字」を示すと言うことのようです。 しかし実際にどう読まれたかを知る方法は定かではありません。また何が英語などと違うのかも良く分かりません。 英語は大母音推移によって音素文字ではなく語毎に発音を覚える言語になりました。綴りが違えば発音が違って何の不思議もありません。
ヒエログリフ、ヒエラティック
古代エジプトの文字は概ね子音文字として扱われています。 プリセ・パピルス(Papyrus Prisse)の4ページ(4カラム)からが「プタハヘテプの教訓」のようです。その最初の行は、下図のヒエラティックのように書かれています。
その下はヒエログリフ転写、ラテン転写です。ヒエラティックは右から左へ読み書きされました。
「プタハヘテプの教訓」の1行目
sbAiit |
の |
長官 |
町 |
宰相 |
プタハヘテプ |
貴族 |
治世 |
上下エジプトの王 |
イセシ |
生きる |
永遠に |
永遠 |
神 |
エジプトの文学作品の分類のセバイトは sbAiit のことのようです。 特徴的なのは niwt は都市、THAt は宰相、SHpsは貴族や高貴、のように単語は概ね1義だと言うことです。母音を替えていろいろな語義と音を持っている「子音文字」とは異なっています。また語根を表すとも言えません。 niwt 、THAt、SHps は、字形に意味があります。文字で表された単語はそれぞれ字義と字音を持っているように見えます。この場合、どのように読まれたのかは文字からは分からにと言うことです。
文字から音が分かるのは前述のセネド王の名のようなケースです。s-n-d-i と snd があり、snd (G54)と言う文字は、snd のような音だったと推測できます。1子音文字は使用頻度が高いので、その音の信頼度は高いと考えられます。より多くのケースで矛盾がないと言うことです。 snd (G54)を含むエジプト語の語彙は左図のようです。赤い字はラテン転写で使用されている文字列です。 snd は「恐れ」や「畏敬」と言った意味のようです。 sndt は「恐れ」、sndwは「怯え」、srw は「ガチョウ」、trp は「家禽の一種」、wsn は「家禽を絞める」と言った意味のようです。 G54 が最初の文字になっているsnd、sndt、sndw は、snd(G54)が snd と読まれているようです。 子音文字だとして転写すると S29-Aa27-N35-I10-G54 は、s-nd-n-d-snd、O34-N35-I10-X1-G54 は、s-n-d-t-snd で、G54 は読まれていないようです。 s-nd-n-d は、nd に -n-d の送り仮名が付いているのだと思います。 srw、trp、wsn では G54 は読まれていないようです。
セネド王の名の snd(G54)はサッカラ・タブレットでカルトゥーシュに1文字だけ囲まれているので王名であることは確かだと思います。なぜ sened と読まれたのかは、1子音文字の中に e がないからかも知れません。母音が省略された場合、文字にない母音で読むのは理屈には合います。文字にあれば書けば良いはずです。これは文脈によって母音が決まると言う話しよりは納得できます。 ただしセネド王はBC2760ころの王で、王名表はBC1200ころの遺物です。セネド王の時代にどう書かれたかが知られている訳ではないことは考慮が必要です。
古代エジプトの文字は「漢文」のように意味は分かるが実際にどう読まれたかは文字では決まらない種類の文字と見ることが出来ます。漢文訓読や仮名交り文と同じ特徴を持っているように見えます。 漢字を訓読出来る理由は漢字が1語1字であることが要点で文字(語)単位に順序を組み替えて読むことが出来ました。欧米の文字は7世紀ごろまで分かち書きされず語の認識は音声言語と同じ方法で行われていました。音声言語を理解しなければ語も認識できず訓読の余地はありません。これは訓読ではなく翻訳になると言うことです。日本人は音声言語の中国語を全く知らずに漢文を訓読してきました。日本人は翻訳をしているのではありません。
前12世紀ごろまでの文字
前13世紀から前12世紀にかけて「海の民」と呼ばれる事変が起きました。起こったことは、ミケーネ文明やヒッタイトが滅亡し、アッシリアは著しく衰退しました。 やがて、「海の民」に数えられたチェケル人やペリシテ人がカナンに都市を築いていました。BC1021頃にはイスラエル王国も建国されました。 BC1200と言うのはホメロスの描くトロイア戦争のあった時代です。トロイア戦争に出陣したダナオイ(アカイア人)は長い間帰還することができませんでした。「海の民」と呼ばれる事変が終わるとキプロスにはダナオイの10の王国があったとアッシリアは記録しています。
前15世紀ころから「海の民」と呼ばれる事変までの文字は、エジプトのヒエラティック、ヒエログリフ、アッカド文字(楔形文字)、線文字Bが使用されました。また、ウガリット文字が前15世紀ごろから使用されました。 この他に14世紀にはアナトリア象形文字がルウィ語の表記に使用されました。ルウィ語は楔形文字の文書で知られますがアナトリア象形文字が伝えるルウィ語と直ちに同じだとは言えないようです。 楔形文字がウルク古拙文字などを経て発達したと見られる他は成立過程は良く分かっていません。 アッカド文字は、文字を作った人々とは異なる複数の音声言語の人々の間で使用されたことが明らかです。 ヒエラティック、ヒエログリフはエジプト語を記していると考えられています。 線文字Bはギリシア語(ミケーネ人、ホメロスのアカイア人の言葉)を記していると考えられています。 ウガリット文字はカナン諸語やフルリ後の表記に使用されたようですがあまり残らなかったようです。ウガリット文字は楔形文字の筆記環境を利用したもので、音素文字だけを定義した最初の文字です。
アッカド文字は1音1字によって1文字が1音節を表す文字が選択されて行ったのだと思います。 線文字B については過程は分かりませんがアッカド文字と同じ文字システムです。ただしアッカド文字より明確に音節文字が分けられていたようです。この差は、アッカド文字がアッカド帝国の時代の文書を典例として成り立っているのに対して、線文字Bは計画的に音節文字が作られたのだと思います。線文字Bは音節文字を作って、後から効率化のために表語文字(2つ以上の音節を持つ文字)を加えたのかも知れません。
古代エジプトの文字は子音文字だと見られ1、2、3子音文字が知られます。1子音文字は25種の音素に割り当てられ、同じ音価の1子音文字が複数あるので1子音文字は34程度あるものと思います。2子音文字は133ほど、3子音文字は44ほど知られています。
アマルナが都市だったのは50年ほどの間であったことからアマルナ文書は年代が確かな資料です。ティルスの王子だった a-bi-mil-ki は10通の書簡を残しています。EA154では音節文字で a-bi-mil-ki と記しています。EA147 では a-bi-LUGAL と記しています。カナン諸語の王は後にフェニキア文字で mlk と表されマルクのような音だったと考えられています。google翻訳で「a king」をアラビア語に翻訳すると「ملك」、mlk(マルカ)となります。ヘブライ語は発音が聴けませんが「מלך」、mlk となります。 楔形文字のLUGAL(王)と言う文字は1文字で mil-ki(音節文字2文字)と同じ音を表すために記されたと考えられています。 これは、アッカド文字(楔形文字)がカナン諸語で訓読されていたと言うことを示しています。また、a-bi-LUGAL だけが使用されていればLUGALが何と読まれたのかは分からなかったことも示しています。 同様の例をエジプトの文字で示すことはできませんが、スネフェル王の名のような送り仮名と見られる記法は特別ではありません。おそらく、同じ文字に複数の読みが存在しました。 同じ文字を異なる音声言語の人々が意思疎通に使用したのが前15世紀から前12世紀に掛けての文字の特徴になっていると思います。
ウガリット文字は楔形文字を駆逐しませんでした。ヒッタイトが滅亡する際の記録とされるウガリット、アラシア間の書簡はアッカド文字(楔形文字)でウガリットに残りました。また、ウガリット文字で書かれた重要な文書と言うのも聞きません。あまり残っていないのだろうと思います。アッカド文字の文書が残ったので、ウガリット文字の文書が残らなかった理由は焼成されることが少なかったと考えるよりありません。 また、アルファベットの並べ方には2系統あり広い地域で使用されたとされますが裏づけは分かりません。 音素文字、あるいは子音文字はエジプトの文字の中に既にあり、ウガリット文字が最初ではありません。音素を示す30の記号だけからなることが新しいことです。BC1050ころからフェニキア文字が使用されるまで同様の文字は使用されていないようです。 一般に音素文字は音節文字の倍の文字数になり効率の点で問題になります。しかし、セム語では子音文字が適切であったのなら効率の問題はなかったことになります。ウガリット文字が楔形文字を駆逐しなかったことは子音文字は速記文字のようなものだったことを示すのではないかと思います。 ウガリット文字に優位性があるのは文字を覚える労力です。30の記号を覚えるだけで済みます。しかし、識字率が低い状況ではあまり利点にはなりません。職業的書記が普及していない文字を使用する理由にはなりません。
前10世紀から前6世紀の文字
「海の民」と呼ばれる事変が終わるとカナンやアナトリアの住民には変化がありました。「海の民」に数えられたチェケル人やペリシテ人は都市を築いて定着していました。 アッシリアのティグラト・ピレセル1世(BC1115-BC1076)はアラム人の侵入を記録しました。この時代の歴史はアッシリアによってアッカド文字(楔形文字)の記録が残されました。 BC1021頃にはイスラエル王国が建国されました。 アッシリアのアダド・ニラリ2世(BC911-BC891)は属国にアラム人の国グザナを記録しました。アッシリアは新ヒッタイト都市国家群とされる都市国家をアラム人の都市国家と記録しました。 新アッシリアが勢力を拡大するのはシャルマネセル3世(BC858-BC824)のころからで、アラム・ダマスカスやイスラエル王国と「カルカルの戦い(BC853)」を戦います。この戦いは新アッシリアが破れました。 その後、新アッシリアの王はバビロニアの王を兼ねるようになり、BC721にはイスラエル王国を滅ぼし、エサルハドン(BC681-BC669)はエジプトへ侵攻します。 エサルハドンは、キプロスを Ya-at-na-na と記し、ia-dnana と解釈され、「ダナオスのキプロス」と呼んだと見られています。ダナオスはホメロスのギリシア人の1つであり、ラムセス3世が記録した海の民の denye と見られています。キプロスにはギリシア人の10の王国がありました。 これ以降エジプトは外来の勢力の影響下に置かれることになります。BC525にはアケメネス朝ペルシアに併合されます。
フェニキア文字はBC1050ころから使用されたとされています。ギリシア語の文献がカナンをフェニキアと記していてカナン諸語の表記に使われた文字をフェニキア文字と読んでいるようです。ヘブライ文字の話しでは「古ヘブライ文字」と呼ばれます。また、新アッシリアでは楔形文字の書記とアラム語の書記が1組で仕事をしたとされますがアラム語を記録したとされる文字はフェニキア文字でした。
ギリシア文字は前9世紀から使用されたとされています。 ギリシア文字はフェニキア文字から派生した文字ですが、ギリシア語を記録する文字としてフェニキア文字が使用されたと考えて良いのだと思います。wikipedia に上げられている初期のギリシア語・ギリシア文字の例のネストールのカップの文字の一部ですが、グザナの碑文のアラム語・フェニキア文字碑文の文字に似ています。Unicodeの字形はカルタゴの字形です。 フェニキア文字は子音文字で、ギリシア文字は母音も書き表した最初の音素文字です。 ギリシア文字が母音を表すのに使っている文字は、フェニキア文字にある文字です。母音の aeiou はフェニキア文字の、alf、he、yod、eyn、wau が使用されました。したがって文字列を見ても違いは分かりません。ギリシア文字と見なして ΗΙΜΕΡ と転写すれば母音が書き表されているように見えます。しかしフェニキア文字だとすれば hymhr のように転写され子音文字のようにも見えます。 ギリシア人やギリシア語が定かになるのは前6世紀のようです。アッティカやイオニアの言葉や文字がギリシア語やギリシア文字として広く使用されるようになったようです。 イタリア半島でもフェニキア文字が使用され古イタリア文字になりました。 キプロスではキプロス音節文字が引き続き前4世紀ごろまでギリシア語を記すのに使用されました。
新アッシリアの影響下にあったエジプトでは、話し言葉や文字に変化がありました。エジプト語は前7世紀ころからをデモティック期と呼び、デモティックが標準的は文字として使用されたとされています。
デモティックは音節文字のようです。文字の字形は子音を表しますが、回転によって母音を示したと見られているようです。ロゼッタストーンのデモティック部分の例からは、zho や zee と読まれる z が該当します。また、U は boo のようです。zee-boo はメンフィス、zee-yb はアレクサンドリアと訳されています。zee は神や創造神を指すもので「何々神の居る所」と記されたということのようです。
しかし、フェニキア文字、ギリシア文字、デモティック、いずれも歴史で引用されるような文書はほとんどないようです。 前10世紀ごろにはキリキアやアレッポ周辺にアラム語・フェニキア文字の碑文が残されました。BC1025ころに建国されたイスラエル王国でもフェニキア文字が使用されたと考えられますがBC700ころのシロアム碑文が最古のようです。 この時代の歴史は新アッシリアのアッシュールバニパル(BC668-BC627)のニネベ図書館に残された楔形文書によって裏付けられているようです。聖書の記述を裏付ける形で解釈されてきたものと思います。 新アッシリアでは楔形文字の書記とアラム語の書記が1組で記録を取り、アラム語が公用語だったとも説明されます。したがって、ニネベ図書館にもフェニキア文字の文書が多数あったことになりますが取り上げられることはないようです。 歴史で取り上げられている新アッシリアの楔形文字の文書は主に王の業績を記したもので大変高密度に記されています。形状は六角柱のものが多く作られたようです。
新バビロニアはBC612にニネベを陥落させ、新アッシリアに替わります。しかし、新バビロニアはエジプトには達しませんでした。 ユダ王国の人々はバビロン捕囚によってアラム語を使用するようになったとされますが具体的な文書が挙げられることはないようです。 新バビロニアでは主要な言語がアラム語であったと言う事が前提になっていますが、少なくとも新バビロニアの時代にアラム文字が使用された形跡はななそうです。
アケメネス朝ペルシアの時代の文字
アケメネス朝ペルシアはBC539に無血でバビロニアを制圧します。かつてのユダ王国の人々にとっては解放者であり、エジプトにも好意を持って迎えられたと考えられているようです。アケメネス朝ペルシアはBC525にエジプトを併合しました。 200年に渡ってアケメネス朝ペルシアはアジア、エジプトを支配しました。また、ギリシア人、マケドニア人の勢力とアナトリア西部やトラキア、エーゲ海で対峙しました。
ギリシアやイタリア半島ではギリシア文字やラテン文字が使用されました。ただし小文字やアクセントを示す記号などが使用されるのはずっと後のことです。 エジプトではデモティックが使用されたとされています。 アケメネス朝ペルシアではアッカド文字(楔形文字)が主要な文字だったものと思います。キュロス・シリンダーのようにバビロニアの王の権威ある文字は楔形文字であったことは確かそうです。 しかし、帝国の拡大に従って支配地域の文字を採用したと言うことではないと思います。アケメネス朝の故地はエラムに隣接しています。エラムはバビロニアに何度か王朝を築いた人々であり、バビロニアの正当な王を自負していて何の不思議もありません。エラムからはシュメールと同じ時代の類似の古拙文字が出土し文字の使用についても長い歴史を持っています。 2千年の間にはいろいろな変化があったものと思いますが、アケメネス朝を築いた人々も楔形文字を使用してきた人々と見て不思議はありません。 むしろ、新アッシリア、新バビロニアの4百年の間の王朝の主要な文字がアッカド文字(楔形文字)で有り続けたことを示しているのだと思います。フェニキア文字やアラム文字が主要な文字だったと言うことには証拠がなさそうです。
アケメネス朝の時代もあまり資料がないことには変わりがないようです。名前が挙げられるのは、「ベヒストゥン碑文」と「エレファンティン・パピルス」です。 ベヒストゥン碑文はダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)の正統性を示す目的で刻まれたとされ、在位中に刻まれたと見られています。この碑文は、アッカド語・アッカド文字、エラム語・エラム楔形文字、ペルシア語・ペルシア楔形文字で刻まれ当時の文字の事情を反映しているものと思います。 エレファンティン・パピルスはエジプトのアスワンのナイル川のエレファンティン島で発見された文書群です。この文書を残したのは古代のイスラエル人のコミュニティーです。前7世紀から千年に及ぶ文書が残され、内容や文字も多様な資料のようです。デモティックやアラム文字、ギリシア文字、ラテン文字、コプト文字の文書が含まれているようです。 アラム文字の書簡には日付があり、前5世紀に古代のイスラエル人によってアラム文字が使用されていたことは確認できます。 アラム文字の文書の中にはベヒストゥン碑文の文面が含まれ、ヘブライ語・アラム文字の文書のようです。
アケメネス朝ペルシアの時代の文字は、アルファベット(ギリシア文字、ラテン文字)、子音文字(フェニキア文字、アラム文字)、音節文字(アッカド文字、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字、デモティック)でした。 話し言葉を写そうとすれば音節文字が作られるのは自然に思えますが、長い間、そのようには推移しませんでした。この時代になって「話し言葉」ごとに音節文字を作ることが行われたようです。 音素文字は1つあれば済むもので「話し言葉」に応じて沢山作られると言った物ではありません。
アケメネス朝ペルシアの時代のエジプトの状況はあまり説明されないようです。 まず、エレファンティン島には古代のイスラエル人がいました。新アッシリアはイスラエル王国の人々をエジプト南端の防衛に送ったと考えられているようです。もともとイスラエル王国の人々はエジプトからカナンへ来た人々でありエジプトにイスラエル人が居る事自体は何の不思議もありません。
ヘロドトス(BC485-BC420)はアナトリアのハリカルナッソス(ドーリア人の都市)の生まれで、アテナイの植民に参加しマグナグラキアのスウリ(Θούριοι)で暮らしました。著述はイオニア方言とされますが、前5世紀ごろにアッティカ、イオニアの話し言葉や文字が標準的なギリシア語になって行ったと言うことです。ヘロドトスはマケドニアのアレクサンドロス1世が「今ではヘレネス」と記していてギリシア人の概念もこのころに形成されたもののようです。 ヘロドトスはエジプトのナウクラティスのギリシア人に触れています。エジプトでギリシア語の通訳が得られるのはナウクラティスがギリシア人の居住地だからだと言っています。ナウクラティスは第26王朝のイアフメス2世(BC570-BC526)がギリシア人に特権を認めた都市です。これに先立つプサメティコス1世(BC664-BC610)の時代からギリシア人の居住区がありましたがナウクラティスに移されました。
ヘロドトスが「歴史」を著す以前の前6世紀にはホメロスが文書になったとされています。しかし、ホメロスの作品も「歴史」もこの年代の文書は残りませんでした。文書が写本され後代に伝わるようになるのは前3世紀ごろ以降のようです。
マケドニアの時代
BC330ころアレクサンダー大王の東征によって、広大なギリシア語・ギリシア文字(コイネー)文化圏が誕生します。インド周辺にまでおよび、アショカ王のアラム文字・ギリシア文字併記碑文やコイン、バクトリア語・ギリシア文字碑文などが残されました。
文献が文字で表され後代に伝わるようになるのはプトレマイオス朝の時代からです。プトレマイオス朝は前30年ごろローマによって滅びます。ホメロスの作品も、ヘロドトスの「歴史」もアレクサンドリア図書館で編纂され、それが後代に伝わりました。アレクサンドリア図書館には70万巻のパピルスの巻物があったとされローマ帝国も保護しました。5世紀にキリスト教徒によって破壊され消失したようです。70人訳聖書もアレクサンドリアで編纂されたと考えられているようです。 アレクサンドリア図書館には薬草園や研究機関ムセイオンがありアレクサンドリアは長く学問の中心地だったようです。BC230ころにはエラトステネスがムセイオンの官庁を務め、サモスのコノンはプトレマイオス朝の宮廷天文学者を務めていました。両者と親交のあったアルキメデスもアレクサンドリアを訪れていると考えられているようです。 アレクサンドリア図書館の強引な収集方法について、アテナイの国立図書館からアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらの貴重な自筆原稿を借り受け、違約金と写本を返還しことが挙げられています。前6世紀、前5世紀の文書はギリシアの図書館にあったようです。
しかし、プトレマイオス朝の時代の著作物が、そのまま現在まで伝わっている訳ではありません。パピルスに書かれたものは片辺しか残っていないようです。聖書は沢山写本され忠実度も高いと思いますが4世紀以降の写本のようです。ヘブライ語聖書は11世紀以降の写本しか伝わっていないようです。 話しの内容は概ね伝わっていると思いますが、前6世紀ころからプトレマイオス朝の時代の話し言葉がどの程度伝えられているのかは良く分かりません。地名などは写本が作られた時代に通用するものに変えられていても何の不思議もないことに思えます。
プトレマイオス朝の時代の重要な遺物にロゼッタ・ストーンがあります。ロゼッタ・ストーンはBC196のメンフィス勅令を記した石碑の1つのようです。ヒエログリフ、デモティック、ギリシア文字が刻まれ、 1803年にギリシア語部分が解読されたと言うことです。 ロゼッタ・ストーンによってエジプトの文字が解読可能になったと言うことは、エジプトの文字で残された事柄は長い間歴史に影響を与えてこなかったと言うことでもあります。
ロゼッタ・ストーンのギリシア文字部分は区切りなく文字が続きます。まず、単語に分割しなければなりません。 一文字ずつ長さを伸ばしながら考えられる語が順次検討されたようです。 写真から比較的良く読み取れる3行目は以下のように訳されています。 上と下の国々の偉大な王。ヘパイストスが認める神々の子孫フィロパトル。太陽が勝利を与えるもの。ゼウスの似姿。太陽の子。プトレメオ。
ギリシア文字部分の3行目(1/3)
ΜΕΓΑΣ |
king |
of |
the |
upper |
and |
of |
lower |
countries |
offspring |
gods |
フィロパトル |
ギリシア文字部分の3行目(2/3)
ΟΝ |
the |
ヘパイストス |
approve |
|
the |
sun |
ギリシア文字部分の3行目(3/3)
ΕΔΩΚΕΝ |
the |
victory |
image |
living |
the |
Zeus |
son |
the |
sun |
and |
the |
プトレメオ |
メンフィス勅令が出された BC196 には、既にアケメネス朝支配から3百年以上、マケドニア支配から百年以上になっています。ヒエログリフが多くの人に読まれたとは考えにくいと思います。 識字率が低いことを考えるとギリシア文字を知らない筆記者がいた可能性はほとんどないと思います。職業的に文字を読み書きした人が30に満たないギリシア文字の記号を知らなかったとは考えられません。また、コプト文字がほぼギリシア文字であることから考えてエジプト語をギリシア文字で書き表すことも普通に行われたものと思います。しかし、この時代のエジプト語を記した資料はデモティックでも、ギリシア文字でもほとんど触れられていません。 ヒエログリフやデモティックはギリシア文字を常用する人々の余技だったと考える方が自然に思えます。古い書体の文字を書くことはいつの時代でも行われます。ギリシア語とされる部分も、当時の「エジプト語」と言うことなのかも知れません。
この時代にはギリシア語・ギリシア文字の文献が多数作られ、写本されて伝承されるようになりました。 ただし、現在参照できる多くのギリシア語の文献は、概ね大文字小文字やアクセント記号が使われています。ギリシア語だからといって古い書記方法を伝えているとは言えないようです。 音素文字であるギリシア文字は他の音声言語の記録にも使用されたものと思いますがほとんど遺物がないようです。
ハスモン朝の時代 の文字
かつてのユダ王国の人々はハスモン朝によってしばらく独立を回復します。 ハスモン朝の王国は、セレウコス朝の衰退を示すものでカナンやシリアにはいろいろな音声言語や文字が確認されるようになります。 ハスモン朝の下でヘブライ語聖書が編纂されたと考えられています。その文字はヘブライ文字で、字形から方形ヘブライ文字と呼ばれています。かつてのユダ王国の人々の話し言葉はヘブライ語で、ヘブライ語はフェニキア文字、アラム文字で記されていました。 アラム文字はパピルスにインクと言った滲む筆記環境に合わせてファニキア文字の字形を変えたもので一対一に対応する、書体だけが異なる同じ文字です。ヘブライ文字は方形になり、語末形の字形が加えられました。ヘブライ語が記されていると見られるフェニキア文字やアラム文字の文書は中点で語を別ち書きしています。古代のイスラエル人やユダ王国の人々の文字は古くから別ち書きが必要なものだったようです。 ヘブライ文字以外にも、カナン諸語(シリア語)を記すアラム文字派生文字が使用され、ナバテア文字などをシリア文字と総称するようです。 この時代の重要な文書に死海文書があります。死海文書は年代測定が行われBC150-BC70と言った年代のものとされています。羊皮紙が多いと言うことで滲みの少ない良好な筆記環境で書かれたもののようです。多くはヘブライ文字で書かれていますがアラム文字に近い字形のものがあります。「方形ヘロデ文字」と解説があり、ローマ支配下のヘロデ朝で使用された文字のようです。年代的にはヘブライ文字より後の時代に使用された書体だと言うことです。死海文書にはギリシア文字やフェニキア文字の文書もわずかに含まれているようです。
新約聖書の文字
キリスト教の聖書は1世紀になって書かれますがコイネー(ギリシア語)・ギリシア文字で書かれました。ローマの時代になってもコイネーは広く使用されました。ギリシア語で書かれた各書はシリア語、ラテン語などに翻訳されました。新約聖書としてまとめられたのは2世紀のようです。 聖書にはキリストの最後の言葉が周りの人々に理解されなかったことが記されています。(マルコによる福音書15:34、マタイによる福音書27:46) キリストはヘブライ語かアラム語を話したとされています。周りの人々が何語を話す人々であったのかは良く分かりませんがコイネーであっても不思議はないのだと思います。また、キリストがコイネーを話したとしても不思議はありません。
現在の文字
おそらく最も使用する人の多い文字はラテン文字です。ギリシア文字やラテン文字のような音素文字は音声言語に依存しないので新しく作り出す必要性はあまりないものと思います。本来、最小の記号数で記述しようとするものなので字形は簡単な形状です。混乱しないためにもラテン文字が広く使われるのは理にかなっています。 また、中国語の拼音(ピンイン)は「你好」を nǐhǎo と書きます。 どんな文字でも説明にはラテン文字が使用されているだろうと思います。
子音文字から現在に至っているのはアラビア文字とヘブライ文字です。アラビア文字はアラビア語だけでなく、ペルシア語など多数の音声言語で使用されています。いずれも母音を明記する方法を持ちラテン文字のように音節を書き表すことはできるようです。しかし母音を省略する書記方法は今でも続けられているようです。
デーヴァナーガリーやハングルは比較的新しい文字で音素を表す字形を組み合わせて音節を示します。ラテン文字との違いは、音素を1文字ではなく、字母とする点です。字母が音素を表し、その合字を1文字と数えます。したがって、デーヴァナーガリーやハングルは音節文字だと思います。 デーヴァナーガリーはアブギダの代表に上げられています。アブギダは音素文字の特徴を分類するもののようです。デーヴァナーガリーには随伴母音の概念があり母音「あ」を明示しません。子音を表す字母だけが書かれると「あ」を伴って読まれます。「かきくけこ」のうち、「か」は単独の字母で、「きくけこ」は「か」の字母と、それぞれ「いうえお」の字母を合字して書かれます。
漢字や仮名も利用者数の多い文字ですが、その実態は日本人が良く知っています。
話し言葉の推移
現生人類が言葉を話すようになって数万年経ちました。人の学習したことは死を持ってリセットされるので「話し言葉」も日常語の範囲を超えることなく推移したものと思います。 しかし、ヴェーダ語のようにBC1500からの出来事を語り継いだ数万の語彙を持つような口承文献が伝えられたことも事実です。 BC1500には既に文字が使用されていました。それでも前1世紀ごろまでは口承文献は文字の文献より優勢だったと考えられます。インドで口承文献が文書になるのは4世紀以降のようです。 考えられるのは口承文献が、共同作業で作られること、編集や検索が可能であることです。これらは単純に文字で代替出来ません。
話し言葉は乳幼児期に学習するもので1代で替わりえます。しかし必ず育てた人々がいて、その言葉が身に付きます。どんな話し言葉でも何万年も伝承してきたものに変わりはありません。知られている歴史は 1万数千年前に最終氷期最寒冷期を脱してからのことです。 しかし最終氷期最寒冷期を生き延びた現生人類は1万人にも満たなかったとも言われます。「話し言葉」さえ断絶していても不思議ではないのかもしれません。
BC8000ころ100万人、BC7000-BC600頃の世界人口は500万人から1000万人と考えられています。BC8000ころから集落を築き農耕や牧畜が始まったと考えられていますが 100万人と言うのは千人のコミュニティなら千集団と言うことです。こうしたコミュニティは孤立していた訳ではなく広域に交流していたと思います。文字の使用が始まって記録された中では言葉が通じないことに触れている例はあまりありません。おそらく広域で類似の「話し言葉」が話されていました。 アマルナ文書や同時代のカナンやシリアの遺物からはエジプトが自らの言語や文字を強制したことは伺えません。むしろ周辺国はそれぞれの言葉でエジプトに書簡を送りました。エジプトは、それに応じて返信しました。エジプト人は周辺国がエジプトの言葉や文字を使用することを歓迎していないように見えます。
古代のエジプトの文字やメソポタミアの文字は異なる「話し言葉」の人々の間でも通じることが重要なことだったようです。AN-IM と言う楔形文字はどこでも最高神を表し、イシュクルやアダト、タルフンニなどと読まれました。エジプトのアメン神は imn と記されました。ヘロドトスはテーベのゼウスの神殿と言っています。 漢文は、それぞれが「訓読」したので声に出すと通じませんが、文書は漢字圏で通じました。同じようなことがエジプトやメソポタミア、アナトリアなどでも成り立っていたようです。
ヘロドトスはアナトリアの出身者ですが「カラベル(Karabel)の摩崖碑文」をエジプトのヒエログリフだとして訳を付けています。(Hdt. 2.106)ヘロドトスはペルシア戦争をヘレネス(Ἕλλησι)とバルバロイ(βαρβάροισι)の戦い(Hdt. 1.1)と書いているのでペルシア人はバルバロイのようです。また、エジプトでは外国語を話す人を全てバルバロイと言うと書いています。(Hdt. 2.158) ヘロドトスはギリシアの神々や儀式がエジプト由来だと記していて、その証拠にティルスなどカナンの遺構を上げています。(Hdt. 2.44)さらにエジプトのギリシア人定住者やその都市について記しています。(Hdt. 2.154)ヘロドトスはエジプトからカナンに掛けてを1つの文化圏と見ていて、アナトリアを含めて自らが良く知る地域だと考えているようです。
ペルシア人がバルバロイなのは、おそらく同じ印欧語族だからです。 またペルシア人はペルシア戦争の原因をギリシア人がトロイアを滅ぼしたことに結び付けているとしています。トロイアはギリシアでなく、ペルシア人に近しい存在だと見られていたことになります。ローマ人もトロイアを自らの祖と考えました。 ホメロスの語る話しは広く知られ、ギリシアに対抗するものの象徴がトロイアであったようです。
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