文字と日本語文字と話し言葉古代の文字 文字の年表 文章語とダイグロシア 200万年前から旧石器時代とされます。ミトコンドリア・イブは29-14万年前とされ、現生人類はこの頃に起源を持ちます。数万年前、現生人類は、他の人類とは異なった活動の痕跡を残すようになります。これは音声言語の獲得によるものだと考えられています。 文字と使い手日本人の名前は文字で付けられています。戸籍も読みを記録してきませんでした。文字が登場する前から人には名前があったと考えられます。文字の使用が始まっても識字率は大変低いものだったとされています。日本人のように文字で名前を付けるのは当たり前のことではありません。 仏典が中国語に翻訳されて中国へ伝わったのは1世紀ごろで、当時ガンダーラを支配していたのはインド・パルディアでした。安息国(パルディア)の関係者は安姓が付与され安世高の名も伝わることになります。 漢字で名前を付ける習慣は行政上の必要性で広まったもので、識字率の低い状態では文字とは無関係に名前があったと考えて良さそうです。 物の所有者を示すために「しるし」を付けることは古くから行われたものと思います。いろいろな目的で「しるし」を付けることは人に限った行動ではありません。記号の歴史は現生人類より前から続いています。 文字の歴史の話しにはウルク古拙文字の例が挙げられ、絵文字が、その示す物の名前の音声と結び付いたように説明されています。 前8世紀以降、大帝国の時代になると、行政文書が官吏によって作成され、文字の使用者は飛躍的に多くなったと思います。新アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア、マケドニアと言った王朝では多くの音声言語の人々が官吏となったはずです。 おそらく教会語ともいうべきものによって、遠隔地へ書簡を送っても、通じるようになりました。辞書も作られたと思います。 文字の表すもの話している言葉は文字で表現でき、文字は読み上げることができると考えています。しかし、これは現在でも当たり前なことではないようです。アラビア語は文字では母音を省略するシステムを取っています。アラビア語の ktb は、「書く」ことに関連した3子音の「語根」で、辞書も「語根」で引くことが出来ると言うことです。google翻訳の「音声を聞く」を試すと、「私は手紙を書いた」、「私は手紙を書く」の ktb(كتب) は、それぞれ、カタバ、クタブと聞こえます。「オフィス」はマクタブと聞こえます。「オフィス」は語根 ktb を元にした造語のようです。 母音を変えて活用すること(母音交代)は日本語にもあります。「来る」「来ない」「来た」の「来」は、それぞれ「Ku」、「Ko」、「Ki」と読まれています。 フェニキア文字、アラム文字は子音文字と呼ばれますが、アラビア文字は、その系統です。ただし現在のアラビア文字は母音を書き表すことは可能なようです。 古代のエジプトの文字も子音文字だと見られています。 アッカド人は楔形文字を音節文字として使用しました。ギリシア文字が普及するまでは、楔形文字だけが話し言葉をそのまま記録する能力がありました。ギリシア語やギリシア文字が、アッティカやイオニアの話し言葉や文字を標準とするようになるのは前6世紀以降のようです。ギリシア文字は音素文字です。 ラテン文字は音素文字ですが、ラテン文字を使用する、現在の英語は例外です。英語の「名前」は、かつては「ナーメ」で name と綴られたと言うことです。15世紀から17世紀に英語に起きた大母音推移と言う現象によって文字は発音とは一致しないものになりました。識字率が低いことを考えれば話し言葉が文字とは別の変化をしても不思議はありません。この場合は、話し言葉の音が変化し、文字の綴りが維持されることになりました。 外国語の辞書には音声記号が記されています。また、「学校が」の2つの「が」は[g]と [ŋ]で異なるなどと言います。また「が」は [ɣ]だとも言うようです。音声記号はより正確に話し言葉を写せますが、文字に代わることは起きていません。 話し言葉は語より長い文節を想起することで発声されます。発音は語より長い単位で調整されています。意図的に1音ずつ区切って発音すると音節が認識されますが、音節を連ねても自然な発声にはなりません。また、基本的には音節以下の子音だけを発生することもできません。 人が発声できる最小単位の音節を記録する文字が出来るのは自然なことに思えますが、アッカド文字(アッカド人が使用した楔形文字で、前23世紀ごろ)が最初のようです。古代には子音文字が最も普及した文字だったようです。長い間、文字の目的は話し言葉を写す事ではなかったようです。 話し言葉を写すと言う観点ではプトレマイオス朝の時代からギリシア語・ギリシア文字の文書が残されるようになります。ホメロスの作品も伝承されたものはアレキサンドリア図書館で編纂されたものが現存する最古のようです。70人訳聖書や新約聖書もギリシア語・ギリシア文字として作られました。 話し言葉は単語ごとに区切って話すようなことはしません。話す時も聞くときも語より長い単位で扱っています。7世紀ごろから見られる音素文字の分かち書きは「視認する文字」の始まりを示す物だと思います。 5世紀ごろからアジアでは伝承の文書化が進みます。ベーダや仏典もグプタ文字によって文書となりました。 日本への仏教の伝来は6世紀とされています。仏教伝来にはアーユルヴェーダが含まれ梵字(悉曇文字)も伝わったと考えられています。梵字はグプタ文字の仲間のシッダマートリカー文字がサンスクリット語を表す文字として中国を経て仏典と共に日本に伝わったものを指すようです。日本では漢字が伝来すると直ぐに1音1字による音節表記が使用されます。万葉仮名なども使用され、10世紀には仮名文字が使用されるようになります。梵字は漢字とは別の表音文字体系を作るアイデアを与えたものと思います。 仮名文字は10世紀、デーヴァナーガリーは13世紀、ハングルは15世紀に登場し、現在も使用されている音節文字です。 漢字も、その文字を作った人々にとっては、文字の示す音と、話し言葉は一致していました。日本人の漢字を除けば、1つの文字にたくさんの音があると言うことはありません。 日本人は漢籍を典例とした文章語を導入しました。これは話し言葉の中国語とは無関係です。漢字の導入によって中国語を話すようになった訳ではありません。日本では漢文を「訓読」しました。中国でも話し言葉に変換して読まれたものと思います。 漢籍語の導入の影響漢籍を典例とした文章語は訓読されました。話し言葉を写すのではなく、話し言葉を文章に合わせました。「しのたまわく・・・」と唱えて覚えた漢籍は日本語になりました。漢籍の語彙は日本語より大きいものでした。見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥は、すべて「みる」と読まれました。しかし、日本人は漢字を使い分けて書くようになります。お医者さんは患者を「診」ます。漢字を学ぶことは知識を学ぶことでもありました。漢籍語の導入によって日本語には沢山の同音異義語が生じました。 おそらく、「朝日(あさひ)」は、もともとあった「あさ」と「ひ」と言う日本語を当てて、熟語と認識されるようになったものです。 一方「朝刊(ちょうかん)」は「音」によって読まれる造語で、その読みは日本語の語彙に由来しません。 しかし「チョウジツ」、「チョウシ」も国語辞書にある言葉で、音読みも国語の語彙に加えています。 「君子愛日...」は、君子は日を「おしみ」て...」と訓読されました。異なる音声言語の文字を読むのですから、1つの文字は文脈に沿って多様に読まれます。日本人は1つの文字に沢山の音を与えました。 漢字の音「音」も「訓」も日本語の話しであって、誰も「音」が中国の発声だとは言いません。しかし、漢字の字書には、「漢音」、「呉音」が記されています。漢音は遣唐使によって伝えられた長安で使用されていた音と説明されています。最初の遣唐使は630年なので7世紀に使用されるようになったようです。「呉音」は、それより前に伝わっていたとされています。呉音は伝来時期だけでなく「呉で使用された発音」と説明されています。 「漢音」は官の読み、「呉音」は仏教の読みとも受け取られていて、「漢音」は「正音」と呼ばれたと言うことです。 また、「唐音」と言うのもあって、宋、元、明、清の中国音が伝わったものの総称だと言うことです。主に禅僧によって伝えられたもののようです。 灯明、明白、明王朝は、それぞれ、トウ・ミョウ、メイ・ハク、ミン・オウチョウで、呉音、漢音、唐音の例です。 「呉音」「漢音」「唐音」の「呉」「漢」「唐」は伝わった時代の王朝を指していないようです。 「慣用音」と言うのもあって、「茶(チャ)」、「消耗(モウ)」、「輸(ユ)送」は、その例のようです。「呉音」「漢音」「唐音」以外と説明されています。「茶(ジャ)」漢音、「耗(コウ)」呉音、漢音、「輸(シュ)」漢音が示されています。どんな基準で「チャ」が漢音ではないのかは示されていません。 日本で使用された「音」も、中国音も、本当には誰も知らないことだと思います。むしろ古い音を保存している日本の音が中国音の根拠になっているのかも知れません。日本でも反切や仮名で漢字の音が記された辞書が作られましたが、仮名書きしても「行」は「カウ」や「ガウ」「ギャウ」と書かれています。仮名の音も本当には分かりません。 したがって音読みすれば中国語になるとは言い難いが無関係でもないと言ったところのようです。もう一つは中国でも早い時点から文章語と話し言葉は分離していて文字を音で読んでも中国語にはならないと言うことがあるのだと思います。 漢字の辞書の「音」はほとんど1音節か2音節のようです。漢字の「音」は2つの漢字の組(反切)で音が表されて伝わりました。 字音字音は「漢字の音」のことで「国語化した」と言う限定が付いています。漢字の読みのうち「訓」以外を指すものだと思います。もう一つは、文字には1つの音があると言う前提で使用されています。文字の字形と音の対が決まっていないと綴りを説明することが出来ません。Aを「エー」や「アー」と言うように字形にはラベルがあります。 文字が絵文字に話し言葉の音が与えられて成立したなら文字には本来1つしか音はありません。稀には話し言葉の中にも同じものを指す複数の語があったかもしれませんが、話し言葉は長い歴史の中で曖昧なものを排除していたと考える方が当たっていると思います。 漢字の字形は「字音」で指定されます。それは漢字を生み出した人々の話し言葉の規則性によって、混乱なく音と字形が対応付けられていたことの表れなのだと思います。 漢字の「音」にも「呉音」や「漢音」がありますが、原則は同じ時代、同じ場所では原則は1つの文字は1つの音だったと言うことです。 音と訓「愛」の「音」は「アイ」で、呉音で「オ」と読まれることがある程度ですが、訓は十数もあります。「君子愛日...」は、君子は日を「おしみ」て...」と訓読されました。異なる音声言語の文字を読むのですから、1つの文字は文脈に沿って多様に読まれます。日本人は1つの文字に沢山の音を与えました。鎌倉時代の辞書には文字によっては数十も訓が示されていると言うことです。今日の訓は整理されたものですが、それでも1つしか訓のない字は珍しいと思います。 漢籍は訓読されました。それでも「音」が必要なのは、1)字音として字形を示す、2)対応する訓のない文字がある、3)造語に便利、と言った理由があったと考えます。 漢字と仮名日本語の文章は「仮名交り」が使用されています。これには2つの大きな効果があります。一つは視認性の向上です。分かち書きしなくても語の区切りが視認されます。黙読は音読より大変高速です。 もう一つは熟語が自由に作れると言うことです。漢字だけの文章では造語は容易ではありません。漢字の前提は1語1字であり、造語は基本的には造字を意味します。造字しても普及させる手段はほとんどなったと考えられます。 日本人が造字したのは300字程度で、凪や畑や畠などです。区画された土地を表す「田」を「稲田(水田)」に当てた日本では「火田」や「白田」が必要になったのだろうと思います。 こうした文字はひとりでに広まる力を持っていたものと思います。 仮名交り文では連続した漢字は熟語と見なせます。日本人は特に翻訳に伴って大量の造語をしました。「体系」、「朝刊」など、多くの語彙が自然に普及することになりました。 新聞の見出しに「大半身寄りなし」と書いてありましたが、多くの人が「だいはんしん」と拾い読みしてから、「身寄り」の語を認識することになると思います。日本語は文字で表した状態が正本で、音声は補助です。読み直して文意から音声が決まります。また、文字は多様に読まれ文字種の選択や区切り記号が重要な役割を果たします。 送り仮名漢籍を典例とした文章語を導入した日本語では訓読によって漢字に沢山の読みが生じました。「当年」は、「とうねん」とも「あたりどし」とも読めますが「当り年」と書くことができます。送り仮名は読みを誘導する働きをしています。文字としては、あたり・り・とし、と並んでいます。 古事記には、「穿其服屋之頂」とあり、屋根は「(服)屋の頂」のようです。中国語の屋根は「屋頂」のようです。現在は、「天兒屋根命」と記される「あめのコヤネのみこと」は、神事を司る中臣氏の遠祖で、日本書紀には、「中臣上祖天兒屋命」とあります。 エジプトの第2王朝のセネド、第4王朝のスネフェルの名前はいろいろに記されています。エジプトのヒエログリフは子音文字と見られています。 セネド王の名前は、アビュドス王名表では1子音文字で s-n-d-i と4文字で記されました。サッカラ・タブレットでは3子音文字1つで snd と表されました。 スネフェル王の名前に使用された nfr と言う文字には他の読みがあり、nfr-f-r や nfr-r のように送り仮名をしていると類推できます。 音節文字のIMと読まれる楔形文字は神の限定符DINGIRを伴って最高神を表しました。シュメール人のイシュクル、アッカド人のアダトに当てられたと考えられています。ヒッタイトの最高神はタルフンニのようで IM-UN-NI と綴られました。 音節文字発声することが出来る最小単位が音節なので、音節に記号を割り当てて文字にするのは極めて自然なことです。更に進めて音素文字にすれば最小の記号数の文字体系ができます。しかし文字の目的は音声言語を写すことではなかったようです。BC1050ころに使用が始まるフェニキア文字や、新アッシリアの時代に広く使われたとされるアラム文字は子音文字でした。 また、音素文字は1つあれば、どの音声言語も表すことができるわけですが、ラテン文字に収斂するのもずっと後のことでした。 しかし表音文字が音声言語によらずに使用ができることは認識されていました。シュメール人の文字を使って、アッカド語やカナン諸語、ヒッタイト語、フルリ語などが表されました。 アマルナ文書の書簡で、ミタンニは自ら mi-i-it-ta-an-ni と6文字で記しました。ヒッタイトの王は mi-ta-an-a 、ビブロスの王は mi-it-ta-ni と記しました。 話し言葉の歴史は大変長く、文字の影響がなければ、紛らわしい表現は除外されているものと思います。一方で通常文字で表さないアクセントなどの抑揚や清音、濁音と言った区別を含むだろうと思います。 1音1字と借字古事記の序には「1音1字」が例示されています。「字音」を借りて日本の話し言葉を表すもので漢字の字義は使われません。万葉集の歌謡にも「1音1字」で記されたものがあります。「余能奈可波」は「ヨノナカハ」と読まれています。 仮名は「1音1字」の記号数を最小化して簡略化したものと言えます。 一方、万葉集にある「行毛不去毛」は「ゆくモゆかぬモ」と読まれています。
と、言う物です。こうした万葉仮名は、「1音1字」や仮名とは発想の異なるものです。おそらく正規の漢文の文字並びを構成する前の下書きのようなものです。文章を書く場合、漢文が訓読された状態を先に作る必要があり、「借字」も使用されました。「行毛」の「毛」は字義は使用されておらず音だけが借りられています。 表語文字前述の万葉集にある「毛許呂裳」は、「毛」「裳」は「表語」、「許」「呂」は「表音」と言えないことはありません。こうした見方は、その文字が外来であることを示しています。文字を作った時には話し言葉の音が当てられ字義と音は分けられません。外来語を表すための借字は生じるかも知れませんが、基本的な語彙が表語と表音に分けられることはないのだと思います。 楔形文字でヒッタイトの王は自らを LUGAL u a-na KUR URU ha-at-ti のように記しました。「ハティの国の王である人」なのだと思います。大文字の語は表語文字と説明されるものです。LUGAL、KUR、URU は、それぞれ楔形文字の1文字です。LUGALは王、KUR、URUは、それぞれ国、都市を示す限定符とされています。 言語とマスメディア音声言語にによって何々人とグルーピングするのは、母語を共有する集団は、共に生活していると見なせるからだと思います。日常の生活で使用する語彙が何万もあるはずがありません。人の能力は何万語でも可能ですが、誰かが辞書を作り出したとしても1代で失われます。生活が変われば新しい語彙が加わるかもしれませんが、前に使用されていた語彙が使用されなくなり、次世代に伝わっていく総数はそう変わらない状態が続くだろうと思います。また、誰かが思い付きで語彙を加えても、広がることはほとんど考えられません。 多くの場合、音声言語は数千語と行った語彙数を越えないようなものなのではないかと思います。遠くへ書簡を送って話しが通じるなら、語彙は勝手には変更されずに維持されていることを物語っています。 しかし現実には、ヴェーダ語、アヴェスター語のように多くの語彙を持った言語が存在しました。仏典結集のようなことをしなければ不可能なことに思えます。どうやっていたのかは分かりませんが、日常を越え、専門用語なども伝承した人々がいました。メソポタミアの多くの言語はフルリ語から語彙を得たと見られているようです。フルリ人や楔形文字の書記などが広域に文書が通用する辞書の役割を果たしたのだろうと思います。 この役割は後には教会が担ったのだろうと思います。 語彙を増やすことが如何に困難かを示すのが和製漢字だと思います。日本に漢字が渡来してから日本人が加えた漢字は300ほどだと言うことです。凪などは、傑作だと思います。 こうしたことは、現在では少し違っています。マスメディアによって語彙を追加したり変化させたりすることが起きます。 現代人は、書籍を読むとき、読み上げるのではなく、視覚的に文字を認識しています。その方が高速に読み取れるからですが、こうした能力の使用は1854年以降に始まったことです。 文字は「話し言葉」を完全には写しませんが、文字が写す情報は概ね十分なもののようです。1877年に蓄音機が発明されたようですが録音は記録の主力にはなっていません。文字は「話し言葉」を写す以外に、印刷や検索、編集に大変有利です。また、「話し言葉」の理解は聞き手が発話者の発生動作を想起することにあり「音」自体は補助だと言うことを示しているのだと思います。しかし音声でも映像でも作り出せるようになり、これからどう推移するのかは分かりません。 日本語と漢字バビロン捕囚によってユダ王国の人々は、アラム語を使用するようになったとされます。同様に表現して、日本人は漢字を導入して中国語を使用するようになったと言いそうです。しかし日本人が中国語を話すようにはならなかったことは確かです。主に文字による影響を受けた日本とは違う点もあるでしょうが、ユダ王国の人々も「話し言葉」をアラム語に変更したと言うことではないのだと思います。 古事記の序には、「時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。」とあり、また、「然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣更長。是以今或一句之中。交用音訓。」とあります。 古事記は8世紀の話しですが、基本的に漢文で書くことを採用していました。これは、多くの「音声言語の日本語の語彙」が「文字である漢字の語彙」で表せたことを示しています。 古事記の序には「1音1字」の例が挙げられています。「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」、姓の日下は玖沙訶(くさか)、名前の帯は多羅斯(たらし)と書くとしています。 帯の上代語は「たらし」でした。これは、漢字のシステムは、上代語よりずっと語彙の多いことを推測させます。例として「見る」ことを表す、見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥には、すべて「みる」が当てられています。日本人は、これらの漢字を使い分けるようになります。同音異義の語として、語彙を増やした例だと思います。 古事記の序を記した太朝臣安萬侶は、すでに漢字の本質を知っていました。日本語を表すには「1音1字」つまり仮名文字を使えば良いのです。しかし、それは大変冗長なものです。意味を伝えると言うことでは、日下、帯と書けば十分なのです。読み手が、「くさか」や「ひのした」や「ぴしゃ」、「たらし」や「たい」の何れに取っても問題はないのです。たとえ「ひのした」と読んだ人も書くときは「日下」と書くので問題にはなりません。 日本人は漢字を取り入れました。おそらく、上代語の十倍の語彙を得ました。前述のように多くの「みる」と言う漢字を使い分けるようになりました。しかし、漢文は日本語であって、中国語を話すようになった訳ではありません。 漢文漢字の特徴は、「兵少食尽」を「兵少なく食尽く」と読めば日本語で、「ピンシャオシチン」ならきっと中国語だということです。漢字を取り入れた国々では、「兵少食尽」を、それぞれの音声言語で読んだことでしょう。 漢字は表語文字で、どう読まれるかは、それぞれの国語によると言うことです。 漢文の特長は文語だと言うことです。これは、中国でも言えることらしく、「論語の時代には口語と異なった洗練化が起きた」と表現されるようです。「兵少食尽」は「兵が少ないことによって食が尽きる」のはおかしいから「兵も食料も乏しい」と読めます。漢文は時制が明示されないなど文字だけで全てを伝えることを意図したものではないとも言えます。 おそらく漢文を読むことによって使用されるようになったのは「いわゆる(所謂)」、「くだん(件)」などです。 音声言語は動詞の発音を変化させて、時制や人称を表現します。こうした活用が漢文のシステムにはありません。文字を傾けたり、点を打って活用すると言ったことは採用されませんでした。 このことは、日本語の文末の表現に影響を与えました。虎児を「う・る(得る)」のか「え・ない(得ない)」のかで、「得」の音が変わるのを避けて、「え・む」や「え・ず(得ず)」となったことは確かそうです。うる、えた、などとは読み下されず、体言止めのような時制の消失した文末表現が工夫されたのだと思います。 日本人は長い間漢文を書きました。そのほとんどは他の音声言語の人々が読むことを想定していませんでした。「漢籍と同じ文字列」を作ると言うのは原則のことで、実際には多くの文書が和製漢文であることが識別できるものなのだろうと思います。 漢詩漢詩は熟字を認識させ、音読みするようになるきっかけなのかもしれません。訓で読むと音節数が変わってしまいます。漢字の「音」は、ほとんど2音節です。 今日不知誰計会(李白)は、「こんにちしらずたれかけいかいせん」と読まれ、「計会」を「はかりあわす」などとは読まなかったのだと思います。 漢字は基本的には1語1音1字です。1音は1音節と言うことではなく、主に2音節の反切で表される「音」、日本の漢和辞典の「音読み」のことです。1語1字であることから区切って書く必要はないと言うことになります。 たとえば「朝日」や「大恥」は「あさひ」、「おおはじ」と言う熟字な訳ではなく、書いた人は「朝の日」や「大きに恥じて」などと書きました。日本人はそれらを熟語として取り入れました。 熟語凪などの和製漢字は300ほどあるようです。「働」は中国でも採用されているようです。しかし、長い年月が経ち新しい言葉が沢山必要になる中で、如何に漢字が完備でも 300 は少なすぎます。 これは、自由に熟語を作ることで代替されてきたのだと思います。日本では仮名文字と漢字を混ぜて使ったために、新しい語を熟語として自由に作ることができました。漢字だけの文章では、熟語で語を増やすことは、漢字を加えるのに近い力が必要です。 「牀前看月光」は、日本語なら「牀前」と「月光」と言う熟語を解釈できます。日本語なら「月光(ゲッコウ)」は「月の光り」とは同じ意味の別の語です。 「温故知新」は、「故きを温ねて新しきを知る」と言うように書いた漢字の文章から切り出して、日本人が熟語としているものです。 中国にも熟語があり「分量」や「感謝」などは1つの語と認識されるのだと思いますが、これは勝手に作り出すことができません。繋がった漢字列から熟語が認識できるのは、それが良く知られているからです。 日本語では、仮名文字と混ぜるので語の切れ目が明瞭です。臓器移植が必要になったら、「脳死」や「心停止」など自由に語を作り出せます。「自衛隊」でも「国防軍」でも、「集団自衛権」でも自在です。 こうしたことは科学技術や律法などに関して大変大きな恩恵をもたらしたと思います。 現在では熟語は慣用句の意味で使われることが多いと思います。おそらくイディオム(idiom)の訳語で、漢字の「熟」もそれを連想させます。熟語には、「良く使われる成句」、あるいは、単に「成句」の意味があります。 語の発音実際にはどんな文字も、音声言語を完全には写していないことは確かなようです。どの文字体系でも、その文字情報だけでは、音声合成ができません。現在の音声合成は語の辞書を持っています。さらに、その語を連ねても、自然な発声にはなりません。人は、意味のある単位で調音を行っていて、音節や語を制御しているのではないからです。 「おおさか」の最初の2文字は同じ文字ですが同じには発音されません。むしろ「おーさか」や「おうさか」かもしれません。日本語に限らず、記述通りに発音していない例は沢山あります。また、「箸」と「橋」、「みかん(蜜柑)」と「未完」のような抑揚が記述されていないこともあります。 また、口が動く動作は、その前の状態に依存します。それ以外にも調音に係る器官は前後の状態の影響を受けます。音節は、語頭にあるときと、語の中で使われた時には異なった音が出ています。語の中にある場合は、前後の音で変化します。 さらに、抑揚の調整は、文章のような大変長い単位で行われることも重要です。発音記号で文章を記したとしても、意味的な解析なしには、自然に読み上げることはできません。 発音記号ギリシア文字やラテン文字は、音素文字に分類されています。もしそうならなぜ発音記号が必要なのか疑問です。BC1854頃以降大量出版が始まると、視認の重要性が高まって、語の綴りが維持されるようになり、おそらくギリシア語も発音が変わって綴りと合わないものがあるのだろうと思います。 ラテン文字は、ラテン転写など、発音記号と同じ目的に使われています。しかし、それぞれの記号の音が一義に定義されているわけではありません。 このように発音記号には優位性がありますが、発音記号で文章を書く人がいないのも事実です。 言葉は音によるコミニュケーションですが、音の周波数や持続時間によって符号化されている訳ではありません。 仮名文字の表す音節は、母音単独(V)か、子音+母音(CV)の形式で表されます。 音声記号で表記した文章も、そのまま音声合成できないことは他の文字と同じです。音声記号が表しているのは発声動作の制御の列なのだと思います。 外来文字の導入漢字を導入することで起きた「送り仮名」や、「1つの文字にいくつもの『音』」があることを挙げました。こうした特徴は「外来の文字の導入」によって発生することで、おそらく日本語だけの話しではありません。 同音異義語が多いのも「外来の文字の導入」の特徴だと思います。見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥の訓が「みる」なのは、日本語の単語の数は漢字に比べると圧倒的に少なかったことを物語っていると思います。 トランプやカルタ、タバコ、カレンダーなどカタカナ書きされる外来語は、音を移すことで取り入れられ、日本語とは源が異なることが意識されています。表音表記される語でありながら外来語として扱われない語が沢山あることも特徴だと思います。書籍の見出しは「題(ダイ)」と言い、ほとんど「みる」や「ひたい」とは読みません。「獅子(しし)」は日本にいませんでした。「獅」や「菊」には訓がありません。これらは対応する日本の語彙がなかったので、そのまま「音」が日本語になりました。しかし、これらは外来語とは考えられていません。 「爾天宇受賣命謂海鼠云 此口乎 不答之口而 以紐小刀拆其口」の最後の部分は、「ひもかたなを以ちて其の口をさきき」のようです。「海鼠」は、2文字で「こ」と1音で読まれたと考えられています。 漢文を読むためには、音読みを訓に加えたり、名詞の動詞化をしました。「人言楚人沐猴而冠耳、果然」、「もくこうにしてかんす」は、冠を被ることを「かんす」と読んだわけで、もともとはなかった言葉だと思います。「通る」、「通じる」も同様だと思いますが、「通じる」は、それまでなかった「理解し合う」と言う意味の言葉を増やしたのだと思います。 また擬声音にも特徴があります。太陽がサンサンと降り注ぐのは擬声音と同じように扱われています。「犬がワンワン」と同じで、ワンワンは解釈するものではなく様子を想起するように働いています。しかし、サンサンは粲々、燦々で、同じ語を重ねた強調表現であって本来は擬声語ではありません。 擬声語擬音語と擬態語を合わせて擬声語と呼ぶようです。確かに太陽は「サンサン」と光り輝いていますが、直接には音を出すことも演技もしていません。「オノマトペ」とも記されていて、ギリシア語の擬音語(νοματοποιία)のフランス語転写のようです。切っ掛けはいろいろでも最終的に音声に摸されると言う意味で擬音語が総称でも不思議はありません。 話し言葉が感性で声を出すことに起源があるなら全ての語は擬音語と言えます。従って、あえて擬音語と言うのは、「まだ語になっていない語」、「語に準ずる語」のことになります。 「ワンワン」は擬音語ですが、太陽が「サンサン」と輝くのは、おそらく擬音語や擬態語ではありません。「サンサン」や「せいぜい頑張れ」と言うのは、「燦」、「精」を強調のために重ねたもので漢籍に由来し、擬態語として書かれたものではありません。 強調するために同じ文字を連続して書くことは自然なことです。このことと、擬音が「ワンワン」のように2音節の繰り返しになることが多いことが1つになって「語に準じる語」が沢山作られたのだと思います。 漢籍からの「戦々恐々」や、勇気「凛々」のような漢字を重ねたものがあります。 普通には擬音語や擬態語があって、語彙が生成されるように思いますが、日本語では、語彙を重ねて擬態語のように使用するようになったようです。「つるり」や「ふらり」と言った語彙があって、「つるつる」、「ふらふら」と言った言い回しが生じたのだと思います。 日本語の語彙の多くが文字で造語され、読みは読み手が付けて「話し言葉」に加えました。しかし、近年のマスメディアの時代には「話し言葉」の新語が先に広まることも起きます。文字を重ねた強調表現が、擬声語として広まったのは、そうした先駆けなのかも知れません。 ※こわい 未然形と已然形「人の世ならば」と「人の世なれば」は、「未然」と「已然」に当たりそうです。前者は「今は人の世では無い」と取れます。後者は「今は人の世」です。おそらく「話し言葉」は少しの変化で、時制や人称、単複などを表すように発達します。肯定的か否定的かと言ったことも伝えます。 数万年の歴史を持つ「話し言葉」は会話の主要な要素を、構文を替えたり、特別な語を加えることなく表せるようになるはずです。 中古日本語の「未然」と「已然」は、そうした名残なのかも知れません。 いま、「人の世」状態でのことを表現しようとしています。「未然」は「これから人の世になると」と言う「仮定」でもあります。 「已然」は「人の世にあっては」と言う「人の世」に限った話しをしようとするとも受け取れ「限定」と解釈されます。 思考としては「人の世」と言う「背景(条件)」を想起し、それが「仮定の状態」なのか「現状」なのかを認識しています。 万葉集から「時間」を「待つ」、「またば」と「まてば」の例です。 文章は全て「限定」するものだと思います。「山は高い」は、対象が「山」に限定され、その山の特徴は「高い」言によって示されます。「限定」は文章の基本的な性質です。「未然」、「已然」の話しは、「因果関係」の表現の話しと考えることが出来ます。 教育勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の「あれば」は、「已然形+ば」です。今が「緩急」ではなければ「あらば」となったことは推測できます。 ダイグロシアダイグロシアとして上げられたのは、ギリシア語、アラビア語のようです。ギリシア語はコイネーとして広く使用され多くの文献が作られました。アラビア文字は聖典の維持のために7世紀ごろから使用されました。典礼となる文書によって多くの異なった「話し言葉」の人々が使用するギリシア語やアラビア語と、それらを母語とする人々の言葉の間に差異が生じるのは不思議ではありません。当然、文書を典例とすることはギリシア語やアラビア語を母語とする人々にとっても重要なことです。 ダイグロシアの示すものが何かは良く理解できませんが、典例語と日常の話し言葉があることは推測できます。 文字は「話し言葉」の持つ情報を完全に写すものではないので厳密に「言文一致」と言うことも在り得ないことです。 日本語の文体は「漢文訓読調」、「擬古文」、「言文一致」があるようです。初期の「言文一致」の例は 1888年(明治21年)の二葉亭四迷訳「あひびき」のようです。しかし、1890年(明治23年)森鷗外「舞姫」(漢文訓読調)、1895年(明治28年)樋口一葉「たけくらべ」(擬古文)のように一般的だった訳ではないようです。 物を考えるときに使用する言葉で書くことを「言文一致」だと考えると、「・・・然らずんば死を」と考える人がいないとは言えません。また擬古文は中古日本語の「話し言葉」に近いのかも知れません。 日本語も明治以前は典籍語である「漢文訓読調」の文体と「言文一致」のダイグロシアだったのかもしれません。しかし日本語の語彙の大半は文字によって造語されたもので、語彙の点では「言文一致」に近い状態が維持されていたものと思います。漢文だけが書記方法だったときには語順の違いが歴然としていますが、「漢文訓読調」には語順の問題はありません。 訓読み「朝日之直刺國 夕日之日照國也」(古事記 上卷并序)は、「朝日の直ちに刺す国、夕日の日照る国なり」のようです。古い文書の読み下し分では極力訓読が行われるようです。日照国」は、「ひでるくに」で「にっしょうのくに」ではないようです。朝日、夕日も「あさのひ」や「ゆうのひ」なのかもしれません。 また「必其兄貧窮」は、「ひんきゅうす」ではなく、「まずしくあらん」のようです。 しかし、漢字だけで書かれた文章がどのように読み上げられていたのかは誰にも分かるはずはありません。 現在では、漢字と仮名を混ぜて文章を作るので、漢字が連なった箇所は熟語と思って、音読みを第一候補として読んでいるものと思います。「主権在民」は「主権は民にあり」と読めますが訓読するつもりで造語したものではないと思います。 古くから漢詩は語順を変えず漢字を音読みする工夫がされたものと思います。 ねぐら(塒)ペットを入れるカゴや檻が「ケージ」と呼ばれています。おそらく英語の cage です。ケイジ(鶏塒)は使用されていますが広辞苑にはないようです。詩経に「鶏棲于塒」とあり、「鶏塒」は日本の漢詩にも登場しています。中国の漢詩は「鶏はねぐら(塒)に」と訓読されています。 「塒」は「時」が音符の形声文字で、「ジ」の音が「峙(ジ、そばだつ)」ことを連想させるもののようです。鳥小屋は土で出来ていて、檻のことではないようです。 「塒」は単独で「鶏小屋」を表します。日本人が「ケイジ(鶏塒)」としたのは、「ねぐら」は鶏専用ではないからだと思います。「ねぐら」は「寝るところ」のことで、「ねど、ねどこ、ねどころ(寝所、寝床)」と同じに使用されます。 しかし、「ねぐら」と言う語は、本来の日本語の語彙ではないと思います。「塒」の「そばだつ(鶏の寝姿)」の意味合いを合わせて、「ね(寝)くら(座)」と訓が振られたのではないかと想像します。「ねくら」からは「にわとり」が感じられないので「寝るところ」として使われるようになって不思議はありません。おそらく、本来の日本語には決定的な「寝所」に当る言葉がなかったのだろうと思います。 「とくら」は万葉集にある言葉だと言うことですが、広辞苑にある鳥栖、鳥座、塒ではなく、「鳥垣」や不明な文字で記されていて定かではありません。「塒」には「とくら」と言う訓も振られていたようです。こちらは「鳥」が感じられます。しかし、「寝る」事とは切り離され、鳥を飼うとや(鳥屋)や鳥小屋になります。また、「鳥」は「にわとり」ではありません。鳥がねぐらに帰るのは夕暮れ時の描写に使われますが、本来は「牛巷鶏塒春日斜」のように人界に近い、日常の人の営みを想起させるものだったようです。 たびたび、ますます年年歳歳のように同じ文字を繰り返すのは強調する方法として理解できます。おそらく、「たび(度)」は本来の日本語です。しかし「度々」のように使用していたかどうかは分かりません。おそらく漢字の導入以降に「たびたび」と言うようになったのだろうと推測します。「ますます(益々)」も同様ですが、広辞苑には「多多益益弁ず」(漢書韓信伝)があり、漢文の訓読で生じたことが明らかなようです。 「騒々しい」のソウ(騒)は音で、明らかに漢字の導入に伴って生じた言葉です。 話し言葉は語を区切って発声しないので、繰り返すと言うことが明瞭ではありません。話し言葉の場合は1音節の語や、擬音の繰り返しがあります。「パパ」、「ママ」や、疲れて「よろよろ歩く」ことや「よれよれ」になったりします。 日本語の年代区分日本人に限らず現生人類は何万年も母語となる音声言語を受け継いでいます。しかし、それらは残りません。文字による記録が始まって以降のことしか知り得ない訳ですが、文字が音声言語を表している保証もありません。日本が導入した文字システムは、漢籍語とも言うべきもので文字表記上は典例となった漢籍と区別がありません。しかし、その読みは訓読であり、漢籍の編者の意図した音よりも日本語の語彙や文法を優先して読まれました。この様子は古事記の序の「1音1字」の説明に現れています。 漢籍語を導入しながら日本人の話し言葉は中国語にはなりませんでした。それは漢籍語は中国でも話し言葉の中国語ではなかったからだと思います。これは漢籍を典例とした文章語が大変長命だった理由でもあると思います。 識字率は大変低いものだったとされていますが、文字によって話し言葉の日本語が成り立っていることは確かです。仮名の使用も漢文を常用する人々の間で通用するものでした。
上代日本語どこまで遡れるのか分かりませんが、漢字が伝来するより前の日本語も、現在話されている日本語と連続性があるものと見られています。伝承された文書によって知られること以外にも、日常使用している言葉や文字の知識を参照することが出来ます。古代のエジプトやメソポタミアの言葉は死語となってから長い年月が経って解読されました。これらの言葉は残された文書によってのみ知られます。シュメール人の文字を採用したアッカド人が、楔形文字を「漢文訓読」のように使用したことは、日本人なら容易に推測できます。アッカド人は楔形文字を概ね音節文字として使用したと考えられ、多様な音声言語の人々がアッカド語の語彙を表記したと解釈されています。しかし、音節表記に見えているのは「音」である可能性があるのだと思います。多様な音声言語の人々は「音」で読み書きしていたわけではなく「訓」を使用したと考える方が合理的に思えます。読み書きしていたのは「訓」で、アッカド語を全く知らなかったと言う方が自然なことに思えます。 漢籍と同じ文字列を作り出す日本の漢文は本来は音声言語の情報を含んでいません。アマルナ文書の EA1 は、カルドニアシュ(バビロニア)の大王からのものですが、バビロニアはカッシート朝の時代でした。カッシート朝は長命で文書を残していますがカッシート語は、ほとんど知られない言語とされています。カッシート人の書簡はアッカド語でカッシート語は記録されていないとされるようです。 仮名文字の使用に先立って、奈良時代には「1音1字」による表音表記が文書の一部に使用されました。漢字の「音」の1音節目だけを使用して、音節文字として漢字を使用しました。1音1字で表された箇所がどのように読み書きされたのかは、当時の漢字の音によっています。中国では反切によって漢字の音を表しました。漢字の伝来に際して反切表記も導入されたと考えられます。 万葉集と万葉仮名古事記などの書物は概ね漢文で記されています。漢文は漢籍と区別のない文字列を作り出すので、音声ではどのように扱われたのかを示しません。しかし古事記は部分的に日本語の表音表記を「1音1字」で行っでいます。万葉集も本文は漢文で、歌謡は表音表記されています。万葉集の成立は759年以降と見られ、上代日本語の終わりにあたります。古事記は712年に献上されたとされ50年ほど差があります。漢字が伝来したとされる4世紀からは400年ほど経っています。漢字を記した物は早い時点から断続的にもたらされていたものと思いますが日本人が文書を扱うようになるのは余り古いことではないと思います。古事記の序にあるように奈良時代に入るころには複数の豪族が家系や歴史を記録していました。古事記の序には「1音1字」が例を挙げて説明され、大半を漢文で書く理由も示されています。万葉集の編まれた時代には「1音1字」は説明の必要なことだったようです。 万葉仮名は漢字です。平仮名や片仮名は漢字とは独立した文字体系です。平仮名や片仮名は字形を漢字から採った音節文字(表音文字)です。漢文を読み書きする人にとって類推が働き普及しました。 万葉仮名の説明は、おそらく平安時代の状況を指していて、平仮名や片仮名に変化したようになっています。しかし、平仮名や片仮名は「1音1字」の音節文字であり、効率化のために字形が簡略化して登場します。万葉仮名は1文字に複数の音節を割り当てることで効率化を図ったものです。万葉仮名も字形の簡略化が進みました。 万葉集に収録された歌が詠まれた年代は629年ころから759年ころと考えられています。万葉集の文字表記は一様ではないようです。
万葉仮名は、1文字の音節数は一定しません。1文字で読みが決まるわけでもありません。読みは「音」も「訓」も使用されます。
この歌は「1音1字」で表記されています。漢字は全て「音」の1音節目の音を表し、漢字の持つ意味は使用されません。
最初の集歌571に近いようですが、船乗「世武登」は表音で「訓読」ではありません。集歌571は、完全に「訓読」で漢文と変わりありません。 万葉集には、漢文の漢字列の順序が日本語の語順に影響されたグループがあるようです。これは「訓読」されたもので表音表記ではありません。どう読まれたかは文字に表されていません。 したがって「万葉仮名」の文字システムはなく、「万葉仮名」は漢字の用法のことのようです。各文字については、「登(と)」、「者(は)」などを「万葉仮名」と言うことが出来そうです。訓で使用される頻度が低く、ほとんど音節の「と」、「は」を表しています。しかし、「月(つき)」は、常に「つき」と読まれても、音節の「つき」を表しているわけではなく、「天の月」や「歳月」の意味を持っていて「万葉仮名」とは呼び難いと思います。 万葉集の写本万葉集が759年からさほど経たずに成立したと考えれば万葉集が漢字だけで記されていたと考えられます。しかし、実際に後世に伝来し年代の分かる写本は平安時代のもの(桂本、藍紙本、元暦校本、金沢本、天治本)で歌は仮名書きになっています。鎌倉時代とされる紀州本、西本願寺本は漢字です。 西本願寺本が新点本で、それ以外は次点本です。古点本は現存していないようです。 万葉集の万葉仮名に関した用字の研究は「西本願寺本」によるようです。全巻が揃うことから電子化されているのもこの本のようです。 このことだけからすると仮名から万葉仮名に作られたと言ってもおかしくはないように見えます。 宣命体や万葉仮名が上代に使用されていたと言う物証は分かりません。実際に上げられている資料は仮名から作られたとしても不思議の無い年代の資料のようです。 宣命体宣命体や宣命紙と言った用語が使用されています。宣命(せんみょう、せみょう)は和製かもしれませんが漢語で、漢字伝来前の日本語ではないものと思います。「御言を宣(の)る」で勅使の伝える「御言」のようです。宣命体は文書の形式なので漢字伝来後の習慣です。実際に残された文書は、神社で使用された祝詞(のりと)と、続日本紀の帝の言葉の引用部分のようです。天皇だけが使用した書体と言うわけではないようです。また宣命のみに使用されたと言うことでもないようです。 万葉仮名のサブセットで、借字が制限されています。借字は1音1字に限られ、同じ「音」には同じ文字が当てられました。「は」は「波」と書かれ、他の文字が使われないことが万葉仮名とは異なっています。 また見た目では借字部分が小さな文字で記されていることが上げられます。ただし宣命、祝詞が常にこの形式な訳ではないようです。文字の大きさが均等でも、借字部分が1音1字で決まった文字が使用されれば宣命体と呼ばれるようです。 万葉仮名は借字を交える「仮名交じり文」ですが、仮名文字とは直接結び付きません。仮名文字は直接には1音1字から作られたものだと思います。その点で宣命体は直接の現在の「仮名交じり文」の始まりに見えます。 借字(仮字)部分を小さく書く方法は、漢字だけで書かれた文章を「語」に区切ることで、視認性が大きく向上します。 万葉仮名万葉仮名は明確な定義のあるものではないようです。古事記の序にあるように「文を敷き句を構え」る漢文は「心に逮ばず」、「1音1字」は「事の趣き更に長し」と感じていました。思い付く順序で文字を並べ、効率良く書く方法を求めていました。漢文を書く人々は「文を敷き句を構え」ましたが、草稿や速記法として「句を構え」ずに文字を並べたと考えられます。 この状態の文章はマイルールな訳ですが十分に他人にも理解されたのだと思います。漢文を読み書きする日本人の間の文書として「万葉仮名」は始まり、訓読を主にしたものだったと考えます。そのうちに漢文作成の前段階と言う目的から、文書の最終形態として利用されるようになりました。 訓読による方法は、漢字の並ぶ順番が入れ替わるだけなので、読みは漢文の訓読と基本的に同じで、同様の簡潔さを持っていました。 「句を構え」ず、日本語の語順で記す訳ですが、「ゆかず(不去)」のような否定表現が常用され、既に当たり前のことだったようです。「将歸」は「ゆかん」で、漢文なら「まさにゆかん(かえらん)とす」と読まれたと見られているようですが、いずれも同じ読みがされたと考えても悪くはないと思います。 前述の万葉集の2首を見ると、1音1字に比べ、訓読方式は 6 割の文字数で書き表すことが出来ています。
平安時代には字形も簡略され更に効率良く書くことが行われ、その様子を「万葉仮名」と言っているものと思います。 1音1字のような音節文字化は、訓読する方法に比べて大変冗長なので「万葉仮名」とは全く異なった目的で行われたことになります。 万葉仮名に限らず漢字はいろいろの書体で書かれました。平仮名や片仮名の字形は、そうした文字から選ばれ更に簡略化されました。 万葉仮名とされる文章には訓読部分があり、使用されている文字の偏りから発音の違いを把握することが行われています。しかし平仮名のような音節文字のセットを作る意図を持っていないので、同じ音に同じ文字を割り当てている保証もないのだと思います。 数詞文字で記録が残るようになって知られる範囲では数字は「ひとつ」、「ふたつ」、・・・、と数えられていたようです。11は「とお あまり ひとつ」のように数えられました。 ここからは理屈に見え、どこまでが使用例のあるものか分かりません。 「つ」や「じ」は「個」に相当するもので、数詞は「ひと」、「ふた」だと言うことです。33は「みそ あまり みつ」で、33個は「30個と3個」で「みそじ あまり みつつ」となると言うことです。 100(もも)は沢山の意味で使われたので、それ以上の表現は具体的な数表現とは別なものも交っているものと思います。特に「よろず」は「万」の訓に採用されて数詞になったのだろうと推測します。 10の位は「そ」で表されているようです。百の位は「ほ(お)」で200は「ふたほ」のようです。千の位は「ち」で3000は「みち」のようです。 「ついたち」、「つごもり」は数詞とは関係なく、「つき・たつ(立ち)」、「つき・ごもる(籠る)」のような言葉があったようです。 ※十有五年のような書き方は漢籍にあるものです。十又五もあるようです。「みそ あまり みつ」のような表現が漢字伝来前からの習慣なのかどうかは良く分かりません。 暦「こよみ」は「かよみ(日読み)」だと伝えられているようです。「(ひとひ)、ふつか、みつか、・・・」と数えるからだと説明されています。日数を数える最初が「ついたち」だったとは考えられません。「月立ち」は不合理です。「ひとか」や「ひとひ」であったろうと推測します。ただし、使用されなかった可能性は高いと思います。最初の日を数える意味はありません。 暦の前に日を数える習慣があったと考えられますが干支が採用される前のことは分かりません。干支によって60日を周期に日は数えられていました。 漢字伝来以前から月名があったかどうかは何も分かりません。日本書紀や古事記は月を漢数字で記しています。これを「むつき」、「きさらぎ」と書いたのかどうかは分かりません。後の人々が、そう読んだことは読み下し文や注釈から確かなようです。 国語辞典日本書紀に天武天皇が「新字一部卅四卷」を作らせたとあり最も古い辞書の記録のようです。これは存在したかどうかも定かでないようです。また、和製漢字を造字したことだと解釈もあるようです。 国宝・重要文化財の「篆隷万象名義」は空海に帰され830年以降の成立のようです。巻頭に空海撰と記され、巻末に永久二年(1114)の写本である旨が記されていると言うことです。この高山寺本が唯一伝わるもので広く使われたものかどうかは分かりません。 「新撰字鏡」は最初の漢和辞典とされています。892年に完成したとされ、現存するのは、その増補版のようです。2万千字が収録されていると言うことです。中国伝来の辞書や、その節略本は漢音を伝えましたが「訓」は分かりません。「新撰字鏡」には「旭 許玉反 旦日欲除也 日乃氐留 又 阿加止支」のように記され、「旭」の音が反切で「キョク」であることが示されています。「旦日がのぞくを欲するなり」と説明され、1音1字で和訳が「ひのてる」、「あかとき」と記されました。 「和名類聚抄」は最古の国語辞書のようです。源順(911-983)が編纂したもので、百科事典のように万物を分類しています。 1165年ころ「色葉字類抄」が作られ「いろは」順の辞書が始まるようです。内容は漢字の語に音・訓を書き添えたもので語義はないようです。同種のものが多く作られ「伊呂波字類抄」などタイトルがいろいろあるようです。 1603年には「日葡辞書」が出版されました。イエズス会が印刷機を持ち込んで印刷されたものでラテン文字で日本語の3万2千語の発音が残されることになりました。イエズス会は1598年に落葉集本編・色葉字集・小玉編の3部からなる「落葉集」を出版していると言うことです。
本居 宣長(1730-1801)の「字音仮名遣」は現在と変わらない50音表を上げています。音素の概念があって子音と母音の組み合わせを表にしています。並びも「あかさたなはまやらわ」、「あいうえお」と変わりません。また、IPAの母音の説明のように母音を説明しています。母音が主に口の開き方で決まっていて無段階で調整されると言う認識もあったようです。 伝来した辞書「説文解字」は後漢の許慎が100年ごろに 9,353字の字解をまとめたもののようです。「内 入也 从冂自外而入也 奴對反」のように記され、音は「ダイ」ではなく「ドイ」のようです。 「玉篇」は部首別編成の漢字辞典のことを指すほど漢字圏で基本的な辞書だったようです。 漢字の部首を「説文解字」は540、「玉篇」542と、ほぼ同数に分類ししていますが分類の基準は異なるようです。 その他の辞書英和対訳袖珍辞書 1862年に刊行された最初の英和辞典のようです。「A New Dictionary of the English and Dutch Languages」と言う英蘭辞書のオランダ語を日本語に置き換える方法で作られたと言うことです。袖珍辞書の英語のタイトルは「A Pocket Dictionary ・・・」です。 平仮名Unicodeでは、「ぁ」は HIRAGANA LETTER SMALL A、「あ」は HIRAGANA LETTER A のように、文字の音から名前が付けらえれています。これは文字の名前で、「は」は HA と言う名前で、「は」や「わ」と読まれることになります。 93 の記号が収録されていますが、現在普通に使用されている音節を表す文字は、71で、別に小さい文字 10 が使われます。
多くが漢字の「音」を元にしていますが、と(止)やへ(部)は「訓」によっているものと思います。 片仮名片仮名の音節文字としての性質は平仮名とほとんど変わりないものと思います。片仮名には長音符「ー」がある点が差異と言えます。外来語の表記に片仮名が使用されていることに起因すると思いますが、現在では平仮名でも長音符を使い、さんせー(賛成)、けーかん(景観)などとも書きます。Unicode の長音符の名前は KATAKANA HIRAGANA PROLONGED SOUND MARK です。
50音表の音節日本の50音表の考え方は、子音と5つの母音の組み合わせを表すものです。ただし、「ん」だけは子音と母音の組で表されません。これは「か行」は概ね上手く行っています。しかし、「さ」と「し」は異なる部位を使って発せられる子音です。
新漢語主に幕末以降に加わった漢語を新漢語と呼ぶようです。漢語は不自然なので熟語と考えたいと思います。和製もあれば、中国で造語されたものがあるようです。また、国内だけで通用するものや、国外でも使用されるものもあります。 幕末に法律や哲学、科学と言った分野の翻訳が急務となって造語が行われました。 「国際法原理」(Elements of International Law,、1836、Henry Wheaton)は中国で翻訳され「万国公法」として日本を含む東アジアに大きな影響を与えたと言うことです。中国語への訳にはアメリカ人宣教師によって行われたと言うことです。 訳語として熟語が使用されたものでも、漢語として使用例の知られるものもあるようです。「文学」は文献の意味で漢籍にあり、広辞苑にも「律令制の官給の家庭教師」や「諸藩の儒官」があります。 促音 小さい「つ」、「っ」で表す促音は特別なのかも知れません。 促音が特別なのは、次の音節が母音でも記法上は何の問題も無いことです。「アッオ」と言っても悪いことはありません。
「促音」は日本語の説明に使用される概念で、そのまま他の言語に対応があるわけではないようです。しかし日本のローマ字表記に取り入れられたように子音を重ねて記す記法は有効なようです。ラテン文字だけでなく、デーヴァナーガリーも後続の子音を重ねて記す方法で表されています。 ラテン文字で表される語の発音では母音の長さの規則性の問題なのではないかと思います。子音は随伴母音を伴い基本的には短いのだと思います。母音が書かれると長めに発音され、同じ母音を重ねて書くと長い母音になるのだと思います。しかし規則性だけでは説明できず、最終的には語毎に決まっていることになるのではないかと想像します。 長音符 長音符「ー」はカタカナにだけあります。基本的には母音を伸ばすことを示すものだと思います。平仮名では母音を重ねる方法で表されることになっています。「かあさん」は KA-A-SA-Nです。
|