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 文字と日本語

文字と話し言葉
古代の文字
文字の年表
文章語とダイグロシア

  200万年前から旧石器時代とされます。ミトコンドリア・イブは29-14万年前とされ、現生人類はこの頃に起源を持ちます。数万年前、現生人類は、他の人類とは異なった活動の痕跡を残すようになります。これは音声言語の獲得によるものだと考えられています。
  言語の獲得によって共同作業の効率が良くなることは考えられますが、人以外の動物も高度な意思疎通を行っていることが知られています。重要なのは人は母語によって思考すると言うことだと思います。おそらく日本人の遠い先祖も言語的思考をするようになり、話し言葉も連綿と受け継がれてきました。しかし母語は乳幼児期の学習によって獲得されるもので1代で変わり得るものです。1代で変わり得ますが、どの音声言語も何万年もの歴史を経ています。
  文字の使用も現生人類の活動に大きな変化をもたらしていますが、それは現在も進行中の新しい出来事のようです。音声言語は数万年の歴史がありますが、文字は数千年しか遡ることができません。
  日本への漢字の伝来は4世紀ごろとされています。実際には漢字は人の移動と共にもたらされたと考えられますが、それでも2千年ほどの歴史と言うことになります。
  われわれの音声言語や文字の状況は少し特異かも知れません。誰でも文字を読み書きする、話し言葉は文字に書き留められる、いつでも辞書が使える、と言ったことは、長い間、当たり前のことではなかったようです。

文字と使い手

  日本人の名前は文字で付けられています。戸籍も読みを記録してきませんでした。
  文字が登場する前から人には名前があったと考えられます。文字の使用が始まっても識字率は大変低いものだったとされています。日本人のように文字で名前を付けるのは当たり前のことではありません。
  仏典が中国語に翻訳されて中国へ伝わったのは1世紀ごろで、当時ガンダーラを支配していたのはインド・パルディアでした。安息国(パルディア)の関係者は安姓が付与され安世高の名も伝わることになります。
  漢字で名前を付ける習慣は行政上の必要性で広まったもので、識字率の低い状態では文字とは無関係に名前があったと考えて良さそうです。

  物の所有者を示すために「しるし」を付けることは古くから行われたものと思います。いろいろな目的で「しるし」を付けることは人に限った行動ではありません。記号の歴史は現生人類より前から続いています。
  物の所有者を示すために付けた記号を見て所有者の名前を口にするのは自然です。記号も音声と関係を持つことがあります。
  三角マークの付いた棍棒は山田さんのもので、三角マークの付いた家には加藤さんが住んでいて、三角は適宜、山田さん、加藤さんと読まれるなら、まだ三角マークは文字とは言い難いと考えられます。
  表音文字は理解し易く「A」は概ね「あ」のように発音されるので文字です。
  漢字は同じ記号がいろいろに読まれるので表音文字と同じようには見えません。しかし、実は同じ漢字を、いろいろに読むのは、主に日本人です。
  「愛」の「音」は「アイ」で、呉音で「オ」と読まれることがある程度です。訓は、いとおしむ、いとしむ、めでる、おしむ、まな、があり、人名には、あき、さね、ちか、ちかし、つね、なり、なる、のり、ひで、めぐむ、やす、よし、より、の読みがあります。
  日本の漢字を除けば、漢字は文字の条件を満たしています。日本の漢字は別な解釈が必要です。

  文字の歴史の話しにはウルク古拙文字の例が挙げられ、絵文字が、その示す物の名前の音声と結び付いたように説明されています。
  また、ウルク古拙文字、シュメール文字は家畜の計数や在庫管理に使われたとされいます。
  こうした話は、文字の起源が身近なところにある印象を与えます。他方、文字は王朝の記録に使用され、書記の養成機関が存在したとも言われます。文字が職業的書記によって読み書きされたことも事実なのだと思います。しかし識字率とは無関係に誰でも所有者を示す記号や家畜の種類や数などを扱って暮らしていました。

  前8世紀以降、大帝国の時代になると、行政文書が官吏によって作成され、文字の使用者は飛躍的に多くなったと思います。新アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア、マケドニアと言った王朝では多くの音声言語の人々が官吏となったはずです。
  前1世紀には、宗教的な文書が主役になったようです。同時に文字も作られました。媒体や筆記具、装丁の発達や、写本の仕組みなどが完備されて行ったことが推測できます。
  イスラム教の聖典は7世紀に、ヤシの葉、平らな石、心に記録されたものから文書となったと伝えられています。
  6世紀にはヤシの葉(貝多羅葉)が使われ記録媒体として文字の大衆化に貢献したと考えられますがほとんど残りませんでした。

  おそらく教会語ともいうべきものによって、遠隔地へ書簡を送っても、通じるようになりました。辞書も作られたと思います。
  しかし、文字は全く大衆化しなかったのだろうと思います。英語がラテン文字で表されるのは11世紀以降です。近代英語と呼ばれる17世紀ごろ、日本の寺子屋と同じころになって大衆化したのだろうと思います。

文字の表すもの

  話している言葉は文字で表現でき、文字は読み上げることができると考えています。しかし、これは現在でも当たり前なことではないようです。
  アラビア語は文字では母音を省略するシステムを取っています。アラビア語の ktb は、「書く」ことに関連した3子音の「語根」で、辞書も「語根」で引くことが出来ると言うことです。google翻訳の「音声を聞く」を試すと、「私は手紙を書いた」、「私は手紙を書く」の ktb(كتب) は、それぞれ、カタバ、クタブと聞こえます。「オフィス」はマクタブと聞こえます。「オフィス」は語根 ktb を元にした造語のようです。
  母音を変えて活用すること(母音交代)は日本語にもあります。「来る」「来ない」「来た」の「来」は、それぞれ「Ku」、「Ko」、「Ki」と読まれています。
  フェニキア文字、アラム文字は子音文字と呼ばれますが、アラビア文字は、その系統です。ただし現在のアラビア文字は母音を書き表すことは可能なようです。
  古代のエジプトの文字も子音文字だと見られています。
  アッカド人は楔形文字を音節文字として使用しました。ギリシア文字が普及するまでは、楔形文字だけが話し言葉をそのまま記録する能力がありました。ギリシア語やギリシア文字が、アッティカやイオニアの話し言葉や文字を標準とするようになるのは前6世紀以降のようです。ギリシア文字は音素文字です。

  ラテン文字は音素文字ですが、ラテン文字を使用する、現在の英語は例外です。英語の「名前」は、かつては「ナーメ」で name と綴られたと言うことです。15世紀から17世紀に英語に起きた大母音推移と言う現象によって文字は発音とは一致しないものになりました。識字率が低いことを考えれば話し言葉が文字とは別の変化をしても不思議はありません。この場合は、話し言葉の音が変化し、文字の綴りが維持されることになりました。

  外国語の辞書には音声記号が記されています。また、「学校が」の2つの「が」は[g]と [ŋ]で異なるなどと言います。また「が」は [ɣ]だとも言うようです。音声記号はより正確に話し言葉を写せますが、文字に代わることは起きていません。

  話し言葉は語より長い文節を想起することで発声されます。発音は語より長い単位で調整されています。意図的に1音ずつ区切って発音すると音節が認識されますが、音節を連ねても自然な発声にはなりません。また、基本的には音節以下の子音だけを発生することもできません。
  仮名文字のような音節文字は、ローマ字表記のように音素文字の組として表されます。音素文字は最小の記号のセットです。
  音素文字の記号数が26なら2文字の組み合わせは676通りあります。音素文字は、全ての組み合わせが可能ではありませんが、組は2文字に限られるわけでもないので概ね目安になります。仮名文字が表す音節数は112あります。
  ハングルは Unicode のac00-d7a3 に 11,172 文字の音節文字を登録しています。ハングルの子音は20ですが、母音を21種類としています。
  母音は、口などの発声器官の形を変えずに息を吐きつ続けると出ている音で、子音の発声に伴って出ています。この音は口の開き方次第なので無段階です。いくつと数えるかは認識の問題です。
  ハングルの音節文字数が多いのは、CVC型の音節を定義していることによります。仮名文字はCV(子音+母音)です。これも捉え方の差で、同じ見方をすれば 441 の音節を使用しているようです。

  人が発声できる最小単位の音節を記録する文字が出来るのは自然なことに思えますが、アッカド文字(アッカド人が使用した楔形文字で、前23世紀ごろ)が最初のようです。古代には子音文字が最も普及した文字だったようです。長い間、文字の目的は話し言葉を写す事ではなかったようです。

  話し言葉を写すと言う観点ではプトレマイオス朝の時代からギリシア語・ギリシア文字の文書が残されるようになります。ホメロスの作品も伝承されたものはアレキサンドリア図書館で編纂されたものが現存する最古のようです。70人訳聖書や新約聖書もギリシア語・ギリシア文字として作られました。
  その後の西欧では、ギリシア文字に加えて、ラテン文字やルーン文字が使用されます。
  ギリシア文字やラテン文字が単語を区切って分かち書きするようになるのは7世紀以降のようです。大文字小文字の区別も長い間ありませんでした。

  話し言葉は単語ごとに区切って話すようなことはしません。話す時も聞くときも語より長い単位で扱っています。7世紀ごろから見られる音素文字の分かち書きは「視認する文字」の始まりを示す物だと思います。

  5世紀ごろからアジアでは伝承の文書化が進みます。ベーダや仏典もグプタ文字によって文書となりました。
  7世紀にはアラビア文字が普及します。
    仏典はカローシュティー文字によって中央アジアに伝えられたことが知られますが、何語が記されたのかは説明されていません。
  グプタ文字はサンスクリット語を表しました。サンスクリット語はベーダ伝承を守るために前4世紀に「パーニニの文典」によって定められました。しかし、「パーニニの文典」は文書ではなく口承文献でした。口承文献システムは、編集や検索が効く、文書より優れたものだったようです。
  ベーダを伝承した口承文献システムのうち、パーリ語に仏典の編纂と伝承が委ねられたようです。インド北東のアンガ王国近辺の人々で、アショカ王によってスリランカに移されシンハラ人によって「パーリ語経典」が守られました。ベンガル語の祖語はパーリ語のようです。シンハラ人は貝多羅葉にシンハラ文字で仏典を記しました。インド北部はサンスクリット語がグプタ文字によって貝多羅葉に記されました。

  日本への仏教の伝来は6世紀とされています。仏教伝来にはアーユルヴェーダが含まれ梵字(悉曇文字)も伝わったと考えられています。梵字はグプタ文字の仲間のシッダマートリカー文字がサンスクリット語を表す文字として中国を経て仏典と共に日本に伝わったものを指すようです。日本では漢字が伝来すると直ぐに1音1字による音節表記が使用されます。万葉仮名なども使用され、10世紀には仮名文字が使用されるようになります。梵字は漢字とは別の表音文字体系を作るアイデアを与えたものと思います。

  仮名文字は10世紀、デーヴァナーガリーは13世紀、ハングルは15世紀に登場し、現在も使用されている音節文字です。
  仮名文字は音素の考えを持っていません。どの文字の字形も独立に決められています。
  デーヴァナーガリーの「か、き、く、け、こ」は、「क、 कि 、 कु 、 के 、 को 」です。「か」は、Unicode の 0915 क の字形です。他は、これに母音を表す記号を合成して作られます。
    き U0915(क)、U93F ( ि )
    く  U0915(क)、U941 ( ु )
    け U0915(क)、U947 ( े )
    こ U0915(क)、U94B ( ो )
  多くの音節文字は、文字の一部(字母)が音素と関連しています。これは、1文字の捉え方によっては、音素文字とも考えられます。

  漢字も、その文字を作った人々にとっては、文字の示す音と、話し言葉は一致していました。日本人の漢字を除けば、1つの文字にたくさんの音があると言うことはありません。
  しかし、実際には漢字の発達過程はほとんど知られていません。少なくとも漢籍が編纂される漢代以降は中国でも日本と似た状況だったと考えられます。漢字で書かれる文書は、周代や春秋戦国時代の古典を典例とした文章語で、話し言葉を表したものではありませんでした。中国でも日本でも漢籍を典例として区別のない文書が作られ、書いた人々の話し言葉とは無関係に、長い間使用されました。
  長い歴史を持つ話し言葉は、時制や人称、単複を示す方法が組み込まれています。漢文には、そうしたものが欠落しています。
  「兵少食尽」は、「並列(兵は少ないし食料もない)」なのか「原因と結果」なのかは表記上区別が付きません。また、食は「尽きた」のか、まだなのかも分かりません。

  日本人は漢籍を典例とした文章語を導入しました。これは話し言葉の中国語とは無関係です。漢字の導入によって中国語を話すようになった訳ではありません。日本では漢文を「訓読」しました。中国でも話し言葉に変換して読まれたものと思います。
  この訓読は沢山の影響を話し言葉の日本語に与えました。漢文は明治期まで公文書に見られ、漢文訓読調の表記がその後も長く使用されました。

漢籍語の導入の影響

  漢籍を典例とした文章語は訓読されました。話し言葉を写すのではなく、話し言葉を文章に合わせました。
  「しのたまわく・・・」と唱えて覚えた漢籍は日本語になりました。漢籍の語彙は日本語より大きいものでした。見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥は、すべて「みる」と読まれました。しかし、日本人は漢字を使い分けて書くようになります。お医者さんは患者を「診」ます。漢字を学ぶことは知識を学ぶことでもありました。漢籍語の導入によって日本語には沢山の同音異義語が生じました。
  おそらく、「朝日(あさひ)」は、もともとあった「あさ」と「ひ」と言う日本語を当てて、熟語と認識されるようになったものです。
  一方「朝刊(ちょうかん)」は「音」によって読まれる造語で、その読みは日本語の語彙に由来しません。
  しかし「チョウジツ」、「チョウシ」も国語辞書にある言葉で、音読みも国語の語彙に加えています。
  「君子愛日...」は、君子は日を「おしみ」て...」と訓読されました。異なる音声言語の文字を読むのですから、1つの文字は文脈に沿って多様に読まれます。日本人は1つの文字に沢山の音を与えました。

漢字の音

  「音」も「訓」も日本語の話しであって、誰も「音」が中国の発声だとは言いません。しかし、漢字の字書には、「漢音」、「呉音」が記されています。
  漢音は遣唐使によって伝えられた長安で使用されていた音と説明されています。最初の遣唐使は630年なので7世紀に使用されるようになったようです。「呉音」は、それより前に伝わっていたとされています。呉音は伝来時期だけでなく「呉で使用された発音」と説明されています。
  「漢音」は官の読み、「呉音」は仏教の読みとも受け取られていて、「漢音」は「正音」と呼ばれたと言うことです。
  また、「唐音」と言うのもあって、宋、元、明、清の中国音が伝わったものの総称だと言うことです。主に禅僧によって伝えられたもののようです。
  灯明、明白、明王朝は、それぞれ、トウ・ミョウ、メイ・ハク、ミン・オウチョウで、呉音、漢音、唐音の例です。
  「呉音」「漢音」「唐音」の「呉」「漢」「唐」は伝わった時代の王朝を指していないようです。
  「慣用音」と言うのもあって、「茶(チャ)」、「消耗(モウ)」、「輸(ユ)送」は、その例のようです。「呉音」「漢音」「唐音」以外と説明されています。「茶(ジャ)」漢音、「耗(コウ)」呉音、漢音、「輸(シュ)」漢音が示されています。どんな基準で「チャ」が漢音ではないのかは示されていません。

  日本で使用された「音」も、中国音も、本当には誰も知らないことだと思います。むしろ古い音を保存している日本の音が中国音の根拠になっているのかも知れません。日本でも反切や仮名で漢字の音が記された辞書が作られましたが、仮名書きしても「行」は「カウ」や「ガウ」「ギャウ」と書かれています。仮名の音も本当には分かりません。

  したがって音読みすれば中国語になるとは言い難いが無関係でもないと言ったところのようです。もう一つは中国でも早い時点から文章語と話し言葉は分離していて文字を音で読んでも中国語にはならないと言うことがあるのだと思います。

  漢字の辞書の「音」はほとんど1音節か2音節のようです。漢字の「音」は2つの漢字の組(反切)で音が表されて伝わりました。
  本来は漢字の「音」は1語1文字1音が原則のようです。ここでの「音」は仮名文字のようなV、CVを音節と考えると2音節が多いようです。中国語の実用的な音節数は418ほどのようで112の仮名で表せば2文字になることもあると思います。
  國破山河在のピン音は guó pò shān hé zài、有其父必有其子は yǒu qí fù bì yǒu qí zǐ です。418の2音節の組は17万通り以上で多くの語彙が2音節で表されても不思議はないようです。しかし「話し言葉」の語彙には派生語や時制や人称が反映され3音節以上のものがあるはずです。

字音

  字音は「漢字の音」のことで「国語化した」と言う限定が付いています。漢字の読みのうち「訓」以外を指すものだと思います。
  もう一つは、文字には1つの音があると言う前提で使用されています。文字の字形と音の対が決まっていないと綴りを説明することが出来ません。Aを「エー」や「アー」と言うように字形にはラベルがあります。

  文字が絵文字に話し言葉の音が与えられて成立したなら文字には本来1つしか音はありません。稀には話し言葉の中にも同じものを指す複数の語があったかもしれませんが、話し言葉は長い歴史の中で曖昧なものを排除していたと考える方が当たっていると思います。
  日本人は1つの文字に数十種の読みを与えています。これは大変特別なことです。これはもはや文字とは言えない状態とも言えます。

  漢字の字形は「字音」で指定されます。それは漢字を生み出した人々の話し言葉の規則性によって、混乱なく音と字形が対応付けられていたことの表れなのだと思います。

  漢字の「音」にも「呉音」や「漢音」がありますが、原則は同じ時代、同じ場所では原則は1つの文字は1つの音だったと言うことです。
  「灯明(とうみょう)」と「明暗(明暗)」を1つの文章に使って違和感を感じないのは日本人なのだと思います。

音と訓

  「愛」の「音」は「アイ」で、呉音で「オ」と読まれることがある程度ですが、訓は十数もあります。「君子愛日...」は、君子は日を「おしみ」て...」と訓読されました。異なる音声言語の文字を読むのですから、1つの文字は文脈に沿って多様に読まれます。日本人は1つの文字に沢山の音を与えました。
  鎌倉時代の辞書には文字によっては数十も訓が示されていると言うことです。今日の訓は整理されたものですが、それでも1つしか訓のない字は珍しいと思います。

  漢籍は訓読されました。それでも「音」が必要なのは、1)字音として字形を示す、2)対応する訓のない文字がある、3)造語に便利、と言った理由があったと考えます。
  日本では、時間的空間的に異なった所で使用された「音」も、日本古来の話し言葉の音を当てた「訓」も、区別なく一律に扱いました。
  「朝日之直刺國 夕日之日照國也」(古事記 上卷并序)は、 「あさひ」、「ゆうひ」が使われていたことを示すと思います。
  「朝刊」や「朝廷」は、朝を「ちょう」と読みます。同じ文字が語ごとに異なる音で読まれるのを避けるためには、熟語は「音」で読まれることになります。
  訓で読まれる熟語は、漢字の伝来時に遡る基本的なものが多いだろうと考えられます。しかし、「あさひ」が漢字伝来前の日本語でないことは確かだと思います。「あさ」や「ひ」があって、朝日と言う漢字列に当て嵌めたことで「あさひ」と言う語が生まれたのだと思います。

漢字と仮名

  日本語の文章は「仮名交り」が使用されています。これには2つの大きな効果があります。
  一つは視認性の向上です。分かち書きしなくても語の区切りが視認されます。黙読は音読より大変高速です。
  もう一つは熟語が自由に作れると言うことです。漢字だけの文章では造語は容易ではありません。漢字の前提は1語1字であり、造語は基本的には造字を意味します。造字しても普及させる手段はほとんどなったと考えられます。
  日本人が造字したのは300字程度で、凪や畑や畠などです。区画された土地を表す「田」を「稲田(水田)」に当てた日本では「火田」や「白田」が必要になったのだろうと思います。
  こうした文字はひとりでに広まる力を持っていたものと思います。
  仮名交り文では連続した漢字は熟語と見なせます。日本人は特に翻訳に伴って大量の造語をしました。「体系」、「朝刊」など、多くの語彙が自然に普及することになりました。
  新聞の見出しに「大半身寄りなし」と書いてありましたが、多くの人が「だいはんしん」と拾い読みしてから、「身寄り」の語を認識することになると思います。日本語は文字で表した状態が正本で、音声は補助です。読み直して文意から音声が決まります。また、文字は多様に読まれ文字種の選択や区切り記号が重要な役割を果たします。

送り仮名

  漢籍を典例とした文章語を導入した日本語では訓読によって漢字に沢山の読みが生じました。「当年」は、「とうねん」とも「あたりどし」とも読めますが「当り年」と書くことができます。送り仮名は読みを誘導する働きをしています。文字としては、あたり・り・とし、と並んでいます。

  古事記には、「穿其服屋之頂」とあり、屋根は「(服)屋の頂」のようです。中国語の屋根は「屋頂」のようです。現在は、「天兒屋根命」と記される「あめのコヤネのみこと」は、神事を司る中臣氏の遠祖で、日本書紀には、「中臣上祖天兒屋命」とあります。
  本来、漢字の「屋」は単独で「屋根」の意味で、「覆う」ことを示します。、「屋」には「おおい」と言う訓が与えられています。
  しかし、「屋」の音は「オク」であり、日本語の「おく」も住居を示しました。特に貴きが住まうところは「おく」で、「屋」の字にふさわしい建築物にありました。おそらく、このことから「屋」は「屋根」の意味を失ったのだと思います。「屋」を「やね」と読ませるには、送り仮名の「根」を付加することになったのだと思います。

  エジプトの第2王朝のセネド、第4王朝のスネフェルの名前はいろいろに記されています。エジプトのヒエログリフは子音文字と見られています。

  セネド王の名前は、アビュドス王名表では1子音文字で s-n-d-i と4文字で記されました。サッカラ・タブレットでは3子音文字1つで snd と表されました。
  スネフェル王の名は3通りに記されています。最も短い表記は s-nfr-w です。3子音文字の nfr の後に、f-r と r が加えて3通りの表記になっています。

    スネフェル王の名前に使用された nfr と言う文字には他の読みがあり、nfr-f-r や nfr-r のように送り仮名をしていると類推できます。

  音節文字のIMと読まれる楔形文字は神の限定符DINGIRを伴って最高神を表しました。シュメール人のイシュクル、アッカド人のアダトに当てられたと考えられています。ヒッタイトの最高神はタルフンニのようで IM-UN-NI と綴られました。
  エジプトのアメンホテプはアモン神に因むものですが、アメンやアモンはヒエログリフで i-mn-n と綴られていてイムンのようです。
  送り仮名の話しではありませんが、ラテン転写が音をどのように反映しているのかを見て置きます。
  ラムセス2世の誕生名(サラー名)はヒエログリフで i-mn-n-mr-ra-ms-s-s や ra-imn-mr-ms-sw と表されました。読む順序は分かりませんが、比較するとアモン・マー・ラー・メシスの部分から出来ていることが分かります。メシスの部分の ms-s-s の -s- は送り仮名で、mss か mssw です。ヒッタイトとの平和条約の楔形文字のバージョンには即位名ではなくサラー名が記されました。ri-a-ma-she-sha ma-a-i DINGIR a-ma-na で、アモンに相当する部分はアマナとなっています。この部分は名前の一部ではなく、「アモン神の」と言うことかも知れません。おそらく (ria)mashesha は音写された名前です。他は意訳されたものと思います。

音節文字

  発声することが出来る最小単位が音節なので、音節に記号を割り当てて文字にするのは極めて自然なことです。更に進めて音素文字にすれば最小の記号数の文字体系ができます。
  しかし文字の目的は音声言語を写すことではなかったようです。BC1050ころに使用が始まるフェニキア文字や、新アッシリアの時代に広く使われたとされるアラム文字は子音文字でした。
  また、音素文字は1つあれば、どの音声言語も表すことができるわけですが、ラテン文字に収斂するのもずっと後のことでした。

  しかし表音文字が音声言語によらずに使用ができることは認識されていました。シュメール人の文字を使って、アッカド語やカナン諸語、ヒッタイト語、フルリ語などが表されました。

  アマルナ文書の書簡で、ミタンニは自ら mi-i-it-ta-an-ni と6文字で記しました。ヒッタイトの王は mi-ta-an-a 、ビブロスの王は mi-it-ta-ni と記しました。
  ミタンニのフルリ語を話す人々は、C(子音)V(母音)型の音節と、VC型の音節を組み合わせて使用しました。楔形文字の音節には、CVC型もあり記号数が多くなっています。概ね 258 ほどが音節表記に使用されたようです。
  CV型だけの仮名文字で何の不自由も感じていない身には難解です。「伊賀」「甲賀」は、i-ga と ko-o-ga と発声すると、2つの ga は異なった音だとされています。語頭や「お」以外の後の「が」は鼻音化していると言うことです。ig-ga とko-og-ga と音節を認識すれば、ig と og は別の音節文字で表されます。
  しかし、一連の発声では前の音が次の音に影響するのは当然で、その規則性を文字で区別する必要はないとも言えます。

  話し言葉の歴史は大変長く、文字の影響がなければ、紛らわしい表現は除外されているものと思います。一方で通常文字で表さないアクセントなどの抑揚や清音、濁音と言った区別を含むだろうと思います。
  日本語は漢音などの外来の「音」を取り入れただけでなく、外来の「音」を使って沢山の造語をしました。文字で語彙を増やしてきた日本語は、音声言語としては大変寛容なものになっているのだろうと思います。
  日本では仮名に濁音や半濁音を表す工夫がされましたが、抑揚は表していません。濁音が法令等に使用されるのは昭和2年だと言うことです。
  聞いて分からないと「どう書くの?」と聞きますが、文字で書くと理解できるのは現在の日本語だけかもしれません。

1音1字と借字

  古事記の序には「1音1字」が例示されています。「字音」を借りて日本の話し言葉を表すもので漢字の字義は使われません。
  万葉集の歌謡にも「1音1字」で記されたものがあります。「余能奈可波」は「ヨノナカハ」と読まれています。
  仮名は「1音1字」の記号数を最小化して簡略化したものと言えます。

  一方、万葉集にある「行毛不去毛」は「ゆくモゆかぬモ」と読まれています。

  1. 1文字が示す音節数は不定
  2. 音も訓も使用される
  3. 否定(ゆかぬ)は漢文式に「不去」のように表される

  と、言う物です。こうした万葉仮名は、「1音1字」や仮名とは発想の異なるものです。おそらく正規の漢文の文字並びを構成する前の下書きのようなものです。文章を書く場合、漢文が訓読された状態を先に作る必要があり、「借字」も使用されました。「行毛」の「毛」は字義は使用されておらず音だけが借りられています。
  「河音清之」は「かわおときよシ」で、「河音清」は借字ではなく、字義と訓が使用されています。この方法は漢文を読み書きする人々には類推の効く効率の良い方法ですが、明確な規則性がありません。この方法は「1音1字」よりずっと少ない文字数で文章を記すことが出来ますが、個人的な工夫によるものなのだと思います。それでも広く通用しました。
  万葉仮名の歌謡は、仮名書きではなく、仮名交り文のようです。「毛許呂裳」は「毛ころ裳」です。借字部分が仮名で、他は主に訓で読まれる漢字です。

表語文字

  前述の万葉集にある「毛許呂裳」は、「毛」「裳」は「表語」、「許」「呂」は「表音」と言えないことはありません。
  こうした見方は、その文字が外来であることを示しています。文字を作った時には話し言葉の音が当てられ字義と音は分けられません。外来語を表すための借字は生じるかも知れませんが、基本的な語彙が表語と表音に分けられることはないのだと思います。

  楔形文字でヒッタイトの王は自らを LUGAL u a-na KUR URU ha-at-ti のように記しました。「ハティの国の王である人」なのだと思います。大文字の語は表語文字と説明されるものです。LUGAL、KUR、URU は、それぞれ楔形文字の1文字です。LUGALは王、KUR、URUは、それぞれ国、都市を示す限定符とされています。
  楔形文字の文書はアッカド語と見られ、LUGAL はアッカド語の王を表す SHaru のように転写されます。しかし、ヒッタイト語を話す人々が LUGAL をアッカド語で読むことは考えられません。アッカド人が認識されなくなって七百年経っています。
  楔形文字の文書は、いろいろな音声言語の人々が、それぞれ訓読したのだと考える方が自然です。「漢委奴国王」の「王」は、もらった方は、「きみ」と読み、与えた方は「わん」と読んだと言ったようなことです。
  楔形文字の音節文字と認識される部分は「1音1字」で、既に仮名文字のように音節だけを表すようになっていたのだろうと思います。

言語とマスメディア

  音声言語にによって何々人とグルーピングするのは、母語を共有する集団は、共に生活していると見なせるからだと思います。日常の生活で使用する語彙が何万もあるはずがありません。人の能力は何万語でも可能ですが、誰かが辞書を作り出したとしても1代で失われます。
  生活が変われば新しい語彙が加わるかもしれませんが、前に使用されていた語彙が使用されなくなり、次世代に伝わっていく総数はそう変わらない状態が続くだろうと思います。また、誰かが思い付きで語彙を加えても、広がることはほとんど考えられません。
  多くの場合、音声言語は数千語と行った語彙数を越えないようなものなのではないかと思います。遠くへ書簡を送って話しが通じるなら、語彙は勝手には変更されずに維持されていることを物語っています。
  しかし現実には、ヴェーダ語、アヴェスター語のように多くの語彙を持った言語が存在しました。仏典結集のようなことをしなければ不可能なことに思えます。どうやっていたのかは分かりませんが、日常を越え、専門用語なども伝承した人々がいました。メソポタミアの多くの言語はフルリ語から語彙を得たと見られているようです。フルリ人や楔形文字の書記などが広域に文書が通用する辞書の役割を果たしたのだろうと思います。
  この役割は後には教会が担ったのだろうと思います。

  語彙を増やすことが如何に困難かを示すのが和製漢字だと思います。日本に漢字が渡来してから日本人が加えた漢字は300ほどだと言うことです。凪などは、傑作だと思います。
  言葉や文字は徐々に発達していくように考えますが、それは実際には違うようです。日本が漢字を受け入れたのは漢字がほぼ完備だったからです。
  言葉や文字は維持するのが困難で変質し易いことは確かですが、それは発達することではありません。
  しかし、最初から完備なものが存在するはずもなく、不思議なことですが、現実には不完全なものは普及しません。

  こうしたことは、現在では少し違っています。マスメディアによって語彙を追加したり変化させたりすることが起きます。
  特に、科学、技術用語は頻繁に作り出されます。
  こうした状況は、1854年ころに木材パルプから紙が生産されるようになって以降のことです。

  現代人は、書籍を読むとき、読み上げるのではなく、視覚的に文字を認識しています。その方が高速に読み取れるからですが、こうした能力の使用は1854年以降に始まったことです。
  文章を書く書き方も視認することを前提に、大文字小文字の使い分けや、単語ごとに分ち書くことが当然になりました。
  また綴りを維持する必要も生じました。ナーメをネイムと発音するようになったとき、name を neimu と綴るようにはなりませんでした。こうして、表音文字なのに、発音記号が必要になりました。
  楔形文書は同音の語をいろいろに綴っていて、綴りを維持する意図はなかったようです。

  文字は「話し言葉」を完全には写しませんが、文字が写す情報は概ね十分なもののようです。1877年に蓄音機が発明されたようですが録音は記録の主力にはなっていません。文字は「話し言葉」を写す以外に、印刷や検索、編集に大変有利です。また、「話し言葉」の理解は聞き手が発話者の発生動作を想起することにあり「音」自体は補助だと言うことを示しているのだと思います。しかし音声でも映像でも作り出せるようになり、これからどう推移するのかは分かりません。

日本語と漢字

  バビロン捕囚によってユダ王国の人々は、アラム語を使用するようになったとされます。同様に表現して、日本人は漢字を導入して中国語を使用するようになったと言いそうです。しかし日本人が中国語を話すようにはならなかったことは確かです。
  主に文字による影響を受けた日本とは違う点もあるでしょうが、ユダ王国の人々も「話し言葉」をアラム語に変更したと言うことではないのだと思います。

  古事記の序には、「時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。」とあり、また、「然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣更長。是以今或一句之中。交用音訓。」とあります。
  古事記の真偽はともかく概ねこのように理解されて来たと考えられます。聡明と言うのは、28歳の青年稗田阿礼のように、見たものは言葉にでき、聞いたことは覚えることができると言うことです。また「言葉で伝わったことをそのまま文字にすることはできない」と言うことです。漢文は簡潔ですが「心におよ(逮)ばず」、1音1字で表すのは「更に長し」なのです。

  古事記は8世紀の話しですが、基本的に漢文で書くことを採用していました。これは、多くの「音声言語の日本語の語彙」が「文字である漢字の語彙」で表せたことを示しています。
  しかし、全て、そうすることはできず、「音声言語の日本語の語彙」の一部は「1音1字」で音を表記することにしました。

  古事記の序には「1音1字」の例が挙げられています。「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」、姓の日下は玖沙訶(くさか)、名前の帯は多羅斯(たらし)と書くとしています。
  歌謡では、「しほせのなをりをみればあそびくるしびがはたでにつまたてりみゆ」を、「斯本勢能那袁理袁美礼婆阿蘇毘久流志毘賀波多伝尓都麻多弖理美由」と記したと言うことです。

  帯の上代語は「たらし」でした。これは、漢字のシステムは、上代語よりずっと語彙の多いことを推測させます。例として「見る」ことを表す、見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥には、すべて「みる」が当てられています。日本人は、これらの漢字を使い分けるようになります。同音異義の語として、語彙を増やした例だと思います。
  古事記の序の例では、舎人、聡明、先代と言った、熟語と取れるものがあります。実際にどう読まれたのかは知り得ませんが、「とねり」、「さとき」、「さきのよ」と読んだのかも知れません。今では、舎人(しゃじん)、聡明(そうめい)、先代(せんだい)として国語の辞書にあります。
  「先代」は書き手は「さきのよ」と書いただけで、複数の漢字で1つの語を表す「熟語」を作ったつもりはないのかも知れません。書き手の意思とは無関係に、漢籍や漢文から良く見かける漢字列を音読みにして国語に加えました。これが日本語の語彙の主要な部分を占めているのだと思います。

  古事記の序を記した太朝臣安萬侶は、すでに漢字の本質を知っていました。日本語を表すには「1音1字」つまり仮名文字を使えば良いのです。しかし、それは大変冗長なものです。意味を伝えると言うことでは、日下、帯と書けば十分なのです。読み手が、「くさか」や「ひのした」や「ぴしゃ」、「たらし」や「たい」の何れに取っても問題はないのです。たとえ「ひのした」と読んだ人も書くときは「日下」と書くので問題にはなりません。
  漢字のシステムの「意味が視認される文字」の性質を良く知っていたのだと思います。

  日本人は漢字を取り入れました。おそらく、上代語の十倍の語彙を得ました。前述のように多くの「みる」と言う漢字を使い分けるようになりました。しかし、漢文は日本語であって、中国語を話すようになった訳ではありません。

漢文

  漢字の特徴は、「兵少食尽」を「兵少なく食尽く」と読めば日本語で、「ピンシャオシチン」ならきっと中国語だということです。
  漢字を取り入れた国々では、「兵少食尽」を、それぞれの音声言語で読んだことでしょう。
  漢字は表語文字で、どう読まれるかは、それぞれの国語によると言うことです。

  漢文の特長は文語だと言うことです。これは、中国でも言えることらしく、「論語の時代には口語と異なった洗練化が起きた」と表現されるようです。「兵少食尽」は「兵が少ないことによって食が尽きる」のはおかしいから「兵も食料も乏しい」と読めます。漢文は時制が明示されないなど文字だけで全てを伝えることを意図したものではないとも言えます。

  おそらく漢文を読むことによって使用されるようになったのは「いわゆる(所謂)」、「くだん(件)」などです。
  未を「いまだ・・・せず」や、猶を「なお・・・のごとし」と読む言い方も使われます。
  「並受其福(ならびにその福を受く)」の「ならびに」は、「ならぶ」や「ならび」から生じて、漢文の訓読にのみ見られたもののようです。
  「いまだ」は、「いまだに雪が残っている」のように否定文に使われるとは限りませんが、継続していることが望ましいことの場合には使われないように思います。「いまだ・・・せず」と関係があるのかどうかは分かりません。
  主に文字が伝来しましたが、言い回しにまで影響がありました。しかし、その影響は中国の話し言葉とは直接結びつきません。「日本人は、漢字の影響で『しからずんば』と言うようになった」と言われても、日本語を知らない中国語を話す人々には何のことか分かりません。

  音声言語は動詞の発音を変化させて、時制や人称を表現します。こうした活用が漢文のシステムにはありません。文字を傾けたり、点を打って活用すると言ったことは採用されませんでした。
  漢字のシステムでは必要なら文字を加えることになります。「得虎子」の否定は「不得虎子」です。
  時制がどのように表されるのかは良く分かりませんが、全文と背景がそれを示すように記されています。
  哀公問。孔子對曰。・・・ 今也則亡。未聞好學者也。
  哀公が問うて、孔子が答えます。聞かれたことの答えは、「今は即ち亡し」で、「いまだ学を好むものを聞かざるなり」です。しかし、字義通り「学を好むものを聞いたことがない」とは解釈されず、「かつては大変学を好むものがいたが、(孔子の存命中に)亡くなってしまった」と解釈されます。

  このことは、日本語の文末の表現に影響を与えました。虎児を「う・る(得る)」のか「え・ない(得ない)」のかで、「得」の音が変わるのを避けて、「え・む」や「え・ず(得ず)」となったことは確かそうです。うる、えた、などとは読み下されず、体言止めのような時制の消失した文末表現が工夫されたのだと思います。

  日本人は長い間漢文を書きました。そのほとんどは他の音声言語の人々が読むことを想定していませんでした。「漢籍と同じ文字列」を作ると言うのは原則のことで、実際には多くの文書が和製漢文であることが識別できるものなのだろうと思います。
  特に「給う」などを盛り込んでいるのは漢文には無いことだろうと思います。「令勧進給之云々」は「こを勧進せしめ給ふ云々」と読むようです。

漢詩

  漢詩は熟字を認識させ、音読みするようになるきっかけなのかもしれません。
  訓で読むと音節数が変わってしまいます。漢字の「音」は、ほとんど2音節です。
  今日不知誰計会(李白)は、「こんにちしらずたれかけいかいせん」と読まれ、「計会」を「はかりあわす」などとは読まなかったのだと思います。
  漢字は基本的には1語1音1字です。1音は1音節と言うことではなく、主に2音節の反切で表される「音」、日本の漢和辞典の「音読み」のことです。1語1字であることから区切って書く必要はないと言うことになります。
  たとえば「朝日」や「大恥」は「あさひ」、「おおはじ」と言う熟字な訳ではなく、書いた人は「朝の日」や「大きに恥じて」などと書きました。日本人はそれらを熟語として取り入れました。

熟語

  凪などの和製漢字は300ほどあるようです。「働」は中国でも採用されているようです。
  しかし、長い年月が経ち新しい言葉が沢山必要になる中で、如何に漢字が完備でも 300 は少なすぎます。
  これは、自由に熟語を作ることで代替されてきたのだと思います。日本では仮名文字と漢字を混ぜて使ったために、新しい語を熟語として自由に作ることができました。漢字だけの文章では、熟語で語を増やすことは、漢字を加えるのに近い力が必要です。
  「牀前看月光」は、日本語なら「牀前」と「月光」と言う熟語を解釈できます。日本語なら「月光(ゲッコウ)」は「月の光り」とは同じ意味の別の語です。
  「温故知新」は、「故きを温ねて新しきを知る」と言うように書いた漢字の文章から切り出して、日本人が熟語としているものです。
  中国にも熟語があり「分量」や「感謝」などは1つの語と認識されるのだと思いますが、これは勝手に作り出すことができません。繋がった漢字列から熟語が認識できるのは、それが良く知られているからです。
  日本語では、仮名文字と混ぜるので語の切れ目が明瞭です。臓器移植が必要になったら、「脳死」や「心停止」など自由に語を作り出せます。「自衛隊」でも「国防軍」でも、「集団自衛権」でも自在です。
  こうしたことは科学技術や律法などに関して大変大きな恩恵をもたらしたと思います。

  現在では熟語は慣用句の意味で使われることが多いと思います。おそらくイディオム(idiom)の訳語で、漢字の「熟」もそれを連想させます。熟語には、「良く使われる成句」、あるいは、単に「成句」の意味があります。
  古事記の「爾大山津見神因返石長比賣而大恥白送言」は、オオヤマツミの神はイワナガヒメを返したことを「大きに恥じて」います。おそらく、書き手は「大恥」を1つの語と考えていないと解釈されています。「大恥」は「良く使われ」ますが、成句したつもりはなかったようです。日本人は「おおはじ」の語彙を日本語に加えました。あるいは、「おおはじ」に相当する日本語は存在していて、漢字の読みに改められたのかも知れません。
  漢字を連ねて、1つの語を表すこと自体は、「熟字」と言う言葉があるようです。日本人は、中国の書籍や漢文から多くの「熟字」を見出しました。それは、「良く使われる」ものですが、本来は熟「語」ではなかったものです。
  また、「全く使われていない新しい」熟語もたくさん作りました。術語、用語として、日本人は沢山、熟字を作りました。「哺乳類」や「進化」、「原子」、「分子」などは、漢字の伝来時に存在しなかった概念です。
  「適者生存」や「手風琴」、「貴婦人」、「体系」など、多くは、翻訳に伴って生じたもので、造語された熟字です。
  中には、日本で造語された熟語が漢字圏に広がったと見られるものもあるようです。「体系」や「機構」は広く使われているようです。これは、翻訳によって造語されたもので、外来の概念を表す言葉です。
  機能性食品は、日本政府が条文の中で作り出したもののようです。しかし、「functional foods」や「機能性食品」が「成句」や「語」と受け取られるのかどうかは分かりません。
  しかし長い歴史の間にはさまざまな言葉が書かれました。過去に使用されていても日本で日常使われないものなら用語として新たな意味ウィを与えて使用することが出来ました。衛生、経済、科学などは漢籍から見出すことが出来ます。

語の発音

  実際にはどんな文字も、音声言語を完全には写していないことは確かなようです。どの文字体系でも、その文字情報だけでは、音声合成ができません。現在の音声合成は語の辞書を持っています。
  さらに、その語を連ねても、自然な発声にはなりません。人は、意味のある単位で調音を行っていて、音節や語を制御しているのではないからです。
  「おおさか」の最初の2文字は同じ文字ですが同じには発音されません。むしろ「おーさか」や「おうさか」かもしれません。日本語に限らず、記述通りに発音していない例は沢山あります。また、「箸」と「橋」、「みかん(蜜柑)」と「未完」のような抑揚が記述されていないこともあります。
  また、口が動く動作は、その前の状態に依存します。それ以外にも調音に係る器官は前後の状態の影響を受けます。音節は、語頭にあるときと、語の中で使われた時には異なった音が出ています。語の中にある場合は、前後の音で変化します。
  さらに、抑揚の調整は、文章のような大変長い単位で行われることも重要です。発音記号で文章を記したとしても、意味的な解析なしには、自然に読み上げることはできません。

発音記号

  ギリシア文字やラテン文字は、音素文字に分類されています。もしそうならなぜ発音記号が必要なのか疑問です。
  BC1854頃以降大量出版が始まると、視認の重要性が高まって、語の綴りが維持されるようになり、おそらくギリシア語も発音が変わって綴りと合わないものがあるのだろうと思います。
  ラテン文字は、ラテン転写など、発音記号と同じ目的に使われています。しかし、それぞれの記号の音が一義に定義されているわけではありません。
  このように発音記号には優位性がありますが、発音記号で文章を書く人がいないのも事実です。

  言葉は音によるコミニュケーションですが、音の周波数や持続時間によって符号化されている訳ではありません。
  言葉の通じる理由は、共感共有です。人が言葉を話していると、聞き手も実際に発声は伴いませんがそれを再現しています。しばらくは言い回しまでまねができるのも、意味だけを取っているわけではないことを物語っています。
  人は、言葉を発声動作と結び付けて学習しています。動作は発声ではないものに置き換えることができ、手話や手旗信号でも良いのです。本質的に相手と同じ動作をすることによる共感がコミニュケーションなのだと思います。

  仮名文字の表す音節は、母音単独(V)か、子音+母音(CV)の形式で表されます。
  母音は声帯振動を伴って、口の形を保って息を吐き続けたときの音です。口の形は無段階に変化させられるので、発せられる音も無段階です。
  仮名文字の母音は5つありますが、発するときの意図が5通りだと言うことで、実際の空気振動は千差万別です。口の形が無段階に調節できるだけでなく、性別や体格などで声帯の基本周波数や調音系の容積は大きく異なっています。また、食道発声する人の話しも聞くことができます。 表音文字や発音記号は、空気中を伝わる音を記録しようとするものではなく、発声動作を分類してコード化するものです。
  「き」は、「k」と言う子音と、「i」と言う母音で出来ています。しかし、「k」だけを発音することはできません。人が発音できる最小単位は音節です。母音や子音は、発声動作の区分で必ずしも単独で行うことができません。

  音声記号で表記した文章も、そのまま音声合成できないことは他の文字と同じです。音声記号が表しているのは発声動作の制御の列なのだと思います。

外来文字の導入

  漢字を導入することで起きた「送り仮名」や、「1つの文字にいくつもの『音』」があることを挙げました。
  こうした特徴は「外来の文字の導入」によって発生することで、おそらく日本語だけの話しではありません。

  同音異義語が多いのも「外来の文字の導入」の特徴だと思います。見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥の訓が「みる」なのは、日本語の単語の数は漢字に比べると圧倒的に少なかったことを物語っていると思います。
  日本人は今では、これらの漢字を使い分けています。これは、日本語の語彙が音声言語の語彙によって区別されているわけではないと言うことでもあります。

    トランプやカルタ、タバコ、カレンダーなどカタカナ書きされる外来語は、音を移すことで取り入れられ、日本語とは源が異なることが意識されています。表音表記される語でありながら外来語として扱われない語が沢山あることも特徴だと思います。書籍の見出しは「題(ダイ)」と言い、ほとんど「みる」や「ひたい」とは読みません。「獅子(しし)」は日本にいませんでした。「獅」や「菊」には訓がありません。これらは対応する日本の語彙がなかったので、そのまま「音」が日本語になりました。しかし、これらは外来語とは考えられていません。
  高速鉄道や海洋深層水と言った言葉は外来語ではありませんが、「音」で読まれます。多くの造語は「音」を使って作られています。
  「音」は漢字とほぼ1対1なので熟語ごとに読みが違うと言ったことが起きません。訓の熟語は複雑で、古事記の中で、「刀」は、「御刀(みはかし)」、「麻刀(まど)」、「刀(かたな)」、「布刀玉(ふとだま)」、「大刀(たち)」などと読み下されています。太刀(たち)、佩刀(はかせ)、小刀(こがたな)、懐刀(ふところがたな)などとも読みます。また、文脈によって町中は「まちなか」だったり「まちじゅう」だったりして意味まで変わります。訓による熟語は漢字伝来後まもなく作られたものが多いのだと思います。

  「爾天宇受賣命謂海鼠云 此口乎 不答之口而 以紐小刀拆其口」の最後の部分は、「ひもかたなを以ちて其の口をさきき」のようです。「海鼠」は、2文字で「こ」と1音で読まれたと考えられています。
  余分な文字も外来の文字を採用したことを覗わせます。

  漢文を読むためには、音読みを訓に加えたり、名詞の動詞化をしました。「人言楚人沐猴而冠耳、果然」、「もくこうにしてかんす」は、冠を被ることを「かんす」と読んだわけで、もともとはなかった言葉だと思います。「通る」、「通じる」も同様だと思いますが、「通じる」は、それまでなかった「理解し合う」と言う意味の言葉を増やしたのだと思います。

  また擬声音にも特徴があります。太陽がサンサンと降り注ぐのは擬声音と同じように扱われています。「犬がワンワン」と同じで、ワンワンは解釈するものではなく様子を想起するように働いています。しかし、サンサンは粲々、燦々で、同じ語を重ねた強調表現であって本来は擬声語ではありません。

擬声語

  擬音語と擬態語を合わせて擬声語と呼ぶようです。確かに太陽は「サンサン」と光り輝いていますが、直接には音を出すことも演技もしていません。「オノマトペ」とも記されていて、ギリシア語の擬音語(νοματοποιία)のフランス語転写のようです。
  切っ掛けはいろいろでも最終的に音声に摸されると言う意味で擬音語が総称でも不思議はありません。

  話し言葉が感性で声を出すことに起源があるなら全ての語は擬音語と言えます。従って、あえて擬音語と言うのは、「まだ語になっていない語」、「語に準ずる語」のことになります。
  「犬がワンワン」と言っても、「犬が吠えている」と言っても同様の状況を伝えますが、「ワンワン」と「吠える」は異なった認識をしています。
  「吠える」は「鳴く」や「警戒」などの関連した語彙を想起させます。音声言語は語彙のネットワークの共通認識の上に成り立っています。これによって「疲れた」を「こわい」と言う人とも会話できます。
  一方で語には、それ以上語彙の連想をしないグループ、あるいは一時的な定義を与えるグループがあって、「語に準じる語」が入る入れ物があるようです。擬声語と同じかどうかは分かりませんが、契約書で甲や乙と言ったとき「双葉」や「こごみ」を連想することはないと思います。
  「語に準じる語」は、解釈が場面や言い回しに依存する特徴もあります。「せいぜい頑張れ」や「たかだか十石」と言うのは全く逆の意味にも解釈できます。これは一時的な定義を与える語とも解釈できます。

  「ワンワン」は擬音語ですが、太陽が「サンサン」と輝くのは、おそらく擬音語や擬態語ではありません。「サンサン」や「せいぜい頑張れ」と言うのは、「燦」、「精」を強調のために重ねたもので漢籍に由来し、擬態語として書かれたものではありません。
  当然ながら、「さん」を2回唱えても、日本語の話し言葉として強調にはなりません。しかし、日本人は擬態語のように捕え「語に準じる語」として扱っています。 

  強調するために同じ文字を連続して書くことは自然なことです。このことと、擬音が「ワンワン」のように2音節の繰り返しになることが多いことが1つになって「語に準じる語」が沢山作られたのだと思います。
  おそらく、漢籍から導入したと言うのは当たりません。強調なので本来多用されない手法であり、多くは日本人が主に擬態語の造語手段としたのだと思います。

  漢籍からの「戦々恐々」や、勇気「凛々」のような漢字を重ねたものがあります。
  また、「つるつる」、「ふらふら」、「うろうろ」、「よろよろ」のように、本来日本語にあった語彙を重ねたと思われるものがあります。

  普通には擬音語や擬態語があって、語彙が生成されるように思いますが、日本語では、語彙を重ねて擬態語のように使用するようになったようです。「つるり」や「ふらり」と言った語彙があって、「つるつる」、「ふらふら」と言った言い回しが生じたのだと思います。
  本来は、擬音語や擬態語は音声言語に生じるものです。音声言語では語の区切りは明瞭ではありません。話し言葉は語より長い単位で区切られています。繰り返していることが捉え難いので文字のように強調のための常套手段には成り難いはずです。
  日本語は話し言葉として発達してきたわけではなく、文章語、文字語として発達した証拠の一つだと思います。

  日本語の語彙の多くが文字で造語され、読みは読み手が付けて「話し言葉」に加えました。しかし、近年のマスメディアの時代には「話し言葉」の新語が先に広まることも起きます。文字を重ねた強調表現が、擬声語として広まったのは、そうした先駆けなのかも知れません。

※こわい
  方言として「こわい」が挙げられますが、「こわい」が「疲れた」なのはおそらく日本語です。「こわい」は「強い」です。広辞苑の「強い」には「骨が折れる。疲れる」と書かれています。
  疲れるは、「つまなき君が田に立ちつかる」が挙げられています。おそらく漢字で「立ち疲る」と書くので「疲れる」が使用されるようになったのだろうと思います。

未然形と已然形

  「人の世ならば」と「人の世なれば」は、「未然」と「已然」に当たりそうです。前者は「今は人の世では無い」と取れます。後者は「今は人の世」です。
  おそらく「話し言葉」は少しの変化で、時制や人称、単複などを表すように発達します。肯定的か否定的かと言ったことも伝えます。
  数万年の歴史を持つ「話し言葉」は会話の主要な要素を、構文を替えたり、特別な語を加えることなく表せるようになるはずです。
  中古日本語の「未然」と「已然」は、そうした名残なのかも知れません。
  いま、「人の世」状態でのことを表現しようとしています。「未然」は「これから人の世になると」と言う「仮定」でもあります。
  「已然」は「人の世にあっては」と言う「人の世」に限った話しをしようとするとも受け取れ「限定」と解釈されます。
  思考としては「人の世」と言う「背景(条件)」を想起し、それが「仮定の状態」なのか「現状」なのかを認識しています。

  万葉集から「時間」を「待つ」、「またば」と「まてば」の例です。
  三嶋菅   未苗在     時待者   不著也将成   三嶋菅笠
  みしますげ いまだなへなり とき「またば」 きずやなりなむ みしますがかさ
  宇具比須波 伊麻波奈可牟等 可多麻氐婆 可須美多奈妣吉 都奇波倍尓都追
  うぐひすは いまはなかむと かた「まてば」 かすみたなびき つきはへにつつ
  「またば」は「適期を待っている」と「使わずじまいになる」で、「待ったとしたら」と言う仮定条件に使われています。
  「まてば」は「ウグイスが鳴くのを待って」いたら「月日が過ぎていった」で、既に待って時間を過ごしてしまっています。
  後者は、「仮定」に対して「確定」とも言うようです。しかし、これを「例え話」だと思えば、「過去に時間を過ごした」訳ではなく「仮定」とも取れます。また、時間の観点ではなく、「待つことによって」と解釈して「原因・理由」や、「待つということを選んだので」と解釈して「限定」とも言えます。
  平家物語の「一の舞姫のあらざらば、五節の舞敢えてかなわず」は、一の舞姫は既に行き方知れずです。仮定か限定かと言ったことより、気持ちの持ち様が反映されるのだと思います。おそらく仮定なのは「五節の舞が行われないこと」です。

  文章は全て「限定」するものだと思います。「山は高い」は、対象が「山」に限定され、その山の特徴は「高い」言によって示されます。「限定」は文章の基本的な性質です。「未然」、「已然」の話しは、「因果関係」の表現の話しと考えることが出来ます。
  「未然」な現状とは異なる状況に思いを致して「未然形+ば」が選ばれるようです。
  それ以外の因果関係で「已然形+ば」が使用されることがあるようです。「雨が降れば本を読む」と言うのは「法則」のようなもので、「時間」を想起していません。これも「未然」と考えれば「仮定」受け取れます。生起順を認識していれば「原因・理由」、晴れや曇りと言ったケース分けと考えれば「限定」と解釈されるのだと思います。

  教育勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の「あれば」は、「已然形+ば」です。今が「緩急」ではなければ「あらば」となったことは推測できます。
  「心不在焉 視而不見」(礼記)、「心ここに在らざれば、視れども見えず」は本当はどう読まれたかは分かりません。書いた人の意図も分かりません。しかし「在らざれば」と読まれているのは中古日本語の解釈で「注意を向けていないと」と言うように解釈されたことを物語っています。心が時々どこかに行ったりする物なら、「在らざらば」と「仮定」とも成りえることになります。
  明治政府にとっては常に「緩急」だったのかも知れません。また、「緩急」と言う言葉自体が、緩急するものは常に在り、2つの状態を取ることを指しています。さらに「緩から急へ」の変化であると捉えたかも知れません。

ダイグロシア

  ダイグロシアとして上げられたのは、ギリシア語、アラビア語のようです。
  ギリシア語はコイネーとして広く使用され多くの文献が作られました。アラビア文字は聖典の維持のために7世紀ごろから使用されました。典礼となる文書によって多くの異なった「話し言葉」の人々が使用するギリシア語やアラビア語と、それらを母語とする人々の言葉の間に差異が生じるのは不思議ではありません。当然、文書を典例とすることはギリシア語やアラビア語を母語とする人々にとっても重要なことです。
  ダイグロシアの示すものが何かは良く理解できませんが、典例語と日常の話し言葉があることは推測できます。

  文字は「話し言葉」の持つ情報を完全に写すものではないので厳密に「言文一致」と言うことも在り得ないことです。
  しかし、現在の日本語は「言文一致」と考えて良いのだと思います。物を考えるときに頭で廻らせる言葉をそのまま書いていると思っています。漢文のように「文を敷き句を構える」ようなことはしていません。

  日本語の文体は「漢文訓読調」、「擬古文」、「言文一致」があるようです。初期の「言文一致」の例は 1888年(明治21年)の二葉亭四迷訳「あひびき」のようです。しかし、1890年(明治23年)森鷗外「舞姫」(漢文訓読調)、1895年(明治28年)樋口一葉「たけくらべ」(擬古文)のように一般的だった訳ではないようです。

  物を考えるときに使用する言葉で書くことを「言文一致」だと考えると、「・・・然らずんば死を」と考える人がいないとは言えません。また擬古文は中古日本語の「話し言葉」に近いのかも知れません。
  しかし「漢文訓読調」、「擬古文」は、現在の日本の社会的な「言文一致」ではないと思います。

  日本語も明治以前は典籍語である「漢文訓読調」の文体と「言文一致」のダイグロシアだったのかもしれません。しかし日本語の語彙の大半は文字によって造語されたもので、語彙の点では「言文一致」に近い状態が維持されていたものと思います。漢文だけが書記方法だったときには語順の違いが歴然としていますが、「漢文訓読調」には語順の問題はありません。
  江戸時代に古事記に付された振り仮名は「於高天原成神名」、「たかまのはらになりませるかみのみなは」(正訂古訓古事記)のようでした。「成」が「なりませる」、「名」が「みな」となり、書かれていないことが加えられています。漢文は常に決まった読みがされた訳ではなく、いかに自然な文章に読むかが競われたものだと思います。その意味では中古日本語に近く読まれたはずです。
  中古日本語は漢文訓読を元にしたものだと思います。その差は仮名文字の使用によるもので、「敬語」や語調を整える「よ」など余分な文字の付与だと思います。
  日本語は比較的「言文一致」に近い状態を維持していたのかも知れません。

訓読み

  「朝日之直刺國 夕日之日照國也」(古事記 上卷并序)は、「朝日の直ちに刺す国、夕日の日照る国なり」のようです。
  古い文書の読み下し分では極力訓読が行われるようです。日照国」は、「ひでるくに」で「にっしょうのくに」ではないようです。朝日、夕日も「あさのひ」や「ゆうのひ」なのかもしれません。
  また「必其兄貧窮」は、「ひんきゅうす」ではなく、「まずしくあらん」のようです。
  しかし、漢字だけで書かれた文章がどのように読み上げられていたのかは誰にも分かるはずはありません。
  現在では、漢字と仮名を混ぜて文章を作るので、漢字が連なった箇所は熟語と思って、音読みを第一候補として読んでいるものと思います。「主権在民」は「主権は民にあり」と読めますが訓読するつもりで造語したものではないと思います。

  古くから漢詩は語順を変えず漢字を音読みする工夫がされたものと思います。
  江戸時代以降、漢詩以外の漢文は極力訓で読まれ、中古日本語に近かったのだと思います。現在では、敬語など本来漢文で区別の無い記法は忠実な読みに改められたのだろうと推測します。

ねぐら(塒)

  ペットを入れるカゴや檻が「ケージ」と呼ばれています。おそらく英語の cage です。
  ケイジ(鶏塒)は使用されていますが広辞苑にはないようです。詩経に「鶏棲于塒」とあり、「鶏塒」は日本の漢詩にも登場しています。中国の漢詩は「鶏はねぐら(塒)に」と訓読されています。
 「塒」は「時」が音符の形声文字で、「ジ」の音が「峙(ジ、そばだつ)」ことを連想させるもののようです。鳥小屋は土で出来ていて、檻のことではないようです。
   「塒」は単独で「鶏小屋」を表します。日本人が「ケイジ(鶏塒)」としたのは、「ねぐら」は鶏専用ではないからだと思います。「ねぐら」は「寝るところ」のことで、「ねど、ねどこ、ねどころ(寝所、寝床)」と同じに使用されます。
  しかし、「ねぐら」と言う語は、本来の日本語の語彙ではないと思います。「塒」の「そばだつ(鶏の寝姿)」の意味合いを合わせて、「ね(寝)くら(座)」と訓が振られたのではないかと想像します。「ねくら」からは「にわとり」が感じられないので「寝るところ」として使われるようになって不思議はありません。おそらく、本来の日本語には決定的な「寝所」に当る言葉がなかったのだろうと思います。
  「とくら」は万葉集にある言葉だと言うことですが、広辞苑にある鳥栖、鳥座、塒ではなく、「鳥垣」や不明な文字で記されていて定かではありません。「塒」には「とくら」と言う訓も振られていたようです。こちらは「鳥」が感じられます。しかし、「寝る」事とは切り離され、鳥を飼うとや(鳥屋)や鳥小屋になります。また、「鳥」は「にわとり」ではありません。鳥がねぐらに帰るのは夕暮れ時の描写に使われますが、本来は「牛巷鶏塒春日斜」のように人界に近い、日常の人の営みを想起させるものだったようです。

たびたび、ますます

  年年歳歳のように同じ文字を繰り返すのは強調する方法として理解できます。おそらく、「たび(度)」は本来の日本語です。しかし「度々」のように使用していたかどうかは分かりません。おそらく漢字の導入以降に「たびたび」と言うようになったのだろうと推測します。
  「ますます(益々)」も同様ですが、広辞苑には「多多益益弁ず」(漢書韓信伝)があり、漢文の訓読で生じたことが明らかなようです。
  「騒々しい」のソウ(騒)は音で、明らかに漢字の導入に伴って生じた言葉です。

  話し言葉は語を区切って発声しないので、繰り返すと言うことが明瞭ではありません。話し言葉の場合は1音節の語や、擬音の繰り返しがあります。「パパ」、「ママ」や、疲れて「よろよろ歩く」ことや「よれよれ」になったりします。
  話し言葉による繰り返しは、文字による繰り返しが強調になることの原点ですが、概ね擬声語と受け取れます。
 「せいぜい」、「たかだか」、「そこそこ」など、「話し言葉」に繰り返しが多く見られるのは、日本語が文章語であって、音声言語として発達してきたわけではないことの特長の1つだと思います。

日本語の年代区分

  日本人に限らず現生人類は何万年も母語となる音声言語を受け継いでいます。しかし、それらは残りません。文字による記録が始まって以降のことしか知り得ない訳ですが、文字が音声言語を表している保証もありません。
  日本が導入した文字システムは、漢籍語とも言うべきもので文字表記上は典例となった漢籍と区別がありません。しかし、その読みは訓読であり、漢籍の編者の意図した音よりも日本語の語彙や文法を優先して読まれました。この様子は古事記の序の「1音1字」の説明に現れています。

  漢籍語を導入しながら日本人の話し言葉は中国語にはなりませんでした。それは漢籍語は中国でも話し言葉の中国語ではなかったからだと思います。これは漢籍を典例とした文章語が大変長命だった理由でもあると思います。
  日本人は今でも人名を文字で付けます。戸籍には何と読むのかは記されませんでした。音声言語は何万年と言う歴史がありますが、母語は乳幼児期に学習するもので1代で変化します。日本では漢籍語に合わせて話し言葉の方が変化しました。日本語の語彙の多くは明らかに文字の影響を受けて作られています。「あさ」と「ひ」から「あさひ」を作り出したのも漢籍の「朝日」によるのだと思います。漢籍は全て漢字で書かれるので熟語として造語する意図があるのかどうかは分かりませんが、日本人は多くを熟語として語彙に加えました。

  識字率は大変低いものだったとされていますが、文字によって話し言葉の日本語が成り立っていることは確かです。仮名の使用も漢文を常用する人々の間で通用するものでした。
  日本語の年代区分は、漢籍語の影響が明瞭になって行く時代から始まるようです。

日本語の年代区分
区分 年代 備考
上代日本語 -794 奈良時代(710-794)以前

魏志倭人伝、古事記、日本書紀、万葉集
風土記(5国の写本が伝わる)、
刻文、木簡

中古日本語 794-1086 平安時代初期、中期 万葉仮名、国風文化、仮名交り文
竹取物語、伊勢物語、土佐日記
中世日本語 前期 1086-1333 平安時代院政期、鎌倉時代 関東方言、鎌倉仏教による識字率の向上
後期 1336-1573 室町時代 ポルトガル語
近世日本語 1603-1868 江戸時代
現代日本語 1868- 明治時代以降

上代日本語

  どこまで遡れるのか分かりませんが、漢字が伝来するより前の日本語も、現在話されている日本語と連続性があるものと見られています。伝承された文書によって知られること以外にも、日常使用している言葉や文字の知識を参照することが出来ます。
  古代のエジプトやメソポタミアの言葉は死語となってから長い年月が経って解読されました。これらの言葉は残された文書によってのみ知られます。シュメール人の文字を採用したアッカド人が、楔形文字を「漢文訓読」のように使用したことは、日本人なら容易に推測できます。アッカド人は楔形文字を概ね音節文字として使用したと考えられ、多様な音声言語の人々がアッカド語の語彙を表記したと解釈されています。しかし、音節表記に見えているのは「音」である可能性があるのだと思います。多様な音声言語の人々は「音」で読み書きしていたわけではなく「訓」を使用したと考える方が合理的に思えます。読み書きしていたのは「訓」で、アッカド語を全く知らなかったと言う方が自然なことに思えます。

  漢籍と同じ文字列を作り出す日本の漢文は本来は音声言語の情報を含んでいません。アマルナ文書の EA1 は、カルドニアシュ(バビロニア)の大王からのものですが、バビロニアはカッシート朝の時代でした。カッシート朝は長命で文書を残していますがカッシート語は、ほとんど知られない言語とされています。カッシート人の書簡はアッカド語でカッシート語は記録されていないとされるようです。
  日本では、漢文は明治時代まで実務に使用され、また、仮名文字などで注記も付されて来たので上代の訓読の様子を推定することができます。確実に仮名文字によって日本語が表音表記されたのは平安時代の後期以降になります。

  仮名文字の使用に先立って、奈良時代には「1音1字」による表音表記が文書の一部に使用されました。漢字の「音」の1音節目だけを使用して、音節文字として漢字を使用しました。1音1字で表された箇所がどのように読み書きされたのかは、当時の漢字の音によっています。中国では反切によって漢字の音を表しました。漢字の伝来に際して反切表記も導入されたと考えられます。
  日中に残った反切による辞書が確かな音を示しますが、余り良く伝わっていないようです。中国から見れば日本の漢字の「音」は古い音を保存している重要な資料になります。 

万葉集と万葉仮名

  古事記などの書物は概ね漢文で記されています。漢文は漢籍と区別のない文字列を作り出すので、音声ではどのように扱われたのかを示しません。しかし古事記は部分的に日本語の表音表記を「1音1字」で行っでいます。万葉集も本文は漢文で、歌謡は表音表記されています。
  万葉集の成立は759年以降と見られ、上代日本語の終わりにあたります。古事記は712年に献上されたとされ50年ほど差があります。漢字が伝来したとされる4世紀からは400年ほど経っています。漢字を記した物は早い時点から断続的にもたらされていたものと思いますが日本人が文書を扱うようになるのは余り古いことではないと思います。古事記の序にあるように奈良時代に入るころには複数の豪族が家系や歴史を記録していました。古事記の序には「1音1字」が例を挙げて説明され、大半を漢文で書く理由も示されています。万葉集の編まれた時代には「1音1字」は説明の必要なことだったようです。

  万葉仮名は漢字です。平仮名や片仮名は漢字とは独立した文字体系です。平仮名や片仮名は字形を漢字から採った音節文字(表音文字)です。漢文を読み書きする人にとって類推が働き普及しました。
  万葉仮名は独自の字形が作られた訳ではなく、「1音1字」のような漢字の用法です。「1音1字」と同様に表音が目的ですが、1文字が表す音節数は一定しません。漢文を読み書きする人々の間で判読できれば良かったようで慣用として広まったようです。万葉仮名は漢文を扱う人々が大変冗長な「1音1字」を避けて、実用的に使用したもので、単独で定義されたものではありません。万葉仮名は江戸時代になって分類され973文字が使用されていたことが知られます。

  万葉仮名の説明は、おそらく平安時代の状況を指していて、平仮名や片仮名に変化したようになっています。しかし、平仮名や片仮名は「1音1字」の音節文字であり、効率化のために字形が簡略化して登場します。万葉仮名は1文字に複数の音節を割り当てることで効率化を図ったものです。万葉仮名も字形の簡略化が進みました。

  万葉集に収録された歌が詠まれた年代は629年ころから759年ころと考えられています。万葉集の文字表記は一様ではないようです。

防人佑大伴四綱(集歌571)
此間 不去 将歸
つく よし かわ おと きよ いざ ここに ゆく ゆかぬ あそび ゆかん

  万葉仮名は、1文字の音節数は一定しません。1文字で読みが決まるわけでもありません。読みは「音」も「訓」も使用されます。
  「将歸」は常に「ゆかん」と読まれるわけではないようで、「ゆきけん」と読んでいるものもあります。漢文の「まさにかえらんとす」や「まさにゆかんとす」です。「ゆかぬ」に「不去」の字を当てたのも漢文式です。
  この歌は漢字の表記の部分だけが伝わり、後代に読み仮名が付けられました。漢字を訓で読んで自然な箇所は問題がありませんが、それ以外は何と読んでいたのかは本当は分からないことだと思います。

大宰帥大伴卿(集歌793)

  この歌は「1音1字」で表記されています。漢字は全て「音」の1音節目の音を表し、漢字の持つ意味は使用されません。
  この歌の中の「マスマス(益々)」は、「たびたび(度々)」と同様に、漢籍の影響で「ます(益す)」と言う日本語が繰り返して使用されるようになったものだと思います。万葉集には「いついつ(何時何時)」や「うつらうつら」と言った語もあります。
  万葉集は古代の日本語を表しているとされますが、成立が「上代日本語」の末であり、既に日本語は漢籍語の影響を強く受けているのだと思います。

額田王(集歌8)
にき ふな のり つき まて しお いま

  最初の集歌571に近いようですが、船乗「世武登」は表音で「訓読」ではありません。集歌571は、完全に「訓読」で漢文と変わりありません。
  「乞」が「で」と読まれるのは、音でも訓でもないと思います。万葉集の中では「(い)で」と読まれている個所が複数あります。当然「こ(う)」とも使われ、「こそ」と読まれている個所もあります。(夢所見「乞」)

  万葉集には、漢文の漢字列の順序が日本語の語順に影響されたグループがあるようです。これは「訓読」されたもので表音表記ではありません。どう読まれたかは文字に表されていません。
  「1音1字」に近い表音表記ですが、漢字の音訓両方を使用したものもあり、特にルールがあるわけではないようです。少なくとも50音表のような共通認識があって使用されたものではなく、漢文を読み書きする人々は判読できたと言うことのようです。
  いろいろあるところを見ると、歌は文字で伝承され、作者はマイルールで記したと言うことだと推測します。万葉集の編者は基本的にはそのまま収録したようです。

  したがって「万葉仮名」の文字システムはなく、「万葉仮名」は漢字の用法のことのようです。各文字については、「登(と)」、「者(は)」などを「万葉仮名」と言うことが出来そうです。訓で使用される頻度が低く、ほとんど音節の「と」、「は」を表しています。しかし、「月(つき)」は、常に「つき」と読まれても、音節の「つき」を表しているわけではなく、「天の月」や「歳月」の意味を持っていて「万葉仮名」とは呼び難いと思います。

万葉集の写本

  万葉集が759年からさほど経たずに成立したと考えれば万葉集が漢字だけで記されていたと考えられます。しかし、実際に後世に伝来し年代の分かる写本は平安時代のもの(桂本、藍紙本、元暦校本、金沢本、天治本)で歌は仮名書きになっています。
  鎌倉時代とされる紀州本、西本願寺本は漢字です。
  西本願寺本が新点本で、それ以外は次点本です。古点本は現存していないようです。
  万葉集の万葉仮名に関した用字の研究は「西本願寺本」によるようです。全巻が揃うことから電子化されているのもこの本のようです。
  このことだけからすると仮名から万葉仮名に作られたと言ってもおかしくはないように見えます。
  宣命体や万葉仮名が上代に使用されていたと言う物証は分かりません。実際に上げられている資料は仮名から作られたとしても不思議の無い年代の資料のようです。

宣命体

  宣命体や宣命紙と言った用語が使用されています。宣命(せんみょう、せみょう)は和製かもしれませんが漢語で、漢字伝来前の日本語ではないものと思います。「御言を宣(の)る」で勅使の伝える「御言」のようです。宣命体は文書の形式なので漢字伝来後の習慣です。
  実際に残された文書は、神社で使用された祝詞(のりと)と、続日本紀の帝の言葉の引用部分のようです。天皇だけが使用した書体と言うわけではないようです。また宣命のみに使用されたと言うことでもないようです。
  万葉仮名のサブセットで、借字が制限されています。借字は1音1字に限られ、同じ「音」には同じ文字が当てられました。「は」は「波」と書かれ、他の文字が使われないことが万葉仮名とは異なっています。
  また見た目では借字部分が小さな文字で記されていることが上げられます。ただし宣命、祝詞が常にこの形式な訳ではないようです。文字の大きさが均等でも、借字部分が1音1字で決まった文字が使用されれば宣命体と呼ばれるようです。

  万葉仮名は借字を交える「仮名交じり文」ですが、仮名文字とは直接結び付きません。仮名文字は直接には1音1字から作られたものだと思います。その点で宣命体は直接の現在の「仮名交じり文」の始まりに見えます。
  しかし、宣命体で借字に選ばれた文字が仮名文字になったわけではありません。仮名書きにはしばらく異なった文字に由来する同音の字形が併用されました。
  古事記には漢文と1音1字表記が使用されています。1音1字は漢字伝来と同時に必要になったはずで、借字の最初であることは確かだと思います。しかし、万葉仮名も1音1字を含んでいます。「仮名交じり文」として、宣命体と万葉仮名のどちらが先に使われたかを示すものはないようです。万葉集さえ最初に万葉仮名で編纂されたと言う物証はないようです。宣命体も後に与えたものでないとは言えないのだと思います。

  借字(仮字)部分を小さく書く方法は、漢字だけで書かれた文章を「語」に区切ることで、視認性が大きく向上します。
  仮名文字を使うことで、文字種によって「語」を区切ることは現在の日本語には不可欠なことです。仮名文字だけで書かれた文章は拾い読みすることになって早く読むことが出来ません。
  漢文は漢字が1語1音1字であることを前提とするものです。借字(仮字)部分を小さく書く記法は、日本の用字が熟字を中心にしたものになっていたことを示すものだと思います。

万葉仮名

  万葉仮名は明確な定義のあるものではないようです。
  古事記の序にあるように「文を敷き句を構え」る漢文は「心に逮ばず」、「1音1字」は「事の趣き更に長し」と感じていました。思い付く順序で文字を並べ、効率良く書く方法を求めていました。漢文を書く人々は「文を敷き句を構え」ましたが、草稿や速記法として「句を構え」ずに文字を並べたと考えられます。
  この状態の文章はマイルールな訳ですが十分に他人にも理解されたのだと思います。漢文を読み書きする日本人の間の文書として「万葉仮名」は始まり、訓読を主にしたものだったと考えます。そのうちに漢文作成の前段階と言う目的から、文書の最終形態として利用されるようになりました。
  訓読による方法は、漢字の並ぶ順番が入れ替わるだけなので、読みは漢文の訓読と基本的に同じで、同様の簡潔さを持っていました。
  「句を構え」ず、日本語の語順で記す訳ですが、「ゆかず(不去)」のような否定表現が常用され、既に当たり前のことだったようです。「将歸」は「ゆかん」で、漢文なら「まさにゆかん(かえらん)とす」と読まれたと見られているようですが、いずれも同じ読みがされたと考えても悪くはないと思います。

  前述の万葉集の2首を見ると、1音1字に比べ、訓読方式は 6 割の文字数で書き表すことが出来ています。

余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊与余麻須万須加奈之可利家理
よのなかはむなしきものとしるときしいよよますますかなしかりけり
31文字31音節
月夜吉河音清之率此間行毛不去毛遊而将歸
つくよよしかはのおときよしいざここにゆくもゆかぬもあそびてゆかむ
19文字32音節

  平安時代には字形も簡略され更に効率良く書くことが行われ、その様子を「万葉仮名」と言っているものと思います。

  1音1字のような音節文字化は、訓読する方法に比べて大変冗長なので「万葉仮名」とは全く異なった目的で行われたことになります。
  その目的は良く分かりませんが、独立した文字システムが出来る点で「万葉仮名」とは異なる特徴を持ちます。
  平仮名や片仮名は閉じていて、それだけを学習することが出来ます。「万葉仮名」は、漢文を読み書きする素養の上に成り立っていますが、平仮名や片仮名は音節数だけの記号を覚えれば使用できます。現在の平仮名や片仮名の表現する音節数は 112 のようです。これは濁音や拗音などをカウントしていますが、濁音や半濁音、小さい仮名文字のような記法はずっと後になって加えられたものです。

  万葉仮名に限らず漢字はいろいろの書体で書かれました。平仮名や片仮名の字形は、そうした文字から選ばれ更に簡略化されました。
  平仮名や片仮名が登場すると、万葉仮名の音節表記部分を置き換えることになりました。
  仮名交り文は、万葉仮名で表記された文章の音節表記部分が仮名文字になったもののようです。

  万葉仮名とされる文章には訓読部分があり、使用されている文字の偏りから発音の違いを把握することが行われています。しかし平仮名のような音節文字のセットを作る意図を持っていないので、同じ音に同じ文字を割り当てている保証もないのだと思います。
  日本人は、こうした文字システムで話し言葉を写したのではなく、記された文書から話し言葉を学んだようです。

数詞

  文字で記録が残るようになって知られる範囲では数字は「ひとつ」、「ふたつ」、・・・、と数えられていたようです。
  11は「とお あまり ひとつ」のように数えられました。
  ここからは理屈に見え、どこまでが使用例のあるものか分かりません。

  「つ」や「じ」は「個」に相当するもので、数詞は「ひと」、「ふた」だと言うことです。33は「みそ あまり みつ」で、33個は「30個と3個」で「みそじ あまり みつつ」となると言うことです。
  10(とお)と、20(はたち)は例外らしく、「数詞」と「何個」と言う表現の区別がありません。24は「はたち あまり よつ」で、24個は「はたち あまり よつつ」です。
  10は、「つ」や「じ」を付けないと解釈できますが、20は「はた・ち」であることは確かそうです。20日は「はつ・か」です。20年は「はた・とせ」です。
  それ以降の数詞は、30(みそ)、40(よそ)、50(いそ)、60(むそ)、70(ななそ)、80(やそ)、90(ここのそ)だったようです。

  100(もも)は沢山の意味で使われたので、それ以上の表現は具体的な数表現とは別なものも交っているものと思います。特に「よろず」は「万」の訓に採用されて数詞になったのだろうと推測します。

  10の位は「そ」で表されているようです。百の位は「ほ(お)」で200は「ふたほ」のようです。千の位は「ち」で3000は「みち」のようです。

  「ついたち」、「つごもり」は数詞とは関係なく、「つき・たつ(立ち)」、「つき・ごもる(籠る)」のような言葉があったようです。

※十有五年のような書き方は漢籍にあるものです。十又五もあるようです。「みそ あまり みつ」のような表現が漢字伝来前からの習慣なのかどうかは良く分かりません。

  「こよみ」は「かよみ(日読み)」だと伝えられているようです。「(ひとひ)、ふつか、みつか、・・・」と数えるからだと説明されています。日数を数える最初が「ついたち」だったとは考えられません。「月立ち」は不合理です。「ひとか」や「ひとひ」であったろうと推測します。ただし、使用されなかった可能性は高いと思います。最初の日を数える意味はありません。

  暦の前に日を数える習慣があったと考えられますが干支が採用される前のことは分かりません。干支によって60日を周期に日は数えられていました。
  日本書紀の日付の表し方は「朱鳥元年九月戊戌朔丙午」のようになっています。月の初めの日の干支と日にちを表す干支の2つの干支で日を表しました。月の初めの干支は年を特定する能力があります。
  しかし、こうした事が文字の伝来以前からの習慣とは考えられません。
  また、古事記は現在と同様、日付も漢数字で表しています。

  漢字伝来以前から月名があったかどうかは何も分かりません。日本書紀や古事記は月を漢数字で記しています。これを「むつき」、「きさらぎ」と書いたのかどうかは分かりません。後の人々が、そう読んだことは読み下し文や注釈から確かなようです。
  しかし、年月日を表す方法として、「睦月」、「如月」、などが記されるのは後のことで、広く行われることでもなかったようです。
  如月と弥生は文字が最初に在って訓として「きさらぎ」、「やよい」が当てられたことは確かそうです。 睦月、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月は、「―つき」と造語されています。これは文字による造語であることは確かです。
  漢籍では「天の月」も「暦の月」も「月」と書かれていました。もし日本に独自の「暦の月」の概念があったのなら、「暦の月」が「つき」にはならなかったと思います。「天の月」も「暦の月」も「つき」で良いのは文字による語彙だからだと思います。

国語辞典

  日本書紀に天武天皇が「新字一部卅四卷」を作らせたとあり最も古い辞書の記録のようです。これは存在したかどうかも定かでないようです。また、和製漢字を造字したことだと解釈もあるようです。

  国宝・重要文化財の「篆隷万象名義」は空海に帰され830年以降の成立のようです。巻頭に空海撰と記され、巻末に永久二年(1114)の写本である旨が記されていると言うことです。この高山寺本が唯一伝わるもので広く使われたものかどうかは分かりません。
  「塒 視之反鶏棲」のように反切による「音」と字義が記されています。塒(ねぐら)の漢音「シ」と字義「鶏棲」が示されています。文字は一部に篆書体が付されていることから来ているようです。
  「玉篇」の節略本と見られていますが、玉篇と同じ収録数(1万6千字)の部首別漢字辞典のようです。

  「新撰字鏡」は最初の漢和辞典とされています。892年に完成したとされ、現存するのは、その増補版のようです。2万千字が収録されていると言うことです。中国伝来の辞書や、その節略本は漢音を伝えましたが「訓」は分かりません。「新撰字鏡」には「旭 許玉反 旦日欲除也 日乃氐留 又 阿加止支」のように記され、「旭」の音が反切で「キョク」であることが示されています。「旦日がのぞくを欲するなり」と説明され、1音1字で和訳が「ひのてる」、「あかとき」と記されました。
  この辞書は、訓で同義語を挙げていますが、必ずしも漢字の「訓」を示す意図ではないようです。

  「和名類聚抄」は最古の国語辞書のようです。源順(911-983)が編纂したもので、百科事典のように万物を分類しています。
  天部、地部、水部、歳時部、鬼神部、人倫部、親戚部、形体部、術芸部、音楽部、職官部、国郡部、居処部、船部、車部、牛馬部、宝貨部、香薬部、燈火部、布帛部、装束部、調度部、器皿部、飲食部、稲穀部、果瓜部、菜蔬部、羽族部、毛群部、鱗介部、虫豸部、草木部。(二十巻本)
  「国郡部」は行政単位を網羅している貴重な資料だと言うことです。
  木版印刷されて江戸時代まで辞書の役割を果たしたようです。写本には見出し語に片仮名で振り仮名があったりしますがオリジナルにはないものと思います。また、和訓を記した箇所は「和名・・・」と文字が小さくなって書かれています。本文の1行のスペースに2行で書かれており、末尾にあることが多いのでオリジナルにあるものか良く分かりません。ただし、書名からすると、本来あるべきものだと言うことになります。
  「人民 日本紀云人民 和名比止久佐 一云 於保太加良」
  「日本紀云」のように出典を書き、説明が続きます。この出典の数は3百ほどあるようです。説明は適宜行われ一様ではありません。漢字の音は反切で示されています。
  和名(和訓)は1音1字で示されています。人民は「ひとくさ」や「おほたから」のようです。

  1165年ころ「色葉字類抄」が作られ「いろは」順の辞書が始まるようです。内容は漢字の語に音・訓を書き添えたもので語義はないようです。同種のものが多く作られ「伊呂波字類抄」などタイトルがいろいろあるようです。

  1603年には「日葡辞書」が出版されました。イエズス会が印刷機を持ち込んで印刷されたものでラテン文字で日本語の3万2千語の発音が残されることになりました。イエズス会は1598年に落葉集本編・色葉字集・小玉編の3部からなる「落葉集」を出版していると言うことです。

字音開合指掌図


































  本居 宣長(1730-1801)の「字音仮名遣」は現在と変わらない50音表を上げています。音素の概念があって子音と母音の組み合わせを表にしています。並びも「あかさたなはまやらわ」、「あいうえお」と変わりません。また、IPAの母音の説明のように母音を説明しています。母音が主に口の開き方で決まっていて無段階で調整されると言う認識もあったようです。
  古典籍データベースで見られる文書のタイトルは「字音仮字用格」「ジオンカナズカイ」と収録されています。この文書の最初は「字音仮字用格序」で、本来は「字音仮字用格」と言う文書だったようです。表紙の貼り紙は「字音か那住かひ」のようで、安永5年に出版されたものです。
  「仮字」は「仮名」のようです。しかし、この書物の主要な構成は「いゐ之仮字」から順次、仮字を列挙することにあり、仮字は「借字」のことのようです。この書物は漢字を「音」で引く辞書のようですが、上げられているのは一部の「音」だけです。
  「いう」には、「郵、幽、優、油、…」などが列挙され、「皆漢ナリ、呉ハう、或ハいゆ」と説明しています。
  万葉仮名には字訓からの借字がありますがこの書からは見つけられませんでした。 

伝来した辞書

  「説文解字」は後漢の許慎が100年ごろに  9,353字の字解をまとめたもののようです。「内 入也 从冂自外而入也 奴對反」のように記され、音は「ダイ」ではなく「ドイ」のようです。

  「玉篇」は部首別編成の漢字辞典のことを指すほど漢字圏で基本的な辞書だったようです。
  顧野王(519-581)の著作の「玉篇」は16,917字を収録し、反切による「音」の他、語訳、用例を含む大作だったようです。完本は現存せず、一部の写本が伝わるのみのようです。一字の説明が数十文字から3百文字を越えるような長いものもあり、同様の物が作られることはなかったようです。
  宋代には「大広益会玉篇」が作られ28,989字となりますが、「玉篇」の語訳や用例は残されなかったようです。

  漢字の部首を「説文解字」は540、「玉篇」542と、ほぼ同数に分類ししていますが分類の基準は異なるようです。

その他の辞書

英和対訳袖珍辞書

  1862年に刊行された最初の英和辞典のようです。「A New Dictionary of the English and Dutch Languages」と言う英蘭辞書のオランダ語を日本語に置き換える方法で作られたと言うことです。袖珍辞書の英語のタイトルは「A Pocket Dictionary ・・・」です。
  stenography は「早書きをする術」と記されました。(昼=晝で「昼の下のーがない」のが「書く」のようです。)
  このころに欧米の「速記」を知り、そのアイデアを取り入れていろいろな日本語の「速記」の試みが行われたようです。
  1890年には帝国議会が開かれ「速記」は公的なものになりました。
  広辞苑の「早書き」には「日葡辞書」からの「速筆の書記・書家」があります。おそらく「仮名交じり文」の草書は十分な筆記速度があったのだと思います。ただし人の話しを忠実に写すと言う考え方や需要があったかどうかは良く分かりません。

平仮名

  Unicodeでは、「ぁ」は HIRAGANA LETTER SMALL A、「あ」は HIRAGANA LETTER A のように、文字の音から名前が付けらえれています。
  これは文字の名前で、「は」は HA と言う名前で、「は」や「わ」と読まれることになります。
  93 の記号が収録されていますが、現在普通に使用されている音節を表す文字は、71で、別に小さい文字 10 が使われます。
ひらがな(Unicode)
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F
3040
3050
3060
3070
3080
3090

  多くが漢字の「音」を元にしていますが、と(止)やへ(部)は「訓」によっているものと思います。
  309F の「ゟ」は、「よ」と「り」の合字で、手紙の差出人の後に書かれた文字のようです。Unicode では HIRAGANA DIGRAPH YORI と言う名前が付けられています。
  音節を表す文字は、清音、濁音、半濁音が独立した1文字として収録されています。濁音が可能なのは、「か行」、「さ行」、「た行」、「は行」です。半濁音が可能なのは「は行」です。清音46、濁音 20、半濁音 5 の71 音節が表現されます。
  小さい、「ゃ」、「ゅ」、「ょ」は拗音で、「き」、「し」、「ち」、「ぎ」、「じ」、「ぢ」、「に」、「み」、「り」、「ひ」、「び」、「ぴ」と組み合わせて 36音節を表します。
  合わせた 107 が普通に使用される音節を表す文字表記のようです。
  この他に、日本語には「くゎ」、「ぐゎ」などの合拗音があるようです。また、外来語の表記に使用される「ファ」、「ティ」、「チュ」などが使用されます。
  一般に仮名文字で表記される音節数は 112 のようです。
  「っ」は促音と呼ばれています。「つまる」とも表現されますが、実際には音節の母音を気流を遮断して打ち切ることのようで、無音が生じる事になります。
  長母音を表す長音のルールの基本は母音を表す文字を連ねて表記する方法です。かあさん(母さん)、しいたけ(椎茸)、すうがく(数学)、ねえさん(姉さん)、おおきい(大きい)。
  しかし、けーかん(景観)、せーかん(静観)などのように、話し言葉で母音の「え」が伸ばされるのは、「い」を使って、「けいかん」、「せいかん」と書かれることになります。また、応援(おうえん)、更新(こうしん)のように「お」は、「う」を使うのが普通です。

片仮名

  片仮名の音節文字としての性質は平仮名とほとんど変わりないものと思います。片仮名には長音符「ー」がある点が差異と言えます。外来語の表記に片仮名が使用されていることに起因すると思いますが、現在では平仮名でも長音符を使い、さんせー(賛成)、けーかん(景観)などとも書きます。
  Unicode の長音符の名前は KATAKANA HIRAGANA PROLONGED SOUND MARK です。
カタカナ(Unicode)
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F
30A0
30B0
30 C0
30D0
30E0
30F0

50音表の音節

  日本の50音表の考え方は、子音と5つの母音の組み合わせを表すものです。ただし、「ん」だけは子音と母音の組で表されません。
  これは「か行」は概ね上手く行っています。しかし、「さ」と「し」は異なる部位を使って発せられる子音です。
子音 母音
記号 分類

k 無声・軟口蓋・破裂音
口蓋化した k きゃ きゅ きぇ きょ
ɡ 有声・軟口蓋・破裂音
ɡʲ 口蓋化した ɡ ぎゃ ぎゅ ぎぇ ぎょ
s 無声・歯茎・摩擦音
ɕ 無声・歯茎・硬口蓋・摩擦音 しゃ しゅ しぇ しょ
ʣ 有声・歯茎・破擦音
ʥ 有声・歯茎・硬口蓋・破擦音 じゃ じゅ じぇ じょ
ʒ 有声・後部歯茎・摩擦音
t 無声・歯茎・破裂音
ʦ 無声・歯茎・破擦音
ʨ 無声・歯茎・硬口蓋・破擦音 ちゃ ちゅ ちぇ ちょ
口蓋化した t てゃ てゅ てょ
d 有声・歯茎・破裂音
口蓋化した d でゃ でゅ でょ
n 歯茎・鼻音
ɲ 硬口蓋・鼻音 にゃ にゅ にぇ にょ
h 無声・声門・摩擦音
ç 無声硬口蓋摩擦音 ひゃ ひゅ ひぇ ひょ
ɸ 無声・両唇・摩擦音 ふぁ ふぃ ふぇ ふぉ
b 有声・両唇・破裂音
口蓋化した b びゃ びゅ びぇ びょ
p 無声・両唇・破裂音
口蓋化した p ぴゃ ぴゅ ぴぇ ぴょ
m 両唇・鼻音
口蓋化した m みゃ みゅ みぇ みょ
j 硬口蓋・接近音
ɾ 歯茎・はじき音
ɾʲ 口蓋化した ɾ りゃ りゅ りぇ りょ
ɰa 軟口蓋・接近音
  1. 表記として「ぢ」があるが同音で音声記号では区別されない。
  2. 表記として「ず」と「づ」があるが同音で音声記号では区別されない。
  3. 「お」と「を」は同音で音声記号では区別されない。

新漢語

  主に幕末以降に加わった漢語を新漢語と呼ぶようです。漢語は不自然なので熟語と考えたいと思います。
  和製もあれば、中国で造語されたものがあるようです。また、国内だけで通用するものや、国外でも使用されるものもあります。

  幕末に法律や哲学、科学と言った分野の翻訳が急務となって造語が行われました。
  法律や哲学、科学自体が訳語として日本語に加えられたものだと思います。
  愛、衛生、定数、社会、存在、自然、権利、自由、憲法、個人、近代、美、恋愛、彼、彼女、芸術が上げられています。

「国際法原理」(Elements of International Law,、1836、Henry Wheaton)は中国で翻訳され「万国公法」として日本を含む東アジアに大きな影響を与えたと言うことです。中国語への訳にはアメリカ人宣教師によって行われたと言うことです。
  国債、特権、平時、戦時、民主、野蛮、越権、慣行、共用、私権、実権、主権、上告、例外が「万国公法」によってもたらされました。

  訳語として熟語が使用されたものでも、漢語として使用例の知られるものもあるようです。「文学」は文献の意味で漢籍にあり、広辞苑にも「律令制の官給の家庭教師」や「諸藩の儒官」があります。
  「経済」は漢籍にあり「経世済民」と関連付けられますが普通に「経済」と呼んでもおかしくないようです。
  「自由」は「自由自在」が禅宗と共に伝わり、それ以前から「自在」は経典にあるようです。「自由」は後漢の時代には複数の漢籍にあり、日本書紀にも「威福自由」(巻第4)、「權勢自由」(巻第15)があります。「威福自由」は、後漢書 皇后紀下  安思閻皇后にあります。
  「衛生」は司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」で明石博高が造語し長与専斎が採用したと記しています。しかし、小説の題名からしても、荘子・雑篇・庚桑楚「衛生之経」を知って書かれていることは確かです。

促音

  小さい「つ」、「っ」で表す促音は特別なのかも知れません。
  広辞苑の促音の説明を我流で解釈すると、促音は無音の1音節です。前後の音節と関係があります。前の音節の母音の発声は直ちに打ち切って、次の音節の子音を発声する口の形を準備します。
  母音の発声を打ち切って、次の子音の準備をする点で「促音」のようです。
  準備した上で発生される次の音節は、前の音節の影響を受けないことになります。時間的に音節の間隔が短くなる訳ではなく、前の音節の母音の発生されるはずだった時間に無音の「っ」が嵌っているのだろうと思います。
  「あっ」と驚く場合は次の音節がありませんが、母音の発声は直ちに打ち切る動作をします。
  小さい「つ」を促音に使用するのは12世紀以降の習慣のようです。

  促音が特別なのは、次の音節が母音でも記法上は何の問題も無いことです。「アッオ」と言っても悪いことはありません。
  しかし、これを「あっち」のようにはパソコン入力できません。「あっち」のローマ字表記は「atti」です。後続の子音を重ねて「促音」を表すので、母音が後続では成り立ちません。

ボーディサットヴァ(菩薩)
बो धि त्त्व
ि
BA
92c
O
94b
DHA
927
I
93f
SA
938
TA
924
VIRAMA
94d
TA
924
VIRAMA
94d
VA
935

  「促音」は日本語の説明に使用される概念で、そのまま他の言語に対応があるわけではないようです。しかし日本のローマ字表記に取り入れられたように子音を重ねて記す記法は有効なようです。ラテン文字だけでなく、デーヴァナーガリーも後続の子音を重ねて記す方法で表されています。
  「ボーディ・サットヴァ」の「サットヴァ」は、Unicode の文字の名前で、
  SA-TA-VIRAMA-TA-VIRAMA-VA
  と、記号が並んでいます。VIRAMAは「母音除去記号」で、前の文字の母音を除きます。したがって SATTVA と記していることになります。 
  google翻訳で「大修道院」をラテン語に訳すと「abbatia」となり「アッバーティア」と聞こえます。英語、フランス語、ドイツ語は「abbey」で、それぞれ「アビー」、「アベー」、「アッバイ」と聞こえます。
  同じ子音を重ねると常に促音のように聞こえる訳ではないようです。

  ラテン文字で表される語の発音では母音の長さの規則性の問題なのではないかと思います。子音は随伴母音を伴い基本的には短いのだと思います。母音が書かれると長めに発音され、同じ母音を重ねて書くと長い母音になるのだと思います。しかし規則性だけでは説明できず、最終的には語毎に決まっていることになるのではないかと想像します。

長音符

  長音符「ー」はカタカナにだけあります。基本的には母音を伸ばすことを示すものだと思います。平仮名では母音を重ねる方法で表されることになっています。「かあさん」は KA-A-SA-Nです。
  しかし「カアサン」と「カーサン」が同じではないと思います。おそらく「カ」の次の「ア」にアクセントが来るためです。これは重なった母音の2つ目にアクセントがあるとも、長い母音の抑揚とも言えそうです。
  ローマ字表記は、KÂSAN のように長母音を示すマークを付けます。
  明確な規則性がないことはラテン文字を使用する言語でも言えそうです。同じ母音を重ねると概ね長い母音を示すことになりますが常にではありません。英語の「foot」は「フート」や「フウト」ではないようです。悪魔や神の baal は、ラテン語、英語、フランス語、ドイツ語で、それぞれ「バーラ」「バアル」、「バアラ」、「バーエ」と聞こえます。


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